【五月号】もう付属の餃子のタレを使わない(かもしれない)#002 日暮里 馬賊と京の華【キ刊TechnoBreakマガジン】

巷の連休というものは、僕みたいな血で血を洗う洗濯屋稼業とは無縁だ。

裏街の清掃員に休みなし、などというと気取り過ぎだと笑われるだろうか。

といったって、軍隊所属のエージェントみたいなものなぞ開店休業だし、デスクに座って読書でもしているのがせめて仕事をしているふりを神様に見せる身ごなしだ。

そんな日常だったのだが、たまたま妙なめぐり合わせで足を使う羽目になった。

お決まりの日本橋室町界隈よりも北へ、上野から日暮里。

最近、なぜだろうかこの付近に寄ることが多い気がする。

奇妙な縁だ。

上野に比べて、妙に手狭な感じがするこの土地だが、上野と比べること自体が酷か。

どうにも日暮里には目を引くお店が少ないというか、それを良いことに「目を引くような主張をしている店舗」に人が集まるかのような気がする。

そんなわけで、一仕事終えてからここのランドマークの一つともいえる、駅前の「馬賊」に這入った。

昼食時と夕食時のちょうど狭間だったのだが、店内はほとんど満席だったのが驚きだ。

僕の次のお客からは待たされている。

瓶ビールと手打ち餃子。

ここはもう十年位前に一度寄ったきり。

前に、いや前の友人が

「ここの餃子はとても美味しい」

なんて言っていたのを思い出す。

あいつは、今頃シドの地を踏みしめているだろうか。

突き出しに出たもやしのナムルで飲み始めながら昔が偲ばれた。

足で稼いだ仕事の対価が喉に心地良い。

待っている間に、空席に着いた他のお客たちの注文が聞こえる。

やはり餃子、それと担々麺。

女性の一人客もそれを頼んでいたのが印象的だった。

僕も担々麺を頼もうと思っていたから、見当外れではなかったようだ。

じきに餃子が運ばれてきたので、担々麺を追加した。

そのあとに来た学生のような四、五人組がやはり餃子と担々麺。

それを大盛りで注文していたのは盲点だった。

僕もそうすればよかったのだが、次は無いようにしたい。

熱そうな餃子が五つ、互いにそれほど癒着することなくひっくり返っている。

見た目にはドライな印象。

潤いを表に出さず、皮それ自体に秘めているかのようだ。

一口焼き目をかじれば、カリリという音が響きそうに思える。

僕は小皿にお酢ばかりだっと垂らし、そこへ醤油を一滴程度の気持ちで落とす。

ラー油は多めに入れる。

準備万端、火傷しないように半分かぶりつく。

『難しい』

これが第一印象。

梅雨の季節の空模様みたいな皮の食感なのだ。

極力風流に言ってみたが忖度してもらいたい。

餡は薄味で繊維質だ。

用意してある調味料を個人々々で調合して合わせたい。

この調合具合が餃子食いの醍醐味と言える。

鎮江香醋くらい強いのが欲しくもある。

僕のドライマティーニを意識したタレの調合では弱すぎた。

つまり、そろそろハッキリ言うが好みではない。

餃子はタレで食わせておけ、物言わぬそんな声に賛同はしない。

そろそろ担々麺が来そうだ。

皿に残った最後のは一口で頬張れるくらいに冷めている。

餃子一人前を食べ切るという物語は、展開がハッキリしていて面白い。

吹き冷まして半分ずつ食べる段、冷めたのを口に放り込む段。

それに寄り添う小皿のタレ。

最後の一つを口の中全体で噛み締めるが、やはり梅雨空を連想させる。

しかし、これを風流だと感じている人々が居るらしいことも事実。

そうだ、日暮里駅前の気質や風情を堪能するのに、味覚第一主義である必要はない。

この店が、あるいはこの土地が愛されているのだという証拠だ。

僕はお店の中で一人だけ疎外感を抱いているようだった。

届けられた担々麺もまた難しかった。

表層は真っ黒で、そういうタイプもあるだろうからそれは良い。

だが目を瞑って食べたとして、坦々麺であると看破できるだろうか、覚束ない。

坦々麺ではないと偽って出されたとしても、この挽肉の飾らないそのままの感じから察知できるだろうか。

なるほど、手打ちの麺は他所にはない食感だった。

もちもち、しっとりとしていて、あんまり美味しいからと言って頬張りすぎると咀嚼が大変になる。

なんとも、もしかすると本物の手延べ素麺ってこんな感じなのかもしれない(実際の手延べ素麺は、工程のほとんど全てが機械化していて人の手が加えられていないのが一般的な商品で、意外にも梅雨の季節を二、三度越してコシを出すのだという)。

これが本場の汁なしになったらどうなるだろう、いやメニューにあるのはつけ麺か、どんな味がするのだろうか馬賊つけ麺とは。

そんなことを思いながら再訪しているうちに病みつきになってしまうのかもしれない。

僕は十年に一度で十分という気がしているのだが。

五十二万五千六百倍の差があるのが可笑しい。

担々麺を大盛りにしなかったことと、餃子が難しかったということもあり、もう一軒気になった店舗へ行った。

駅から見て左翼にある「京の華」だ。

黄色い看板が嫌でも目立つ。

ここもまた、「目を引くような主張をしている店舗」の一つに数えたい。

餃子をテーマの食べ歩きのつもりだったが、僕はこういうことは一度ちょっとずらしてみる。

黄色の看板には青字で「手打拉麺」「焼小籠包」と書かれていたから、焼き小籠包を注文した。

六つで八百四十円、某有名小籠包店より少し値が張る。

高くて美味いがこの小籠包の欠点でもある、高くて美味いは当たり前だ。

役職手当が付くと忙しくなるというのと同じだ。

だから僕は一生ヒラで居たいし、安くて美味くて嬉しいお店を足で探したい。

それを誰かと共有するのは幸せなことだからだ。

小籠包はヒダが下になって焼き目が付けられている。

注文を受けてから焼いてくれるので十分弱で到着する。

絶対に熱いから、泣く泣く一つ目を箸で破り、タレに浸してかじりつく。

ここでもお酢に醤油を一滴、生辣油といった辛味ペーストは多めに入れる。

『難しい、いや上手くいかない』

裏目ばかり出ているのか、僕が低い位置にいるから裏目が見えてしまうのか。

判らない。

焼き小籠包というのを良いことに、これも手打ちと思える皮は厚ぼったく、中の餡からはそう多くの肉汁が感じられない。

僕が世界一好きな餃子も手打ちだから、今更手打ちなぞというものを有り難く思わなくても良いような気すらする。

気落ちしたせいで自棄になって火傷した。

二個目に勢いよくかぶりついてしまったためである。

最初の印象から、中に肉汁はそこまで含有されていないと見誤った。

前歯によって裂かれた皮の切れ目から、勢いよく肉汁が真上に飛び出した。

それが僕の上唇の外側を縦に焼いたのだ。

これには流石の僕も悄気た。

この後頼んだ担々麺の大盛りも、さっきとほとんど同じだった。