【人生5.0】Junの一食一飯 #003 小諸そば【ONLIFE】

前回、期せずして博多ラーメン屋さんに這入って慢文を終えた。

麺類皆兄弟ともいう。

ジャパニーズファーストフード(発音としてはファストだろうが、表記はファーストに従う)の代表の一つ、お蕎麦を食べに行きたい。

 

仕事まで行く乗り換えの飯田橋駅前、東西線の改札から出て、一旦階段を上がってすぐ、小諸そばさんがあった。

朝六時だか六時半には開いていたんじゃなかったか、非常に心強いお店だった。

今は閉店して、富士そばさんになっている。

衣類パンツである(諸行を衣類、無常をパンツと置き換えてみると、どういう風情か肌で感じられるのではあるまいか)。

 

親友のKは富士そばさん贔屓で、そこの冷やしたぬき蕎麦大盛りに限ると言っている。

もう以前の話だが、上野界隈で飲んだ後、決まって彼は上機嫌になって不忍池のほとりのお店で奢ってくれた(飲み代を持っていたのが私だからである)。

彼はドストエフスキーが大好き、私は小林秀雄が大好き、ここに妙な接点があった。

だからといってドストエフスキーが富士そばさんで、小林秀雄が小諸そばさんと言いたいわけでは決してない。

日露代理戦争を、何も二つのお蕎麦屋さんで勃発させようなどとは思わない。

きのこの山とたけのこの里に別れるんじゃなく、にんにくの家においでよ。

全部美味しいよ。

ただ、小諸そばさんと富士そばさんとは、違いがある、それは追々述べることにして、小諸そばさんについて書く(ゆで太郎さん御免なさい)。

 

私が小諸そばさん贔屓の理由は、冷やし蕎麦の艶やかさにある。

同業他社の全店舗を食べ比べたわけではないが、これにはちょっと驚いた。

かけ蕎麦のなんとも言えない優しさを好んでいた私が、もりやぶっかけにあわや転向だ。

あまりの食感の良さに、一度無理を言って、もり蕎麦の食券を買って、かけつゆを別の丼にお願いしたことがある。

冷たく〆られたお蕎麦を、かけつゆのあったかいのにくぐらせて食べたかった、つけ麺のように。

言下に無理と申し渡され、もり蕎麦を頂いた、やはり艶やかで美味しかった。

その日の帰り、かけを食べ終えたつゆに、追加で買ったもり蕎麦をくぐらせて試したが、やはり美味しかった。

 

だから、そのお蕎麦自体の信頼感で、夏場は冷やし、冬場はかけ。

中でもたぬき蕎麦をお決まりとして注文する。

かき揚げ蕎麦を食べるのはかっこいい、第一回で述べた通り生徒指導部長が怖くて私にはできぬ。

コロッケ蕎麦を食べるのもかっこいい、学校来ないでバイクに乗る不良染みたかっこよさがある。

こういう事を考え出すと頭の中がややこしくなるので、天婦羅への憧憬を少しまじえた、たぬき蕎麦をお決まりにしている。

 

小諸そばさんの揚げ玉は、フライヤーに残った天かすを出してくれる。

よく見ようと見まいと、玉葱の切れ端や小海老なんかが混じっていて香り高い。

富士そばさんの揚げ玉とは、ここに宿命的な違いがあるので、好きである。

話は逸れるが、大阪出張でたぬき蕎麦を注文したら、お揚げが乗っていた。

これにはニンマリだった、食い道楽の喜怒哀楽を享受した思いがした、お揚げも出汁も美味しかった。

さらに逸れるが、山怪という体験談集にあるのは、狐は化けるし化かすし火を使うらしい。

一方で、たぬきがするのは、いわば声帯模写というやつで、木こりが斧を使う音を真似るのだが、近年はチェーンソーで木を切る音の真似をするという。

 

今回、いまはなき飯田橋店に代わって、神楽坂店へお邪魔した。

また食べたいのがたくさんあって迷うが、一番よく食べていたものにする。

ミニ鳥から丼セット二枚盛りをかけで、天かす追加ダブル、鳥から丼はタレ抜き。

大盛りは三十円、二枚盛りは六十円払うのだが、安くて助かるというか二枚盛りが通常量という感覚にすらなる。

 

天かす追加は口頭で行う。

のだが、そういうのはやっていないのだそうだ。

視界が暗くなって目眩がしそうだ。

だったのであるが、すぐにやっていないけれどやりますと言ってくれた。

そうか、飯田橋店ではそういうローカルルールが通っていたということか。

天かすは二つの猪口に入れられて供される。

 

食券の番号が呼ばれて受け取りに行く。

のだが、注文したものと違う。

親子丼セットになっている。

道理でお釣りが少ないと思った。

この商品はどうやら期間限定のようだ。

ミニ丼ではなくフル丼だ。

だから少し値段が高い。

 

この親子丼の鶏を食べるだろ。

そのあとに揚げ玉を口に運ぶだろ。

そしたら唐揚げになるだろ。

いやいやそれは観念だろう。

 

小諸そばさんでお蕎麦の紹介をしながら、実はここは唐揚げがオススメなんですと運ぶつもりだったのに。

お店の前の張り紙で、鶏の唐揚げ丼って書いてあるじゃないですかと言って、それはテイクアウト用ですと言われている間に誤った食券を買ってしまったか。

いやいや落ち着こうではないか、親子丼は私のもとにやって来てくれたのだ。

入る腹はあるのだから、ミニ唐揚げ丼は追加しよう。

だが、食券機には単品のボタンが見当たらない。

聞くと店員さんがやけに特殊なコマンドで購入してくれた。

さっきの揚げ玉トッピングといい、小回りが利いて非常に好感が持てる。

期間限定の親子丼は、いかにも親子丼といった風だったが、なか卯さんには行きつけていないので、ちょっと比較にならない。

そして、親子丼は月に何度か作るので、自作のものの方が美味しいと感じる。

一方でこのベタっとした衣の鳥からが、個人的には一番好きだ。

鳥天って言えば良いのに鳥から、鳥からなのにからっとしてない、これが良い。

実は冷やしの艶やかさ以上に、これを伝えたくて書いた、今回は唐揚げの回でもあるのだ。

 

卓上の小樽に輪切りの葱がたくさん入っている。

小諸そばさんはこれが使い放題だ、太っ腹すぎて、いや頭が下がる。

一気に大量に入れると、つゆが辛くなるし冷めてしまうので、少し載せて食べるの繰り返し。

思い出したら親子丼をがっついて、つゆを飲んで流し込む。

ミニ鳥から丼は、唐揚げが二つしか乗っていないので、貴重品である。

食後、暑くなったからもり蕎麦を追加して身体を冷やした。

満腹すぎたのか、往年の艶やかさをあまり感じなかった。

ちょっとした歯車のズレで、上手くいかぬ日だった。

久しぶりに、高校生の頃の量を食べることになった。

しかしながら、痩せ我慢ではお蕎麦を食べられない。

何より、お店の方々に救われたような気がしている。

【人生5.0】スーパー美味しんBONUS #000【ONLIFE】

山岡士郎に自己投影するとは馬鹿も休み休み言えと叱責されそうなものだが。

今回は敢えてそれを放言したい。

第一話、豆腐と水。

山岡士郎(27)、とすれば大学を卒業後、入社五年目だ。

それは私が四年間の非正規雇用を抜けた年齢に一致している。

作中、彼は馬小屋ではなく、オフィスのソファに産み落とされる。

私にもその寝心地は骨身に染みて分かるのだが、そんな所で寝ざるを得ない者の心境たるやどうだろうか。

 

この左右非対称の、寝るためではなく座るために造られたベッドが、自分の揺り篭にもなれば棺桶にもなるのだという漠たる予感。

毎晩飲み歩かなければ生きた心地がしないという倒錯した自足感。

金なんて有るから不安になるのだから、有り金は全て競馬に注ぎ込むという歪んだ自傷。

その背景にあるのは山岡士郎自身の仕事中毒とも呼ぶべきものだろう。

作中そのようなことは一切描かれていないが。

 

彼は雁屋哲も花咲アキラも欺いて、ただ独り、自己の血の宿命と格闘していた。

我々読者は、追々そのことを突きつけられる。

「自分が自分でなければよかった、だが俺はどうしても俺以外ではいられない」

彼の嘆きが、まだ未熟な果実がもぎ取られたような絶望が、叫びとなって聞こえるようだ。

 

山岡士郎に、ある重大な感情的欠落、いや彼自身が希望の代わりに匣の最奥に秘匿した何かがあることを、東西新聞社の社員一同とうに察してはいるのだ。

だが、彼らは決して山岡士郎その人ではないから、それが何かを見抜くことはできないし、その心に寄り添って当人の感情を慮ることもしない。

山岡士郎は右足だけで立っている。

食事は左手で箸を持ち、右目は夜の街を彷徨うために、昼の喧騒は左耳で聞き取りさえできればそれで良いとでも思っているかのようである。

彼は誰も傷つけたくないからと、自らに足枷を噛ませているのだ。

 

手の施しようもなくバラバラにひしゃげてしまった男には、何も知らない女が支えになれば良い。

二人は決定的に出遭ってしまった。

栗田ゆう子(22)、守衛の次に出社する配属三日目の新入社員。

東西新聞は女性社員に対する差別意識が強く、雑務ばかりで自分の仕事が進まない。

仕事をこなすことが、今の彼女を成長させる。

成長とは、出来なかったことが、出来るようになることだからだ。

だから彼女は時間の捻出を発明した。

仕事することが勉強なのだということを自覚している。

 

ーー街角を行く人波が途切れると、月明りさえまぶしいね、こんな日はーー

境界線ギリギリの所に彼女はいるのだという。

山岡士郎と出遭わなかったなら、彼女も数年で、どうしようもなく内でも外でもない、此岸でも彼岸でもない、遊びでも仕事でもない、そういう場所に行ってしまっていたのだろう。

栗田ゆう子に胎動した仕事中毒の魔の種は、表面的にはグータラと評される山岡士郎によってその芽を摘まれることになる。

私たちは皆、その後の彼女を知っている。

 

東西新聞社創立百周年記念事業が明かされる。

物語の大きな車輪が、重い音を立ててゆっくりと動き出す。

三つの豆腐、イとロとハ。

三つの水、AからC。

味覚の試験を突破したのは二人だけだった。

「ワインと豆腐には旅させちゃいけない」

山岡士郎は御覧の通りと言いたかったのであって、決して言葉の上で戯れているわけではない。

彼は味覚の本質を手掴みしたそのままの視力で深淵を眺めている。

眼前に広がる光景を言葉で表そうとするならば

あ・は・れ

とか言う、不具な言葉の切れぎれになったような断片だったかもしれない、そうでないかもしれない、どちらでも良い。

だから彼も深淵からのこだまのような言葉を吐露せざるを得ないのだ。

饒舌さを自分自身に赦してやるのは、唯一怒りに身を委ねているときくらいだ。

 

究極のメニューへの挑戦は難航する。

さらに、海原雄山と帝都新聞の横槍で究極対至高の構図が出来上がる。

その記念すべき第一回が十五巻だそうだ。

以降、おおむね一巻に一回のペースで対決が繰り返される。

その頃の作品にはもう興味はない。

 

美味しんぼを我々読者に面白く紹介する、日本一のサイトがある。

その連載は五回までで未完のままなのだが、その筆者はこう言っている。

「アア!あの頃の美味しんぼはギラギラしていた!」

私も同意見である。

だから、手垢がつきすぎたというより最早、手垢でできた握り飯のような美味しんぼ評論に私は乗り出す。

 

ではお待ちかね、今週のクリ子のコーナーです。

日本刀は平安時代にその完成を迎えて以降は、衰退の一途をと辿っているというのが通説らしいが、どうやらクリ子に対しても同じことは言えるようである。

「時よ止まれ、汝は美しい。」

【人生5.0】Junの一食一飯 #002 もり一【ONLIFE】

美談というものがある。

プロになるべくして滑舌、発声、発音の研鑽を積んだが、この美談のイントネーションがいまひとつ口腔に馴染んでいない。

破談の音か、示談の音か分からない、ちょっとどちらも縁起が悪い。

回転寿司のレーンを思いついたのは、ビール工場の流れに触発された発明だという。

これは美談に属すると思われる。

 

最近の回転寿司は、新幹線の模型がお皿を運んでくるところもある。

これは社長がシンカリオンを見たんだろうか。

変形メカが運んでくる日も間近だろう。

どこかにはペッパー氏が応対しているところもある。

 

このペッパー氏(氏をつけているのは、ジィドのテスト氏の影響か、未読)、私は心ひそかにヴェルギリウスとお呼び申し上げている。

英語読みでバージルとなるから、ペッパー氏のスパイスに対してハーブを持ち出したまで。

全部解説すると面白くもなんともないが、こっちの勝手だ。

私はコドモだから、かいけつゾロリのまじめにふまじめを実践しているまで。

遊びで手抜きと不正をする者は、遊びに誘われなくなるものだ。

 

苦しい枕はそろそろ捨てて本題へ入ろう、個人々々に合う枕の用意は難しい。

古よりのジャパニーズファーストフード(発音としてはファストだろうが、表記はファーストに従う)の代表の一つ、お寿司をつまみたくなった。

のではあるが、お邪魔するお店のもり一さんは、都内を横断するような形で、ごく数店舗しかない事をあらかじめお詫びさせていただく。

もとは一皿百円、百三十円、百五十円と経て、現在は一皿百八十円で頑張ってくださっているお店だ。

コロナの所為でまた値上がりした。

コロナめ。

 

もう何年も前、職場の近くにもあった。

同い年の後輩と二人、バスに乗ってよく繰り出した。

長居はしない、というか出来ない。

生ビールを飲み飲みお寿司をつまんで解散。

そんな風な職後の潤いを与えてくれたお店だった。

並んだ空きグラスを下げてもらうようにお願いすると

「飲み放題になっちゃうんで」と笑顔で店員さんに言われたのは今でも笑える。

そこはもう閉店してしまったが、地元船橋にもあるし、以前バンドの拠点にしていた亀戸ベースの傍にもあった馴染み深いお店だ。

 

こちらの特色は、酢飯に赤酢を使っていることで、シャリにはほんのりと色がついている。

味わいも酸味に若干のクセがあるのだが、人を選ぶようなものではないから、ちょいとオツな気分になれる。

流れてくる容器の中にある山葵は多めに取ってしまおう。

それと、レーンの上ににんにく醤油が乗って回っているので、お好みで使われるのが良い。

おみおつけは浅利か海苔だが、気まぐれなメニューもあろうかと思う。

 

席に案内されつつ海苔椀をお願いし、板前さんにはアボカド巻きをお願いする。

レーンの〆鯖を取って露払い、三貫のっていて気前がいい事この上ない。

粉山葵を、むせる寸前ぎりぎりの量、べったりとつけて頂く。

真っ白に〆られた鯖の酸味と、過剰な山葵が口の中でかめはめ波の撃ち合いをする。

ひ、ひ、ひ、思わず下卑た笑いが心の中で巻き起こる。

トリップ感というヤツだ、これは、間違いない。

今鳴り響いているBGMはJ.A.シーザー作曲「さかなクンさんすなわち魚」。

 

頭の中に魚群が到来している間に、アボカド巻きが出来上がった。

中太の巻物で、ネギトロに包まれたアボカドが一緒に入っている。

この巻物は三つに切られ、断面を仰向けにし、さながら蛇の目の様相を呈していて、ときにはちょうど三つ盛蛇目のようになっていることもある。

気取らないお寿司屋さんで、こういう変化球は醍醐味である。

寿司ネタ変化球も様々にあるが、私はコレがあるからもり一さんが好きだと言っても過言ではない。

店舗限定メニューもあるし、ハーフ&ハーフも受け付けてくれるから、数え上げたらまさにキリがない。

さて、数多の中から次を悩む前に、回っている〆鯖をもう一皿取った。

忠臣蔵において、浅野内匠頭は吉良上野介に「鮒侍」と散々いびられた挙句、刃傷に及んだと描かれている。

それなら私は鯖侍が良い。

今日も鯖、明日も鯖、鯖鯖鯖鯖、鯖が好き。

鮪が高騰しても、鯖が食べられれば私は足りる。

海原雄山から、しょせん下魚だなどと罵倒されたって、是非に及ばず刃傷に及ばず。

 

バチ鮪のトロが数量限定で放出される、美味しい。

脂の乗った鰤の腹身が同じく流される、美味しい。

軍艦にたっぷりと盛られた雲丹を取る、失敗した。

忘れかけていたミョウバンの味を思い出すために取ったようなものだ。

そう考えると酔狂な味がする。

うつむいていると泣いちゃいそうになる、強がりで顔を上げる。

壁のメニューを見るフリをして、虚空をグッと睨む。

 

えんがわと書いてあるのと目が合ったので注文する。

こういう時の注文はアドリブが良い。

この感情を受け入れてくれる懐に広さに流されてしまえ。

何頼んだって良いし、何頼んだって百八十円。

好きに食べたら良い、それは制限のある中で最大限の自由。

 

お酒の提供も無いことだし、長居はせずにサッと出る。

同僚という友もなく、酒という友もなく、サッと食べるだけ。

口の中が赤酢の酸味と、お魚のさっぱり感で一杯になった。

サッと出たのは、口の中がさっぱりし過ぎたためである。

だから、向かいの博多ラーメン屋さんに這入って〆た。

 

【人生5.0】Junの一食一飯 #001 てんや【ONLIFE】

十二時過ぎの放課後が来て、家に帰らずゲームセンターへ行っていた土曜日。

当時中学生だった私は、同級生のTと共に船橋のてんやさんでしばしば昼食を摂った。

穴子と海老が載ったやつの、薩摩芋を茄子に変えてもらって、大盛りタレ多め。

Tはそこへさらに卓上のタレをどっとかける、私も悪乗りで同じくかける。

味の濃い所にさわやかなおしんこを頬張る、でまた天婦羅を食べる、食べる。

カラカラになった喉を冷たい麦茶でぐっと潤して、また食べる。

 

てんやさんにはそんなかつての懐かしい思い出もあって、よく行く。

現在バンドの拠点にしている文京ベースにも最寄りにある。

今は定食にして注文する、白いご飯が好みになったからだ。

定食にするには百九十円払う必要がある、どうだってかまわない。

喫煙者が千円になるまでは吸い続けようと思っているのと変わらない。

 

定食には天つゆがつく、これが嬉しい。

ほうれん草のおひたしもつくし、ご飯は食べ放題になる、これも嬉しいが言ってみればおまけだ。

定食にすると、天婦羅を天つゆでも、お塩でも、タレでも食べられる。

選べるというのは幸せなことだ、悩めるというのは贅沢なことだ。

白状すると、人の倍食べたくてタレの塩分を避けたいのが無いではないが。

 

そんなわけで、てんやさんに夕食を摂りに来た。

一番安い天丼を定食にしてもらって、穴子を追加。

他は海老、烏賊、野菜どれも嬉しい。

どうしても鱚の思い出が頭から離れないから、赤魚は変えてもらう。

執着するのは醜いが、無頓着ではいられない。

こちらでは大抵季節の天婦羅を出してくれるから、それは追加する。

春の山菜、夏の真鯛、秋の牡蠣、冬の帆立。

ここは必ず注文するが、他にも季節の野菜などちょっと迷うくらいある。

準レギュラーみたいな鶏天も小回りが利いて良いが、皮つきの腿肉ならより良いのにと思う。

カロリーお化けが出来上がっても別にいいだろう、天婦羅を食べるのは私にとってハレの日だ。

 

穴子は最初には食べない、食べ進める喜びが尻すぼみになるから。

と言って最後にも食べない、冷めて美味しくなくなるのは嫌だ。

のぼせているだけだろう、子の字に濁点は不要と思っているから。

穴子のことを考えていると、なんだか恋でもしているみたいだ。

 

かき揚げは試されているような気がするから敬遠している。

私は天邪鬼だから、かき揚げのあの

「賞味できるのか、お前に」という雰囲気に顔を背けたいんだろう。

高校の頃の生徒指導部長の威厳染みたものを感じて、私のような脛に傷持つ半端者には怖れ多い。

そんなことで誤魔化して、かき揚げ賞味の鍛錬に励まないから、また遠ざかる。

 

だから、何が言いたいのかというと、かき揚げにたっぷりとタレをたらして、ドロドロのべたべたになったやつを頬張って、白飯を一気に掻き込みたいのだ。

否、ビールでもいい、ビールがいい。

思えば、てんやさんで日本酒を呑んだことが無かったな、これは不覚だった。

天婦羅で日本酒、ビールじゃない方のコロナの馬鹿野郎。

 

そんなわけで、かき揚げ丼を追加する。

私は人の倍食べたいし、色々な味を食べたい。

心の中に、異常食欲と変態食欲とが同居していると思っておく。

こうすると天婦羅が冷めないで済む、どうだろうこの策は?

 

しかし、メニューにはかき揚げ丼が見当たらない。

ならば単品でよかろう、定食ならご飯のおかわりもできる。

だが、単品も見当たらない。

生徒指導部長、衝撃の左遷。

みんな同じ思いだったのだろうか、私との再会そして和解もならず。

執着するのは醜いが、無頓着ではいられない。

目を皿のようにして探すと、季節のメニューに「つまみ揚げ」というのがあった。

これだ、ハーフサイズのかき揚げだ、夏野菜の天丼を注文だ。

さて、てんやさんのかき揚げを頂くのも、タレったれを頂くのも久しぶりである。

ちなみに、白いご飯が好きなので、ご飯にタレをかけないでいただきますよう注文した。

ここからはさらに卓上のタレにも存分に御活躍願いまして、頂きます。

ひ、ひ、ひ、思わず下卑た笑いが心の中で巻き起こる。

ラプチャー、というヤツだろうか、これが。

蕎麦をどっぷりとツユにひたして食べるというあの感覚か(もちろんこれは江戸時代の都市伝説であり、蕎麦店の系譜ごとに妥当な食べ方があることは断っておく)。

こんな浮かれ気分の頭を、襟首ぎゅっと掴まれて、ぐんと現実世界に引き戻す力が作用する。

つまみ揚げに含まれたセロリのさわやかさだ。

ズッキーニも米茄子も甘唐も大振りで非常に愉快だった。

 

非日常の満足感を懐に仕舞い、お会計へ。

レジのてんやおじさんに目礼する。

フォールアウトのマスコットそっくりだといつも思う。

ごちそうさまでした、こんな身近な所に美味しいお料理をありがとうございます。

「またの!」そんなふうにおじさんが言った気がした。

 

件のゲームセンター、ゲームフジ船橋はもう何年も前に閉業してしまった。

私も大学の頃には、ゲーマーとしての第一線を退いてしまっている。

当時の相方のふ〜ど氏は今や、日本を代表するプロゲーマーであり、尻職人ことグラビアアイドルの倉持由香さんを奥さんに迎えて本当に良かったと思い、祝福する気持ちに溢れている。

羨ましいんだよこの野郎、ともちょっとだけ思っておくことする。

 

そして、船橋のてんやさんも去年閉店を迎えた。

今、その跡地には、このコロナ禍でもハイボールを平気の平左で出す居酒屋が建っている。

別に、外飲みをどうこう言うつもりはない、“感染しなければ”酒類の提供に何も文句はない、むしろ私を含めた世の飲助たちへの懐の広い対応に頭が下がる思いもある、ちょっとある。

だけど、そんなんなら、船橋のてんやさんを返して欲しいという気持ちのほうがある、もっともっとあるのだ。

でも、誰に言えばいいか分からない。

分からないからこうして書いた。