【緊急投稿】小林どうかしてる逸話集

【小林秀雄】(1902~1983)
小林秀雄は日本に近代批評というものを確立させたわりに、文豪とは評されないクズ中のクズ。簡潔に言えば、この方が居なければセンター試験の現代文は小説二題だったと言っても過言ではない程の罪深さがある。坂口安吾からは文学の神様ではなく『教祖』と揶揄されるというエピソードも。

【小林秀雄】(1902~1983)
で、そんな小林秀雄が唯一、真の天才と認めていたのが中原中也。小林は帝大仏文科でランボーに影響を受け、自身も詩の世界に身を投じる事を望んだが、中原の存在を前にしてライターへと転向。お返しと言わんばかりに中也の女を寝取る。
「私は二十歳の頃には女を養ってましたからね。」

【小林秀雄】(1902~1983)
その後、『改造』誌の懸賞評論に『様々なる意匠』を応募し文壇デビュー。当選前に一等の賞金を前借して全額飲む。入選を伝えに来た編集者にも飲ませるが、二等と告げられ唖然の小林。借金返済のためライター業が本格化。なお、一等は宮本顕治『「敗北」の文学』。

【小林秀雄】(1902~1983)
ライターとしての存在感が増すにつれ、文人たちとの飲み会ではその発言力も増加。酒癖の悪さは札付きで、喧嘩っ早い中原中也とは違って、相手が泣くまで延々と説教が続く。相撲部屋で言うところの「可愛がり」の走りである。

【小林秀雄】(1902~1983)
そんな小林の酒絡みエピソード。戦中は従軍記者として支那へ派遣されていたが、現地の米兵相手に酔って絡む。淡々と説教する小林から決定打、ヤンキーに向かって「Go home.」相手ギャン泣き。仏語ならまだしも、英語なんかろくに話せないのに。

【小林秀雄】(1902~1983)
戦後、文人たちとの座談会『コメディ・リテレール(文人喜劇の意)ー小林秀雄を囲んでー』にて、自身が文人としてその広告の一端を担った戦争責任を追及された折「僕は無知だから反省なぞしない。利口な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と大放言のちゃぶ台返し。

【小林秀雄】(1902~1983)
そんな小林秀雄、戦前から戦後までのかなりの期間、本業も疎かに骨董品の転売で食っていた。小ぶりのぐい飲みなんかは、ジャケットのポケットに捻じ込んでくすねるのが、お気に入りのサイン。後期ではとうとう縄文土器にどっぷりとハマって蒐集。ある日、自分の部屋が土器だらけであまりにも薄汚いのにハッと気付いて、小林の縄文時代は終焉。

【小林秀雄】(1902~1983)
小林は筆先のみならず、味覚も鋭かった。壮年期には銀座の「きよ田」へ頻繁に繰り出す。寿司で食うのは鮪ばっかりという偏食ぶり。挙句、金がないから白洲次郎に毎度たかる。

【小林秀雄】(1902~1983)
晩年には健康維持の名目でゴルフにはまったが一向に上達しない。練習相手の文人仲間とコースに出てはプレーの罵り合いでキャディーを呆れさせる。さらには、ゴルフに半生を捧げた人物の書いた集大成ともいうべき本の評価に「フィーリングが無い」と言って、文字通り引導を渡しちゃった。

【小林秀雄】(1902~1983)
小林秀雄はとにかく無計画な男で、連載がずるずると長期化するのは最早お家芸。随筆なんだから仕方ないねと言わんばかりに延びる伸びる。単行本の印税じゃなくて原稿料で食っているから金がないのだろう。ついに晩年、『本居宣長』が十一年に及ぶ連載の果てに刊行。翌年、その努力賞で日本文学大賞ゲット。