船橋ノワール 第五章 序

奇しくもその日は水曜日だった。

食肉工房アンドレの定休日であるにも関わらず、今朝は四時に得意先から予約が入っていた。人肉解体業者の朝は早い。相手が相手だけに、寝ぼけ眼というわけにはいかず、昨晩彼は十九時に床に就いた。我ながら健康な生活を送っているとつくづく思うのも、ひとえに肉中心の食生活のお陰だと感じる。全身を締め付ける黒革の仕事着に身を包み、安藤玲はヘルメットの中での瞑想を終えた。

連れて来られたのは、大柄な筋肉質の男。両腕を後ろに縛られて猿轡を咬まされた状態だった。動きを鈍らせるため、右脚にはナイフを刺したままにしてある。その眼には諦めの念が見て取れる。作業場の天井から太い鎖が、ただぶら下がっている。素朴な造りのそれを、男の両腋に通して括り付けた。硬く張られた鎖に両肩まで繋がれて吊るされた男は三十過ぎといった所か。引っ越しあるいは運送業者のような体格をしている。つまり彼は、体型維持の努力を怠らないプロの“運び屋”なのだろうという事が、同業者の直感で解った。

剥き出しのコンクリートに四方を囲まれた、薄暗く手狭な部屋の中は、先日目の当たりにしたスナッフィーの仕事場ほど洗練されてはいないものの、この食肉工房は安藤の聖域である。依頼主から材料が届けられるから、檻などは必要ない。他にあるのは鋭利な刃物が一式、水洗用のホース、お気に入りのチェーンソー。そして、今朝は生きた素材と、それを見ている眼球六つ。『哀れだ。』安藤は似たような境遇のその男に内心同情した。彼と我とに違いは無い。肉体作りは生涯現役の気概の顕れだ。それはつまり、稼業が現状で軌道に乗っている証拠だった。

すぐ傍に、ウェディングドレスもかくやと言わんばかりな純白のドレスに身を包んだ女性が立ち、その光景を睨めつけている。婚礼用には少々機能的に過ぎる意匠だったが、それがどうしたと言うのか。披露宴会場が人肉解体工房で行われている、それだけのことだろう。今朝の仕事は、国際誘拐企業連合から直々に持ち込まれたもの。安藤玲は業者として最優先の顧客相手にこの仕事を引き受けざるを得なかった。東京湾最奥の南船橋を国内最大の拠点とする連合。その船橋支部代表とは、つまり日本支部総帥相応の意味を持つ。International Kidnapping Enterprise Associationで絶大な権限を持つクロエ・ド・リュミエールその人が腕を組み、涼しげな表情をしてその場で傍観している。人肉解体現場の特別桟敷に居ると言って良いだろう。

肉の食い方については、日本では及びもつかないフランスの舌が、クロエとアンドレとを宿命的に結びつけた。切っ掛けは、安藤が手を下す素材に懸ける情熱と、その仕事に対する姿勢だった。解体用人肉の入手経路というものは、とかく人身売買の営業経路と重複が生じやすいものだ。査察として定期的に出向く関東一円の様々な焼肉店で、ある日彼女の舌が一口で見抜いた事があった。店主を丁重な尋問にかけると、彼はすぐに話し始めた。それを辿って行き着いたのが、京成海神駅前の此処、食肉工房アンドレと言う訳だ。以来、安藤は不用意に連合のシマを荒らす事なく、違法ではあるにしても合意の下に新鮮な素材を手に入れられるようになった。以来、連合は暴力部門を持たないながらも、船橋支部代表の手元に忠犬という強力な札が入った。

まさに人形のような顔立ちの彼女の、いつもと変わらぬ澄み切った瞳の奥に、暗い影が射している事に気付く者はこの場に誰もいない。西船橋のホテル街で、安藤が綿摘恭一を殺し損ねたことは、依頼主のクロエとしては想像通りではあるものの予定外だった。連合には暴力専門の部署が無いため、あの時は安藤に外注となったのは止むを得ない事ではあるが。船橋東武第十二位の一騎打ちに便乗し、結果的に東武・連合共に“採用試験”突破とも言える結果。船橋東武にこれ以上の戦力が追加される前に殺してしまう算段だったが、先代第十二位の呆気なさたるや、何ともはや。機関銃を扱う特殊免許もさることながら、一族に代々伝わると言う近接格闘の心得が、あの呉の暗殺術をも凌いだということか。方針転換で恭一を取り込み、協調路線に舵を切ることにしたのは、第十二位就任早々に流れてきた西船橋からの情報が理由だ。曰く、船橋西武のシマで女どもを侍らせ、公然と現船橋東武の体制批判を言い放ったのだという。だから、船橋東武では手出ししにくい、南船橋の虱どもをこの様に一匹ずつ捕らえてやることにした。

しかし、ここに来てまさか、東武が西武の残党狩りに乗り出す事になったというのはぞっとしない。彼女は自分の思い描いた絵図が、日に日に予定から脱線しているこの事態を楽しもうという気にはなれなかった。今度の仕事で、綿摘恭一は死を免れ得ない。さながら田園の麦のように命を落とす。誰が判断してもそうだろう。クロエの判断も同様だった。だから彼女は苛立っている。一度手放したものをもう一度手放すのが運命なのであれば、彼女はその神を刺し違えてでも殺す女だ。

「支度できました。」安藤がクロエの側近オーギュスト・ドートリッシュに伝える。眺めていたのであればその様子も解っていようものだが、クロエはオーギュストの通訳を受けても知らん顔だった。そしてなに食わぬ顔で、ムッシュ・ド・船橋に執行を命じる。彼女が話す仏語とは、仏の言葉なぞではない。死神からの密やかな口付けだ。

「猿轡を外せ。首斬りにしろ。」オーギュストからの伝達に安藤は竦然とした。

「こんな夜明け前に、猿みたいな断末魔は困ります。」工房でチェーンソーを使用した事は未だ嘗てない。解体にはよく研いだ刃物数本で事足りるからだ。もともと活け造りを前提に建設した工房ではないので、防音には自信が無かった。解体する手順として、まず始めにナイフを入れる喉にこんな形で手を着けさせようと言うのは、全く素人の発想でもあった。水洗用ホースがあるとはいえ、飛び跳ねる血飛沫の量は見当もつかない。それより何より、大好きな喉ナンコツをそのように扱いたく無いのだ。男は必死に目を瞑り、ぶるぶると首を横に振っている。

クロエは詰まらなさそうに右手をぷいと振る。返り血が跳ねても構わないように、オーギュストがポリプロピレン製のカーテンをクロエの前に高く持ち上げる。此処が独裁政権下の某国ならば、機関銃の一斉射撃が始まる合図。殺るしかないのだ。気持ちを切り替える。人間を生きたまま殺す試みはこれで二度目だ。高揚感に身を委ねる。自分の仕事を、連合の麗しき死神が見ている。大きく、しかし早く呼吸する。

その呼吸に合わせ、I.K.E.A.本部が置かれたスウェーデンにあるハスクバーナ社が、安藤の為に特注で仕立てたチェーンソーを始動させる。特注の依頼はクロエの命令であり、その譲渡はすなわち彼女の意思で誰であろうと惨殺するという魂の契約を結んだも同然なのだ。フル回転のエンジンが爆音を鳴らしながら駆動している。名も知らぬ男の眼には、既に生への執着、つまり恐怖という感情が顕れていた。

安藤、さっと左手で猿轡を取り除く。男は泣き叫んで命乞い。

「オイオイ、しっかり胸張って顔上げねえと、キレイに切れねえだろうが。」オーギュストは持ち上げたカーテンを下ろし、男の顔の傍まで寄って言った。必要な伝達事項以外には一言も発しないオーギュストがそうしたのは、つまり顔を上げろと言うのは必要な伝達事項という事だ。クロエとは対照的に、彼は流暢な日本語を雄弁に扱う。安藤としても、そうしなければ余計な箇所まで傷付けてしまうから、顔は上げて欲しい。しかし電動のこぎりに自分から首を差し出すなど、まともな神経では出来ない。出来るはずがない。こんな事になるなんて。殺すなら別の方法で殺してほしい。様々な言葉が男の口から飛び出す。安藤はチェーンソーを停止させて下ろし、ヘルメットを傾げてオーギュストの方を向いた。

「I.K.E.A.のシマを荒らしていいのはI.K.E.A.だけなんだよ。特に、お前たちが扱うヤクは南船橋に流すなって事を、これからみんなに良く知ってもらわないと。」東西の冷戦状態であれば、両者が一線を越えて来る事は無かった。だが、撤退以後に市内が東武一色となる前に、新習志野ー南船橋までに越えてはならない一線を引く必要があるとの判断だ。船橋東武に向けて、これから国際誘拐企業連合が相手となることにやぶさかでないと血文字で宣言をする。肉屋のアンドレこと安藤玲は、駆動を弱めた鎖鋸を再び最大出力で唸らせる。だが男が、男の名は大塚と言うが、大塚が発したのは、家族の名だった。叶うなら最後の言葉を交わしたいと言う願いだった。安藤は再度チェーンソーを停止させて下ろし、ヘルメットを傾げて念押しのようにオーギュストの方を向いた。

「自分の臆病を家族にまで伝えたらダメだろう、それは。もういい、早くやれ。お前一人だけにはさせねえから、安心しな。」オーギュストはこういった場面に慣れているようで、徹底して冷徹だった。吐き捨てるように言って、またプラスチック製のカーテンを高く持ち上げる。この期に及んで外部への連絡など許されるはずが無いのに、演技か本音か知らないが命乞いはこれだから聞いてはならないのだ。この業界、つまり職業凶手達の間で、命乞いを聞いてはならない事は鉄則の第一条であると言われる。会話などが始まる前に、相手が死んでいる事が職人気質であるためだ。頭では分かっていても実践までに経験が要るし、それまでの命のやり取りで必然と短命な者が多いから、鉄則を遵守しつつ臨機応変という動きが出来無いのは半端者である証なのだが。勿論、今のオーギュストの行動は、主人の望みが恐怖心を与えて殺す事であるから、臨機応変であったと言える。同時に業者に対し、的確な指示も出さねばならない。厄介な問題ほど、解決してから主のクロエは満足するから、従者の腕の見せ所となる。その為に彼は日本語も覚えたし、単純すぎる問題は敢えて複雑にし直すという趣向を凝らす時さえある。

一方で安藤は、逃げ出したい気持ちを抑え、高揚感を維持するのに必死だった。今までしていた死体の処理では、こんな工程を考えすらしなかった。それまで彼が考える死とは、もっと抗いようのない大きくて強い存在だったのだが。最初の経験、西船橋のホテル街では、自分自身が死そのものだったのに。今か、あの時か、錯覚しているのはどちらなのか。一瞬、安藤は大塚と目が合った。無論、ヘルメットがあるから、大塚には分からない。しかし、大塚もその時、磔にされたかのように動きが止まった。瞬間、安藤は大塚の喉元をチェーンソーで縦に突き刺した。鎖鋸は気道と頸動脈の間を裂いて延髄に達し、すぐに大塚は恐怖から解放された。絶命して項垂れた頭の重みで、顎まで裂いてしまわぬよう、最速で仕事を済ませた。気道が裂けた時の、あの喘々という嫌な呼吸も聞こえない。その間、コンマ三秒。だが、安藤玲にとってその時間は、三時間に及ぶと言っても過言ではない疲労に感じた。せめてこの同業者を苦しませたくない一心で仕事をしたい。それ故、横向きに歯を入れて首を飛ばし、頚動脈を断裂させてしまうのを避けたのは本能。喉から得物を抜き出すと、男はすぐにがくんと俯き、裂けた喉からだらだらと血を溢した。返り血は鎖鋸を差し込んだ際に、回転する歯によって飛び散った僅かな血煙がヘルメットを覆ったのみ。

記憶が飛びそうになっている程に鮮やかすぎる仕事を終え、ヘルメットの中で雄叫びを上げたい衝動を堪える。あまりの興奮に安藤は勃起している。このまま刃を振りかざし、安いビニール製のカーテンを切り裂いて、サイコのジャネット・リーよろしくクロエ・ド・リュミエールを惨殺したいという思いが頭をよぎり、彼は下半身を痙攣させて射精した。しかし、フランス人形の奴隷になるのは良しとしても、己の殺人衝動の奴隷にまで堕ちてしまうわけにはいかないのだ。そんなやり方では、自分の手で掴み取ったことには決してならない。凄腕の業者は、その冷静さを併せ持つが故に神域へとその足を踏み込める。今の安藤は、まさに死を体現する存在だった。

黒づくめのヘルメットとライダースーツに隠された男の様子を易々と見抜きながらも、クロエ・ド・リュミエールの不機嫌は晴れない。いつ見ても安藤の仕事ぶりは、期待に応えて予想を裏切る。それだけに、西船橋のホテル街であの忌々しい軍閥からの横車さえなければと思えば腹が立つ。船橋東武の歯車に組み込まれた綿摘恭一が、自分のコントロール下にどんどん置けなくなっているというその事にも我慢がならない。ましてや、その活殺与奪を他者に譲渡するなぞ言うまでもない事だ。この気晴らしには益々の血が要る、と純白ドレスの死神は思った。それは無慈悲で理不尽かつ容赦無い、嵐のような流血を意味していた。連合が戦争に乗り出すとはそう言う事だ。業者は一人では足りない。

クロエはドレスと同じ白のハンカチを安藤に投げて寄越す。飴と鞭ならぬ、ティッシュとハンカチはこれから益々用意する必要がありそうだ。此処でチェーンソーに血を飲ませ続けることになるから。工房の防音改修は費用を立て替えてやろう。欲しいならスウェーデンの家具まで付けてやる。だが、業者は一人では足りない。

今はクロエと目を合わせられないアンドレはヘルメットを脱がず、朝食に準備したタンシチューの食卓に二人の客を招く準備を始める。献立を聞いたクロエが少女のような喜びの声を無邪気に上げたのは、通訳を介さずとも解る。安藤は顔が耳まで赤くなるのを自覚し、ヘルメットを脱がずにいて良かったと思った。受け取ったハンカチは、ヘルメットの血飛沫を拭うのでは無く、後で使う為にポケットに捻じ込んだ。

第五章 続

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です