【カラマーゾフの兄弟】自意識過剰な男たち【探究】

人間よ、気高くあれ!

(ゲーテ『神性』)

フョードル・カラマーゾフは、イワンとアレクセイに向かって

「お前らはまだ、血の代わりにオッパイが流れているんだし、殻が取りきれてないんだから!」

と言い放った。

その時は女性観に関する、酔漢の説教、酒を飲んでのからみだったのだが、彼にとっての女性とはすなわち欲望の対象でもあり崇拝の対象でもあった。

彼にとって神とは金であり、その神聖さを笠に着て女性を隷属させ、酒に酔っては乱痴気騒ぎを起こすのだ。

ケチな男は金を貯めるために金を貯めるが、彼は金の使い方を心得ていた(本文中には当時すでに現金で十億円相当は溜め込んでいたとある)。

「俺はな、アレクセイ、できるだけ長生きするつもりなんだ、このことは承知しておいてもらいたいね。だから俺には一カペイカの金だって必要なのさ、長生きすればするほど、ますます金は必要になってくるしな」

(一カペイカおおむね十円で、当時は物価が現在の十分の一と見做せるので、総合して一カペイカ百円相当とすると、物語を理解しやすくなる)

 

長男、ドミートリイは黄金の鍵が必要だった。

父との再会までに多くの借金もこさえたし、父から金も引き出していた。

彼には二人の女性が関わる。

詳細は後述するので、ここでは聖女と魔女としておこう。

ミーチャ(ドミートリイの愛称)には婚約者がいる。

彼女は聖女で、ミーチャは彼女の父の窮地を救い、女神からの崇拝を受けた。

その父は上官であったが急に毛嫌いされ難癖をつけられていたので、報復として窮地を救わないこともできた(ミーチャは退役大尉で当時は砲兵少尉補)。

聖女を見た彼は、「カラマーゾフ的」な考えに囚われた末に、彼女の父を助ける。

カラマーゾフ的な考えとは、対象への(直接的には父に対してだが、それを歪めて間接的に女性に対しての)憎悪とからかい、および美に対する欲望だ。

私はここに、強烈な自意識を感ずると主張したい。

(次男のイワンはミーチャからの指示で、聖女の元へ使いに向かわされたが、ミーチャは女神がイワンに惚れたと思っている、三男アレクセイはそんなことはないと主張する、これが物語の錯綜を如実に裏付け、我々読者をも惑乱するに一役買う。)

「カラマーゾフ」は自己の徹底的な堕落を美と見なすのだとも主張する。

 

魔女は父フョードルが目をつけていた女性で商売仲間の高利貸しだったが、父は彼女を差金として、ミーチャを破滅させようと目論んだ(実際にはスネギリョフという退役大尉が代理人として仕向けられる)。

代理人を返り討ちにして手酷く暴行を加えたミーチャは、聖女から使いに頼まれた三千ルーブルを持ったままに、代理人を寄越した魔女を殴りに行った。

(一ルーブルは百カペイカであるから、一万円相当と理解されたい)

しかし、今度は魔女から見事返り討ちに遭い、その金を持って二人で豪遊に繰り出す。

魔女の心をモノにするため、二晩かけてその三千ルーブルを使い果たしてしまうのだった。

魔女は気のあるフリをして、ミーチェニカ(ミーチャの女性形)を奴隷同然の骨抜きにしようとするのだが、彼は魔女に屈従する前に三千ルーブル(先述の黄金の鍵とはこのことだ)を聖女へ返済しなければならないと思っている。

なぜなら、彼はカラマーゾフの血による放蕩の呪いに苛まれながらも、愛と誠実に至るからだ。

彼は害虫だったし、そうある事を愛した。

だが、恥知らずではないと弁明する(この時、アレクセイは兄が死刑台の十三段目、自身が一段目と自己分析し、兄と変わりないと言っている)

「考えもつかぬような、悪夢なんだよ、なぜなら、これは悲劇だからさ!」

彼は地獄の渦中にいた。

ドミートリイを再生させるのは何か、聖女か、魔女か、あるいは。

 

次男、イワンは無神論を展開する。

彼は懐疑派ではない、信ずるために疑うのではない。

神もなければ、不死もない、まったくの無だと彼は言う。

誰が人間を愚弄しているのか、悪魔だろうと彼は言う。

そして一つの大いなる問題が現れる。

それでも、イワンはすぐに悪魔もいないと言うのだが、そんな彼が「大審問官」を創作してしまう。

イワンの中に悪魔はあるのか、ないのか、読者の我々には分からない。

それは彼自身にも分からないのだろう。

彼は新聞の切り抜きを夥しいほど蒐集し、神の不在を帰納的に証明する。

「大審問官」は読むものではない、イワン・カラマーゾフの肉声に耳を傾けなければならないのだ。

それは淡々としているか、激しているか、苦悩は無いだろう、ただ確信はあるのだろうか。

 

彼は人生への渇望を「カラマーゾフ的」な一面と分析し、自分も三十までなら若さという渇きにより人生の不条理しか満たされていない大杯を飲み干せると宣言する。

残酷で情熱的で淫蕩な性格を「カラマーゾフ型」とも分類する。

なるほど、カラマーゾフ的な一面である人生への渇望、換言すれば生への執着は父子全員に等しく備わっているようだ。

しかし、イワン自身は決してカラマーゾフ型の性格ではなかった、それは兄であるドミートリイに当てはまる。

彼は、カラマーゾフの血から冷笑および主要素以外のほとんどを引き受け、その代償に何も授からなかった、あるいは無を授かった男だ。

しかし畏れてもいる。

アレクセイの指摘する、放蕩に身を沈めて堕落の中で魂を圧殺する「カラマーゾフの力」が首をもたげんとすることを。

あるいは「カラマーゾフ流」に回避するかもしれない、イワン自身が主張する《すべては許される》の公式を用いることで。

「お前はもう救う気になっているけど、もしかしたら、俺はまだ破滅していないかもしれないんだぜ!」

彼が語る地獄は、眼の前に横溢している。

何も無い、冷笑を備えた男に、再生はあるのか。

 

三男、アレクセイには神の加護がある。

これがなければ、二人の兄たちから、カラマーゾフの血に関する印象を聞き出せなかっただろう。

「絶望で自分をいじめる不幸な人」ドミートリイはアリョーシャ(アレクセイの愛称)を天使と呼ぶ、純真な坊やとも。

「謎ながら嘴の黄色い雛っ子」イワンはアリョーシャを自立していると見る。

(二人の兄同士は互いに「墓石」のように口の堅いイワン、「毒蛇」のドミートリイと言うように好印象を抱いていない。)

ドミートリイが地獄で喘ぎ、イワンは遠くで地獄を眺めている、アリョーシャは話を聞いてやる。

懺悔とまではいかないが、アリョーシャには誰もが信頼と尊敬の念を抱き、様々のことを打ち明ける。

彼は信仰の力によって、彼にとっての最善を尽くした言葉を返してやる。

それも、徹底した綺麗ごとではなく、都度状況に即した実用的な返答を柔軟に返してやることができる。

「世間には、深い感情を持ちながら、なにか抑圧された人々がいるものです。そういう人たちの道化行為は、長年にわたる卑屈ないじけのために、面と向かって真実を言ってやれない相手に対する、恨みの皮肉のようなものですよ。」

これは聖書の言葉であろうか、師事するゾシマ長老の言葉であろうか、それとも作者の言葉であろうか。

少なくとも、アレクセイの言葉ではなかろう、人間の言葉はほとんど受け売りでできているのだ。

救われるか否かは別として。

 

彼は、運命に翻弄される人々の間を泳ぎ、話を聞いてやる。

それしかやらない。

言葉は都度返してやるのだが、他に行動することはほとんどない。

学級委員的優等生であって、決してカラマーゾフ的ではない。

しかしながら、彼自身はカラマーゾフ的な何かを自己の内部に十分に感じている、というのは先にも少し触れた。

カラマーゾフ主要三元素は今までも述べた通り、放蕩、冷笑、そして熱狂だ。

アレクセイはカラマーゾフの血による熱狂の呪いが、修道院での教育に対して建設的に作用し、真実の探求者として自立を果たした。

彼の内部に析出するカラマーゾフ的なものが、未だにごく僅少であるという事は、非常にミステリアスな点であり、登場人物も読者もそのことはアリョーシャ自身の言葉からしか知るすべがない。

アレクセイにもカラマーゾフ的な何かが巣食っているという事。

そして、それは程度の差に過ぎないのだという事。

この点に関して口を挟もうとすれば、おそらく、ドストエフスキーが構想していた本作の第二部、続編において明らかにされるであろう伏線かもしれない。

カラマーゾフの兄弟は、第二部(当時の現代が舞台)の十三年前と設定されている、主人公アレクセイの人格形成とその事件を綴ったものであると、早々に作者の言葉に書かれている。

なればこそ、彼の元には勝利が訪れる。

【カラマーゾフの兄弟】二人の諧謔老人ホーム【探求】

ー わたしの眼に映じたのは、ブラシの影で馬車の影を拭いている馭者の影であった ー

(シャルル・ペロー)

物欲の権化のような父フョードル・カラマーゾフの血を、それぞれ相異なりながらも色濃く引いた三人の兄弟。放蕩無頼な情熱漢ドミートリイ、冷徹な知性人イワン、敬虔な修道者で物語の主人公であるアリョーシャ。そして、フョードルの私生児と噂されるスメルジャコフ。これらの人物の交錯が作り出す愛憎の地獄図絵の中に、神と人間という根本問題を据え置いた世界文学屈指の名作。

新潮社は『カラマーゾフの兄弟』上巻を以上のように説明する。

その世界文学屈指の名作は、読み進めるのが難解だった。

理由1、80ページ近くある第1編が、上記人物紹介の各論であり、様々な背景が語られるのであるが、背景というのでは今一つ雲をつかむような感じがして頭に入ってこない。

そして、頭に入れられなかったままに読み進めると、今度は人物たちが実際に振舞っている行動の根拠がわからず、現実離れした言動に見え、余計に感情移入できない。

理由2、改行もろくにないままに文章が延々続く、セリフもほとんどが独白に近くこれもまた延々続く、そこへ日本人に馴染みのないキリスト教的信仰が加わる。

それが眠気を誘発し、内容が頭に入ってこない。

ひと言でいえば、『カラマーゾフの兄弟』は退屈なのだ。

その証拠といっても差し支えあるまい、本文手前の4ページ目にこうある。

作者の言葉ーー「もちろん、だれ1人、何の義理もないのだから、最初の話の2ページくらいで本を投げだし、2度と開かなくとも結構だ。」

 

誰かが、この退屈に水を差さなければ、寝惚けた精神は活性化されまい。

だが、誰が。

彼は、ひどく古びてがたぴし音がする辻馬車に乗ってやって来た。

頽廃期の古代ローマ貴族顔負けの鉤鼻を引っ提げて。

超然と睥睨する瞳の奥に、嘲笑を湛えた猜疑心はまだ輝きを失っていない。

フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフその人である。

今は、彼が2人の前妻をはじめとする数々の女性に対する、恥知らずという言葉では足りないほどの無礼と暴力には目を瞑ろう。

おそらく、あまりの凄惨さに、筆者が詳細を説明することを極力避けている節があるからだ。

疾風怒濤の第2編「場違いな会合」は、長兄ドミートリイが父との財産に関する調停を、町の修道院の長老ゾシマを仲人として取り決める目的で催される。

「今、長老さまのお目を汚しているのは、本当の道化でございます!これがわたしの自己紹介でして。昔からの癖なんですな、ええ!ときおり場違いな嘘をつきますのも、わざとやることなんです。みなさんを楽しませて、気に入られようというつもりでして。人間やはり、気に入られなけりゃいけませんからね、そうでしょうが?」

 

ほとんど無一文から出発した零細地主、婚約者の持参金と不動産を狙うしかないやくざ者、そんな男がこう切り出す。

どこの馬の骨とも知れない不逞の輩には、幼少期から居場所がなかったのだ。

居場所がないなら作ればいい、彼は地主だったがそう思ったに違いない。

勉強ができる、運動神経がいい、おもしろい、小学生男児はこのどれかのステータスを身に着け、人気者になるべく人生ゲームの賽を投げる。

フョードルもまた第三の格を選んだのだった、自己の生存環境を諧謔の中で育むことを決意したのだ。

周囲からの嘲笑を我が身に引き受け、揶揄の矢面に立つことを買って出た。

夜な夜なコニャックを呷りながら、彼は自分自身にこう聞かせたことだろう。

「誰からの買い手もつかない《恥》の大安売りだったもんだから、買い占めてきたんだ。今度は俺がこいつを配って回る番さ、受け取ったほうが赤っ恥をかくんだからとくと御覧じろ。奴らが俺をあざ笑う何倍もの歓喜を込めて、文字通り笑い飛ばしてやらあな。なに、最後に笑う者が最もよく笑うRira bien qui rira le dernier(注 17世紀フランスの哲学者ディドロの小説『ラモーの甥』にあるフランスの諺、1805年にゲーテが独語訳している)だ!」

だが、こんな空想上のセリフに彼を動かせるだけのエネルギーはない。

 

「汝を育てし乳首は幸いなるかな、特に乳首こそ!」

「そう、あんたはそのとき食事をしていた、だけどこっちは信仰を失ったんですよ!」

「立派な雌犬じゃないか!」

「ききましたか、え、神父さんたち、父親殺しの言うことをききましたかね?」

道化を演じているうちに、道化になり果てた男は言葉を続ける。

フョードル、フョードル、嗚呼フョードル。

我々は知っている、本文2ページ目にすでに書かれていた事を、フョードルが非業の死を遂げるのだという事を。

「そりゃひょっとすると、あの女は若いころ、環境にむしばまれて身を持ちくずしたかもしれないけど、でも《数多く愛し》ましたからね、数多く愛した女はキリストもお赦しになったじゃありませんか……」

「あんた方はここでキャベツなんぞで行いすまして、自分たちこそ敬虔な信徒だと思ってらっしゃる。ウグイを食べて、1日に1匹ずつウグイを食べて、ウグイで神さまが買えると思っているんだ!」

神から授けられた天寿を、自身の内燃機関にくべながら、真っ暗で不吉な線路上を機関車は横死へ向けてひた走る。

一言一言に唾をまき散らすことを忘れることなく、この半気違いはすべて計算づくで行っているのに、自分がどこに向かっているのかは漠たる予感しかなかった。

 

修道院におけるフョードルの怒りと羞恥が「攻」ならば、それら全てを捌き切る「守」の役割を果たした人物が居る。

彼は全てを赦し、人間心理に通暁し、未明の闇に一条の光明を差し込ませ、触れる者を皆救済へ誘う。

彼の洞察と彼の言葉を、世人はことごとく奇跡であると見做すほどだ。

若かりし日の彼もまた赦しを乞い、救済を得、修行の果てに長老となった男、ゾシマ。

フョードルの如き、ゾシマにとっては、泣く子をあやすも同然なのだ。

「何よりも、そんなにご自分のことを恥ずかしくお思いにならぬことです」

「飲酒や饒舌にふけらず、情欲に溺れず、とりわけ金の亡者にならぬことです」

「大事なのは、いちばん大切なのは、嘘をつかぬことです」

「腹を立てているうちに、それが楽しみになり、大きな満足感となって、ほかならぬそのことによって、しまいには本当の敵意になってゆくのです……」

結局ゾシマの言葉は、フョードルにとって観念でしかなかった。

フョードルが改心することは死ぬまでなかった、つける薬がなかったのだ。

しかし、カラマーゾフの兄弟たちには再生が待ち受けている。

ただ、その話は次回以降に譲ろう。

 

「攻」と「守」とが、修道院での激突を終えた。

あやされた泣く子の一方的な敗北かに見えた。

フョードルはその晩、コニャックを飲みながら、ゾシマに対する痛烈な批判に及ぶ。

手玉に取ったのはゾシマでは決してない、フョードルが「取らせてやった」と言うわけだ。

洞察力を得るのは信仰のみにあらず、悪徳から得た洞察力の復権を宣言する。

「しかし、あの長老には諧謔があるな」

「育ちのいい人間にふさわしく、あの長老の心の中には、聖者を装って演技せにゃならんことに対して、ひそかな憤りが煮えくりかえっているんだよ」

「これっぱかりも信じてないさ」

「あの長老には、何かメフィストフェレス的なところがある」

 

フョードルは敗北を喫していなかったのだ、勝利こそしなかったが。

敗北も勝利もせぬままに死を迎えることとなった。

道化の死は、兄弟の誰かに決定的な何かをもたらす、目を逸らしてはならない。

そして、ゾシマ長老の身も病に蝕まれつつある。

ゾシマの魂は勝つか、勝利とは何か、目を逸らしてはならない。

【カラマーゾフの兄弟】カラマーゾフの兄弟を読んで【探求】

たぶん、神様はいないだろう。

だけど、いなかったらやり切れないだろう。

一寸の葦にも五分の魂の意気込みなのだ。

踏まれてすぐ死ぬ虫としてでなく。

この魂が死んでから、おつかれさんの一言もなかったら、やり切れないではないか。

誰に祈れば良いというんだ、目に映る様々の葦たちが、今日踏まれても明日立ち上がれるようにと。

僕が言うのは洒落ではない、ましてや冗談どころの話じゃない。

先日、オリンピック期間中の5日間で開催された能楽祭へ行った。

旅の僧が目の当たりにする美しい景色、その光景に因縁を持つ『残念』がささやきかけ、僧は祈り、本来の姿を取り戻した魂は感極まった舞を披露し昇華する。

そんな舞台を連日ぼんやり見ていると、ふと、当時の旅の僧と、現代の僕たちとを同一視してしまう、そんな感傷に浸った。

当時と今との違いは信仰だ、僕たちはその信仰をもうほとんど忘れ、めいめいが新しい信仰を死守するのに必死になっている。

もちろん、そんなことは感傷に過ぎないのだけれど。

 

神があるかないか、そのシンの所で、僕には信仰が無いから沈黙する。

その沈黙に耐え切れなくて、言葉にすがろうとする。

果敢なく虚しい努力が、藁みたく脆弱な問いを掴む。

ならば、現代風に考え直してみるのだ。

互いの心は分かり合えるか否か、という問題を。

 

分かり合える、分かり合えない、心なんてない…答えはいくつもある中から、その半生をかけた努力によって勝ち得たものを掴んで実践しているはずだ。

しかし、僕が知りたいのは「どう生きるか」ではない。

「どう生きるべきか」が知りたくて煩悶する。

 

燃え上がるような恋愛をしているから。

全てを捧げて奴隷に堕ちたいと願っている。

あるいは、世界中を敵に回しても成就させたい恋だ。

その後は、一寸の虫みたく死んだってかまわない。

他者の眼には、そんなもの恋とも愛とも映ることはないだろう、きっと当事者たちにも。

それを地獄と呼んだって差し支えない。

「乞食、それも特におちぶれ貴族の乞食は決して人前に姿を見せたりせず、新聞を通じて施しを仰ぐべきだろうね。抽象的になら、まだ身近な者を愛すことはできるし、時には遠くからでさえ愛せるものだけれど、近くにいられたんじゃほとんど絶対にだめと言っていい」

次男のイワンは、カラマーゾフの血から冷笑および主要素以外のほとんどを引き受け、その代償に何も授からなかったような男だ。

彼が語る地獄は、眼の前に横溢している。

だから彼は、神が創ったというこの世界なぞ認めない、到底認められない。

その通りだ、僕も思う。

ならばこの世界で、どう生きるべきなのか。

 

羞恥心とは誰に向けてのものなのだろう。

他者の眼、に向けてのものでは決してあるまい。

嫌悪の眼差し、好奇の視線、平静を装っている目など様々だ。

結局のところその瞳の奥にある、その人の心に、自分自身がどう映るだろうかという、いじらしい想いではあるまいか。

その想いを抱いて、いや自分がこんな光景を観たらこう思う、だからきっと誰もが…と陥る思考の隘路だ。

ここから脱却するために足搔かないのならば、諦めてあるいは無関心になってしまうのであれば、心の問題に結論を出してはならない。

さもなければ、何でもありになってしまうではないか。

『全てが赦される』とは気取った言い回しだ。

 

それを神の視線と仮定しているのかもしれない。

本当に良心が無いから得しているように見えるのか、僕の見ていないところで良心の呵責に苦しんでいるのか。

見せているにもかかわらず、それが僕に見えていないのか。

この視線が、他者に向いているようでいて、結局自分の内面を見ているのでしかなかったとしたら。

こんな堂々巡りを繰り返す。

誰かが言う、そんな感傷付き合いきれない、と。

 

お互いの心が分かり合えるかどうか、実際に付き合ってみなければならぬ、経験してみなければ、往来で車に跳ねられるような生の経験として、人と付き合わなければならぬ。

小林秀雄は心の問題をこのように掴んだ。

この捨て身の方法で、書物の中から作家の姿を垣間見ようとした。

対象が骨董品であったとしても、その内的美は外在化せねばならないとした。

ならば、特殊な背景を持たない他者はいないのだから、僕は一般論で会話してはならない。

なぜなら僕は精神科医ではないのだから、僕たちの会話は事情聴取ではないのだから。

そして、僕たちには、僕たちの語彙がある、僕たちの文脈がある。

僕たちは共にそれを創り上げていくことができる。

 

カラマーゾフの血による放蕩の呪いに苛まれながらも、愛と誠実に至った長男、ドミートリイの言葉を以て結びたい。

彼は地獄の渦中にいた。

「だけど、惚れるってことは、愛するって意味じゃないぜ。惚れるのは、憎みながらでもできることだ」

第6章:アイデンティティは他を己に取り込むことによって生まれる(Skyrimおっぱい道)

皆さん。お久しぶりです。

おっぱいの精です。

全てのリビドーは妖怪のせいではありません。

おっぱいの精です。

今まで5章に渡る道筋を辿って頂いた皆様であれば貴方の目指す頂きの土台は完璧に動作していることと思います。

ここ、第6章からは少し高度な設定を紹介していきます。

基本的なMO2へのインストール等の手順は割愛して記載していくこともあると思うのでその際は過去の5章を見返して基本的な動かし方をおさらいしてももらえればと思います。

今回はどんな服もCBBE 3BBBにフィットさせる方法

を紹介します。付いてくるぷるん!!!

//第6章:アイデンティティは他を己に取り込むことによって生まれる//

  • 概要
  • COCO Pinup Cheongsam(フィッティング用の基準衣装)の導入
  • Female Outfits Standalone (フィッティング対象)の導入
  • BodySlide and Outfit Studioによる設定
  • 動作確認
  • おススメ衣装配布サイト

–第0節:概要–

オリジナリティがないと自分というものは無いのでしょうか?

否!!

今は亡き偉大な実業家スティーブ・ジョブスの商品は全て開発ではなく既存のものを上手に組み合わせて提示される新たな形にあった。

Hotな服が欲しい!でもBlenderでの作成の方法など分からん!

ではどうするか?

既に存在する服を組み合わせて新たなコーディネートを見つけよう!

その為には服がちゃんと着れなきゃイカン。

今回は1例としてFemale Outfits StandaloneをCBBE 3BBBでちゃんと揺れる衣装に変換させていくまでを見ていこう!

基本的に全ての衣装はこの動作でサイズと揺れをCBBE 3BBBで動作するように変換できます。

※ただし、BodySlide情報が無い衣装はこの方法は使えません!

第1節:COCO Pinup Cheongsam(フィッティング用の基準衣装)の導入–

下記リンクからインストールします。

COCO Pinup Cheongsam

別にこの衣装でなくともよいのですが、自分がこれをベースに使用するようにしているのでとりあえず合わせてこれを選びました。

必要なのはバーチャルの物理演算情報が梱包されている衣装セットなのです。

詳しくは後述。

–第2節:Female Outfits Standalone(フィッティング対象)の導入–

下記リンクからインストールします。

Female Outfits Standalone

第3節:BodySlide and Outfit Studioによる設定

まずはこの状態でインストールしたFemale Outfits Standaloneを着てみましょう。

はい。

やはりサイズも変わり、揺れの演算もCBBE 3BBBのものではありません。

ではこれをCBBE 3BBBに変換しましょう!

手順1:BodySlideが存在するか確認

SliderSetが存在するのでこの衣装は変換が容易に出来ます。やったね!

しかし操作する上でSliderGroupsがあると便利なのですが、それが存在しないので追加しましょう!

手順2:SliderGroupsを追加

BodySlideフォルダの中にSliderGroupsフォルダを作成します。

 

SliderGroupsフォルダの中にグループセットファイルを作成します。拡張子はxmlです。名称は分かり易く今回はFOSにしましょう。

 

FOS.xmlに情報を追加する器を記載します。

以下をコピーして貼り付けて下さい。

<?xml version=”1.0″ encoding=”UTF-8″?>
<SliderGroups>
<Group name=”CBBE”>
</Group>
<Group name=”FOS”>
</Group>
</SliderGroups>

これで用意が出来ました。

手順3:Slider編集前の準備

以下のように衣装情報をFOS.xmlに紐づける

作成したFOSが存在しているはずなのでそれを選択し、検索窓にLazman(Female Outfits Standaloneに梱包されている衣装名)で検索してhitした衣装を全てFOSに追加

 

保存したら再度bodySlideを読み込み、FOSのGroupSetを選択します。

そうするとBodyのプリセットが存在しない状況になるので3BBBのグループセットのAmazingBodyのプリセットデータをFOSで読み取れるように下記の手順を行います。

3BBBのグループセットからAmazingBodyを選択し、CBBE Curvyのプリセット(第5章までの流れをそのまま行っている人は上記でボディ情報を作成しているはずです。カスタマイズしている人はそのプリセットを選びましょう。)をSave AsにてFOSにチェックを入れて保存します。

そうするとFOSのグループセットでCBBE Curvyのサイズプリセットを読み込めるようになります。ここまで設定すればあとは実際に衣装の情報を3BBBにするだけです。

手順4:Slider編集

まずはベースボディをCBBEにしましょう!

この手順は既にベースボディがCBBEの場合は省略しても構いません。

スライダーを100%にしてバー情報を保存することを忘れずに

プロジェクトを上書きしましょう。

いよいよ骨格情報を衣装に反映させていきます。

まずベースボディであるCBBEを消してしまいます。

次にプロジェクト追加にてフィッティング用にインストールしておいたCOCO Pinup CheongsamのSliderSetを追加します。

必要なのはバーチャル情報だけなので追加された3つの衣装情報を削除します。

今回の衣装を選択してBoneタブに移動し、衣装に設定されている骨格情報を全て削除します。

次は衣装にベースボディが持つ骨格情報をコピーします。

プロジェクトを上書きしてビルドしましょう。

お疲れ様です。これにて準備完了です。

第4節:動作確認

やったーー!

サイズも身体情報のものとなり、揺れも非常に自然なものになりましたね!

最初は大変に思うかもしれませんが慣れてしまえば1分ほどで行える作業です。

どんどんあなた好みの衣装をインストールして楽しみましょう!!

第5節:おススメ衣装配布サイト

以下の3サイトで大概揃います。

https://www.rektasmarket.com/home/categories/cbbe

https://www.sunkeumjeong.com/

https://modbooru.com/mods?query=skyrim_se

 

 

Written By Sho

 

–Skyrimおっぱい道コンテンツ–

序章

第1章:千里の道も一歩から

第2章:3Dキャラクターはおっぱいの夢を見るか

第3章:おっぱいは観測者から見るとメロンの性質を持つが、接触者からするとプリンの性質を持つ

第4章:実験(乳揺れダンス)により定義(作成したボディ)の証明がされる

第5章:定義(作成したボディ)より定理(装備)が拡張される

経典(さらなる境地へたどり着きたいOZ(OppaiZealot[おっぱい狂信者])に捧ぐ

【人生5.0】ドストエフスキー探究 序【ONLIFE】

ー フォン・ゾーン、どうしてこんなところに残るんだい!今すぐ町の俺の家へこいよ。うちは楽しいぜ。せいぜい一キロかそこらだ。こんな植物油の代わりに、子豚に粥を添えてご馳走してやらあな。いっしょに食事をしようじゃないか。コニャックをやって、そのあとリキュールだ。いいイチゴ酒があるぜ……おい、フォン・ゾーン、せっかくの幸せを逃すなよ! ー

(フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフ)

友人に非常な文学好きがいて、彼はドストエフスキーに救われたと言っていた。

「人生どう生きるべきか、悩んでいたときによく読んだ。」

「人生は素晴らしい、祝福されるべきものだと知ることができた。」

酒を飲みながらの熱っぽい語り口には感心させられた。

一方で自分は、文学の世界はまだ垣間見た程度だが、小林秀雄はよく読む。

その小林秀雄は昭和8年、31歳で『「永遠の良人」』(原題『手帖』)を文芸春秋に発表、以来30年以上に渡り作品論を発表し続けている。

還暦を過ぎてから本居宣長を10年以上書いていた小林秀雄が、脂の乗り切った若かりし日からの30年以上をドストエフスキーに費やしているというのは驚きだ。

何せ、家の便所の棚に第三次全集が揃っているから、第五巻『ドストエフスキイの生活』、第六巻『ドストエフスキイの作品』の両冊は昔から知っている。

だから手が出せなかった、ドストエフスキーを読んでもいないのに、小林秀雄で読んだって何になるだろうかというわけだ。

ページ数が短くて知っている題から、『徒然草』『平家物語』『失敗』『カヤの平』そこら辺から『考えるヒント』読んでいるのはそんなところである。

そしてそれで十分だと思っていた、考えるヒントの『忠臣蔵Ⅰ』以降に、思想と思索の深淵のようなものを、おっかなびっくり山頂まで行って少し覗くことができたと思っているから。

だから『モオツァルト』『ゴッホの手紙』『近代絵画』無論『本居宣長』も未だ通読は果たしていない。

そんな自分が『友人との会話の中に、俺たちの語彙をドストエフスキー から仕入れたい』そう思うようになっていったのだ。

 

突然だが、8年間のバンド活動が休止になった。

新曲制作が佳境に差し掛かり、感染拡大防止措置のリモートセッションはもう意味を為さないという判断によるから、宣言が明ければ再開する。

代替のミーティングも無しで、毎週の活動がふっと消えて無くなったのだ。

つまり、バンドに夏休みがやってきたというわけで、なら夏休みの自由研究を行おうと俺が提案した。

よって、行うのは「ドストエフスキーをテーマとした読書感想文」である。

そして、読み終えている作品は『賭博者』だけだし、これに関して書く必要性を認めない。

ただし、『罪と罰』『白痴』『悪霊』は上下巻を買い、既に1/4程度は読み進めているし、さらに『未成年』をすぐに購入予定だ。

これら長編4作品は「同時進行で読み進め、同じ機会に結末に達する」という読み方を課すことにした。

もちろん、時間がかかるので、夏休み中にこの読書実験は果たせないだろう。

しかしながら、『カラマーゾフの兄弟』を今、中巻の半分以上まで読み進めているし、この調子ならあと5日ほどで読破できると見積もっている。

夏休みは『カラマーゾフの兄弟』で行くのだ。

長編4種は四半区切りずつ、連載形式で綴る。

 

昭和14年、小林秀雄は文学界に『「ドストエフスキーの生活」のこと』として出版に際しての、ごく短い執筆後感を文章にしたものを発表している。

その引用で、序を結ぶ。

ーこの次には「ドストエフスキイの文學」という本を書こうかと思っているが、いつになるか、わからない。どういうものになるかもわからない。わからないから書くのだ。それが書くという奇妙な仕事の極意である。ー