【十月号】巻頭言 完全保存版「無常という事」を歩く【キ刊TechnoBreakマガジン】

九年越しの東海道五十三次を二川から再開し、無事終える事が出来た。

終点は京三条大橋である。

一泊した翌日の昼に、小林秀雄の「無常という事」で話題となった山王権現へ行った。

一旦京都駅へ行き、湖西線で四駅、十七分で比叡山坂本駅に着く。

比叡山を東側から登ることになるわけなのでタクシーを使ったが、たいした距離ではなかった。

日吉大社(ひよしたいしゃ)、かつては日吉社(ひえしゃ)と呼ばれていた。

第二次大戦を境に呼び名が変わったという。

ひえは、後に比叡の名の由来になるのだが、文献では古事記にもその名が記されている。

赤坂にあるのは日枝と書くが、全国にある日吉、日枝、山王神社の総本山である。

日枝の山頂からこの地に移ったのが二千百年前だという伝説だ。

一の鳥居にあるこの曼荼羅を見たときには広大な土地を想像したが、清々しく歩く事ができた。

曼荼羅で確認できるが、一の鳥居の先にあった大宮橋。

大宮と呼ぶのは、この先の西本宮に祀られた大国主神の方が、元々祀られていた東本宮の大山咋神(大きい山に杭を打つ所有者の神の意、日枝山の地主神)よりも上位であると見做されたためである。

しかし、現在は、明治の神仏分離により、東西の祭神が入れ替わっており、西本宮に大山咋神、東本宮に大国主神が祀られている。

大宮とは旧称であり、大比叡とも呼ばれていた。

大宮橋上で右手を眺めれば、走井橋。

作りが独特の山王鳥居。

上部に三角形の破風が乗り、仏教と神道の合一を象徴している。

日吉大社で大切に扱われている神猿(まさる)。

「魔が去る」「勝る」と言った縁起の良いお猿さん。

豊富秀吉は幼名が「日吉丸」、渾名が「猿」だったため、織田信長が焼き討ちしたこの神社の復興に尽力した。

これから見られる社殿は全て、安土桃山時代に再建された建築である。

西本宮拝殿。

西本宮本殿。



では、「無常という事」に移ろう。

『或云、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つゞみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問われて云、生死無常に有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけ給へと申すなり。云々』

一言芳談抄の一文を、最早解釈すまい。

十禅師とは十禅師社の旧称で呼ばれる、樹下神社のことである。

それがここ、東本宮(旧称二宮、小比叡)にあるのだが、楼門からその姿を覗かせている。

現地に来ることによって、先の一文がとうとうすんなり頭に入った、そんな気がする。

日吉大社摂社樹下神社本殿
 この本殿は、三間社流造、檜皮葺の建物で、後方三間・二間が身舎、その前方一間通しの廂が前室となっています。
 数ある流造のなかでも比較的大型のもので、床下が日吉造と共通した方式であることや向拝階段前に吹寄格子の障壁を立てているのは、この本殿の特色となっています。
 文禄四(一五九五)年に建てられたことが墨書銘によってわかりますが、細部の様式も同時代の特色をよく示し、格子や破風、懸魚などに打った飾り金具は豪華なものです。
 明治三九(一九◯六)年四月に国の重要文化財に指定されました。

今は無き、鎌倉時代の姿が偲ばれる。

日吉大社摂社樹下神社拝殿
 この拝殿は、桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入り、檜皮葺の建物です。
 方三間といわれる拝殿ですが、他とは、柱間が四方とも格子や格子戸となっている点が異なっています。屋根の妻飾は樹連格子、天井は小組格天井、回り縁は高欄付きとなっていて、本殿と同じく文禄四(一五九五)年に建てられたものです。
 なお、樹下神社の拝殿と本殿を結ぶ線と、東本宮の拝殿と本殿を結ぶ線が交わるのは珍しいものです。
 昭和三九(一九六四)年に国の重要文化財に指定されました。

日吉大社東本宮拝殿

日吉大社東本宮本殿

亀井霊水

大物忌神社

東本宮奥にあり、大山咋神の父神である大年神が祀られている。

明治になるまでは東本宮に祀られていたのが大山咋神だったためだろう。

さらに、境内入り口南側に社殿がある早尾神社が修復中のため、大年神の父神の素盞嗚神が一時的に引っ越してきていると張り出されていた。

素戔嗚と言えば、今はまだ言えないが、私は手を合わせねばならない。

そう思いながら目を閉じていると、足元で

はた

と音がした。

落ち葉が鳴らしたのだろうと足元を見ると、一枚だけきらきら光る葉と目が合った。

きっとこれだろうと手に取って、栞の代わりになればと持ち帰った。

今はもう枯れ葉の色になったのだが、素戔嗚と山王権現の加護ある品となった。



小林秀雄は、一言芳談抄の引用に続けて、こう述べる。

『これは「一言芳談抄」の中にある文で、読んだ時、いい文章だと心に残ったのであるが、先日、比叡山に行き、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮かび、文の節々が、まるで古びた絵の細勁な描線を辿る様に心に染み渡った。そんな経験は、はじめてなので、ひどく心が動き、坂本で蕎麦を喰っている間も、あやしい思いがしつづけた。あの時、自分は何を感じ、何を考えていたのだろうか、今になってそれがしきりに気にかかる。無論、取るに足らぬある幻覚が起こったにすぎまい。そう考えて済ますのは便利であるが、どうもそういう便利な考えを信用する気になれないのは、どうしたものだろうか。実は、何を書くのか判然しないままに書き始めているのである。』

今、この本文を書きなぞってみて、彼の一気呵成の勢いを感じた。

全くの、とまで言ってしまうわけにはいかないだろうが、同感だからである。

行列している蕎麦屋に這入ったが、蕎麦の味はいまいちだった。

私は美味しい蕎麦というものを知らない。

そして、あの時の感情をやはり思い出す事が出来ない。

小林秀雄は、この地の観光案内が書きたかったのかな、そんな下らない事を思っている。