【十月号】総力特集 スタバと二郎と能【キ刊TechnoBreakマガジン】

土曜の午後、睡魔と闘いながらこれを書いている。

人生で五回だけ観た能舞台でも睡魔に襲われた。

能楽祭を、五日通しで観に行った時のことだ。

三日目か四日目の鑑賞で、『今日の大皮はイマイチだな』と思った。

案の定と言うか、打ち手にテーピングがされていた。

能楽に関して私が語れるのは、この事が全てである。

小林秀雄は『当麻』で、「夢を破るような」と表現した。

彼もまた、睡魔に寄り掛かりながら観ていたのだろうか。

能楽祭は千駄ヶ谷の国立能楽堂で開催された。オリンピックのメイン会場となる国立競技場がすぐそばにある。
能楽堂内部の庭園。食堂の窓も大きく取られて眺めが良い。
能舞台。奥、左へ向けて橋掛かりがあり、その前に松が三本植えてある。遠近感の演出で背丈に差をつける。



何が書きたいのかというと能についてだ。

酔狂でスタバの豆の飲み比べというのをしてもみたが。

仙台店を二度訪問しただけでお二郎を知った気になってもいるが。

ちょっと考えてみよう。

「あなたを一言で表すと?」

「あなたにとって生きるとは?」

これらをスタバと二郎と能、それぞれに問うならば。

スタバならばあの人魚(セイレーン)が語るだろう。

「私は場であり空間です」

「私にとって生きるとは、喜びを分かち合うことです」

こんなところだろうか。

二郎ならばどうか。

「二郎は二郎である」

「二郎にとって生きるとは、腹一杯食わすことである」

では、能は。

世阿弥の魂は何と答えるか。

それが知りたくて『風姿花伝』を読んだ。

小林秀雄のいわゆる「花」はあまりに有名で、有名すぎるがゆえに、観阿弥が伝えようとし、世阿弥が筆を執った「花」を誤解させかねない。

無論、彼が意図したわけでは無く、読者である我々の『解釈』の問題なのだが。

坂口安吾も『教祖の文学』において、その花についてやっかんでいるくらいだ。

しかし、その「花」に目を奪われて見落としてはならないだろう。

小林秀雄はその直前に、引いているではないか、そのことがやっとわかった気がする。

「物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところをば知るべし」と。

能楽堂ではない能舞台。柱は屋根を支えるためではなく、シテが位置関係を把握するためのもの。

つい先日、飛鳥山で薪能があった。

演目は『船弁慶』、五番目物だ。

作者は世阿弥の甥の子、観世信光。

室町時代は後期へ移り、娯楽性が増している。

ああ、最後に観た『道成寺』に似ていると思ったら、どうやら同じ作者のようだ。

能とは本来、陽が出ている間に通しで行われるらしい。

詳しくは知らないが「能楽の上演形式」で調べると丁寧すぎるほど書かれていた。

以下引用

『翁』を冒頭に、能5曲とその間に狂言4曲を入れる「翁付き五番立」という番組編成が、江戸時代以来続いている能楽の正式な演じ方である。

引用終わり

能楽祭は、正式な能楽を五日間かけて上演するという企画だったのだ。

ちなみに、能と狂言を内包する能楽というものが明治時代に確立され、我々が現在享受できるのはこの能楽を指すものの、翁付き五番立の中から能と狂言を一組上演するのが一般的である。

それ以前は猿楽と呼ばれていたりするのだが、いかんせん歴史が長いので複雑だ。

時代の求めに応じた、というよりも生き残りのために生じた娯楽性。

それ以前、観阿弥と世阿弥の頃にも、やはり生き残りがかかっていた。

流派間の能勝負があるためだ、ラップみたいで面白いなと思う。

ここに世阿弥の天才が花開く。

娯楽性の前に、能に、能に、何性と言えばいいか、神秘性ではズレている気がするし、物語性というのは現代的過ぎるのだが、言い様のない性質を付加した。

書けば書くほど、能を知らなさすぎるのが浮き彫りになって恥ずかしくなるので、あと三つばかりで辞める。

世阿弥は、能に残念を託した。

業平を想う花の精や、壇ノ浦の平家の亡者などだ。

現を彷徨う残念が、旅の僧の元にすがる。

念は曰く由来のある場に留まっている。

僧侶はただただ傾聴している。

それはまるで、夢でも見ているかのように。

最後、僧侶の祈りにより成仏あるいは退治され、無念となる。

その形式を複式夢幻能というが、この言い様のない性質は、前々から松岡正剛が私に紹介して知っていた知識を凌駕していた。

さらに、僧という、私からは肉体的にも精神的にも極北にある存在を、有り難いとも感じた。

彼等の存在が媒介となって、我々観客の目にも残念が映るということ。

室町時代以前の人々には本当に視えていたのかもしれないと、熱烈な帰依ではないがかすかな畏怖を抱く。

小林秀雄に、「現世の無常と信仰の永遠とを聊かも疑わなかった」という時代は「少しも遠い時代ではない」と言い切らせる力があるのか。

「何故なら僕は殆どそれを信じているから。」

そんな筆致を、私は他に認めることができない。

「花の萎れたらんこそ面白けれ、花咲かぬ草木の萎れたらんは、何か面白かるべき」

世阿弥の魂は何を伝えたかったのか。

『風姿花伝』だけでは、父から継承した守しかわからない。

その後、四十年に渡って体得した破の章が『花鏡』。

夭折した息子、元雅に相伝する筈だった『去来花』。

能がますますわからない、わからないから書いた。

「あなたを一言で表すと?」

「あなたにとって生きるとは?」