【2024冬号】ラーメンドラゴンボウルZ #002 京都タンポポ【キ刊TechnoBreakマガジン】

 観念でラーメンを啜っていたって、これっぽっちも美味く無い。禅寺を無心になって訪れる事が出来ない様に。東京から西京、いや旧京、いや京都へせっかく来たわけだから、どこで食ったものか、やはり観念で検討せざるを得ない。僕はこんな自分が好きじゃ無い。そして決して嫌いでも無い。それがイヤになる。

 第一旭か、極鶏か、はたまた天一か。でも僕が、ラーメンドラゴンボウルを求めて訪れたのはタンポポさん。伊丹十三監督のラーメンウエスタン映画『タンポポ』とはあんまり関係が無いらしい。

 とりまるじゃなくて烏丸線を北大路駅で下車、一路西へ。二十分は歩く。開店の十一時半、三分前に到着。おそらく地元の方々であろう、二十人ほど並んでいた。軒先に掛けられている提灯に、舌を出した一つ目小僧が描かれていてユーモラスだ。お店の方も愛想が良くて、快い。三十分並んで入店。

 壁のメニュー見渡して瓶ビール。それと、「ラーメンの友達」と添書きされていたチャーシューとキムチ。「ほか弁・愛妻弁持ち込み歓迎(恐妻弁でもOKよ)」というメッセージも掲げられていて、やっぱりユーモラスだ。チャーシューは八五◯円分、十枚くらいがバンとお皿に並べられ、青ネギの輪切りがいっぱい乗っている。脂気が強くてしっとり、僕の好みの質感だ。しっかりと味付けされている。二人で来て、コレを半分つまんで、残り半分はラーメンに突っ込んでチャーシュー麺にして食べてしまうのが良いんじゃあるまいか。実際、温かくなったチャーシューはほろほろと崩れて実に美味かった。キムチは一五◯円、真っ赤だけれど普通のキムチ。ラーメンの友達は二人合わせて千円となる。

 何も考えずにチャーシューを食べ過ぎてしまった。一切れだけ残してラーメンを注文。豚しゃぶラーメンの特。僕はコレを特盛と呼んでしまったが、お店の人は特大と呼んでいた。その日は豚しゃぶが無いそうで、普通のラーメンを焼き飯セットでお願いした。無料のにんにくも。

 ドンブリからあふれそうなラーメンが、金属製の平皿に乗ってやって来た。真ん中に青ネギの輪切りがいっぱい。その周りに見えるスープは背脂がしっかり浮いていて、唐辛子の赤い粉末がぱぱっと掛けられている。スープから飲んだ。沁みる、美味え、堪らねえ。辛さは全然気にならない、全体の一割未満だ。本当に一切受け付けない方は、赤抜きというのが出来る。背脂ラーメンが好きって人には間違い無いだろう。いや、第一旭さんでも良いんだけどさ。特盛にしてもまだまだ食べ足りない。

 焼き飯を頬張る。うわぁ、飯状になったチャーシュー食ってるみたい。セットで二五◯円なんだから注文しない手は無い。ただ、ビールの友達のチャーシュー味なので、しっかり濃い目の味付けになっている。連打は出来ない。そこをまたドンブリからスープでグイッと流し込む。麺、飯、スープ、麺、飯、スープ、たまにネギと一緒に麺、飯、スープ。青ネギの下にチャーシューが一、二枚隠れている。

 一気に食べ尽くしてしまった。三千円でお釣りが来た。お会計を終えて出ようとしたら、ちっちゃなステッカーが目に留まった。「見た目ギラギラ食べてあっさり」ホンマそれ。

【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(Z) #001 津田沼 魚骨らーめん鈴木さん【ONLIFE】

ラーメンドラゴンボウルが完結したその日の夜、私は喜びのあまり、ついラーメンを食べに行ってしまった。

揃った七つのラーメンドラゴンボウルから呼び出された龍神との契約やら経緯やらは、他所に書くことにする(おそらく虚飾性無完全犯罪から船橋ノワールへと移行するだろう)。

ともかく、その日の夜、その日三食目となるラーメンを食べに、隣町の津田沼へと赴いた。

前から行きたい行きたいと思っていたお店があったのだ。


およそ二十年前、中高生だった頃の私は家庭用ゲーム機を所有していなかった。

アーケードゲーマーとして、船橋のゲームフジさんを拠点にしていた。

朝七時から開店という神様のようなお店だったので、ビートマニアやらギルティギアやらは新作が出てから朝イチで練習ができた。

一番やり込んだのは連邦VSジオンDXで、グフの操縦に関しては当時日本一を自負している。

それらの背景は、一食一飯の初回にも記した。


さて、土曜の放課後に実は食べていたのは何も、てんやさんばかりではなかった。

ラーメンも食べていた。

週に一度のラーメンを、決め打ちで通っていたお店だ。

ゲームセンターのすぐそばにあったので、そこしか行かなかった。

中高生の私が、外食で冒険をするということは無かったし、その必要も無かった。

今日はここに行こう、ではなくて今日もここに行こうと思わせてくれるお店だったのだ。

大学に進学してから行かなくなり、しばらくで閉業してしまった。

ゲームセンターも店仕舞いしてしまった。


『醤油ラーメンなんか全然食べないな』

背脂ギタギタ、カレーラーメン、お二郎、滅多に食べないタンメン、とんこつ醤油、鶏ポタージュ。

房総(半)島ド真ん中にあるアリランラーメンを食べてみて平凡だと感じたのは、醤油ラーメンを全然食べていなかった所為だろう。

『あのラーメンスープが失われたって、世界的にみてちょっとした不運だよな』

私自身、業務上の錬金術を秘匿し続け、父から譲り受けた情報などは親子代々の物として運転しているからそう思える。

私が死んでも商材が残り然るべき者が扱えば世界は回るが、一世一代のラーメンスープが失われてどうなるかを思うと胸が苦しい。


漁だし亭 船橋


検索してみれば、何という事はない。

“船橋の「漁だし亭」・・・津田沼で大胆なラーメンで復活し…”

食べログのレビューがトップにヒットして謎即答に昇華した。

二◯一◯年に船橋店が閉店し、場所と名前を変えて翌年再開していたそうだ。

そこは津田沼、「魚骨らーめん 鈴木さん」自信を感じさせる名付けである。

存命の安堵の反動から来る、急激な馴れ馴れしさに声を張り上げたくなってしまう。

さりとて、隣町の津田沼へ足を延ばすには何か理由が必要だ。


問い続けた理由の訪れを私は辛抱強く待った。

検索したのは昨年の十月だったから、一食一飯の前半を書いていた頃だ。

この次にラーメンドラゴンボウルを書く、それが終わったら行こうと。

その日がやっと来た。

休みを取って、車を出して、開店すぐからラーメン食べて、家に帰って記事にした。

あんまり嬉しかったから、その日の晩もラーメンにした。

さあ、そこで漁だし亭あらため、鈴木さんである。


地図でだいたいの場所の見当をつけて、大通りの向こうだろう、と路地から顔をヒョイと出すと目の前になりたけがあったので声が出た。

津田沼店めっきり行かなくなったけど、もっと遠くじゃ無かったっけ。

どうやら地図の見方が悪かったらしい、駅前の大通りをそのまま歩けばよかった。

そういえばツイッターもフォローしたが、昨年末に世界一近い引越しと称して、一軒隣へ移転もしていた。

引き戸全開で屋台然とした渋い内装の漁だし亭とは雰囲気を変えて、明るくカジュアルな木造りのお店となっている、清潔感があって良い。


ともあれ、ビールだ。

もう中高生じゃない。

アーケードゲームはしないが、居酒屋でビールは毎晩だ。

おつまみちゃーしゅー。

焼きもできるが、ゆで餃子五個。

秋刀魚奴、大きいサイズ。


漁だし亭から鈴木さんに化身して、躍進した点がこれ。

ぽてりと載っている秋刀魚のペーストが、31のレギュラーシングルサイズで存在する。

目を瞑って食べてみたら、あん肝のパテと混同するかもしれない。

醤油らーめんに百五十円追加で載せられているものは、さんまらーめん。

このお店の主力メニューと言えるだろう。

その秋刀魚ペーストを載せたやっこ、丁度良いではないか。


ぐいぐい飲み進めて、いよいよラーメンを注文する。

ペーストが載っていない方、醤油らーめん大盛り。

赤黒く澄んだスープに、わずかばかりの油滴がきらめいている。

大きめの海苔一枚、メンマと輪切りのネギが少し、チャーシュー。

あぁ、碗こそ違えど、あのラーメンだ、見ればわかる。

水菜も焼きネギも無いながら、このラーメンだ、見ればわかる。

細麺をすすれば涙が出そうになる、煮干しラーメンとは違う、魚介ラーメンの“あの”味がする。


『わかった。』この数ヶ月の謎が氷解する。

『何がって、俺十代で毎週尖ったラーメン食べてた。』

最初の一歩がこれならば、今歩いている道がこうなってしまうのも無理はない。

塩気に意識が向かない、魚の旨味がスープをどんどん飲ませてしまう。

ああ、これはいけない、だがこういう日のために塩分を節制して来たのだ。

ここに秋刀魚ペーストを少しずつ溶かしながら食べる一杯もたまらないだろう。


豚トロ飯。

ほぐしたお肉と輪切りのオクラ、うずらの生卵。

お肉の味が濃くなくて、ご飯と一体になっている。

オクラの青さが爽やかだ。

これをスープでグッと流す。

沁みる。

ビール飲みで良かった、ラーメン食いで良かった。


十五年だ。

十五年ぶりの邂逅、感無量だ。

さんままぜそばの大盛りを追加してお店を出る。

これが一食一飯の宜敷準一だ。

次は鯛骨塩らーめんを食べに来よう、すぐにでも。

パルコの一階でイスラエルの白ワインを買って帰った。

【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #008 千葉 アリランラーメン【ONLIFE】

平日に休みを取って、のこのこと車を転がして、というよりは車に転がされるようにして、何をしてきたかと思えばラーメンを食べに行ってきた。

へぇ、車なんて運転できるんだ、という自分の声がする。

自慢にもならないような走行距離がかつては積み重なっていたものの、ハンドルを握る必要性から手放されてもう久しい。

公道の支配者という感情なぞ一切なく、単に交通法規の真面目な遵守者として、軽自動車の中で浅い呼吸をしながら過ごした。


一車線の一般道から高速道路へ乗り上げてからしばらくすると、あったなぁ、と思わず苦笑いしてしまうようなランドマークが右手すぐに見遣れた。

『時が流れる、お城が見える』だ。

人生斫断家とも評されたアルチュール・ランボーが生きていたころには、高速道路もその脇のラブホテルも在りはしなかった。

彼のような大反逆者が眺めた景色はどのようなものだったのか、今となっては想像するのも果敢ない。

『無疵な心がどこにある』遺された詩にはこう続く。

どこにでも在ったためしなぞなかったと断じてもよいが、永遠にそこかしこに在り続けるのだとも思いたい気持ちのほうが強い。


このあとしばらく道なりです、というナビの音声に安堵する。

『僕の前に道はある、僕の後ろに車はいない』

寝床の次に広いこの棺桶の中で、性善説が前提となるこの潮流に身を委ねながら、月並み程度の感想だがこの社会と、その奥に確かにいるであろう人とのつながりを感じた。

低速運転すなわち安全運転とならないのが面白い、久しぶりだから思い出した。

変化すなわち進歩とならないのと同じか、ゆめ忘るまい。


おそらく昼前に、ラーメンドランゴンボウルは七つ目が集まる。

身体に刻まれた記憶を頼りにぽつぽつと書いてきたが、最後はまだ食べたことのないラーメンを食べる冒険がしたかった。

シーズン2があるとするならば、博多のとんこつラーメン、道後温泉の屋台、北海道の鶏ポタージュ、まだ食べたことのないラーメンドラゴンボウルを探す旅に出たい。

今日はそれに向けての必要な旅支度だ。


九州、四国、北海道へ向かって。

その第一歩として、千葉県は房総半島のど真ん中へと車を走らせている。

この土地は利根川で本州から切り離されているから房総(半)島なのである。

島が誇る三大ラーメンのうちの一つ、アリランらあめんの八平さんを訪れる。

地図を見ただけで秘境感しかないのだが、それゆえに人気店でもあるようだ。

世界で二軒しか提供しているお店がないというのだから無理もない。

今朝調べると、しばらくは十時半から営業だという。

朝食(の袋ラーメン)を済ませたのが九時、飛び出すように安全運転した。


果てしなく続くかに見える道程も、いずれは目的地に向けて折れねばならない。

一般道に戻ると、しかし、その場その場のラーメン屋さんの多いこと。

砂漠を征く旅人の孤独に星座が寄り添ったように、公道を征く運転者たちの空腹にラーメン屋さんが寄り添ってくれているのだ。

無疵な心と同じように、ラーメンドラゴンボウルはそこかしこに在るかに見えた。

往来がこうも繁盛していると、出発前に抱いていた田舎という感じも薄れてくる。

ずーっと道なりに走って、いよいよ峠に差し掛かるという処でお店があった。


山道の食堂然とした、まろやかな店構えをしている。

車から降りると雲一つない快晴に気付き、一息つけた。

先客は一組のみ、慣れないお店は開店から行くのが良い。

テーブル席に案内され、決めていた注文を告げる。

アリランチャーシュー、大盛り。

アリランというのは朝鮮にある伝説の峠らしい。

峠越えの英気を養う一杯をという想いがその名に込められている。

玉葱が茶色のくたくたになったやつがラーメンに載っている。

なるほどこんな切り方もあるのかと思わせる、ダイス状である。

碗にはさらにチャーシューが五枚載っている。

期待通りというか予想以上に柔らかいチャーシューに、にんまりである。

だが、麺自体は平凡な醤油ラーメンだ。

変だな、しまった、期待しすぎたのか。


自棄食いでもしそうな荒んだ心を、ラーメンが癒してくれた。

これが、見た目に反してくどくないのである。

この甘みは玉葱か、近所の平凡な町中華では絶対に出せない深みだ。

茹で過ぎ御免とでも言いたげな麺すら、価値あるものになってくる。

チャーシュー、玉葱、麺の食感が統一されていて優しい。

優しさか…平凡な、優しさ。


尖ったラーメンばかり食べてきた、そんな気がする。

今日だって、尖ったヤツを信じてやって来たのだった。

でもそれが期待外れなんかじゃなく、贈り物でも渡されたみたいだ。

行って、帰って、文字にして。

分からないから、書く。

それが今は楽しい。

【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #007 戸隠 奥社前なおすけ【ONLIFE】

なぜ何も無いのではなく、何かが在るのか?

違う、何もでもなければ、何かでもない。

なぜラーメンが無いのか。

ラーメンが無いならば、ラーメンドラゴンボウルも無いのか。

そこに無ければ、無いのだ。


では、何があるのか?

そこには痩せた大地があった。

だが、高く険しい山岳が連なった。

魅せられた人々が集ってきた。

やがて寺が建ち、宿坊が出来、集落が起こる。

千年以上前には歌枕として知られる名所となった。


そこは長野市戸隠。

九頭龍伝説を起源に持つとも、岩戸が高天原から投棄された先とも伝えられる。

戸隠にラーメン屋さんは無い。

お蕎麦屋さんがあるばかり。

規模や範囲は小さいながら、博多にあるのが豚骨ラーメン屋さんばかりであるのと同様か、それ以上かもしれぬ。

ラーメン屋さんの無さ加減は徹底しているからである。


戸隠山のふもとを戸隠と呼ぶが、ここ一帯に五つの社が点在しており、まとめて戸隠神社と呼ばれている。

社には、岩戸伝説に由来する神々が祭られており、修験道の霊場としても名高い。

蕎麦巡りに合わせて、五社巡りもすれば知食共々満たされるだろう。

さあ一緒に、神秘が見え隠れする、雄大な自然と文化に触れる一歩を踏み出そう。


まず、長野県道七十六号長野戸隠線、北端の坂の突き当たり、宝光社からスタート。

いきなりで恐れ入るが300段弱の石段に出鼻をくじかれそうになる。

夏場午前の木漏れ日は涼やかだったのだが、汗と息切れが吹き出す。

ここに祭られているのは天表春命(あめのうわはるのみこと)。

参拝後に杉林の中の神道を歩いていくと、近所に火之御子社。

御存知、天地開闢以来最も有名なダンサー、天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祭っており、芸能に関してはこちらに参るのが大原則。

ここの社は五社の中で最も控えめな印象で、参拝のお客もまばらなので良い。


この後、表通りの坂道を登りながら商店街を行き過ぎ「越後屋商店」で真澄を購入する。

入店して左手に冷蔵庫が三台あり、その真ん中下段にあるのが、かつて「みやさか」今は「真澄 出荷年」と銘打たれた美味しいお酒だ。

女将さんは切っ風のいいお方で

「それは美味い酒ですよ」

「酒の味、知ってるね」

なんて言って、良い機嫌にさせてくださる。


坂道を登り切れば中社正面大鳥居。

樹齢九百年と言われる天然記念物に指定されている堂々たる三本杉が脇にあり、今までとの規模の違いは一目瞭然だ。

このすぐ近所にあるしなの屋さんでお蕎麦を召し上がれ。

戸隠という土地柄、どのお店で食べたってお蕎麦は美味しい。

東京では戸隠蕎麦の名をたまに見かける程度だが、本場では「ぼっち」という小分けになってざるに盛られている。

どのお店で食べたって美味しいのだから、店舗ごとの差異はサービスの蕎麦前に出る。

おしんこやらかりんとやら種々様々なのを、しなの屋さんが出すのは蕎麦饅頭。

餡子のはいった小ぶりなやつに、甘じょっぱいタレがぺとっと塗られていて、クセになる。

手土産に買って帰ることもできるが、日持ちしないので宿で夜のつまみにする。


付近のお土産屋さんを物色したら、中社で合格祈願や商売繁盛を。

ここには岩戸伝説の参謀、天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)が祭られており、近辺の繁盛ぶりも含めて個人的に好きな場所だ。

中社から次の奥社までの距離が開いているので、県道36号を登っていき、そばの実さんのすぐ手前を鏡池に向けて折れる。

鏡池の景色は大河ドラマ真田丸のOP冒頭で使われていて、大パノラマと言って良い。

丘にあるどんぐりハウスさんでガレットというのも、お蕎麦の違った楽しみ方だ。


続く先は自然散策道の表示に従って、真っ直ぐ随神門へと進む。

大門は朱に彩られ、屋根は茅葺き。

その威容は、先にある約二キロの杉並木と好対照を為している。

暗く、静かで、日本が誇る幻想風景の中でも屈指の静謐さが身を包む。

二百段を越す石段の最上段にまず、地元で信仰されている九頭龍を祭る九頭龍社があり、少し上に奥社がある。

奥社に祭られているのは、天手力雄命(たぢからおのみこと)。

ここでは必勝祈願を行う。

当然のことながら、帰り道は下りなので助かる。

石段を降り、下り坂気味の杉並木を抜け、随神門と大鳥居の向こうには県道がある。


県道へ出てすぐのバス停からバスに飛び乗れば…。


ここで満を持してラーメンドラゴンボウル、神々しさを後光に伴い、降臨。

随神門の先、大鳥居を出てすぐあるのが、奥社前なおすけさんである。

お品書きからのおすすめは、

葱の香る熱いつけ汁に鴨のお肉や舞茸がごろごろと入った、鴨ざるそば。

山葵より強烈な刺激がクセになる、辛味大根おろしざるそば。

海老、野菜、きのこの盛られた天ざるそば。


ラーメンは無い。

なぜ何も無いのではなく、何かが在るのか?

ラーメン屋さんの無さ加減は徹底している。

そして、戸隠という土地柄、どのお店で食べたってお蕎麦は美味しい。

ならば、このお店がラーメンドラゴンボウル足り得る理由も無いのだ。


ある、理由ならば。

お蕎麦しか無いにもかかわらず、ラーメンドラゴンボウルは存在している。

それは、お品書き筆頭の対を為す、激辛鴨ざるそば。

赤い、激辛の名に恥じぬ赤いつけ汁。

辛い、激辛の名に恥じぬ、思わず唸る辛いつけ汁。

増量のために十ぼっち追加したら、全てまとまってざるに載ってきた。

これが辛い。

食べる手を休めると口の中がひりひりしてくる。

だから、辛さを抑えるためには次々に口へ運ぶ必要がある。

辛いから手を止められない、手を止めないのは美味しいから、美味しいから辛い。

破綻した理論を展開する脳髄は、もはやその思考スピードが、お蕎麦を手繰る動きに追いついていない。

そこに無ければ、他所にも無い、唯一の逸品。


パスタ、ピザなら小鳥の森さんが良い。

岩魚と高原野菜の和風パスタ、おっとこれ以上変わり種ラーメンドラゴンボウルは増やせない。

ちょうど字数も尽きた。

【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #006 稲毛 炭よし【ONLIFE】

「俺は、お前が切っ掛けになって、俺達三人の友情が終わるんじゃないかと思ってる。」

先日、こう言われた。

ことの発端は、今から遡ること一三八億年前、いや、宇宙の起源にまで遡る必要はあるまい。

我々の問題解決にカントの助力を得ようと欲するならば話は別だが、彼もまた第一アンチノミーに突き当たって因果律が破綻してしまうことになる。

そう、ことの発端はごく私的な問題で、今流行の歌手の歌を流すのを止めてくれと要請したのを、冒頭の発言の主が聞き咎めたのだ。

その男にはこう弁明した、大きな失恋から立ち直れないでいて、その女性がよく聴いていたんだ、と。

二十年来の付き合いの友人は、すぐに私の“ある種の例え話”を察したらしく発言を撤回してくれた。

 

以上の話から二つの議論がなされる。

一つは、これからラーメンを食べるのにカントを持ち出す馬鹿があるか、という判り切った、つまり議論の余地のない議論(それを洒落とか冗談とか与太とかいう)。

もう一つは、大切なものを失ってから嘆く馬鹿があるか、という我々が繰り返し陥る、つまり繰り返された議論(それを友情の決裂とか失恋とか喪失とかいう)。

後者に関して、我々は先にも述べた通り、カントの助力を得ずとも我々自身で解決に至った。

友情のように壊れやすいものは、大切に扱いさえすればいっそう壊れなくなるという、誰もが知るであろう事実の再共有だけで、我々の友情はより強固になったと信ずる。

ただ、逆上せていた私が、恋だの愛だのも喪失しやすいものであると知るのが後になったまでのことだ。

 

今日探し求めるラーメンドラゴンボウルは、すでに喪失してしまったお店である。

 

先ほど、ラーメンを食べるのにカントを持ち出す馬鹿があるか、などと口走ったがそれに似たような粗忽者を知っている。

我々三人がシェアハウスをしていた頃、その家の空き部屋にもう一人入居してきたのがその男だ。

何せ、引っ越しするのに行き先も聞かず、車に荷物を詰め込んだのだから。

で、後部座席でこんな話をしたらしい。

「どこら辺に行くの?」

「イナギ(東京都多摩地域南部)だよ。」

行き先も聞き、道中二人は運転手を尻目に与太話、車が向かう方角が西ではなく東だったと気付くはずも無い。

ついた先は、稲毛(千葉市北部)だったから、二十三区外とはいえ都内に住めると思った男は大いに動転し、行き先を伝えたKもそんな聞き違いに腹を抱えて笑ったという。

 

まるで落語の枕のような話だったが、そこ稲毛に伝説の店舗があった。

駅から徒歩十分強のシェアハウスから最も近いラーメン屋さんが三件。

行列のできる家系、地域密着型のタンメン、そしてそのお店、炭よし。

行列に並ばず、タンメンは食べずの私が選ぶのは当然、炭よしさんだ。

私は部屋に週一度しか顔を出さないので、ある日提案されて這入った。

座右に拝してあるのは、平凡な「醤油トンコツ」の中華そばだったが。

 

「何だ、このメニュー。」ロマンチストのKが惹かれたようだ。

「面白いね、それ頼も。」本文冒頭の発言をした男も話に乗る。

「じゃ中華そばにする。」私のこんな所が癪に障るのだろうか。

 

端麗なイメージの中華そばからは遠い、トンコツ醬油の深い味わいに間違いはなかった。

いや、間違いだった、両名とも眼を剝いて彼らが注文した一杯を激賞している。

私も蓮華で一口頂くと、そこにあったのは鶏ポタージュとしか言い様の無い、濃厚かつ鮮烈な味わいのスープだった。

どろどろの粘性スープは口の中一杯にへばりつき、鶏そのものの香りが鼻へと抜ける。

これは、加熱した鶏がその形状を保てなくなって、どぷんとゲル化した生命の一杯だ。

他店ならば嬉しい肉感の豚チャーシューですら、この碗の中で存在感に疑問が生じる。

海苔めんまホウレン草にさながら家系を連想、花弁の様な白ネギはしゃなりと優しい。

どんとこいや 炭よし :https://minkara.carview.co.jp/userid/602368/spot/709923/

全世界の鶏白湯が単なる白湯に帰してしまうほどに空前だった。

鶏白湯として提供された訳では決してないのだから当然なのだが。

惚れ込んでから何度も食べようとしたが、店主の体調不良とやらで不定休。

もともと稲毛を拠点とした活動に私が参加していたのは週に一度きり。

そして僅か数ヶ月後に突然の閉店を迎える。

鶏ポタージュとして文字通り絶後の一杯は、伝説となった。

 

伝説には噂が付きまとうのが常である。

曰く、マスターは千葉の錚々たる名店を渡り歩き修行していた。

曰く、茹でたてのうどん、揚げたての天ぷらを出すお店だった。

うどんは三百円、天ぷら五十円だったというのだから、店舗周辺での需要と受容があったかどうか疑問なのだが、それにしても安い。

 

曰く、うどんに加えて、長州ラーメンを提供するようになった。

曰く、二〇一二年末(およそ十年前になるとは!)の再オープンを機に、ラーメンのみを提供するお店となった。

にもかかわらず、お客からの要望でうどんの限定提供を再開した。

我々が越して来たのが二〇一四年五月、再オープンから一年半後のこととなる。

 

曰く、以前はカレー屋さんの経験もあるらしい。

曰く、カレーにチーズを溶かして炭の香りをつけていた。

ちょっと何を言っているのか分からない。

そしてその技術をラーメンに転用したメニューも作っているらしい。

 

以来私は、ほんものの鶏ポタージュを食べていないし、目にすることもない。

面影を探して注文した鶏白湯ラーメンに、落胆することなら繰り返している。

今回、この記事を書くにあたって、その美味を伝えきることが出来なかった。

数度だけ食べた感動よりも、喪失した感傷に浸ってしまうのだ、どうしても。

もう朧げなあの味の影を追いかけて、私は関連するウェブサイトを渉猟する。

私はどうして、死んだ我が子の年齢を数える様な真似をしているのだろうか。

そんな風に考えて涙が出そうになり、ラーメンドラゴンボウルを取り落とす。

 

「我々は国宝を永遠に失ってしまったのだ。」

冒頭の発言者、TechnoBreak Shunメンバーが、昨日私を慰めた。

 

【参考一覧】

食べログ 炭善(掲載保留)(4件の口コミ、2012/03再オープン前にうどんを出していた情報が唯一見られる、2012/08再オープン前に長州ラーメンも出していた情報もあり)

https://tabelog.com/chiba/A1201/A120104/12028267/dtlrvwlst/

 

ラーメンデータベース 醤油トンコツらーめん 炭よし(6件のレビュー、2014/01/11鶏塩に「命のラーメン」と記載有、感動の92点)

https://ramendb.supleks.jp/s/66252.html

 

Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E- 炭よし(炭善)@稲毛 千葉の名店を渡り歩いた店主さんが満を持して開業!(2013/03/19お店の背景が詳細に記載されており、資料としての価値が第一級、gooblogの更新頻度も非常に高く今回好きになりました)

https://blog.goo.ne.jp/sehensucht/e/a8041291c24c6dd5447290c58f29bc40

 

Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E- めん屋いとうけ@稲毛 炭よし跡地に家系LIKEな濃厚ラーメンのお店が登場!(2014/11/03炭よしさんが短命でかつ、塩チーズが美味という事を裏付ける内容)

https://blog.goo.ne.jp/sehensucht/e/daaef556f9e0bf37d0a9a4b1bf4b5f71

 

お水をどうぞ 炭よし@稲毛の『中華そば』(2013/03/23鶏塩がリリース時はライトで女性向けだったというのが面白い)

http://blog.livedoor.jp/mostly_benten/archives/1765245.html

 

お水をどうぞ 炭よし@稲毛の『鶏塩ラーメン』(2013/03/23上記記事の直後に注文の連食、コクのある鶏白湯だったという)

http://blog.livedoor.jp/mostly_benten/archives/1765256.html

 

続おもしろラーメンブログ 炭善@稲毛(塩チーズ)(2013/02/16塩チーズの秘術と未知なるカレーの存在に震える)

https://ameblo.jp/yokozunayokozuna777/entry-12476052903.html

 

どんとこいや 炭よし(2013/12/01夏前に来店した記事だというが、鶏塩に“鶏ポタージュ”の記載がある唯一のもの)

https://minkara.carview.co.jp/userid/602368/spot/709923/

 

cafefreak 失敗しない稲毛でのラーメン屋さん探し!食べたくなったら急げ!(2016/01/08稲毛のラーメン事情を俯瞰できる)

https://cafefreak.jp/6337

【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #005 金龍ラーメン御堂筋店【ONLIFE】

年末の職場閉鎖期間、私は研修で大阪へ行く。

都内での研修は十二月中旬にあるのだが、通常業務を優先させるために申し込む事はしない。

止む無く、家で怠惰を謳歌する時間を、自身の鍛錬に昇華させる。

ちょっとした旅行感覚を味わうためにも。

期間は二十九、三十の二日間、これを二十八日に前入りする。

行きも帰りも深夜バス、泊まりはネカフェの貧乏旅行である。

 

休日が湧くと朝七時に起きてロング缶のビールを二本飲んでから寝直し、昼に起きたらワインをボトル半分飲んでから三度寝、活動開始は十六時頃。

大抵はこんな風にして、文化的な活動は無いままに一日を無駄に過ごす。

だったら、無給で働いている方が良いのだ。

中庸は能くす可からざるものなれど、爵祿くらいは辞する事が可能だ、週に一日くらいなら。

 

そんな透かした理屈で誤魔化しているが、真実はきっと違う。

過労だとか過度の飲酒だとか異常食欲や変態食欲とか、碌でもないこれもそれも形を変えた自傷なのだろう。

アクラシア問題、これは哲学上の大議論だという。

曰く、ソクラテスはそれを単なる無知と断じた。

曰く、アリストテレスは欲望や感情による葛藤を生じていると諫めた。

 

だからその頃は恐ろしく金がなかった。

金なんかあるから不安になるのだと信じていたから。

果たして不安はなかった。

だが、金もなかった。

それでも生きていく事は出来たのだった。

 

深夜バスに乗って朝七時前に梅田へ着く。

夜明かしした酔客は駅へと向かっている、あれは夜勤明けの勤め人か。

すれ違うように朝日の射す方へと歩く。

バスのオプションで付けた大東洋の朝湯を浴びる。

一度だけ、その前にウェスティンホテル一階のアマデウスで朝食のビュッフェも付けた事があった。

あのオプションはそれ以来目にしないが、貧乏旅行のクライマックスがいきなり来た感じがして、良かった。

 

だいたい十時頃には拠点である難波へ到着する。

それから夜まで、凡そ碌でもない事をして過ごす。

だから一体何をしていたか覚えていない。

もしかすると、前乗りなぞしていなかったのかもしれない。

研修は十時から十七時までだったから。

 

もう地図に頼らずに難波を歩く事はできるが、周辺に一体どんな名所があるのか、私はとんと知らぬ。

空白の一日なぞ存在していなかった。

存在しない空白の一日を作った心理はなぞだ。

壊されるより先に狂ってしまえ、壊れた事を気付かぬために。

 

研修を終えてから、ネカフェのチェックインまで五時間以上ある。

御堂筋と千日前通が交差するすぐそばに、フラットタイプの完全個室をナイトパックで予約してある。

それまで碌でもない事をして過ごすのだ。

貧乏旅行はこれだからたまらぬ。

年末の大阪で雪に降られた記憶はない。

寒さが身に染みると思ったこともあまりない。

懐具合が唯一の欠点だったのだが、制限のある中で自由を求める事なら出来た。

 

いや、それを彷徨と言うのかもしれない。

自由を求めて彷徨っているのであるならば。

なぜならば自由なんて無いのだから。

この皮膚の外に、物質的自由というものなぞ存在するまい。

自己の中にのみ、精神的自由がきっと在るのだ。

 

否、在った。

物質的自由が、其処に、目の前に、頑として。

御堂筋をぶらついていれば、その一角は厭でも目に入る。

金龍ラーメンが其処に在る。

迫り出したカウンターというより、これは台と呼びたい。
その内部から立ち上る朦々たる湯気がこの店の放つ熱気を物語る。

そこへと群がる客たちで、台の周りがひしめきあっている。

椅子は無く、立ち食いだから混沌が秩序立っていて面白い。

 

強烈な何かに束縛されてお店へ突入、何が自由なものか。

食券は二種類、ラーメン六百円とチャーシューメン九百円。

対峙する券売機に見据えられ、強烈な制限を受けた私の全身が強張る。

震えるほどに痺れる、このお店は大盛りなど用意していない。

つまり、チャーシューメンを食べて、次にラーメンを食べてそれが大盛りという事になるのだ。

大盛りラーメン、千五百円、ここに爆誕である。

 

台の上には、ラーメンボウルに白菜キムチ、ニラの辛子和え、きざみにんにくがそれぞれ盛られて割り箸が突っ込まれている。

勝手に取って、勝手に味を調整する事が無言で示されている。

これは啓示か、屋根から突き出た龍の啓示か。

しかし、未だ七つ集めきらないラーメンドラゴンボウル。

降臨するのは一体何。

 

そのラーメンはすぐに出てくる。

チャーシューは薄いが、冬場のこの寒い季節感と精神的疲労感による感謝の念が勝る。

生存本能がチャーシューを味わう事を禁じ、麺と一緒にさっと手繰ってしまう。

その麺を一口食べると、なんともスタンダード未満のとんこつ醤油様の味がする。

換言するならば、懐の広いラーメンの味という事だ。

清濁併せ呑むかのような、個性を主張しない事で却って個性に目が向くような、そんなラーメンだ。

すかさず台の碗から全ての具材を、これでもかというほどに、どかどか投下する。

何を食べているのか分からなくなるほどに入れてしまう。

熱いつゆにキムチをひたしたもの、その脇に麺が沈んでいるような料理だ。

これには火傷を防ぐという効果もある。

つゆが辛いのはニラのせいではない、にんにくを入れすぎたからである。

これが私の、にんにくジェノサイ道。

臭くなるのは生姜無い。

 

関東者が往く、年の瀬の立ち食いラーメンは、普通とは一体何か私に問うている。

二十四時間営業だから、なんなら翌朝も食べてしまう。

金龍ラーメンさんは、ミナミに五店舗あり、残り四つは小上がりの座敷で食べる。

さらに、そこは大釜からご飯を自由に取る事ができる。

なあんだ、金のない貧乏旅行者にも優しい面をちゃんと見せてくれるではないか。

休日返上労働者の諧謔と哀愁、肉体と精神双方の再生。

【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #004 木場 來々軒【ONLIFE】

ラーメンのアタマにお野菜は不要だ。

これが私の基本的視座である。

無論、嫌いなわけでも食べられないわけでもない。

不要だと思っているだけで、イデオロギーではない。

人間の主体的思考の枠組みを犯すから、イデオロギーは大嫌いだ。

だから、お野菜は必要に応じて頂く。

 

そんな私だから、担々麺を食べに出向く事はあっても、わざわざタンメンを食べに行く事はない。

ただ一軒を除いて。

そのお店は、東京都江東区にある。

ちょうど、東西線の木場駅と東陽町駅との境。

駅から歩く、秘境とまではいかないが、行列のできる一軒である。

 

來々軒さん、木場タンギョウ発祥の名店。

大通りを折れた路地に元々あったお店が、廃業を機に、木場タンギョウ文化の荒廃を憂いた気鋭の愛好者に継承した復活店なのだ。

タンギョウとは、タンメンとギョウザのセットのこと。

いつもの自分に戻ったかのように、食券を複数購入して着席。

心機一転、今回の記事に関してはご案内させて頂こう。

今、手元にある食券は六枚。

 

タンメンのアタマが盛られた小皿が、カウンター上に置かれるのでそこへ向かう。

これがアミューズ。

そう、アミューズ。

初手、餃子、瓶ビール。

アペリティフがすぐに来る、この日はハートランドにした。

ここには飲みに来ているので、アタマをおつまみにしてビールを飲み干す。

アタマには、かなり辛めの自家製ラー油をかけて頂くのが良い。

運が良ければ、女将さんからアタマのお代わりを勧めてもらえるので、それを受ける。

この辺りで餃子が運ばれる、その数五つ。

 

次手、白ワイン。

そう、白ワイン。

こちら來々軒さん、継承者の御子息が、なんとワインソムリエの資格を持っているのだ。

だから、こちらでは入荷さえあれば、かなりこだわりのその日のワインが提供される。

すなわち「木場にヌーベルシノワが存在する」のだ。

来店前にワインの有無を電話で確認しておきたい。

 

オードブルのギョウザを三つほどツマミながら白ワインを愉しもう。

だがその前に、さて、ギョウザには何を付けるか。

「蒼天航路」では劉備本人が饅頭で、諸葛亮がタレに喩えられたが、すぐに水と魚では如何かとたしなめられた。

そのタレの問題である。

 

私は、ギョウザを食べさせるのに凝ったタレは必要ないと思っている。

醤油の入った容器を眺めながら、酢だけに付けて食べれば良い、チャーチルがマティーニを飲んだ時の様に。

お店でタレが無ければ食べさせられないようなギョウザを出すというのは、すなわち堕落だ。

私は滅多に作らないが、自分で手作りしたギョウザが一番美味しい。

餡の下味次第で止まらなくなるほど美味しくなる。

時間がなくてスーパーで買ってきたのを家で焼いた場合には話は別だが(家ではポン酢に付けています)。

 

來々軒さんには鎮江香醋が置かれている。

小林秀雄の「蟹まんじゅう」ラストに出てくるあれだ。

南翔饅頭店の白磁に入ったあれだ。

流石だ、ヌーベルシノワはこうでなければ。

無論、普通のお酢やお醤油も置かれている。

 

話が逸れたが、ギョウザが冷めてしまう前にかじりつこう。

カリリ

という音がするのに驚く。

皮は透き通っているのに弾力があって、もっちりとした食感が楽しい。

しかしながら、焼き目は非常に軽快である。

餡の旨味は言うまでもない。

都内で一番美味しい餃子を出してくれるお店なのだ、とアプリオリに察知する。

鎮江香醋のコクがさらにギョウザを引き立てる。

ラー油は、マティーニグラスに添えられたオリーブ程度の量が良い。

 

決手、赤ワイン、チャーシュータンメン、大盛り。

残りのギョウザと赤ワインのマリアージュを満喫しながら、タンメンの到着を穏やかな気持ちで待とう。

果実味の爽やかな白に対し、この日の赤は渋味が軽やかで豊潤だった。

他所なら平気で一杯千円以上取られるだろう。

このギョウザの焼き手が、ソムリエでもあるのだから、これはもう頭の下がる思いだ。

そして、楽しい時間は一瞬で過ぎる事を証明するかのように、タンメンは意外に早く到着する。

ふんだんな野菜の間から、厚みある丸チャーシューが何枚も顔を覗かせている。

一口で食べてしまい、赤ワインの残りを飲み干す。

これをアントレと言うのは乱暴すぎるだろうか。

このお店でフレンチのコースが完結すると言ってしまっては。

ポワソンもソルベも無いが、それはどうでも良い事だ。

コーヒーは他所で頂こう、そうしなくたって構わない。

野暮の極みの差し出口だが、トッピングにチーズなんていかが。

 

チャーシュータンメンをタンメンに換えて仕舞って、頂きます。

中太麺がするり。

アタマのお野菜は、塩気ある茹で加減でしゃっきりとしている。

そう言えば、私は塩ラーメンを食べにいく事がない。

そんな理由からでも、こちらはラーメンドラゴンボウルなのだ。

タンメンの湯の字が、優しい塩気のつゆにとなってあたたかい。

 

酔いが回って心も軽くなっているかのようだ。

これで気の利いた事の一つも言えないようではいけない。

來々軒さんが美味しい理由は何故かって、タンメンだけに丹念に作っているから。

ギョウザほど出来が良くない冗談なだけに可笑しい。

タンギョウはタンギョーとの表記揺れもある。

それもまた可笑しい。

【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #003 ラーメン二郎 仙台店【ONLIFE】

有名観光地然としたラーメン屋さんへいく時は、一時間も待たされるのが嫌なので、開店の三十分前から待つようにしている。

その日は四十分前に着いた。

先頭が一名、これがありがたかった。

私はこのお店に這入ったことがなかったためだ。

そんなわけで、私はラーメン二郎仙台店さんの閉ざされたシャッターを見ていた。

 

物心つく前に七夕を見て以来、ここ仙台には奇妙な縁で惹かれている。

社会人になって以来、だいたい二年に一度は深夜バスで行くのだ。

文章を書くのに良い環境だと判明したため、これからもっと行く頻度が増えそうな気もしている。

この時の縁も奇妙だった。

 

「語り得ぬものについて人は沈黙せねばならない。」

で有名なヴィトゲンシュタインがその奇縁を取り持った。

あの超然とした断定と、およそ人間離れした言動にヤられて、著作なぞろくに読んでもいないのに引用したりを当時した。

そのツイートが文学界で一、二を争うほどのヴィトゲンシュタインマニアである諸隈元さんの眼に留まり、滅多につかないイイねがついた(実際には、その作家さんはヴィトゲンシュタインに関する全ツイートを可能な限りチェックしている流れなのだろうが)。

で、氏がその頃ちょうど、仙台旅行をしており色々な報告を呟いていた。

 

#どうでもよくない仙台情報

ここに、沈黙は破られた。

彼は怒涛のように吐露している。

「仙台で一番驚いたのはラーメン二郎 滅っ茶苦茶っうまかった」

「脂に頼りがちな都内の二郎に石油みたいな臭みを感じるのに対し、醤油のキレが効いてる神奈川系二郎を好む主因もそれ なのに仙台二郎では脂に蠱惑された」

「食べ物の中では世界一好きなのが関内二郎なので、その確信が揺らいだのはショックでした、、」

 

ヴィトゲンシュタイン、仙台、ラーメン二郎…点から線へ、私はそこにラーメンドラゴンボウルの存在を確信し、現地へと発った。

 

十二月の仙台である。

天候と日差しに恵まれ、日中はさほど厳しい思いをせずに済んだ。

花京院のホテルから、吉良吉影の邸宅があるとされる勾当台公園を見物。

石畳が眼に華やかで、広々とし、僅かばかりの家族連れは豊かな時間を過ごしていると分かる。

その後通りをぐっと折れ、広瀬通へ出、そこからは伊達氏代々の居城であった青葉城方面へ向けてずんずん進む。

仙台広し、三十分以上歩いて来た。

十時五十分着、お店の向かいのレンガに腰掛けて待つことができるのがありがたい。

 

前に並んでいた中年男性の後に続いて食券を買う。

初めて入る、系の付かない本物の二郎さんだ、緊張している。

今は、食欲なぞ度外視である、美味しく食べて幸せに帰るのだ。

私の食欲、この日は謙虚。

小で他店の特盛、大で他店の特盛二杯と言うこと程度の事前情報はある。

鰻重とアタマの大盛りで十分な私である、これくらいは特盛の範疇だろう。

 

では、そろそろ私も沈黙せねばならない。

対立のために食事しているわけでは無いのだ。

小ラーメン、それと気になったキムチ。

最奥から詰めて、行儀良く座っていく我々。

行列はすでに、長蛇になっていた。

 

すると常連らしき人が

「豚ないですか?」と訊いた。

店主らしき人が

「ありますよ!」と応じた。

前日の仕込みにも関わらず、食券機に反映させていなかったようである。

「えー、なら今からやろうよ!」

急ぎ、食券機は本来あるべきメニューを取り戻し、以降のお客さんたちは豚を注文できるようになった。

チャーシューが三枚増えて、五枚になる。

 

それを聞き咎めた先客が

「こっちもイイですか?」と食い下がる。

店主らしき人

「もちろんです!差額(百円)置いてください!他にいらっしゃいますか?」

ゾロゾロと手を上げていくお客たち。

当時、私は豚の差額が百円である事を知らず、幾ら払えば良いのかも分からなかったので、俯いていた。

我ながら新米の感に堪えず、流石に悄気たか。

 

さて、素人ならばせずとも良いと言われるコールと相成る。

「ヤサイヌキ、ニンニク、アブラ」

初回でヤサイヌキと言うのは、邪道と言われても仕方ないのではなかろうか。

だが私は、タンメンでも注文させていただくとき以外、九割がた野菜の類は無しにする。

挙句、にんにくジェノサイ道の求道者としてニンニクもアブラもマシマシにしなかったのは、外道である。

あぁ、全てが、感慨深い。

 

その一杯は、乳化したスープがキラキラと輝いているようだった。

キムチの赫がポール・セザンヌ然とした存在感を放っていた。

うどんのような確たる麺とだけ対峙したかったから、ヤサイヌキにして良かったのだ。

その味は、鮮烈だった。

濃い味は嫌いだ。

しかしながら、舌を刺すような快感が先走った。

このラーメンを批判する者は居るまい。

居たとすれば、それは…

さて、折角だからここで、もう一度ヴィトゲンシュタインにご登場願いたい。

「少なからぬ人々は、他人から褒められようと思っている。人から感心されたいと思っている。さらに卑しいことには、偉大な人物だとか、尊敬すべき人間だと見られたがっている。それは違うのではないか。人々から愛されるように生きるべきではないのだろうか」

私は誤りに気付いた。

褒められたい、尊敬されたいという気持ちでいたのかも知れない。

そういう姿を見せられる側は、良い気がしないだろう。

私自身も見せられているから。

 

褒められたい、尊敬されたいという姿はさながら、愛されたい、愛されたいと苦しんでいる姿に見える。

なればこそ、その姿が愛おしいと思える。

何も言わずに抱きしめたいような気持ちになる。

あなたと私は一つだけれど、あなたは私を見ていない。

 

LIFE WITHOUT LOVE IS LIKE JIRO WITHOUT GARLIC

まるで関内二郎さんのスローガンのようである。

私は近々、また仙台店さんへお邪魔して、小豚ラーメンキムチ生卵麺半分ヤサイニンニクアブラマシマシを頂くつもりだ。

【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #002 カップヌードル カレー【ONLIFE】

あぁ、好きなものばかり無限に食べたい。

濃い味の食事、脂ぎった大皿を何度もお代わり。

それを、コカコーラの何倍も甘いようなビールで流し込む。

ビールに飽きてからは、蒸留酒も良いが、香り高い日本酒やワイン。

右手に盃、左手はベタついたチーズを鷲掴み。

何も我慢していないから精神衛生は至上、それ故に病気にならない。

こんな空想が私の食欲を突き動かし、しばらくの間だけ自由になれる。

 

最近は追い飯という名で市場拡大を目論んでいる、ラーメンライス。

私はあまりこれをやらない。

ラーメンのスープを完まく(家系ラーメン屋さんの符牒でスープ飲み干しの事)するのは身体への塩分負荷がかかりすぎる。

他人の倍食べ続けたいから、塩分だけは摂取量を極力気を遣う必要ありだろうとアプリオリに感じているためだ。

 

そんな私でも、必ず飲み干すカップ麺がある。

カップヌードル カレーだ。

これは名前がすごい。

カップに入った麺、だからカップヌードル。

日本人なら好きだろうどうだ、とばかりにカレー。

 

ウォルコット・O・ヒューイ氏が

「ラーメンはやっぱりカレーラーメンに限りますな。」

という風なことを言っていたのにも頷ける。

そんな啖呵が切れる日本人はそうそう居ないのではあるまいか。

トランスバールにも居やしまい。

好きなものは好き、という人が好きだ。

彼は店舗カウンターで啜っていたが、そういったカレーラーメンで勝負しているお店がなかなか無いのが残念である。

お蕎麦屋さんでカレー南蛮も悪く無いのだが。

 

しかし案ずるなかれ、我々日本人にはカップヌードル カレーがある。

いや、とうの昔に世界規模の存在になっていた。

これらシリーズは、日本で生まれた世界初のカップ麺だからだ。

歴史のifを空想することが何かを生み出すと言うことも今更あるまいが、この命名がもしもカップラーメンであったならば、今ほどの規模の売り上げがあったのであろうか。

 

最後の一滴まで飲み干すことを望むよりも、“Wish you were here”一緒にご飯が無かった時に、目蓋から流れ出る涙はカレーより熱い。

追い飯と言うより、ラーメンライスと言うより、カレーライスが出来上がる。

当たり前のことだ。

日本人なら好きだろうどうだ。

玉ねぎが微塵切りになったようなのが良い香りをさせるからたまらない。

律儀に三分待って出来たばかりのカレースープよりも、麺を食べ終えた瞬間のスープの仕上がりが一番良い。

食べている間にかき回しているから、濃度が均一になって満足である。

希薄なスープから始めて、濃厚スープへ仕上がる。

その最高潮のところにご飯を。

ア◯リカンホームダイレクト。

生のまま突っ込むご飯はDead or Alive、生死を問わず。

炊き立て、冷飯どちらも美味い。

今回は空腹だったため、入れるご飯の量を口いっぱいギリギリまで入れてみたのだが、これだとちょっと薄味になりすぎて物足りなく感じる人が多いかと思う。

量を取るか、質を取るかなのだが、麺を食べ終えた時点でのスープの水準までご飯を入れるのが一番良い塩梅になるだろう。

 

カップのフチに口付けして、箸を使ってかき込むカレーライス。

これが食べにくい、それが良い、それで良い。

私の身体に流れているインド人の血が騒ぐ。

いや、一滴も流れてはおらぬ。

にもかかわらず、血が騒ぐのだ。

国民食の一つカレーライスがそうさせる。

 

問われている、だが何をか。

これはカレーか、ライスか、ラーメンだったものなのか。

すなわち私はインド人か、日本人か、中国人だった者なのか。

私は地球人であるとは宣言できぬ、先祖はずっと日本人。

そうだ、私は人間だ。

だからこそ、何度でも言おう。

人はパンでは生きられない。

 

だからラーメンスープはここぞという時、完飲する。

なりたけの超ギタに加えて、カップヌードル カレー。

ライスを入れたにも関わらず、完飲するとは諧謔だ。

私はここに宣言しよう。

カレーは飲み物、ラーメン汁物、麻婆豆腐は離乳食。

【人生5.0】Junの一食一飯 #012 こってりらーめんなりたけ Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #001【ONLIFE】

ウルトラネガティブとハイパーポジティブを併せ持つ、エクストリームニュートラル。

私の意匠はこれである。

換言すれば、右も左も均しく斬り捨て、我が身も捨てる、そんな意匠だ。

孔子はこれを中庸と呼んだに違いないのだが、私のような小人には実践できぬと明言している。

「国を平和にすることも、無給で労働することも、白刃の上を歩いて渡ることもできる。それでも中庸だけはなかなか出来ない」と言う風な事を、孔子先生は言っているから。

確かに頷ける、なぜなら私が注文するラーメンは必ずこってりで、均しくあっさりを注文することはなかなか出来ないから。

 

千葉で見初めて、津田沼に通い、飲んだ〆には池袋、はたまた駅前錦糸町、いつか行きたいパリ支店。

こってりらーめんなりたけさんだ(あんまり好きだから以下、敬称略)。

あの福岡西新にも支店があり、営業を続けていると言うのだから驚きである、一寸信じられない。

コンビニのカップ麺にも進出したようで、ご存知の方も多いのではあるまいか。

私はこのお店で十代の身体に焼ごてで刻印を受けた。

はたまた、刺青代わりの刺白と言うべきか、そのくらいに背脂こってりなのである。

 

なりたけのカップ麺は、蓋の上で後入れ背脂を温めておくのだが、仕上げに容器へ入れる際、一寸引いてしまうくらいの量が出る。

これが不思議なことに、お店で食べる際には抵抗がなくなる。

即席とはいえ、この料理—そう信ずる—は自分で作るものでは無いのだと確信する。

自分で作れないから外で食べる、これが外食の醍醐味であろう。

 

船橋から幕張の中高へ通っていた私が初めて食べたのは、同級生のゲーセン仲間に千葉店へ連れて行ってもらった時だ。

当時、貯めた小遣いのほとんど(と言っても昼食代五百円で百円の大きなプリンを一つだけ買った残金)をアーケードゲームの仕合に費やしていたから、電車賃のかかる千葉まで出る機会なぞ滅多に無かった。

また、それまで通っていたラーメン屋さんも一軒決め打ち、魚介だしの醤油ラーメン屋さんだけだった。

だから、都会にはとんでもない食べ物があると、味覚中枢の根幹に衝撃を受けた。

右脳と左脳との裂け目にめり込んだ背脂ツルハシは、私の人格をこってり極右へと大転向させたのだ。

以来、世間一般では背脂ちゃっちゃ系と言うのだろうが、なりたけはなりたけである。

 

普通のらーめんで十二分にこってりなので、騙し討ちを食らう羽目になるかもしれぬが、店名にはっきりとこってりと書かれている。

あっさり志向の方ならば「背脂なし」とか、少なめの「あっさり」を頼むと良い。

背脂の紫色した甘みに脳を焼かれた諸氏ならば、「ギタギタ」で。

私の場合はこれを「超ギタ」にして、大盛り、バター(酔狂で付ける)、もやし抜き(茹でてあるのは水っぽくなるため)、薬味(輪切りの葱の事)多めが基本だ。

気分でチャーシューとライスをつけて定食風にする事もある。

 

「超ギタ」とは、スープが無い代わりに其処にあるはずのものが全て背脂になっている代物である。

半ばこちらの我が儘を聞いて貰って作って頂いているようなものだから、これは飲み干さねばならぬ。

他店さんの張り紙だが、油そばのカロリーはラーメンのほぼ三分の二、塩分は約半分という説があるようだ。

あとはなりたけさんの超ギタを油そばと呼ぶかどうかだけなのだが、それは我々の胸三寸で決まる。

何、背脂の量は自分で選べるではないか、それだって我々の胸三寸だ。

 

「月(にくづき)に旨(うまい)と書いて脂となります。」

と書き出された、良く出来た嘘のような貼り紙がされている。

超訳すれば背脂サイコー程度の意味だろう、それには同感である。

しかしながら、説明の程度としては「土の下に羊を埋めて幸せ」のレベルなのだが、この説は真実だろうか。

旨いとは何か。

 

もう、普通のなりたけなぞ思い出せぬ、一度も注文した事は無かったのかも知れぬ。

近所にお店があって、気軽に行けるなら、普通を頂く機会もあろう。

しかし、私がなりたけに行くのは心が渇いているときだから、飲み歩いた〆に「超ギタが食いてえ!」と吠えるのだ。

普通のなりたけが食べたい、でもなりたけに来たら超ギタが食べたい。

そんなわけで今回も超ギタを注文させていただいた。

運ばれてきたお碗は、一面を蓮の花のように広がったチャーシューが覆い隠しており、とても良い。

この下に、お釈迦様がその蓮が咲いた池から見下ろした、地獄のような超ギタ背脂が溜まっているのだ。

蜘蛛の糸は必要あるまい、中には中太麺がとぐろを巻いて、引き上げられるのを待ち受けている。

卓上のにんにくをたっぷり入れるのを忘れずに。

 

啜り込んだその麺はもちもちとしていて、何より甘い。

ひ、ひ、ひ、思わず下卑た笑いが心の中で巻き起こる。

突き抜けている、全てが脂であるならば、これは全てがスープという事だ。

突き抜けている、普段ならば身体が拒絶するような塩辛さが気にならない。

比較の対象がないから脂も塩分も知らぬ、それほどまでにこってりしている。

人はパンでは生きられない。

イエス様だって息を吹き返し、輪になって踊るだろう。

 

狂気と狂喜が入り混じった食事を終えてからふと気付いた。

食券を何枚渡したのだったか。

チャーシューめん、バター、ライスの三枚、三枚だ。

しまった大盛りを押し忘れていた。

大盛りは百円で麺が二玉になる。

道理で食後の満足感を、切なさが上回ってしまうわけだ。

私は錦糸町駅改札に入った後で、何とも言えぬ切なさを感じていたのだった。

 

そうか、総武線で船橋の手前、本八幡で降りてそこのなりたけへ這入ろう。

どうせなら今度は人生初の普通を食べてみよう。

らーめん、普通、もやし抜き、薬味多め。

私が一番頻繁に通うラーメン屋さんでも「超こってりで。」と注文するが(もう先方で先に確認を取ってくれる)、なりたけの普通には遠く及ばない。

本来あるはずだったスープは熱く、とても美味しかった。

 

普通が一番美味しい、一食一飯の締め括りに相応しい気付きだった。

 

せっかく八幡へ来たので京成駅前のDue Italianで白いらぁ麺を食べて帰った。