船橋ノワール 第二章

「ねぇねぇ、舞衣ちゃん。あなたの苗字は田野さんって言うんでしょ?」

蝙蝠はもう叫ばない。薄暗い店の中、今は人間の言葉が行き交うだけ。非人間的な、あまりに非人間的な。人間たちは何処へ。

抗争は終わった。船橋東武と西武の四十年間に渡る抗争は、西武側の一方的な終戦協定により終わらせられてしまった。地元愛が資本の波に押し流されてしまったのか。だが、組織が失われてもそこに人間は残される。流され、変化し、歩みを続けていく。彼らはそこから取り残されてしまっていたのか。淀みの中で、変化を忘れ、組織に胡座をかいていた結果がこの協定なのだろうか。しかし、彼らは組織以外の何物も失ってはいない。今こそ、彼らは自分と向き合えるだろうか、地元と向き合えるだろうか。そして、自己を通して他者と向き合えるだろうか。この変化は急だが、ここで変化できなければ待つのは滅びだけだ。変化と進歩は別として。

混乱に次ぐ混乱だったが、不本意ながら大体の指針が立った。俺を東武に推薦した老人達は流石と言うか、事前にこの事態を把握していた。西武の暴力部門で頂点に立っていただけに、会頭の顧問として協定約定の期日まで相談を受けていたらしい。親父に言わせれば、

「もう身体が痛いから、そろそろ恭やってくれ。」

ということらしい。何をか。うすうす勘付いてはいたが、壮一に代わって敵陣の東武に乗り込み内部から瓦解させるという事。それが無理なら、せめてこれ以上地元が荒廃しないようにする事。何てこった、望むところだ。

十二位として充てがわれた事務所に着く。朝十時前、殺し屋の朝としては健康的すぎる時間を指定されていた。船橋東武幹部の皮を被りながら、会頭の寝首を掻く下克上を果たす。その第一歩がこの本町4−40−1にある雑居ビル、小さい事務所から始まる。

ノックして返事も待たず扉を開ける。真新しいダンボール箱の山が、ここの住人がまだ越してきたばかりであることを物語っていた。そして、散見される空き缶、いつ冷めたか分からない出前のピザ、バニラ香がする煙草の煙は常に漂っているのだろうか。ソファから男が跳び起きて、目を丸くしてこちらを見る。その気配に気付いて、デスクでPCをいじっていた男もヘッドホンを外し立ち上がる。

「あっ、随分早く来たんスね。十時過ぎって聞いてましたが。」

ソファの男が慌てた様子で口を開く。金属質な細身の眼鏡を掛け、トラッドなダブルブレストのブレザーをタイトに着た、上品で知的なチンピラと言った体だ。しかし、このスタイルでは拳銃を懐にも腰にも携行していない事が明らかで、余程の威勢がなければ鉄火場で一斉に撃ち倒される。かと言って、ナイフ使い特有の殺気は一切感じられない。むしろ、表情から伺えるのはお人好しな兄ちゃんの印象だ。

「新しい十二位のボスと働けってことで、我々もつい最近ここを充てがわれたばかりでして。瓜生です。そいつが鈴井。」

「どーも!」

極端に大げさな敬礼と、それに自分で耐えきれなくなった笑い声をわははと上げて、鈴井はすぐにPC画面との睨めっこを再開した。濃いカーキのワークキャップ、革のライダースジャケットにデニムというミリタリーな出で立ちに、長く伸ばした口髭が印象的である。彼も眼鏡をかけているが、PC画面の見過ぎなのだろうか。さっきの瓜生といい、銃の照準器の先を見つめる方は大丈夫か、少々不安ではある。

「俺たち変なやつかもですが、敵意や悪意は無いんで。そこらへんは安心してください。うちら下っ端は幹部の名前なんか畏れ多くて聞けませんから、せめてボスって呼ばせてもらいますね。」

東武の伝統か何かだろうか。まあ、いずれ知られることにもなろう。距離感は少しずつ縮めていくのが良い。

「あと、俺たちの他にもう一人、子桜ってのが居るんですが、アイツ今週は銚子の方へ行ってまして午後には帰ってきます。」

何が彼を銚子へと駆り立てているのか不思議だったが、目下の所この散らかった荷物をどうにかするのが先だ。昼過ぎまで事務所の整理を鈴井を除いた二人で行い、それから各自で食事とした。朝も食わず、軽く動いて空腹だ。事務所は路地に面しているのだが、すぐ傍に野郎共が大好きな極太麺に野菜を載せてニンニクと脂を利かせるラーメン店を見つけた。極大値と板で出来た大きな看板に書かれている。胃袋に対する挑戦状めいた店名だが、あいにくこの系統は主食では無いから今の気分と違う。大通りに出て向こうを見遣るとラーメンののぼり旗が見える。全国チェーンの店舗たちと居並ぶようにしてその店はあった。

「こってりらーめん もいらい」ギリシャ神話で運命を司る三姉妹の女神。長女クロトが糸巻棒から運命の糸を紡ぎ出し、次女ラケシスはその長さを測る。そして、末娘のアトロポスがこの糸を切った。切り取られた運命の糸は人々に割り当てられ、彼らの寿命が決められたという。まさか、三人の女性で切り盛りしているのではないだろうが、こってりらーめんの響きに食欲が励起される。千葉でこってりらーめんの名を冠するのは、成田家の流れを汲んでいる事を意味する。この成田家は横浜家系とは違い、背脂をふんだんに使ったこってりスープに太麺を合わせたものだ。店舗は都内に二軒、本八幡、津田沼、千葉に一軒ずつ、そしてパリに一軒。船橋で成田家が食えるのは信じられないのだが、果たして表に張り出された写真は成田家のそれであった。木造りの店構えは落ち着いた雰囲気。その引き戸を開ける。

テーブルがいくつかと、カウンターが六席。そのカウンターに先客二名が麺を啜っている。

「どうぞ!」

と促され、カウンターの真ん中に座った。すぐにチャーシュー醤油らーめん大盛りもやし抜きを超ギタで注文する。厨房には女性店員が一人だった。無料ご飯を炊飯器から自分で装えるのが嬉しい。太麺を茹でるのは時間がかかるから、どんな店でもあるなら細麺で注文する。逆に言えば太麺を食うのは成田家くらいなもんだ。今までは、北区からたまたま池袋の近くを通る用事があったときくらいしか味わえなかったのだが、目の前に出された碗の中には見紛う事なき成田家の超ギタが盛られていた。思い切り啜り、至福の味わいに脳を溶かす。その様子を見て、女性店員が

「成田家よく行くんですか?」

と尋ねてきた。千葉で知り、池袋に通っていた経緯を答える。

「私たち三人、成田家辞めてこの店作ったんです。夜の居酒屋がメインで、らーめんは昼だけなんですよ。最近、成田家の味変わりませんでした?」

何と答えれば良いか判らないまま麺を口に運んだ。味は変わったのかもしれないが、俺にとってはまだこの脂の旨味は変わらない。

午後二時から事務所の整理を再開した。こちらでは鈴井も参加し、各自黙々と作業を進める。日が落ちたくらいの所で急にドアが開く。

「や、どうもどうも、子桜です!ボス、遅くなりましてすみませんでした!」

薄いワインレッドの上に白のピンストライプを走らせた生地のスーツを着、紫地の小さな小悪魔柄のタイを締め、細身で黒縁のウェリントン眼鏡をした馴れ馴れしい男が近付いて来た。間近で一礼し、顔を上げ、俺の顔をジロジロと見て

「ボス、目元まで前髪を下ろしてはいますが、どうにも背格好から鼻筋口元どれを取っても綿摘壮一に良く似てるんですよねえ・・・。まさかとは思いますけど、ボスは西武の綿摘じゃないですか?ラーメンを食いに行ったついでに戦争を終わらせたって伝説の。」

それは俺の親父だ。最後の話は不明だから同一人物なのか知らんが。

「えぇ⁈二代目!だったら尚更あの伝説を知らないなんてオカシイ!ブラックループ事件は、都市伝説、ゴシップ、オカルトどの類でもなく紛れもない伝説です!環七ラーメン戦争は三十年前確実に勃発していた、それを一人でたった一晩で終わらせたんですよ!あなたのお父さんは!息子なら何遍でも聞かされているはずだ!さあ、本当なら聞かせてください、まだどこにも語られていないような、貴方だけが知っている物語!」

「おい馬鹿、その手の話は今することじゃねえだろ!すみませんボス、こいつはこういった話が大好きでして。銚子やら何処へやらに行くのも、ゴシップ、オカルト収集みたいなもんなんです。」

「何を言うんだチミは!他所の事例を通して、この街の未来を予測する。今この国で起きている抗争を正しく分析することが、今後取り残されないために絶対必要なんだって!ボス、綿摘の家系ってことはこれくらい知ってますよね?ここ船橋で起きていた冷戦は、池袋の代理戦争だったって事。それが急にこないだの協定じゃないですか・・・。何が始まるんです?大体、綿摘は西武の側なのに二代目の貴方が何故こんなところに居るんです⁇」

鈴井が笑顔で子桜の肩を抱き、奥の部屋へ連れて行った。

片付け以上に疲れる時間だった。ソファで休憩をとる。子桜が口走った話、確かに池袋でも同様に東武と西武の抗争が繰り広げられている。しかし、船橋の状況との因果関係までは不明だし、誰もそんな話をしていない。ただ、銚子駅前では地元の漁業組合と、新興の商工会とが不穏な睨み合いの状態にあるなんて話も聞いたことがないわけではない。それと、俺の父親が西武の大幹部になって久しいのに、なぜ子桜は顔を知っているんだ。表舞台に立つ看板凶手からは早々に手を引いて、西武の影として生きていたあの父親の顔を知っているというのはどういうことだろうか。それこそ、ブラックループの三十年前くらいから公式な顔写真は抹消される地位にいたのに、なぜそれを知っているんだ。思考の堂々巡りから導かれる結論、それは本人に聞いてみるまで解らない。

奥の部屋から子桜が出てきた。照れ臭そうに

「や、先ほどはすみませんでした。いかんせん、あの手の話が好きなもんですから、ちょっと興奮しちゃいまして。で、その、この後に全員でボスの歓迎会をしたいんです。時間よろしいですか?」

仕事終わり間際に急に入る飲み会は大好物だ。どこか良い店はあるのかと聞く。

「じゃあ、この時間ですから、西船橋に移動してキャバクラで飲みながらお近づきになるってのはどうでしょ?締めに良いラーメン屋を紹介しますんで。」

同業他社がやっているようなキャバクラというのはどうかと思うが、西船橋で通えるようなラーメン屋は押さえておきたい。総武線で一駅隣の西船橋に移動する。電車の中で、部下になった三人とも弱視ということに違和感を確信しつつ。

「駅前ロータリーの目の前に奇妙なビルがあるの分かります?一階は飲食店ですが、その上から三フロアは水商売で、下からフィリピン、ロシア、日本人とランクアップしていくんですよ、笑っちゃいますよね。此処を下から上まで、大人のスタンプラリーです。」

何にでも大人をつければ良い訳ではないが、その趣向は気に入った。だが、二階の店は、どう考えても俺たちが歓迎会に使うというのには向いていなかった。大人のスタンプラリーとは言ったが、大人の線引きが五十代を境にしている感がある。太ったフィリピン人の肉弾接待、これでは落ち着いて話どころでは無い。ウ〜ララ〜!甲高い悲鳴に似た笑い声が飛び交う。酒はせがまれる、キスはせがまれる、ゲストとホステスという盤面が引っ繰り返った革命がフランスではなくフィリピンで起きていた。ロベスピエールが全力でドロップキックをかますレベルの代物だ。ウ〜ララ〜!そういうのが好きな奴がスタジオ見学気分で行ったら良い。俺はもう御免だ。

「伏魔殿でしたねえ。上のガールズバーでカウンター席ってんじゃ何しにきたか分かりませんから、もう最上階行きましょう。このビルのトップなんでしょうから。」

げんなりした様子で一同、五階にある輪舞鈴へ。最上階の六階は雀荘らしい。

黒服に通されソファに座る。店内は暗いが、広さはある。俺から見て右回りに瓜生、子桜、鈴井の順で円座。四人それぞれの隣にドレスの女が着席する。こちらも同様に舞衣、真希、茜、雫。顔は、美人な方だろう、あまりじろじろ見たく無い。さっきのアレを早く忘れたい、忘れさせてくれ。先ずはビールで乾杯し直し、船橋を離れていた子桜が銚子で何をしていたか土産話でも聞こうとした矢先、瓜生が俺の担当になった舞衣に話を振る。

「ねぇねぇ、舞衣ちゃん。あなたの苗字は田野さんって言うんでしょ?」

「えー、ちがいますよぉ。佐藤とか鈴木とかじゃなくて、田野ってずいぶん珍しい苗字ですね。」

女一同、瓜生の真意がどこにあるのか好奇の眼差しで見遣る。それはすぐに失望と軽蔑に変質し、男達からの畏怖の念へと昇華することになるが。

「そりゃそうよ!アンタら、たのまいたのまいって、こんだけ着飾っててその性根は飛び抜けてズバ抜けた物乞い精神してるからよ!二言目にはドンペリたのまい、ドンペリたのまいって!キャバ嬢なんてものは着飾った物乞いだろうが!」

ほんの三秒前、穏やかに口を開いた彼は、沸点らしきものを微塵も観察させることなく、説得力を持たせた偏見を昇華させた。職に貴賎なし、自分の職業意識を高く持ったプロフェッショナルも居るはずのところで、こんな吠え方では誰もが瓜生を狂犬と思わずにいられないだろう。しかし、その大胆な問いかけは、もしかすると嬢たちが無意識下へと仕舞い込んだ自己同一性をはっきりと意識付けさせた可能性もある。知っているという事を知る、それは大切な事だ。

「ねえ、新しいボス。もしもこの舞衣ちゃんが、自分の名前がそうであるのと同じように、物乞い同然にドンペリたのまいって叫びでもしたら、入れてあげますかね?」

勿論だ、歓迎会は盛大であるに越したことはない。その言質を取るや否や瓜生が吠える。

「お前が親譲りの乞食気質で子供の頃から特ばかりしてるんだったら叫んでみろおおおお!!」

「ドンペリたのまーーーーーい!!!!」

舞衣は自分を乞食と認めた、はっきりと。これは、彼女が今後プロとして生きて行くためにはっきり自覚すべきこと、そうあれかしと思う。理性が人に平等に与えられているのであれば。

若さだけが取り柄といったような黒服が、自分だけ熱気を帯びてボトルを持って来る。続いてグラスが人数分。

「兄貴、この値段の割に詐欺じみた小さいボトルじゃ、俺たちの取り分がそれこそスズメの涙。いや、カラスの涙。カー、カー、こんだけカーって具合ですよ。どうでしょう、席についている残り三人の舞衣ちゃん達からも、おんなじようにその家柄を聞いてみるってのは。」

一人につきドンペリが一瓶、豪気で結構だ。この三人には、今夜から身体を張って下働きしてもらうわけだから、ここまで場を盛り上げさせておきながら無下に断るのはぞっとしない。だが、瓜生ここで一度引いてみせる。

「しかし、どうでしょうね。こいつらやらせてみるまでもなく、兄貴の財布からまるで行きがけの駄賃代わりって気軽さで、そんな二束三文のために自分の心を豚にでも食わせちまいそうですが。結果は目に見えてませんかね?本当に良いんで?」

喉よりも、渇いた心を潤わせるためには、グラス一杯だけでは満足できそうもない。さっさとやるように促した。子桜は満足そうにニタニタ笑いながら様子を見ている。ルーレット賭博にでも勝ったかのような、いや自分の中で赤黒どちらに賭けるか腹を決めて結果を見守っているようかのような表情だ。ガラス張りのテーブルを踏み抜きそうなくらい、片足をどんと乗せて瓜生がまた吠える。

「だったらオイ!吹けば飛ぶ程度の札が欲しくて豚に成り下がる奴居るんだったら叫んでみろおおおおおお!!」

結果は当然、と言うべきか。4人連続ノワール。この場には一人の殺し屋、三人のチンピラ、四匹の雌豚それと同数の瓶が在るだけになった。店内の異様な熱気とともに。

瓜生は運ばれてきた酒を女たちに酌させる。そしてそのおこぼれを、豚に真珠と分かってはいるがご相伴に預からせてやっても良いかと訪ねてきた。頷く。

「このお大尽さまが今夜一晩だけ、お前ら雌豚を人間扱いしてくださるとよ!人間だって滅多に味わえないシロモノだ、見てるこっちが恥ずかしくならないようにお上がりよ!!」

乾杯の音頭と呼ぶには常軌を逸した叫びとともに、皆が口々にグラスを味わう。ある者は呷るように、ある者は舐めるように、多くはひと息に、他残りは心を曇らせて。その様子を見咎めたように瓜生の追撃は止まない。

「まさかアンタら、これだけ俺に言われ放題言われて、傷ついているなんて言いやしないだろうね。言葉のナイフは諸刃だよ!!そんなことすら知らないときたか。一体全体、あんたらのどデカいご自慢のブランドバッグの中に、これっぱかりの詩集やら小説やらが存在しているかなんて、量子力学を持ち出しても説明不能だろうよ。なんなら試しにここへ持ってきてみろよ。やっぱり持ってこれやしねえもんな。それとも、あんたらも何かい、自分がそのバッグの中の化粧品でもって男どもを騙していながらに、自分自身の心まで欺いている事に傷付きでもしていた刹那があったとでも?」

がぶりがぶりと喉を鳴らしながら酒を呷る瓜生。迷言、禁言のヒットパレードが続く。

「あんたら、こんな店で働いているくらいだからご自身の容姿にさぞや自信がおありでしょうがね。美人なんて言葉に満足しているようじゃ、せいぜい信頼度四割ってところですよ。ホントなら上から、佳人麗人美人の順なんだから!ヒト並にチヤホヤ扱ってもらえる最下層なんだから!要は心の持ちようで上にも下にもなるってわけですよ。さらに下には並上、並中、並下。ここまでは良いでしょうがね、その下がブス!こんな風に言われてショックを受けた女性に対して、私は言いたいんですよ。声を大にして!ブスなんて言われて落ち込むことはないんです、その下にはもっともっとあるからですよ。ツバ、タン、吐き気、ゲロ、卒倒、疾病って言う風に。だからブスって言われて落ち込むことはないんだ。だがな、女ども、美人なんて言われて有頂天キマってるような連中ども!上にはまだあるし、実際のところは並みたいなもんなんだろうよ!勘違いするなよな、くれぐれも。」

ここで子桜がようやく口を挟む。

「それはそれとして、お前はもっと女性を敬う必要があるんじゃないか?始まりって漢字には女が偏に含まれているから、女あっての人類なんじゃないか?人類全員の幸福を願って、改めてこのグラスで乾杯の音頭をやり直してくれないか。」

こいつらの中にも常識人がいるらしい事に女達も安心した様子だ。俺も。無論、その念は吹き飛ぶ。

「何を気障ったらしい事をほざきやがる!根本から違う。いいか、聞けよ、女なんてもんは始めっから台なんだよ!男が上に乗るんだ!男は上!キサマら下だ‼︎ 」

これを期待していたのか、子桜は瓜生にウインクして一杯呷った。ダメだ、ソドムとゴモラ出身かこいつらは。鈴井の方を見ると、なんと顔を赤くしてもう寝ている。

誰が瓜生の暴走を止められるんだとシャンデリアを見上げたその時、男が躍り出て発砲。瓶が一本割れる。密閉系の店内での発砲は鼓膜が痛い。いかにも護身用と言った拳銃だが、しっかりと両手で握り、身体の中心で構えている。仕事帰りの会社員か、どこぞの組織の殺し屋か。いや、殺し屋が狙う時は今頃殺し終えてなければ。一応の心得はあるようだが冷静では無い、全身がブルブルと震えている。武者震いと言うよりは極度の緊張であろう。女性用電気振動自慰器具-バイブ-のようだ、と瓜生は思った。バイブマンがどのキャバ嬢の股間に埋まりたいと思っているのかも思案した。冷ややかな笑みを浮かべながら女達が今どんな表情になっているのか見ている。思った事そのまま口に出そうと話し始めた瞬間、空に浮かんだ青鯖のように瓜生の身体が横殴りに吹っ飛んだ。

「殺した・・・殺った・・・。僕、みんなが言葉の暴力に耐えてるのが見ていられなくて・・・!」

乱入者はこの店の常連で、三十過ぎの気弱な男。四人のうち誰か、おそらく舞衣の馴染みで、もう我慢の限界を迎えたらしい。言葉の暴力、言葉のナイフは諸刃か、違いない。心の中で頷いた時、キチキチという地獄の蜘蛛の嗤い声を聞いたのは俺だけだった。倒れた瓜生が着るジャケットの袖の下で電動アームが作動し、小型のリボルバーがその手に届けられる。身じろぎもせず、誰からも気づかれる事なく男の頭を撃ち抜く。

「死んだふりだよ、馬鹿野郎。いや、それとも地獄から生き返ったんだったかな?」

ムカついた表情で瓜生が吐き捨てる。正当防衛とはいえ、カタギを殺した後味の悪さだろう。さっきまで吠えていた酔いがめっきり冷めたようだった。

「客の品定めは必要だぜ、アンタら。用心に越したことはねえよ。」

それは自分のことか、死んだこの男のことか。両方か。だが、女達は口々に死んだ男を偲んで、涙を流している。驚きもあるだろう、悔しさも込み上げてきたのだろう、常連の死は悲しかったのだろう。唯一、舞衣だけが冷めていた。

「でも、この人、変にしつこかった・・・。確かに良い人だったのかもしれないけど、私には。こんなことして死んじゃうなんて。」

「女ども、騒がせて悪かったな。俺たちゃ引き上げるよ。金はこのボスが払う。」

面倒事から引き上げようと男達が座席から腰を上げた時

「うぎゃあぁぁぁぁぁぁ!!」

瓜生が叫び、散った桃の花のように倒れる。

「東武のヤクザども、死ね!!」

真っ赤なドレスの女が、狂乱状態でナイフを振りかざす。無防備な寝顔を見せている鈴井が次の狙いのようだ。手荒だが足払いで、華奢な体を跳ね飛ばす。子桜がナイフを取り上げ、優しく組み伏せた。心得はあるようだが、甘い、大甘だ。当然まだ女には余裕があり、叫び続ける。

「私のお父さんは、十年前お前ら東武に殺された、西武の片柳!それに、この人だって、西武が潰れて水商売しなきゃいけなくなった私の話をいつも聞いてくれていた!」

「ボス、この女黙らせますか?」

「やめなさい!」

舞衣、真希、茜、雫それぞれが立ち上がり、ポーチから護身用の小型拳銃を取り出して構える。俺と子桜それぞれに二丁ずつが狙いをつけている。この至近距離では対弾繊維であっても痛い。

「確かに乞食まがいの生活に甘んじてるわよ、それはいい。だけど、あたしたち女を男が守らないから、女は女で護り合う!それがあたしたちの流儀!」

瓜生の喚き声、駆けつけた黒服の叫び声、女どもの啖呵と今にも火を噴きそうな銃口の数々。俺はトートバッグから財布ではなくM9を取り出した。本当の鉄火場なら、今の俺の動きで俺たちが三回ずつ死んでいてもおかしく無いくらいだが、こいつで店の中に居る人間を三回ずつは殺せる。その前に俺の流儀を聞かせる。

俺の下では麻薬取引を行わせない。俺が主席に就いた時が、この街から麻薬が消えて無くなる時だ。その時、精神的弱者や金銭的弱者、お前達のような他に生き場のない男女が搾取される事なくこの船橋で暮らせるようになる。逆に言えば、それを望まない東武の構成員は今が下克上の好機だ。

「西武の綿摘がどうして東武に来たか解りました。俺たち三人は、こないだの協定まで西武に居たんです。貴方がウィスキーの瓶を掴み取った瞬間も見てました。組織が潰れて、でも食ってくためにこっちに流れたんです。今夜から兄貴と呼ばせてください。」

事の顛末を眺めていた老紳士、この店の支配人の男が。歩み寄って、語る。

「西船橋はまだ西武のシマだよ。西武のシマの半分は綿摘のシマって言っても過言じゃ無い。なるほど、そっくりだ。若頭、この街のことくれぐれも頼みます。」

荒れた店内、散らかった酒器、死人一人、怪我人一人、鈴井はまだ寝ているようだ。お荷物だらけだったが、輪舞鈴が全て請け負った。只より高いものは無い。騒乱豪華の舞踏会が幕を閉じた。ラーメンは次の機会にお預けだ。女を守ったカタギの男と、カタギを殺したヤクザの男。今は亡き船橋西武という巨大組織の不在の存在感。俺たちは、これから誰と戦っていくのか。

十二位の面々と入れ違いに、安藤がバイクで乗り付ける。今夜の事を穏便に運ぶために、業者を入れて荷物の回収をさせたのだ。こういう時に寡黙な安藤は、何があったのか興味も示さない。淡々と袋に荷物を詰め込み、担ぎ、バイクに縛り付けて帰った。床にこびり付いた血糊を黙々とモップで拭き取りながら、舞衣は考えていた。

『源氏名、田野って苗字もつけて新しい名刺作ろう。』

後日談はこうだ。新規の客達は一人だけ苗字が付いたこの嬢にその由来を聞く、今夜の一幕が再現される。彼女もこの店も、それから大いに潤うのだった。

後日談はもう一つある。瓜生が運ばれたのは、船橋と西船橋の中間地点にある船橋中央病院。翌日昼前にそこへ見舞いに行った。瓜生はベッドで横になっていたが、昨晩の事は全く覚えていないらしい。何でも、酒も女も強いそうだが、酒と女の二つが絡むと途端に性格が変わるんだとか。

「かあぁ、そんな事があったんですか・・・。じゃあもう気狂いに刃物ってやめて、キャバ嬢にナイフですね。」

口の減らない男だった。

 

第二章    死亡遊郭    了