【号外】アイルランドのエリザベス【キ刊TechnoBreakマガジン】

その日も一杯機嫌で家の鍵を開けた。

二十三時過ぎなのに、居間の明かりが点いていた。

ただいまと声をかけると、奥から母が足早にやって来た。

私は、ああ、と直ぐに察した。

母に告げると、そうだと言う。

その日はそのまま、就寝した。

Guinnessババァが死んだ。

その一週間前、母がしきりに私を施設へ見舞いに行かせたがった。

コロナになって以来、一切面会謝絶の状態だった。

去年の夏に規制緩和がなされたが、それもすぐに再規制され、私は顔を合わせる機会を失ったままだった。

祖母は二年以上、帰ってきていない。

祖母は何度も骨を折った。

大好きな水森かおりのライブ会場入り口で、向こうからきた自転車にぶつけられたとき。

同行していた叔父は某企業の会計監査までしているのに、その際は加害者を放免してしまった。

あれで脚を悪くして以来、家の中でも転ぶようになった。

しばらくしてから玄関で転んだとき、落差のある土間へ向かって落下し扉に頭を打ちつけ、頚椎にヒビが入ったという。

それでも死ななかった。

頭はずっとずっとしゃんとしていた。

横になっていることが多くなったが、よく一緒にビールを飲んだ。

祖母の寝床は台所兼居間に敷かれていた。

私はそこで料理して、晩酌する。

「アタシにも一杯ちょうだいよ」

と言うので、コップ一杯に入れる。

「もう良いのよ」と遠慮する祖母はかわいらしい。

喉を鳴らして、良い飲みっぷりである。

起き上がって水を飲みに行くのが億劫だったのだろう。

生き返るとか、寿命が延びるとか言っている。

俺より長生きしてくれなきゃと言って、二人で笑った。

最後の転倒も家の中だった。

横に倒れてしまって、また大腿骨を折ったらしい。

入院となったがここで揉めた。

祖母の年齢で麻酔をかける手術をすると、負担が大きく危険だと医師が言うのだ。

折れたままでは歩けなくなるが、手術をすれば死んでしまいかねない。

不死身の祖母を信じていたから、親には手術を勧めた。

手術は成功と伝えられ、当時の私はほっとした。

以来、面会謝絶である。

半年経っても会えない。

一年経っても会えない。

もしかすると、祖母は既に亡くなっていて、私にだけその事実が伏せられているのではあるまいか。

手術は失敗したのではないか、ならば私が祖母を殺したようなものだ。

そんな疑問を投げかけるたび、母は私に、手術は無事成功して今は元気に歩けるようにリハビリしていると言ったものだ。

十年くらい前、朝起きて居間へ行くと祖母が死んでいた。

仰向けになって痩せた首筋をあらわにし、虚空へ向けてぽかんと口を開けていた。

私はすぐにわっと泣いて祖母を呼んだ。

思い出しても泣けてくる。

眠っていただけの祖母は目を開けて不思議そうにしていたが、私から話を聞いて笑った。

そんな話を嬉しそうにしていたよ、と母から聞かされた。

「亡くなってしまったら俺も後を追うから、世界で一番好きな人だから」

母はきっとあれをいつまでも覚えていて、私に事情を伝えないつもりなのだろう。

一週間前までそんな気がしていた。

やっと見舞いに行くと、祖母はベッドの上で寝ていた。

あのときと全く同じだった。

違うのは、呼びかけても起きないことと、もう以前の容姿は見る影もないこと。

それから、いびきとは言えない、さりとて風が吹く音でもない、おぞましい寝息。

眠っているならそのままにさせておけばいい、と必死に呼び続ける母を制止する。

介護士の方がその様子を見て、祖母の胸元に手を当てて苗字を呼んだ。

母がその人々を『看護師』と呼んだのがたまらなく不快だった。

私は母から、祖母がいるのは介護施設ではなく病院だと吹き込まれていたから。

祖母が目を開いて、私は笑顔になった。

鳥のような手を握りながら、よく見えるように顔を近付け、手をふる。

もう口の中に一本しか歯が残っていない。

「何か言ってるよ」と母がもらす。

確かに、さっきまでとは違う声ならぬ音を、私も聞き分けた。

祖母は、目の前にいるのが、いつもの来訪者と違うらしいことを判断したのだ。

そう信じて、その場から逃げるように部屋を出た。

また来ようと思ったが、不死身の祖母は亡くなった。

この二年間で、祖母はゆっくりと死んでいった。

十年前は突然だったけれど。

今日まで少しずつ少しずつ、忘れまい忘れまいと、その死を受け入れている。

享年九十七と聞いているが、最低でもあと五十年は生きていて欲しかった。

私の心の中で、生き続けてもらわなければな。

こうして文章にしてしまうのが、俺の弱さ。

これから死ぬまで、不意に思い出すことだろう。

船橋ノワールという小説を書いている。

主人公は私の地元、船橋だ。

その架空の船橋には、作者の私に所縁ある人物を散らしてある。

大好きだった祖父も、両親も、幾重にも切断した自分の人格もそこで生きている。

しかし不思議なことに、祖母を想定していなかった。

だからきっと、不死身のババァが無双する。

不死身のババァがビール飲んで嗤う。