【二月号】ヨモツヘグリ #012 山手線某駅 牡丹屋【キ刊TechnoBreakマガジン】

さっきも都合良く其処に触れて、気紛れに腹に入れた駅蕎麦を吐いて来たばかりだ。

食券機の仕組みを逆手にとって、二倍盛りざる蕎麦+大盛りという、まあ口頭で言うには少々抵抗があるような注文が可能だった。

さりとて、提供された商品の量が果たしてそれであったかの検証はできない。

幾ら食っても食い足りない、この僕の性質は悪夢と言うより呪いだ。

ヨモツヘグリ、初めはそんな気などさらさら無かったのに。

喉仏を内側から触れると、生命の繊細な工夫を感じられて、最後に灰ばかりになった時に脆く崩れてしまうことも納得であるとしみじみ思う。

などと言っても仙骨と喉軟骨は全く別物で、火葬すれば跡形も無くなってしまうから、せめて手を合わせているお釈迦様の面影を偲んでおく程度に都合よく解釈しておくのが良いだろう。

実際、此処が輪切りにされたのを串に並べられたやつなんかは、プラスチックな味わいがする。

ここで指すプラスチックとは熱可塑性と言った意味合いよりも範囲を広げて、都合が良いと解釈するのが僕の流儀である。

ベタつきを拭き払った手を繋いだ相手は、仏様ではなく神様みたいな人。

薬指にささやかな指輪をしてくれている。

モツ野ニコ美は僕のカミさんになる。

今日はお気に入りのお店で、僕の気心知れた友人たちに彼女を紹介する。

高校の時に面白い先生がいて、その人がある日の化学の授業で突然言っていた事を、山手線某駅からの道すがら彼女に話した。

「石田なんとかが不倫は文化だ何て言ったこともあったようだが、それは本質が剥き出し過ぎで理解できる人間が居なかったわけだろ。我々現代人が文化というものをどれだけ軽蔑ないし失念して来たかを浮き彫りにしているな。だからね、少し視点を変えて、どうして我々の辞書に“人妻”何て言葉が載っているのかと言う事を一度検討してみたまえよ。」

出し抜けにそんな話をした先生は化学だけでなく道徳も教えている、生徒間では変わり者で知られている人だった。

妻と言う言葉で済まさずに“人妻”と言う言葉が必要だった理由は何故なのか、考えてみれば、答えは自ずから出てくると先生は言っていた。

「いや、訳わかんないわよ。その先生の話も、その先生の存在自体も」

モツ野女史は呆れて笑った。

「それは、神妻の対義語として生み出されたものなんだって。神妻に手を出せば神罰が下るが、“人妻”ならば問題ないとか何とか言うのがの先生の論理でね。」

手を引きながら話したのは下らない昔話だが、待ち合わせの駅からお店までの時間はあっという間だった。

実際、駅から歩いて一分程度と非常に近い。

ひと月も前に予約しておいたそのお店は地下にある。

少々急な階段を降り、牡丹屋の年季の入った戸を開ける。

奥のテーブル席を案内された。

既に男が二人座っている。

スゥとソゥ、船橋士官学校の下士官。

彼らは僕の事を特に慕ってくれているので、モツ野女史との顔合わせの席を設けたのだった。

もう一人、エージェントWも真っ先に声をかけていたのだが来ていない。

彼の事はこの頃見ないが、昨日の前日連絡に対しても返事がない。

気を取り直して、下士官二人にモツ野ニコ美女史を紹介する。

もちろん、真鍋乃二子と言う、信憑性がある方の偽名も併せてである。

二人は彼女の美貌に声も出ないと言った風で、口を開いたら自分達のボロが出るとでも思っているのか、終始会話は僕に向けてのものだった。

それでは、全員生ビール。

モツ野女史も合わせてくれて、珍しくビールの様だ。

すぐに出るマカロニサラダを二人で一つの、二つ頼む。

僕はこれが世界で一番美味しいマカロニサラダだと思っていて、一度の来店で三皿も食べることがある。

それとスゥが好きそうなはらみ炙りと言う、炭火でレア焼きにした大きなはらみ肉を削ぎ切りにしたもの、味付けはポン酢では無くスタミナにしてこれも二人前。

串焼きは飲み物が来る頃までに決めておこう。

と言っても、お決まりがあるのだが。

店員さんが下がる前にソゥがもやしナムルも、と叫んだ。

それも二つ。

すぐに中ジョッキが到着し、乾杯。

男どもはすぐに飲み干すので、ボトルを入れて白ホッピーを三つ注文。

僕以外のみんな、メニューをしげしげと見ていた。

先ず安さ、それと提供する商品の豊富さが理由だろう。

テーブルに立てかけられた表示には、その筋では高名と思しき罠師が紹介されている。

安さ豊富さの理由は、仕入れにあると言う事だ、なんと頼もしい。

ここ牡丹屋さんは、都内屈指のジビエの名店なのだと僕は思っている。

その名の通り猪や鹿肉などを提供している日もあるのだ。

僕はここ以上に良いお店を他に知らない。

焼き物も注文しておく。

第一弾はレバ、チレ。

これが僕のお決まりだ。

このお店は、お客の方に格別な好みでも無い限り、お店のおすすめの味で出してくれる。

串物はタレ派の僕からすれば、自分自身の主義を通す必要のないお店は気楽だし、信頼できる商品を提供してくれるからこそ安心できる。

「心のこりも」

手元の品書きでは無く、壁に張り出された短冊を見たモツ野女史が言った。

「気になっちゃって」

と彼女は僕に耳打ちした。

ああそうだ、主旨を忘れるところだった、すぐに出る煮込みも注文しよう。

牡丹屋さんの煮込みは塩と味噌とがある。

塩はスタンダードな白モツがたっぷり入っているが、僕はコッテリした脂が多い味噌が好きだ。

一気に注文しても、調理時間によって徐々に提供されるから、懐石風になると言えるのが趣き深い。

心残りと言えばエージェントWの不在だったが、後半になってフラッと大物気取りで現れるつもりか、あるいはバズーカ級のサプライズを引っ提げて乗り込んでくるかも知れない。

ガラス張りの戸をブチ破って乱入して来た、船橋のイタリアンみたいなのは困るけれども。

結局Wは来ないまま、楽しい夜はしめやかに更けた。