【人生5.0】Junの一食一飯 #011 かつや【ONLIFE】

この頃、幸せとは何か、考えさせられる機会が多い。

その際はこんな観念がしばしばまとわりつく。

人はどうして、他者に向けて自分を良く見せようとするのだろうか、と。

見下されると、所属する集団の中で待遇が悪くなるからか。

そんな集団と決別し、一人孤独に、自足した時間を過ごすのは険しい道なのだ。

 

あるいは、良く見せようとしているつもりは無いのかも知れぬ。

にも関わらず、私の目にそれが見栄として映っているのかも知れぬ。

本人は、本当の自分をありありと開示しているのだ。

本当の自分?自分とは何か。

 

ほんの少し硬い話が挿し挟まってしまって、糸楊枝でも欲しくなるかな。

歯痒く感じさせてしまっただろうか、それならば申し訳ない。

少しばかり考え込んでしまったのだ。

と言うのも、一食一飯は次回が最終回だからである。

 

そんな折、「孤独のグルメ」漫画版第一話をたまたま再読して驚いた。

と言うのも、たかだか四ページの中に、人が孤独を享受しつつ幸せに生きる為に必要な力が点在していると気付いたからだ。

発言力、問いを立てる、洞察する姿勢、察知、関連付け、内省、自己肯定、例える力、共感などである。

詳細は別の機会に感想文でも書こうと思うが、今回の一食一飯に関わる点を一つだけ取り上げよう。

 

主人公、井之頭五郎の内言

『うーん…ぶた肉ととん汁で、ぶたがダブってしまった』

である。

これは先述の「関連付け」にあたる。

換言すれば「括る能力」であろうか。

この能力は日常生活の因数分解のみならず、その中を独自性で彩色することも出来る。

提供された料理からぶたという共通因数を括るのは、主人公ないし作家の特徴がなせる業だ。

目の前に並んだ料理という“物”が、介在する人物の心情を通過して語られる事で“物語”となる。

 

だからこそ、今日の一食一飯はとん汁を取り上げたい。

とん汁変更ではなく、はじめからとん汁で出してくれるお店がある。

そして、そこのとん汁がとても美味しい、包み込んでくれるような優しさを感じる。

かつやさんである。

 

ただしかつやさん、『とん汁とライスで十分』というわけにはいかぬ。

そのようなものは無いし、私の食欲が満足するということにもならぬ。

だが、どうしても意識せずにいられぬ。

トンカツととん汁で、ぶたがダブってしまうという事を。

 

最初から其処にあったものを、人は山などと呼ぶ。

孤独のグルメの重力場から逃れるということは難しい、非常に。

さりとて、かつやさんが期間限定で放つ

「ほら、揚げれば何でもカツにできる」

と言った体のメニューに乗っかるのは安易に過ぎる気もする。

 

こんな時は、水のように清らかな心で居れば良いのだ。

こんな時は、酒のように朗らかな身体で踊れば良いのだ。

何でも来るといい、カツなら何でも食べられる。

槍でも鉄砲でも持ってこい、揚げれば何でも食べられる。

 

大袈裟は良くも悪くも私の特徴的なところである。

来店早々メニューの表紙には、期間限定で親子カツなるものが掲載されている。

これはチキンカツを卵とじにしたものだ。

高校の部活帰りに寄った肉の田川さんを思い出す、堂々たるジャンボチキンカツだ。

ぶたがダブる懸念は早々に払拭された、注文する。

白いご飯が好きだから、親子カツ煮定食の方を。

 

しかし、同じくトンカツチェーン店の和幸さんと異なり、ご飯のお代わりが出来ない。

和幸さんでは、特ロースご飯一択だから、一食一飯になり得ない。

これほどまでに立派なチキンカツを、お茶碗一杯程度のご飯で平らげるなど、変態食欲の私には出来ない。

ただ空腹が満たされれば良いというわけでは無い。

ならば一番手ごろなカツ丼の梅を注文と洒落込みたい。

カツ煮をおかずにカツ丼を食べて仕舞え。

うん、こうしてチキンカツ煮とカツ丼を食べ比べてみると、肉々しさは鶏肉の方に軍配が上がっても良さそうなものである。

美味しくて、瑞々しくて、大きく食べ応えがある。

一切れ頬張ってから、カツ丼を掻っ込む。

で、そこへ、とん汁をすする。

とん汁は四十円追加で大きいサイズにしてある。

 

回転寿司の活美登利さんも全く同じ味のとん汁を提供する。

それが何だと言うのだ。

仙台の牛タンは大概が豪州産であるのと同じくらい私には関係がない。

私たちは先人から受け継いだ文化を食べているのだから。

思い出を食べているのだから。

小林秀雄は言ったか、上手に思い出すことは非常に難しいと。

ならば私は、せめて美味しく思い出したい、そう思う。

 

私の、俺の、僕たちの脳髄に、肺腑の中心にある何かに、きっとそれは心の根っこに、思い出が群がり湧き起こる。

あれはいつだったか。

職場内のチームで幸せとは何か議論「させられていた」時のこと。

どうしても道化を演じる気分になれず、私は黙って静観していたのだが、それに乗じて「金が全て」と強硬な主張を押し通そうとする者がいた。

その男の険しい目元が、それを演じているのではなく信じているのだという事を、疑う余地のないものにした。

私は気分が悪くなってきていた。

 

俺は

「物質を買うより、自分で作った方が幸せだと思う」と溢すと、彼は笑って

「それはちょっと分かる」と言った。

苛まれていた何かから解放されたような、あの安心したような表情をまだ覚えているから、僕は敢えて自分で作らず外で食べる。

【人生5.0】Junの一食一飯 #010 社員食堂【ONLIFE】

社員という言葉には、輝くという意味がある。

私は私の人生の舞台の傍観者ではない。

できる限りこの人生を喜劇的かつ諧謔的に主演を勤め切ってやりたいと思う。

脚光を浴びて、称賛されたい、誰かのために生き、そして死にたい。

Shineは「死ね」と書くのだと、誰かの揶揄する声が聞こえる。

そんな非難は笑い飛ばしてしまえば良い。

大学を卒業してから一途に同じ企業に勤めている。

居心地は自分に合うように多少良くする事ができた。

録でもない事が起こりでもしない限り、勤め上げたいと思う。

自分の会社のために尽くすのは、世のため人のためになると信じている。

そんな私がここの社員食堂に通うのは、週に二度ほどだろうか。

 

営業中に時間が取れず食いっぱぐれてしまう。

日替わり定食がハンバーグとか、青椒肉絲とかそういうのだとあまり食指が動かない。

単に外食へ誘われたりということもあるし、この頃は自前で弁当を持っていく機会も増えた。

それでも貴重な三食の一角、月始に張り出される今月のメニューはほとんど毎日見遣っている。

社食不精の私だが、厨房のお姉さま方からは覚えが良い。

いつもご飯大盛りで頼んでいるので、普通盛りで注文すると驚いた顔で聞き返される。

 

どこにでもあるようなチェーン店で一食一飯を書いてきた。

今回は世界に一つの社員食堂だが、どこにでもあるような社員食堂の話。

私がよく注文させていただく食事について書く。

 

まず、何よりも唐揚げだ。

おかずに物足りなさを感じたときに手軽に追加できる。

というか、これしかほとんど選択肢が無いのだ。

完全なる自由を求めると、畑の土地探しから始めねばならぬ。

これだけに制限されているということは、見方を変えれば幸福なのかも知れぬ。

 

入社したときには一つ三十円だったが、四十円の時期を経て、今は五十円になっている。

この調子で値上げが続けば、私が退職する頃には一つ百三十円ほどか。

お年を召された大先輩たちが社食を利用するときには

「ご飯半分でお願いします」

とよく言っている。

その歳になってから唐揚げ追加なぞ、もってのほかであろうか。

大盛りは五十円かかるのに、半分にしても五十円引きになるわけでは無い。

妙な工合(具合)である。

 

勝手に蕎麦定食と呼んでいるメニューがある。

日替わり定食やら焼肉丼に、追加でたぬき蕎麦を追加しただけのものだ。

二枚の食券を手渡すと『またか』という表情で苦笑いされることがよくある。

しかし、それは好意的な眼差しをたたえているいるから、私はこの社食が好きだ。

ただ、調子に乗って社食のお姉さまに

「蕎麦だけにお吸い物ですよ」

なぞと放言すると、本気で呆れられる。

ちなみに、このたぬき蕎麦には、調味料コーナーの七色唐辛子をビックリするくらいどっと入れてしまう。

これにも呆れられるが、実際美味しいし、顔も売れる。

 

先にも述べたが、いつもご飯は大盛りにしていただく。

たまに普通盛りを注文して聞き返されることがあるのだが、

「今日は他所でお蕎麦食べて来ちゃったので」

と応答し申し上げることがたまにある。

これにはこの頃『あぁ、どうりで』という優しい表情を返していただける。

お互い名も知らぬ男女である。

 

ご飯大盛りでは足りない時が必ずある。

日替わり定食が鯖の時だ。

オフィスでも上司やお姉さまから

「明日、鯖ですよ」

なぞと喚起していただけるのだが、たいがい

「もう食券買って予約してあります」

と応じている。

社食の予約をしている社員は他にいないから、笑われる。

笑われるのは道化の本懐である。

 

鯖塩焼き定食“普通盛り”の食券を出してお願いする。

案の定、お姉さまが聞き返す。

ちょっと戯けて、重ねておいた二枚目の食券を披露する。

ル・シッフルが最初の大勝負でショーダウンするときのように。

「おおっと、ははは、ブラフだと思ったかね」

両断された半身の鯖を二人前、単純に鯖一匹を食べることになる。

これだけあると、切り身を食べ終えてしまうのが惜しくなくなるから良い。

 

鯖の日はこれだけに止まらない。

その食後にテイクアウト二人前を注文する。

目を見開いて聞き返される、無理もない。

しかし、明日の朝と昼に食べる分をオフィスの冷蔵庫に入れておくのだ。

「本当に好きなんですねぇ、鯖」と口々に、呆れ半分畏敬半分のような表情になって雑談が始まる。

「あんまり好きすぎて、鯖の詩を作ったくらいですよ」

意外だったのだが、お姉さま方みなが、聞きたいと言ってくれたことだ。

諳んじたところ、たくさんの笑顔をいただけたのでこちらにも書いて仕舞いにする。

 

今日も鯖、明日も鯖、鯖鯖鯖鯖、鯖が好き

 

朝起きて、鯖食べて、回転寿司では、鯖で〆め

 

塩焼きだ、照焼きだ、手間暇かけた、鯖味噌だ

 

鯖缶は、大根煮、冷や汁にしても、イイ感じ

 

夕食は、お刺身だ、衣まとわせて、揚げ物だ

 

今日も鯖、明日も鯖、鯖鯖鯖鯖、鯖が好き

 

鯛が好き、鮪好き、それでもやっぱり、鯖が好き

【人生5.0】Junの一食一飯 #009 やよい軒【ONLIFE】

考えろ、考えろ。

俺たち人間て奴ばらにできるのはせいぜい考えることだ。

悩む前に考えろ、そしたら迷わず行動せよ。

時間が無ければ行動しながら考えたって良い。

土曜の昼食が毎週ラーメンではいけない、さりとてその隣にあるカレーというのも芸がない。

両方行くのはもう通用しない。

 

そんな中で、ちょうど思い当たったのがやよい軒さんだ。

身体はCoCo壱番屋さんとその隣にある家系ラーメン店さんの前まで来ていたのだが、考える力が、意志の力が勝利した。

流石アライアンスを代表するシステム、ピッチスペルである。

急いで身体を右へ九十度旋回し、少し先にあるそのお店へと向かった。

 

考えろ、考えろ。

相手はあのやよい軒さん、手強い定食メニューが勢揃い。

鯖か、唐揚げか、カットステーキも捨てがたい。

考えろ、考えろ。

悩む前に考えろ、そしたら迷わず行動せよ。

 

やよい軒さんはご飯おかわり自由だ。

そして、私はお腹がペコペコだ。

今日は濃い目の味付けで、ご飯をたくさん食べさせてくれる一皿にしよう。

鯖味噌か、生姜焼きか、茄子と豚肉の味噌炒めなぞはあるだろうか。

しかし、あれもこれも食べたい私の変態食欲を満たしてくれるのは、やよい御膳これも捨てがたい。

考えろ、考えろ。

今日の一食一飯、私個人対外食産業の決戦の様相を呈している。

 

そして行き着いた店頭に大きなポスター、カキフライミックス定食。

これだ!

外食産業から見舞われた強力なストレート。

季節のメニューに1ラウンドK.O.を喫した。

悔しくなったので、お茶漬け用のミニサバ小鉢を追加した。

塩焼きだ、照り焼きだ、手間暇かかったサバ味噌だ。

だから今日ならミニサバだ。

ご飯おかわり自由なのに、別定食追加なぞする必要がない。

 

食べたかった唐揚げも、ミニ唐揚げで追加しよう。

小鉢で彩りを添えるという、今までになかった選択肢に心が躍る。

大皿定食のお店はこうして私の食欲を満足させてくれるのか。

カキフライ三つと、エビフライ、アジフライ。

これらにはたっぷりタルタルソースを付けて食べたいから、も一つ追加して。

 

お味噌汁変更、貝汁か豚汁か。

いや、今回はやめておこう。

特に豚汁は、毎回変更しているとそういう人になってしまう。

変更しないという選択もアリなのだ。

いや、しかし、納豆汁にするのに納豆を買おう。

この提案は良し、群を抜いている。

 

あ、それとあと、〆にはササっと卵かけご飯にしよう。

ご飯おかわり自由を徹底的に逆手に取るのだ。

卵購入、追加はこれくらいで良いか。

食券の束が腸詰めみたいになってぞろぞろと出て来た。

こういう事ってあるのか、なんだか笑える。

結局、やよい軒さんは色々と食べる分にはイイ感じ感じ検定準一級だ。

これはかなりイイ感じ。

今回は注文しなかったが、牛肉のすき焼き小皿や、天ぷら小皿もある。

席に案内されてから改めてメニューを眺めていて吹き出してしまいそうになった。

定食メニューには「なす味噌と焼き魚の定食」という欲張りセットがあったのだ。

もちろん焼き魚はサバの塩焼きである。

あんなに考えていたんだから、総合的に判断して正解はこちらである。

 

考えていたにもかかわらずカキフライに飛びつくあたりが、人間の愚かしさ。

しかしながら、エビ&アジフライの助太刀があっては敵わなかった。

よくよく考えれば、単品でカキフライ二粒から追加できるのでそれでも良かった。

去年の雪、今いずこ。

されど、反省があるのは考えていた証拠だ。

 

さて、本日のランチがLaunch、榴弾みたいなカキフライ。

定食とミニ唐揚げについているキャベツを先ずそれぞれ食べる。

甘いお豆とか生野菜は先に食べ、メインばっかりでご飯を食べたい。

やよい軒さんのキャベツにかけられているゴマドレッシングは大好きだ。

これでご飯を食べたくなるような絶妙な味付けである。

 

解き放たれた獣のようにカキフライをタルタルソースで食べる。

もう三個全て無くなってしまった。

今やテーブルの上には、エビ&アジフライ定食が置かれているばかり。

山椒魚で有名な井伏鱒二はユーモアとペーソスの作家と言われるが、訳せば諧謔と哀愁という事になるから少し可笑しい。

エビ&アジフライ定食には諧謔と哀愁があった、確かに。

タルタルソースは予備がまだ一皿ある、これは頼もしい。

 

心を落ち着かせるために納豆でもかき混ぜようか。

お味噌汁の中に入れて、よし、これで落ち着いてご飯のおかわりに行けるな。

接触厳禁の今を生きている我々に、文明の利器が優しく微笑んでくれる。

「ごはんおかわりロボ」である。

粘っこく青々した若葉のような優しさを、このロボットは文字通り振り撒く。

これで型式番号がED-209とかだったら苦笑しかしないが。

 

並盛にした二杯目のご飯を、ミニサバで掻っ込む。

もうなくなってしまった。

ミニサバはサバの半身の五分の一程度の大きさだからだ。

本来なら、出汁茶漬けにしてサバをほぐしてたっぷり楽しむためのものを、パッと食べてしまった。

呆けて納豆汁をすする、美味しい。

食べてしまったサバを嘆いても仕方ないので、唐揚げをパクつく、美味しい。

 

しまった、テーブルの上が閑散としている。

エビ&アジフライ定食になってしまった。

注文しすぎたものはことごとく眼の前に無いので、元々何だったかも判然とせぬ。

判然とせぬままに残されたものも食べた。

最後に卵かけご飯だけが残ったが、それも食べてしまった。

人生の縮図であろうか。

 

【人生5.0】Junの一食一飯 #008 珈琲所コメダ珈琲店【ONLIFE】

咖喱の後には珈琲を飲む。

この二つをセットにしているイメージは何処で植え付けられただろうか。

新宿か新橋か、まあそんな所だろう。

前回、CoCo壱番屋さんで咖喱を頂いた。

無論日を改めてではあるが、珈琲を飲みに行こうと決めた。

向かうのは珈琲所コメダ珈琲店さんだ。

 

よく見かける記事には、その質量感に圧倒されて、敗北感と共に退店という一連のクリシェが出来ている。

変態&異常の二重属性を食欲に擁する私には、何、恐るるに足りぬ。

だが念のため、朝食はコンビニおにぎり二つにしておいた。

何も食べないままでは、日課のランニングに障ると判断したためだ。

 

二日前の土曜、会合の後オフィスの寝袋で寝た。

職場泊は二年ぶりだろうか。

間の悪いことに、明くる日曜が工事のため、守衛さんが来てしまった。

騒ぎとなったらしく、朝八時ごろ血相を変えた部長がオフィスに来た。

寝巻きがわりの運動着姿で仕事をしていた私は事情を説明し、小言を貰った。

 

凹んでいても仕方がないので、日曜はやることを済ませて夕方に退社。

親友のKが珍しくLINEを寄越し

「御茶ノ水の蕎麦屋が閉店しててショック」

と言っているので、合流して慰める。

金曜から三日連続で飲んでいる事になる。

聞けば、閉店したのは小諸そばさんだという、私もショックだった。

 

そして、今朝は月曜、いつも通り朝一番に出社して部長に頭を下げた。

お咎めなし、円満解決し、ニコニコで今ランニングに出かけたところである。

身体が軽い、心が清々しい、そろそろお腹が鳴りそうだ。

そんな私を察してか、部長がその日の三時過ぎに丸亀製麺さんのうどん弁当、秋刀魚の天ぷらが載っているやつを差し入れてくれた。

昼食に摂るなら白いご飯も欲しくなるが、おやつには丁度良かった。

 

さて、そんなおやつから遡る事、五時間前。

私は珈琲所コメダ珈琲店さんに居た。

出された水はすぐ一息に飲んでしまった。

ランニングしてシャワーした後だったからだ。

早すぎる昼食、何にしようかと固唾を飲んでいる。

 

入店までの困難もあった。

朝のすき家さん、日高屋さん、プロントさん、松屋さん、富士そばさん。

ランニング後の私はビールが飲みたくなっていたのだ。

さらに、コメダさんのすぐそばには、孤独のグルメにも出ていた有名な飲み屋さんが開いている。

何のためにランニングをしたのだと自分に言い聞かせて、今、コメダさんのメニューと対峙している。

 

しかし、一択だ、やはり。

ヒレカツ、金貨が五枚載っているかのようではないか。

迷宮の男さながらである。

さっきから白いご飯が食べたくてしょうがない。

丸パン二つでは心許ない思いがする。

ここで欲をかくから失敗するのはもう見飽きているのだ。

つまり、サンドイッチに手を出せばバースト、ミックスサンドをぐっと堪える。

 

これなら行けるだろうと探したのは、エッグバーガー。

メニューの上からシールが貼られている。

店舗での取り扱いなし。

ロスト!!

ご飯は無い、ヒレカツ以外にも食べたい、しかし食べきれませんでしたというオチは避けねばならない。

 

ユリイカ、これだ。

コメダグラタン。

珈琲は、たっぷりアイス。

押しボタンで店員さんを呼ぶ。

それぞれ注文し、お水もお願いする。

シロノワール食べたいけど大きいんだよな、小さいサイズだと取材に来た意味が無くなるしな、なんて考えながら。

 

「コーヒーにはモーニングが付きますがいかがしますか?」

「はっ、何ですか?」私はちょっと身構えた。

「こちらのページのモーニングがセットで付きます」

「えっ、た、タダでですか?」私は身を乗り出した。

「はい」まだぎこちないアルバイト店員さんの笑顔が眩しい。

「わっ、やった」私は小躍りしてそのページを睨んだ。

 

コメダ珈琲店さんを利用するのは、バンドの打ち合わせ時ばかりだ。

モーニングの存在は全くの盲点だった。

というか昼食を摂りに来たのに、モーニング?

良いのだ、朝十一時までは珈琲にセットで付くのだから。

尾張魂の徳高さに触れた想いがする。

 

厚切りの食パンが縦半分に割かれたトースト。

Aセットは定番ゆで卵、Bセットは手作りたまごペースト、Cセットは名古屋名物おぐらあん。

シロノワールは注文しないが、Cセットにすればデザートの代わりになる。

そちらをお願いし、トーストにはジャムを塗って頂いた。

たかだか、トースト一切れでバーストなどありえぬ、渡りに船だ、皿に毒だ。

他には、バター、練乳ソースなどがあるという、至れり尽くせりか。

Aセットが気になったので、ゆで卵を追加注文した。

 

さて、しばらくすると、続々と料理が運ばれて来た。

いよいよ最後に、グラタンとセットのバゲットパンの籠なぞは、テーブルに載りきらず、整頓する間しばらく膝の上に置いておいた。

二種類のドレッシング、私はしょうゆではなくオリジナルの方を使用する。

そして、籠にはフォークが一本。

箸が欲しい。

店員さんに訊くと、その拍子に白いご飯はないか訊きそうになるのでやめた。

サラダを平らげて、いよいよヒレカツ。

最後の一枚になって冷めてしまっては興醒めだから、時間との戦いだ。

幸いにも、グラタンは熱い容器に納まっているので、時間差で食べ進めて行けば良い。

二枚目のヒレカツでもう上顎を火傷してしまったのはご愛嬌。

口の中は私のアキレス腱である、どのように鍛えても鍛えきれない。

ええいままよ、とグラタンを味見。

チーズたっぷりでとっても美味しいが物凄く熱い、そっとしておこう、当分冷めるまい。

 

さて、つい気になって注文した茹で卵だが、殻を剥きながら着想あり。

これにオリジナルドレッシングかけて食べたら、擬似タルタルソースになるぞ。

茹で卵を半分に切り、断面にドレッシングをかける。

ヒレカツに追っかけていただく。

ひ、ひ、ひ、思わず下卑た笑いが心の中で巻き起こる。

ロビン・フッドがいねェなら——ロビン・フッドになればいい。

 

丸パンは十字に切り込みが入れられ、バターが載る。

この数を二つに設定したのはコメダさん絶妙だ。

もっと食べたくなって陥穽に転落するのが後を絶たない。

案ずることなかれ、コメダグラタンとバゲットで応じる。

仕舞いにデザート代わりのモーニングトースト。

 

会計を見て珈琲が余計だったと思ったから何にもならない。

船橋ノワール 第六章

十畳の和室、瀟洒な山水の軸を掛けた床の間を背に、綿摘壮一、永井日出夫の両名が並んで座り、酒を飲んでいる。届いたばかりの天婦羅は四人分だが、対面の客たちは鰈の焼物にも碌に手を付けず帰ってしまっていた。永井老は早速タラの芽を一つまみ噛み締め、酒で流す。特別本醸造の八海山が春の香りを引き立てる。もうこれで十分。あとは、健啖家の壮一が楽しそうに飲み食いするのを眺めていれば良い。ここ、船橋市湊町にある割烹旅館玉川は、創業大正十年。『ダス・ゲマイネ』を含む太宰治前期三作品が書かれた所縁ある旅館だ。この界隈では最早入手困難になっている美味珍味が秘めやかに集まる、今となっては誰も知らない場所である。

「アサシンメイカーの永井先生が、他人様に先生付けですか。」

「先生も沢山いるからね。教師、弁護士、医師、代議士。作家先生も然り。しかし、そのピラミッドの頂点にいるのはヤクザ者の用心棒ですよ、綿摘センセ。」

「揶揄わないでくださいよ、其奴だけ人様の役に立って無いじゃないですか。」

「ははは、それは裏を返せば、ある程度なら世間様の役に立っているってことかい。」永井大佐が笑いながら言い、壮一は照れ隠しか何か解らぬが手元の猪口をグッと飲み干した。

先刻までこの部屋には、千葉県議会議員くろす太一、並びにその秘書赤木光が同席していた。船橋東武が麻薬取引でせっせと金力を貯えて来た一方で、船橋西武が誇った武力はそのほとんどを失ってしまった。今、地元に必要な正義の士を、くろす議員に担ってもらうべく、先生には県政から国政へと飛翔し、ゆくゆくは閣僚になって頂きます、という永井老からの打診だった。その晩も一体どんな無理難題を吹っ掛けれらるか、くろすは終始冷や汗だったが、その進言を聞いた時には上の空。警護の赤木は酒を飲まなかったので、対照的に涼しい顔をしていたが。

代議士くろすは、永井の切り札というよりは財布だった、少なくとも当人はその様に受け止めていた。用命はと言えば、行田駐屯地に予算をいくら配分せよだとか、行田士官学校に船橋市教育課長の視察を寄越せだとか、施設の改修や設備の導入に便宜を計れだとか、その手の事ばかり。今夜の急な会合も断るわけにいかず、一体何かと出向いてみれば、いつになく丁寧な口ぶりの永井から労いの言葉を受け、今までの働きぶりに報いるべく入閣の手立てを打たんと言うではないか。

くろす議員にしてみれば、黙って酌を受けていれば、莫大な政治資金が只で転がり込んでくるのだ。こんなに楽な事は無いように思われるが、勧められるがままに飲めば飲むほど、何が正気で何が罠やら見えなくなる。向付の鰹からして、薬味が何かも感じない、粘土を食っているようだった。それを看過しながら、特務の大佐はこんな調子で語りかけていた。

「相思相愛という言葉がありますな。肴と酒、肉には葡萄酒、酒に對しては當に歌うべし。これを先生の事に当てはめてみれば、それは政治とカネ。ま、そんなところです。」

これまでの付き合いでは、一度たりとも聞かされたことの無い、暗示的な命令がされている。洒落とも冗談ともつかないような口調で、だ。隣にいる綿摘壮一は、惚けたような表情で悠々肴と酒を楽しんでいるのだが、首から下は満身に殺気を帯びているというのが、こちらの混乱に拍車をかける。

「人生、幾何ぞ。」そんな様子を察したか知らずか、壮一が合いの手を入れた。曹操、短歌行。

彼は石川の鶴乃里で火蓋を切っていた。スーツもタイも真っ黒、これは死んだ大典に対しての弔いを意味していたのだが、政治屋のくろすでもそんな事は知る由もない。兎も角、断れば殺す、と遠回しに言われているとしかくろすには思えなかった。『人生、幾何ぞ。』とはそう言う意味であるとしか読み取れないのだ。無論、壮一にそんな気などさらさら無かったのではあるが。

秘書の赤木は運転も務めるため酒を飲まないが、壮一の殺気を何とか跳ね除けようとするのに必死だった。本題も終えこれからが宴という頃、兵庫県から送られてきたという鰈を残し、二人は早々に部屋を辞したのだった。

一通りの献立を平らげ、最後の水菓子が運ばれて来てから永井が告げた。船橋東武がいよいよ今度は、我々の排除に乗り出す気でいることを。筆頭第一位、郷田環が行田駐屯地の回線に割り込むようにして連絡を寄越してきたという。

「金塊を、そろそろお譲り願いたいとさ。」

「いくらでです。」

永井老人は静かに手を開いて見せる。指を五本立てている。

「五千兆円ならば、妥当じゃありませんか。」そう言って壮一は盃を飲み干した。

「五億と告げてきたよ。」冗談では無いといった感じで、永井は憮然と吐き捨てる。

「ほう、連中さざんかとつつじの見分けもつかんとは。」壮一は思わず陶器の盃を手の内で割ってしまった。豹変した顔付きには、先程までと打って変わって怒りが漲っている。

習志野軍閥の士官養成学校兼集合住宅、通称“団地”は、軍閥の基幹通信基地として重要な役割を果たしてはいるが、それらはあくまで建前だ。薬園台にある習志野軍閥本部駐屯地、通称“塔”とは一線を画した任務を永井部隊とまで呼ばれる彼らが担っている事は公然の秘密だった。彼らが擁するそれは、血溜まりの中から引き上げられた金色に輝く闇の文化財である。

なんと無残な平城京。七百四十年から僅か五年間で現在の京都府にあった恭仁京、滋賀県紫香楽宮、大阪府難波京と三度の遷都を経て、七百四十五年に五年ぶりで再び平城京へと遷都した。この背景には疫病の流行、旱魃、飢饉、大地震や乱といった社会不安があり、聖武天皇が世の平和を願って遷都を繰り返したという理由がある。度重なる遷都によっても世の乱れは治らず、聖武天皇は自身が信ずる御仏に救いを求めた。そして遂に七百四十五年から十二年の歳月と、のべ二百六十万人ともいわれる人手をかけ、奈良の大仏こと東大寺盧舎那仏像が完成した。鋳型の中に銅を流し込む一般的な製法が採られたが、工程の最後の五年間は鍍金に費やされた。

当時、鍍金の主流は水銀アマルガム法である。青銅やジュラルミンに代表される様々な合金があることからも分かる様に、金属同士は混ざりやすい。この性質を利用し、液体金属に固体金属を溶かすというのが、水銀アマルガム法の理念だ。口の中で「融けた」チョコレートと共にガムを噛んでいると、ガムが「溶けて」しまうというのと理屈の上では似ている。水銀5に対して金1を溶かし合わせたアマルガムを、鋳造した大仏に塗り付け表面を松明で焼き水銀を蒸発させ、残った金の面を磨き上げる。引き起こされた日本史上他に類を見ない水銀蒸気による公害により、当時の左官をはじめ奈良の人々は斃れた。表面を覆う呪われた金塊は50kgとも60kgとも言われる。

完成から百年後の地震により、仏像の頭部が落下。五年ほどで修理落成供養があったが、その三百年後と七百年後にそれぞれ戦火に包まれる。なので、金などは早々に散逸するのだが、その主たる理由は夜盗による窃取である。当時の聖武太上天皇、孝謙天皇もこれらに早急な対応を示し、以降は下手人の捕縛と金箔の奪還を専門とする集団が検非違使別当直々に組織され、回収された金塊は密かに正倉院入りして供養されるのだった。それらが何故、船橋の一軍閥に秘蔵されているか、その話はまたの機会に回す。

時に、七十年代の金価格は一万五千円/g、50kgで七億五千万円である。船橋東武はこれを値切って五億円と申し渡して来たのであるが、壮一の言葉を借りるに、この奈良大仏を覆った金は五千兆円が妥当であると言う。果たして、何が一体そんな馬鹿げた金額が妥当であると言うのか、その話もまたの機会に回そう。

かように話がずれ込んでいる間に、綿摘壮一は膳を平らげ、鶴乃里の四合瓶を空け、手付かずの料理は包ませて運転手の若い准尉への差し入れに持った。今夜永井大佐の運転手を勤めているのは、専属の小林少佐ではなかった。壮一は残り物の手土産を准尉に渡してから、座席で永井老人に理由を尋ねた。

「いや、何、コイツさ、こないだおイタでこの車乗り回したのよ。そこにWを乗せてね。」口ぶりには愉快さが滲み出ている。Wというのは軍閥でも選りすぐりの代行者に授けられるコードネームである。

「私もね、永井先生、大親友の乗り物を無断で拝借して駆け抜けた日がありましたよ。」

「盗んだバイクかね。」

「盗んだのは馬ですよ、馬。」

「ねったい。」と言って永井は吹き出し、あとは二人とも大いに笑った。

 

石窯パン工房パァントムの修理鈴音は、店員として職場で日々感じている充足感以外の幸せを、この日久しぶりに感じていた。店で販売しているこくうまカレーパンが、カレーパングランプリの東日本揚げカレーパン部門の最高金賞を獲得したためだ。これには誰もが、お客さんももちろん驚いた。だから、父から、今夜なるべく早く帰ってみんなでカレーにしようと言われて、鈴音は嬉しかった。彼女の我が家ではカレーが自慢のご馳走だったのだ。お店のものとの違いは具の大きさだけ、けれどもウチでしか食べられないカレー。それと同じ味の商品が受賞したというのは、なんだか自分の家族が褒められたみたいで、とても誇らしかった。

父はビールを飲み終え、家族のために赤ワインを開けた。鈴音は、家のカレーがパンやご飯以外にワインにも合うということを知って、少し大人になった気がしていた。ワインなんか自分で飲むことなど全く無いから、却ってこんな日が特別幸せなものに感じられる。大きくてほろほろに煮込んだ牛スネ肉をナイフとフォークで頂くと、もうこれはただのカレーではないように感じる。これがウチのご馳走。お店で焼いたフランスパンにつけて食べる。小さい頃、ご飯で食べていたのと違ってこれも美味しい。ワインの程よい酔いに任せて、一家全員が幸せなため息をついているようだった。

「お客さんが勝手に応募して、みんなの協力のお陰で審査員さんが勝手に一番にしてくれた。父さん喜ぶだけ、楽でいいね。」戯けた様子で父が言う。毎日仕込みから何まで行っているから、一番苦労しているのは父であることに間違いはないし、それに加えてお店の誰一人楽はしていないのだが、今夜の父はいつもにまして上機嫌で何よりだ。

「それじゃあ、鈴音ちゃん、少し早いけどお誕生日おめでとう。」父がテーブルの下に置いておいた黒い紙袋を差し出した。銀文字でdunhillと書かれた黒い厚手の紙袋だ。その中にはやはりまた黒い箱が入っている。

「お父さんこれ高いやつ!」鈴音は吃驚して声を上げてしまった。

「鈴音ちゃん、いつも慎ましく生きてるからたまにはね。」父は慣れない様子でウィンクをした。

溢れ出そうな期待感を抑えるのに苦労しながら、恐る恐るその蓋を持ち上げる。せっかくの高級品をこんなめでたい日に贈られたのに、もしも的外れな品物だったとして落胆した表情を父に見せられるはずがないからだ。だから必然的に恐る恐る中を確認することになる。期待した表情では駄目なのだ。落差の大きな失望感が顔に出てしまう。彼女の強さの源は、そういった心がけにあると言って良い。

蓋を取り上げると、真っ黒の天鵞絨でそれは包まれていた。

その生地に触れた時、鈴音は不思議と心が安らいで、今までの精神的な動揺が落ち着いていくのを感じた。

『きっと大丈夫。』——彼女がこの直感を外したことは今までにない。

黒い革の表紙、これはノートだ。

「嬉しい!」一目見るなり彼女は言った。

「派手じゃないのが好きだと思ったから、これ選んで正解だったわね。」母の英理子が父に言った。

箱から取り出すと、ノートの小口には銀があしらわれている。きらりと光るその様に、鈴音は感動を覚えた。黒の中の黒、それでも輝きがある。心強い気持ちになったのを実感する。この感情は、まるで隣に姉が寄り添ってくれている時を彷彿とさせるものだったからだ。いつも姉の背中を追いかけていた、目の前を姉が歩いている、すぐ目の前を、だから一歩を踏み出し続ける事ができた。そして、その安心感に鈴音は幸福を感じていた。

「お姉ちゃん、今どうしてるだろ。」普段、努めて話題にしないようにしている事がふと口から出てしまった。家族みんな、姉のことが好きだから、家に居ないことを寂しく思っている。

「そりゃ、お姉ちゃんは父さん以上に頑張っているよ。」

姉は都内に部屋を借りて、丸の内に勤務している。見習いのような安月給から始めて、正規雇用になったのが勤務開始から五年目のことだった。

「そうね、笑っていられないくらい忙しいかもしれないけど、頑張り屋さんのお姉ちゃんはそれを幸せに感じてるって、お母さん思うけど。」

出来ることを探し、居場所を作り、求められる存在になるまでにどれくらいの苦労があったか想像もつかない。そんな姉のことを、鈴音は誇らしく思うのだ。大学を卒業して以来、都内で暮らすようになってから姉は帰ってきていない。連絡はあっても、姉自身の話題が出ることはそうそう無かった。鈴音は姉からの弱音を聞いたことが無かった、もちろん強がっている素振りも見なかったが。

「このノート、なんだかお姉ちゃんみたい。気取らない凛としたカッコ良さがあって、でもここみたいに目立たないところがすごく綺麗なの。」両親は顔を見合わせて笑った。プレゼントするのに二人はそこまで考えていなかったからだ。

遠く離れていても縁がある、絆がある。頑張っている人を、想っている人が居る。そんな人たちが在る。

 

強い風が吹いている。向かい風。その夜も鈴音の姉、修理美櫛は西船橋駅北口に立っていた。

駆け出しの頃は、職場に住み込む気構えで日々格闘していた。良い給料で働きたい、社会的な安定が欲しいという気持ちよりも、大好きな同僚のみんなから褒められたいという気持ちの方が強かった。物心ついた頃から何となくなりたかった職業だったが、そんな彼女に原体験がある。大学四年の頃に学科の飲み会で、どうしてそんな仕事に就きたいのかと聞かれたときの事だ。

『私くらい優秀な人間が現場にいれば、日本がほんの少しでもマシになるから。』と返答したのだという。

飲み会での放言はもう覚えていなかったが、卒業後の同窓会でその時の事を聞かされて驚いた。当時、向こう見ずだった頃の自分らしい答えだと思うが、そんな風に言ったんだという事を聞かされても肯ける点がある。以来、自分がこの仕事で働いているのは、これからの日本を担って行く若い魂のために命をかけているのだという自覚が生まれた。大胆で不敵かもしれないが、彼女にはそんな気がしていた。

幸か不幸か、そんな無謀な感傷に浸って働いていたせいで、正規雇用となり職場での存在感も増して行ったのは確かだ。新人の頃に比べて蓄積された経験から、まだ悩むことはあっても、もう迷うことはない。悩むよりも前に、まず考えているからだ。考えて悩むことはあるが、その先に決断がある。決断してからはもう迷わないし、失敗したら非を認めて謝ればいい。失敗する前に修正がきくから、大抵の事は成功に漕ぎ着かせることが出来る。物事は成るようになるのではない。人間には辛うじて、いや、人間には命からがら何事かを成し遂げる力が具わっている。これは彼女が業務における経験を通じて培った信念の一つである。

しかし、どこで歯車が狂ったか、今の美櫛の夜の顔は商売女だ。

朝七時にはオフィスを開け、誰よりも早くから仕事をはじめる。やっと二十一時過ぎになってから退社して何処かで食事を摂り、東西線で大手町から西船橋へ向かう。一晩に一人客を取り、そう安く無い料金で相手をし、何処かの安宿で寝てしまう。住処に帰る事は殆ど無いからキャリーバッグを引いて移動する。出勤前に駅のロッカーにそれは預ける。棺桶の中で生きているような気がするが、死んだ方がマシだとは彼女には思えない。彼女が死んでしまっては、長い目で見た時に国の損失につながると、そんな風に思っているからだ。彼女の代わりは勿論居るだろうが、そうは居ない。居るだろうけれども、探し出すのは難しいだろう。

夜に仕事では首を絞められる事もあるし、首を絞めてやる事もある。相手が望む事はなんだってしてやるし、されてやりもする。物の様に扱われる自己と、それとは別に物の様に他者を扱う自己とが混ぜ合わさって来ると、一つの身体に二つの命を生きている気がして来る。自分が客か、客が自分か分からなくなって来て、それはきっと同じで一つの事なんだと思えて来る。自分の仕事は昼と夜、一体どちらが本当なんだろうか、きっとどちらも自分の仕事であるには違いないが。それで、もう今の自分は、仕事と勉強と遊びの区別がつかない。

仕事の量は増えた。部下後輩の指導が必要になったが、一向に改善されないその連中に対する憎悪が募るばかりだ。奴らは悪意があって、自分の指示に従わないのではなかろうか。お前たちの能力が低いと私の評価が下がるではないか。職場から私が必要とされなくなるのはこのクズどものせいだ。折角、叩き上げでここまで来たのに、居場所を作ったのに、頼られる人材になったのに、こいつらときたら寄生虫だ。そして、苦しんでいる私のことも顧みずに仕事を割り振る糞上司、他部署の無能な課長、職場に火をつけてやりたい。残業なんかこれ以上するもんか、残業は給料泥棒がやることだ、一分一秒も無駄に出来ない。私には見通しがある、段取りをつけられる、計画通りいかない時のための計画を毎朝立てている。そんな優秀な私の時間を、誰も彼もがくすねようとしている。時間泥棒は自覚がないからたちが悪い、だから平気で盗めるのだ。悔しい、私の優秀な頭脳は、お前たちに奉仕するためにあるのではない。コンビニのレジ待ちの客が多いと、其奴らからも時間を盗まれていると感じる。そういう時は、商品を万引きしたくなる、盗んでいるのはお互い様なのだ、盗まれたくなければ私の時間を盗むな。今、私のこの黒い革のノートを盗み読んでいるお前。

コンビニで買うのは専ら酒だった。休日は朝九時過ぎに起き、ロング缶のビールを二本飲み、すぐに眠る。昼過ぎに目覚めたら、赤ワインを開けて半分ほど飲み、また眠る。それを夜にもう一度行い、次の一週間が始まる。よく聞く笊だの枠だのと言うのに、自分が当てはまらなくて良かったと思う。酔えなければ地獄だ、眠れないから。眠れなければ仕事にならない、それではプロとは言えない。この夜の顔を拵えたのは、昼の仕事を続けるためなのに、就寝と起床の時間を固定できないようでは仕事する資格を欠いている様なものだ。熱狂のうちに仕事を続け、その最果てにある未だ何か判らない何かを垣間見る。その為に、僅か一時だけ物の様に扱われる、物の様に寝てしまう。その時だけは全てを忘れられる。その時があるから、再生を毎朝感じられる。毎晩死んでいる女が、これ以上死にたいなぞと望む必要は無いのだ。おまけに再生までもが付いてくる。

これは形を変えた自傷行為。このシステムから外れてしまうと、最早自我を保つ事が出来無い。誰か遠くの人たちの幸せと自分の生活費のために出社すると、その日のストレスを帳消しにする方法が他に見当たら無い。そして彼女は、こんな自分を愛しいと思っている。身を粉にするとか、寿命を削るとか、そういう生き方では無いのだ。自分が死んで誰かを救う日を繰り返す生き方だからだ。たまたま彼女は、今朝も目を開いて起き上がることができたというだけである。

強い風が吹いている。向かい風。駅から拡散して行く方へ向かう男達に色目を使う。何人かと目が合う。彼女は交番の先にある方の、小さなバスロータリーに立つことが多い。まぁ、今夜も小一時間で客が付くだろう。そう思って過ごしていると、ふと周囲に人の気配が途切れた瞬間があった。電車の発着によって人の波に疎密があるから当然なのだが。

声も出ないような大きい衝撃を背部に受けて、彼女は跳ね飛ばされた。その身体を抱え上げて、男が真っ黒なミニバンの後部座席へ押し込んだ。十秒もかからず、車はその場から消えた。

 

「エッ!万葉集の原本!?冗談でしょう?」子桜殉が素っ頓狂な声を挙げた。

習志野軍閥行田駐屯地、通称“団地”。船橋東武第十二位綿摘班の四名は、綿摘壮一からの招きを受け、この士官学校の校門を通過しようとした。応対に出たのは、三十過ぎに見受けられる横柄な軍人だった。黒衣の軍装に、大尉の階級章。大尉は、彼らの事を如何にも軽蔑しているという視線を隠そうともしない。口数の少ないボスでは不味そうだと子桜は気を遣い、事情を説明すると、取次の通信がかかりすぐに上官らしき男がやって来た。階級章は少佐。

案内されたのは行田士官学校の大講堂、その舞台の下手裏にある細長い物置の様な部屋の中。綿摘班の面々と少佐と大尉を含む数人の軍人が座っている。恭一は父から、腹を空かせて来いと言われていた。この夜少し面白い事があるからだという。士官学校通用門でその旨述べると、無愛想な大尉なぞ何故か地面に唾を吐きかけたものだ。一際丁寧で紳士的な少佐がその後の対応に現れた時、子桜は捨てる神あれば拾う神ありの心持ちとなった。

大講堂まで歩きながら、三名の班員はめいめい、この施設に関する他愛無い観念論を戦わせた。鈴井瞬は、通信機器全般とそれらの運用システムに興味津々だったが、こればかりは“団地”の最高機密と言ったところで、少佐は返答の代わりに笑顔を見せるだけだった。だが、鈴井にとってはその笑顔だけで十分当たりは付くのだ。彼は全てを悟ってしまった。瓜生昇は、男社会の縮図のような歪さを指摘し、その不自然な有り様に唾棄せんばかりの悪態を捲し立てた。鉄槍に貫かれた傷は不思議とすぐに快復し、今こそ好調絶頂にありといった様子である。秩序有る暴力と、秩序無き暴力、我々は前者を尊んでいるだけですよ、と言った風な言葉で少佐は物腰柔らかく応じた。挑発に易々と乗らない男の態度に感心したらしく、瓜生はすぐに大人しくなり、冗談めいた言葉を口にするほどになった。子桜は、行田駐屯地の表向きの任務ではなく、まことしやかに噂されている裏の任務に関して探りを入れたりしたのだが、流石に正倉院宝物堂御親封レベルの機密事項である“金塊”について馬鹿正直に情報開示がなされるはずは無い。しかし、鈴井に対して返答しなかった事を気にしてか、それとも瓜生との冗談で気が緩んだか、つい子桜の話に関しては冗談めかして万葉集の原本なぞと口を滑らせた所で案内先である例の物置部屋に到着したというわけだ。

「田子の浦ゆうち出でてみれば、だなぁ。」鈴井は静岡県富士市での思い出へ遡行する。あれは、もう十年近く前、三人でガタガタのオンボロ車で下道をせっせと運転して旅行した日のことだ。

「それは百人一首だろうが!俺は断然あしびきだな、あぁ鴨鍋が喰いてえ!」富士市吉原での郷愁は瓜生の一声で煩わしい現実へと呼び戻された。地獄とは所詮教養人の想像力の範疇にしかない、と鈴井は思った。ビジネスホテルおくむらよ、生しらすの思い出たちよ、さらばである。

「万葉集の原本は、現存しないんです!現存しないと、されているんですよ!いや、まて、それは裏を返せば、あってはならないという…。」子桜は隣に座った綿摘恭一に興奮気味で話す。

「私も知らないのですが、金塊なぞという一人歩きした噂より、私が知る内輪の噂話がそれなんですよ。」少佐は和やかに話題を否定する。

しかし、恭一は百人一首にも万葉集にも興味がないとみえ、というよりもさらに興味を持っている子桜の銚子からの土産話を披露してくれと言った。

「え?えぇ、良いですよ。ご存知かと思いますが、銚子では地元の喧嘩っ早い銚子漁師会と、新興の商工協同組合が対立しています。」そんな事は誰も知らない、軍閥の佐官がようやく風の噂で聞いたことがある程度なのだが。「漁師会というのは表向きで、会頭の船頭一擲は山サ会のトップ。この組織はまあ組織って感じじゃなくて皆んなが皆んなで穴を塞ぐって言うような、前時代的というか拡大家族的な集団です。で、商工協同組合ってのも実のところは、組長の本膳醸太郎が入山田組ってのを仕切っているんです。この連中はまあ企業的で、反社会行為をビジネスみたく扱います。で、報道はされていませんが、入山田組は、山サ会の会長である船頭の娘を誘拐しようと企てたんですよ。ただ、やはりちょっとこれは、I.K.E.A.と比べれば連中は素人の寄せ集めなわけですから、上手くいきませんでした。まるっきり別人を、しかも一度に三人も拐っちまったそうで。」

軍閥の少佐は目を瞑って黙っているが、大尉の階級章をつけた不遜な態度の男は、顔全体に広げた冷笑を隠そうともしない。拐われた三人はどうなったかと恭一が問うと、

「そりゃ、遠洋漁船に乗せて、太平洋でバラまかれて終わりですよ。ただ、明らかに三人いなくなってるわけですからね、同じ学校の同学年の生徒が。で、漁師会は地元にずっと居ますからね、その遺族達に泣き付かれて、さぁ喧嘩だと、こう言う事でドンパチを始めたわけです。商工協同組合の言い分としちゃ、したかどうかわからない誘拐は棚上げで、先にカチコミをかけてきたのはそっちだろうと言う口実で堂々と応戦してるんですよ。泥沼ですよ。こういう話の類は、ここいら船橋にいる我々極道も、一つの事例として学ぶところは多いかと思います。」

「兄さん、随分と詳しいんだね。」直立不動の姿勢を崩さず、しかし侮蔑的な感情を隠そうとせず、大尉が発言した。

「へ、へ、へ、軍人さんコイツはですね、そういうネタを嗅ぎ回るときは姉さんになるんですよ。ねぇ、処女の兄さん。」瓜生が調子良く応じた。「つまり、コイツの趣味は女装って事でしてね、キャバクラみたいなところに巧みに忍び込んじゃ、悲しい男の良心につけ込んでベラベラ喋らせるのが上手いんですよ。先輩方も、そんな盛り場じゃ気を付けて下さいね。あぁ、でも、そんな所に行くのは皆さんご法度ですかね。」

「どちらかと言えば声優ごっこが趣味なんだけどなあ。」観念したような苦笑をしながら子桜が言い返す。「ちょっと、君の趣味を知ってる俺からすれば、押し倒されて処女を奪われるんじゃないかと気が気じゃないよ。」

「だったらだ、ならそれは瞬に護って貰いなさいよお嬢さん。」さも眼中に無いと言われたかのような事に不満げな口調で瓜生が言う。

「殉君、大丈夫だよ、昇にそんな気ないよ。」鈴井瞬が笑って合いの手を入れる。

「へぇ、洒落たスーツの兄さんはどんなご趣味で。」またしても大尉が、侮蔑的に言った。

「女ですよ。」俯き加減に低い声で瓜生が唸る。「私は女の美しさ、神聖さにひれ伏してるんです。愛の奴隷というヤツですな。足元に跪いて、お願いします、貴女の外在化した美の深奥にある内的感情の美に、私めもぜひに交感させて下さい。と言って現金を渡すんです。だから私はソイツみたいな男には全く興味ありませんとも。商売女限定です、彼女らの中にはそれこそとびきりの天使達が、心優しい女神達が混じっているもんなんですよ、神秘ですよ。なぜって、私のようなクズにだって彼女らは尽くすんですから、全く理由が分からない自己犠牲じゃないですか。あの子たちの殆どが、この社会からの犠牲者なのに、まだそれでも己を捧げるんです。」目を輝かせながら男が言った。

「流石は第三のゴーゴリだよ。ここらで一つ、最近あった心温まる話を頼む。」子桜が話を少し進める。

「あのね、殉君、こう伸ばした人差し指をね、クイと曲げる。」と言って瓜生は人差し指だけでこちらへ来いとでも言うような手振りを交えながら話す。「このスムーズさなんだな。ね、こう人差し指をクイと曲げるようなスムーズさでね、四つん這いになった僕が尻を舐めさせている女にクソをひり出すわけだ!」万感の思いを込めて言い放つ。

子桜殉は、そういうのじゃねえんだけどなと言った表情で目を瞑り笑いを堪えながら俯いた。直ぐ何処かからか「ぺん!」とかそう言うような堪えきれなくなった笑い声が発せられた。直立不動の姿勢をとっていた大尉が、宙に向かって吹き出してしまったのである。自分の笑い声に対する照れ隠しがあるのか、吹っ切れたかのような饒舌さで大尉が主張を始める。

「狂ってるよ、あんた。あんたのような輩が、この街を狂わせる。あんたのそのクソの尻拭いを、俺たちがしてるってわけだよ。」

聞き終えるや否や、直ぐ脇の椅子に腰掛けていた少佐が立ち上がりざまに大尉を殴りつけ、彼は一回転弱宙を舞った。受け身を取って直ぐに立ち上がり、今度は憎悪を目に宿らせて直立不動で瓜生を見据える。その脇に少佐が立ち直り、同様にぐっと顎を引いて瓜生たちを見遣る。もう一人控えていた若い准尉もそれに倣った。

「あらぁ〜、これは修道士染みた生活を心掛けてらっしゃる軍閥の皆さんには、少々刺激が強すぎましたかな?」全く事態が飲み込めず、瓜生は軽口を叩く。

「おい、フョードル!こちらはお前さんの話がな、お気に召さねえとよ!」子桜は言うなり立ち上がって、少佐の目を睨み付ける。それで瓜生も気が付いて、立ち上がって大尉を鋭く睨む。

鈴井は、どうなろうが知った事なしという表情をして座ったままだ。馬鹿が勝手に馬鹿をやるというわけにはいかない、飼い犬の責任は飼い主の責任というのは極道の世界の常識でもある。恭一は両名に落ち着いて座るように言った。

「我々は顔潰されたら生きていかれませんから。」東武では滅多に聞かれない、西武譲りの発言を子桜が返した。

「だって今のはねぇ、ボス、全く秩序もクソもねえ暴力だったじゃないですか、え?」

行田団地の軍閥に綿摘壮一が着いているのは、近接戦闘指導顧問として刈根流現代殺法の伝授に務めているのだという事を彼らは知らない。といって恭一は今そこまで伝えてやるのも、余計なお世話になりそうで口をつぐんだ。

「若先生、コイツはおっ始まりそうな状況ですが、単なる喧嘩ですんでね。手前どもの二人がやりまさあ。」少佐が若先生こと恭一に向かって言い、扉の傍まで下がった。師匠筋の壮一の息子に対して、単なる義理で言っているだけだが。

その時扉が開き、まさに今夜の会の主催者である団地の老人永井日出夫大佐と、その影の侍従綿摘壮一が這入ってきた。彼らは、割烹旅館玉川から乗り付けたのだ。

「おう、何しとる。」永井が片手を振って、三人の軍人達にこやかに言った。

彼らは、揃って軍靴の踵を打ち鳴らして敬礼した。小学生が悪さをしている現場を担任に押さえられたかのような印象を受ける。彼らの間を縫って、綿摘壮一が恭一の元まで来て肩を叩く。

「おぉ、恭ちゃん。若い衆、はじめまして。」

恭一は壮一に目礼。殺し屋稼業の父が、葬式へでも行くような格好をしていると言うのは、この頃の記憶にない出で立ちで、なにやら不思議の感があった。それは自己への問いでもあった。自分自身も殺しはする、だが弔った事などない、いつか野垂れ死ぬのが終着点だからだ。父親のように長生きしている極道はそうそういない。円満に足を洗うなぞあり得ない。表舞台から去った者は楽屋で静かに殺されるものだ。父親は憎らしいが上手くやった。暗殺者が暗殺される確率というのは若干低下するし、表舞台から去ったとはいえ楽屋に引き上げたという訳でもない、彼は早々に裏方に徹したのだった。親父は老衰で死ぬのだろう、と恭一は思った。では、自分自身はどんな風に死ぬだろう。目の前で死闘を演じていた男、親父の兄貴分、だから自分にとっての大パパ、狙撃で殺されてしまった。親父のあの装いは、大パパの弔いなのだと今になって気付いた。凶手として生まれるとは、凶手として生きるとは、まず最初に殺したのは自分自身の心だったのではなかろうか。だから、誰の死に対しても動じない、淡々と仕事をする、結果として己が死のうがそれは構わない。こう考えているというのは、何か大切なものが欠落しているからではなかろうか。親父が憎らしい。大切なものを大切だと思える感情が生きていて、大切に扱おうとする行動が伴っている。一方で自分は空洞、虚、無。

しかし、綿摘恭一が人の生き死にを考え始めると、必ずあるところで思考の糸が途切れてしまうのだった。彼自身、掛け替えのない命の喪失を経験しているから。熱せられた飴のように引き延ばされた時間もまたその瞬間に途切れ、彼は我に返った。

永井が何やら指示を出していた。三人の軍閥は出て行った。この後の召集の確認に走らせたのである。永井老人も簡単な挨拶を済ませて、別の扉から舞台袖へと出て行った。

部屋に残ったのは綿摘父子と、第十二位付きの三名だ。壮一が手近の椅子に腰掛け、他の面々にも着席を勧めて話し出す。

「大病患っても煙草をやめない奴。医者にあと一本吸ったら死にますよ、と言われてから吸う煙草の味はどんなだろうね。美味いはずがないだろう、ただ漫然と吸っている中毒者なんてもんは。」話は唐突に、何やら趣旨の読めない話題から始まった。「それが、ボクシング世界タイトルマッチ直前、前日計量ならどうだろう。それも、計量前に、だよ。フライドチキン、唐揚げと言った方がいいか。どうかね。自分の人生を台無しにする食事だよ。食いながら、何をやっているんだ自分はと思いながら、やめられない、止まらない、分かっちゃいるけどやめられない。そういう食事だよ。いったい自分は何のために生きて、死ぬ気で生きて来たのか、あと一歩なのに、ゴール直前にもうどうしようもなく転落していく感覚。」彼が言うのはもちろん、思考実験というか小学生の雑談で話される程度の、もしも、に過ぎない。「これがシャブで何遍も捕まっちまう有名人達はよ、夜ごとその感覚を味わってるんだぜ。いやこれは芸能人に限らない、唯一そういった哀れな芸能人連中と一般人連中が持てる接点ってのは、覚醒剤の快感なんだよ。それは美味いなんて言葉じゃ言い表せねえよな。気が狂っちまうんだよ。実際、気が狂っちまってるに違いないんだ。あれでまだ正気でいられるのは、俺の知る限りじゃたった一人よ。俺が何を言いたいか分かるか?」

綿摘恭一だけは澄ました顔をしていたが、他三名はぽかんとした顔をしていた。子桜殉だけは、そんな顔ではあるものの、首を左右にぶんぶんと振る反応を示した。

「人生を台無しにする快感は、漫然と毎日やるもんじゃねえのよ。死ぬ気で必死に生きている、そんな風な、生活のために生活しているような人間こそ、絶対に手を出しちゃならない。そういう、命の灯火を燃え上がらせるのと引き換えに、足下照らして、一歩一歩進んでいるような人間に、勧めるような事なんてあっちゃならねえんだよ。一発でパタっと人生と引き換えにできないような代物は、あってはならねえのよ。俺が西武の綿摘と呼ばれた所以は、そういうところにあるんだな。」

出て行った三人の軍閥は、会場入りの確認へ行き、当番の人員以外はすでに整列している事を、小林少佐が舞台袖の永井大佐に伝えた。恭一達が控えている部屋に、永井老人の声が聞こえてきた。丁度壮一の話も終わったので、彼らはそれに耳を傾けた。

「僕はね、僕はまだ生きてますよ。余程の事がなければまだ死にません。天命ってものが、僕らにはある、違うかね?」そう言って、永井は少しだけ押し黙った。

講堂に集まった行田駐屯地のほとんど七百人くらいの軍閥構成員達は、息を呑むようにして話を聞いている。まさか、永井大佐がこの基地を離れるとでも言うのではないかと、気が気でない様子である。

「僕は死にませんよ、まだね。でも、殺されちまったのが居るんですよ、軍閥じゃないのに殺されちゃった。」ここで睨むように会場全体を見据えて「狙撃で死んじまったんだ。極道だけどね、俺達が嫌いなね。極道が何人死のうが、関係無いやね、そうだろう?だけど、その人は、君らの先生の大切な人だったんだよ、綿摘師範のね。綿摘師範は、君らの小林師範代の師匠に当たるわけで、この街のために非常な苦労をなすった事を、君ら知らんとは言うまいな。」

舞台を見上げる全員の顔がハッとした。外部指導顧問の綿摘師範と、彼らのほとんど親代わりのような小林師範代との、潔よくも美しい友情のような師弟関係を誰もが目の当たりにしていたからである。無論、綿摘師範が彼らに対して、厳しくも愛情に満ちた指導をしていたことは言うまでもない。綿摘壮一は良く笑顔を見せたし、問いを発して彼らの答えを促そうとしていた。なればこそ、小林少佐は鉄拳制裁という嫌われ仕事を買って出ていたのだという理解を誰もが出来た。

壇上の永井大佐は、後を小林少佐に引き継いだ。小林少佐から説明がなされる。

「おめえらには言ってたな。殺し、殺される時は雨模様のように予想がつかないと。今夜は師範先生に代わって俺たちが、大きな弔いをする日だ。」

綿摘壮一は、舞台からの声を聞きながら、部屋の中にいる我が子とその部下たちに話を続けている。

「そんな事を思いながら、結局は自分の人生台無しになんかそうそう出来やしないんだ。食わせてかなきゃいけない人間を抱えるようになれば猶更、な。だもんだから、こうして、こういった鶏を卵の時から手塩にかけて育てて、自分の半身ほどって感情が生まれてきた所を、絞めるのよ。自分の代わりに、自分も同様って思える存在を台無しにして、これを食うんだ。格別だぜ、これは。はじめて食う時には、涙が流れるもんなんだ。これをやらされて泣かない奴はガキ以下だ。ガキだって泣くよ。泣きながら、美味い美味いって食うんだ。こんなもん毎日は食えねえよ。六年だ。小学生が中学生になるくらいの期間。中高一貫校通いの我が子に下の毛が生えて、受験戦争で殺し合いを終えるくらいの期間だ。その間、みんなで百羽位飼うんだよ。一年もすれば顔の区別がついてよ、性格まで見えてくるようになる。そしたら名前を付けてやるんだな。一羽一羽を特別扱いしてやりたくなるのよ。」他所で飲んできている壮一は、軽薄な距離感を取ろうとはせず、さらに随分と饒舌だった。ここで声の調子を低くして「大典の弔いに、今日は四年物を食わしてやる。俺だって、猶更つれえよ、あと二年は一緒にやれたはずなのに。大典を失った気持ちと全くおんなじだ。」

話が終わってからは、会場騒然のばたつきがあり、状況は怒涛のように進行した。大きなうねりのようになって動く軍閥構成員たちのきびきびとした様子。ソファに腰掛けて、ただじっと光を見つめているかのような父、壮一。話が終わって、永井大佐は彼のもとに戻って来た。長椅子に腰掛けて、大きな書籍を黙って読んでいる。綿摘恭一とその第十二位付きの三人、誰も口を開こうとしなかった。瓜生なぞはもう疲れてしまったかのように見える。鈴井はこの後の御馳走を楽しみにしている様子だったが、元より口数が少ない。子桜は、生きる伝説の壮一を前に緊張して声も出ない。

「恭ちゃんは覚えてるかな。」遠くの光を眺めるような目をして壮一が言った。「狙撃手に狙われたらどうしたら良いか。」

恭一の表情は、あの時と全く変わっていないように、父の目に映った。今度は、何のこと?とでも言っているかのような表情だが。眩しい笑顔のこの子に先立たれたく無い、その一心で掟を作り上げたのだ。

それからしばらく、また誰一人、話をする者はなかった。大典の献杯に出された唐揚げは、涙が出るほどとは言わないまでも、それは美味だった。瓜生は大いに舌鼓を打ち、子桜よりも鈴井の方が熱心に相槌を打った。すでに鈴井は、似たような料理を自分の手で拵えたいという思いを心に宿していた。恭一は遠くに、一際大きく肩を震わせて、涙を必死になって拭いながら箸を動かす大尉の姿を認めた。

 

明くる日。

市内在住のスロッター五十嵐義阿は、この地に住む人間として唯一、大禍の予兆に苛まれ続けている。それが一体何なのかは知る由も無かったのだが、スロットでビッグボーナスが引けない日々は、依然として続いている。この日もジーンズに白のTシャツ、サンダルというシンプルな装いをして、何日続いたか数えるのもやめたが、レギュラーボーナスの百枚程度のメダルを換金し、ブラブラと帰路についていた。店内滞在時間は五分に満たないが、日給二千円は厳しい。無論、不調前の稼ぎが蓄えてあるし、贅沢な生活をしているわけではないから、まだまだ暮らして行かれるわけだが。それでも、先の見えないトンネルの中にいて、周りが霧に包まれて、自分がトンネルの中に居るのかすら分からない、前進とも後退とも判然とせず身動きが取れない、いつになったら晴れるやら助けが来るやら分からない、そんな精神状態が一番やり切れなかったのである。

「おむすびさん!」

遠く背後から声を掛けられた五十嵐は、ギクリとしてその場に立ち止まり、ゆっくりと振り返って言った。

「五十嵐ですよ、やめてください、そう言うのは。探してたんですか。」

「や、失礼しました。いえいえ!見かけましたんでね、つい、ね。」愛想の良い笑顔とともに五十嵐の元へ駆け寄り、そう言ったのは子桜殉である。「もう今日の稼働は終わりですか?時間あれば、ちょうど昼過ぎですし、大神宮下のサンサーラでカレーでもどうですか?」

五十嵐は探し回ってたくせにと言い返してやりたい気持ちだったがどうせ、会いたいなと思った時に会えるのがおむすびさんじゃありませんかとか何とかまた言われて、憂鬱な気分になるのは自分の方だろうと思い直し、ただ頷いた。道すがら、取り留めも無いような話ばかり聞かされたが、熱っぽく喋るこの男の話を聞き流すのは嫌いではなかった。自分の知らない世界を垣間見れるというのは、少しだけ生きた心地がする。一日の余った時間を図書館で過ごすだけ、と言うのに比べれば本当にたまにだが、こう言う時間は悪くなかった。この日子桜が話したのは、アンデルセン公園で見た一部始終だった。特に、目を奪われた少女、ともすると心まで捧げるに等しいような印象を抱いた少女について詳しく話した。海老川を越え、二人がカレー屋に着くまで長いと感じることはなかった。

仄暗い店内は落ち着いた内装で広く、二人は窓際のテーブル席に向かい合って座った。子桜は五十嵐にソファ側を勧め、自分は椅子に腰掛けた。

サンサーラにはクラフトビールが置いてあり、それを飲まされたが、昼間のビールはやはり格別だと思った。しかし、五十嵐はこの店で、少々驚かされる光景を目の当たりにした。子桜からは大ジョッキを勧められたが、味が濃過ぎて飽きてしまうので、中ジョッキで種類を変えて二杯飲むことに決めた。子桜もそれに倣うことに変えたが、一杯目は大ジョッキで注文した。運ばれてきたビールを、子桜はなんと一口でほとんど飲んでしまった。これには五十嵐も、内心驚いた。味わって飲むようなクラフトビールを一気で飲んでしまうなどと、ちょっと考えられないことだった。似たような光景はこのしばらく後にも起こった。

五十嵐が中ジョッキ一杯目を飲んでいる、まだ中程度。飲み干した大ジョッキに付着した泡が落ち着くのを待ちながら、子桜が何とはなしに言った。

「もう、十年くらい前の女友達、栃木に住んでいたんですがね、実際に会ったことはないんですがよく話したりして、顔もあまりよくは知らないんですけど、とっても良い子で、独り身だった自分としては千葉と栃木との距離が恨めしかったくらいなんですけど、そこはまあやはりここは三番瀬ですから諦めてたんですけど、その子がある時こんな話をしたんですよ。」

五十嵐はジョッキに口をつけたままで、子桜の問わず語りを目で促した。いつもの陽気な語り口とは一線を画す、どこか暗い様子がした。子桜は店主に二杯目をやはり大ジョッキで注文してから、話を続けた。

「その子、当時はもうすでに母親と二人暮らしだったんですが、小さい頃父親に連れられてパチンコ屋で遊んでたそうなんです。まだ小学校に入る前だったんだそうで、なかなかヒドい話じゃないですか。遊んでたのはその子じゃなくて、父親の方なのに、それもそれなりの金銭をはたいて。父親がパチンコ台に向かっている間、その子は店の中をウロウロしたり、漫画を読んでみたり、お年寄りと話をしてみたり。で、似たような境遇の、同い年くらいの女の子と仲良くなったんですって。休日に連れられていくと、たまにパチンコ屋で顔を合わせて、どちらかが帰るまで一緒に過ごしたそうなんです。で、ある日、その子が来なくなったんですって。成長して振り返ってみれば、その子は当時誘拐されてしまったんだなって、報道されているのを見て感じ取ったんだそうですよ。これは有名な事件なんで、駅や交番に張り紙をよく見かけるやつです。五年おきに県境の河を跨いで交互に女児誘拐を繰り返していたから、関連性の特定がずいぶん遅れた、連続誘拐事件ですよ。彼女からその話を聞いた時、私の人生は決定的に変わりました。」暗くなった子桜の表情がより一層の悲しみを帯びた。

店主が子桜に二杯目の大ジョッキを持って来た。受け取るなり彼は、それをぐっと半分以上飲み、息をついた。彼は酔いたいわけでも、酔っているわけでもない。早飯早糞芸の内というのが教義なのだ。

「顔なんてろくに知らない、だけど友達以上恋人未満。大切な人がこの世から理不尽に去ってしまう、残された人間の気持ちがほんの少し分かったんです。幸運ですよ、擬似体験なのにこれほどの危機感と使命感を得られたんですから。以来私は、こんな風に探偵家業に勤しんでいるんです。」そして声の調子を一段と落とし、やや身を乗り出して言った。「五十嵐さん、この船橋で、妙な失踪事件が連続して発生している。決まって商売女が、無断欠勤して、住んでいる部屋の様子は全く今までのまま姿を消すんです。こんなやり口だったとしても、プロじゃないですよ。いくら商売女であったとしても、堅気相手にこんな手当たり次第ってのは。一体、何人消されたのか。船橋犯罪史上最大の汚点です。被害者が被害者だけに、捜査もろくにされていないから、誰も気付いていないかもしれない。今日、せっかくお会いしたから、こんな話をしておきたくて。まだ誰にも話していないんですが、じきにウチの連中で暴こうと思っているんですよ。それを知っておいてもらいたかったんでしょうか。」

五十嵐が一杯目のジョッキをようやく飲み終える頃、子桜が注文したポークカレー大盛りと、五十嵐のビーフカレーがやって来た。小皿に福神漬けと、アチャールという玉葱の酢漬けが付く。玉葱の辛味が残っていて、刺激的な薬味である。

子桜は大盛りのポークカレーを、親の仇のように食い始めた。さっきまで自分が体験した事を饒舌に話していたのに、食事が来るなりいただきますと言ってから猛烈に食している。順手にスプーンを持った手と、咀嚼している口とがずっと動き続けている。三日三晩食わなかった人だってこんな風にはなるまい。それに何だ、このスプーンの持ち方は。隠された宝の地図の秘された印を読み取って、何が埋められているのか日が暮れるまでに拝みたいという夢追い人の歓喜で食っているのか。あるいは、夜明けまでに死体を埋めなければならないと、スコップで穴を掘っている人夫の腕力で食っているのか。はたまた、これは鳥が空を馳け、魚が水に踊るような至極自然な食い方なのだろうか。いやいや、彼は見栄で食っているのだ。一杯目のビールジョッキも飲み干すし、一皿のカレーライスは誰よりも早く食いたいという質だった。

五十嵐は、目を伏せていた。子桜の食いっぷりが、何か見てはならないもののように思えたからだ。あんな好印象の、人当たりの良い、嫌味なところの無い人物、危機感と使命感で突き動かされているのだと言っていた彼に、何故こうも浅ましいような面が剥き出しになるのだろうか、何か暗い後ろめたいような気持ちにさせられたのだ。五十嵐は口数の少ない男だ。だから、思うところは多い。子桜の話を聞くのは好きで、心の落ち着く時間を、ごくたまにだが過ごした気がしていた。

五十嵐は思った。何故、今日なんだろう。どうして、カレーなのだろう。この男の本心は、一体何を思っているのだろう。今日、自分と彼とを巡り合わせたのは何なのだろう。違う、自分が彼に巡り合わせなければならないのは誰なのだろう。そして、この街にこれから何が起こるのだろう。口数の少ない男が、自分自身との対話を始める。対話を進行するかのように、無意識にスプーンひと匙のカレーを口へと運んだ。もう、その時には、目の前の男の皿の上はきれいになくなっていた。口数の少ない男の心から、叢雲が晴れる。その晴れ間に、形作られた言葉の姿が見え、ぽつ、と口からもれた。

「あなた、そのお嬢さんに、近々会えるんじゃないですか。」

「ん、え、何です?」子桜は没頭させていた意識をカレーから逸らした。

「お嬢さんと会いたいですか?」それはアンデルセン公園に居た少女だ。

「あんな小さな子が、あんな所でどうするのか、気になってはいますが。」

「待っていれば、きっと来ますよ。きっと来ますよ。」

「待つだなんて、ねぇ。あ、ビールください。」子桜は三杯目のビールを注文した。

だが歯車には噛み合う機構が必要だ。

 

当事者を除き、この街に実際に起きている異変に気付いたのはI.K.E.A.が最も早かった。そのはずだ。誘拐ビジネスのプロ集団のお膝元であるこの船橋で、連続失踪事件など“起こり得ない”ことだからだ。それに、国際誘拐企業連合の日本における本拠地が船橋に置かれている理由は、各国の要人を亡命させるための中継地だからである。密かに海路からやってくる顧客を、千葉シティが世界に誇る整形技術で別人に仕立て上げ、目的地へ送り届ける。届け方は海路もあれば空路もあり、顧客の懐具合で決められるが、別人として生きる彼らが選択するのは専ら成田発である。したがって、連合が船橋で行っているような誘拐ビジネスなぞ一種の狂言であり、本業をこそ見咎められないようにするための偽装である。難民や移民を大規模に船に載せて労働や性的搾取に利用しているのは、黒海沿岸や地中海南岸の支部で行われているから、こんな極東の湾内でわざわざ細々とやる必要はない。要人一名あたり五百万ドル前後の商売というのは、日本支部総帥のクロエ・ド・リュミエールにとって退屈そのものといったところではあるが、その倦怠感もまた組織の維持と意義のためには必要なものであり、つまりクロエにとって仕事とは退屈する事であるというわけだ。なればこそ、退屈凌ぎに命を賭けてやろうという気にもなっているらしい。

船橋市内での多発が推測される失踪事件は、今やクロエの趣味の一つとなった害虫駆除、これを日課のようにしているI.K.E.A.がいち早く察知したものだ。職業柄、彼らにしか知り得ない情報に、妙なノイズが混ざっていた事に気が付いたとでも言うべきか。しかし、動きの目立つ同業組織を暴力で説得あるいは退場させるのならばまだ出来ようものだが、各地で目立たないように凶行を重ねるローンウルフ型の犯人を割り出すのは連合の得意とするところではない。国際誘拐企業連合の威信にかけて探し出さねばならないのだがその解決の糸口が見えず、クロエの側近オーギュストが報告する口ぶりも明らかに歯切れが悪い。

クロエは、白磁のように澄んだ素肌に暗い表情だけを纏って、オーギュストからの切れ切れの報告を聞いている。クロエはオーギュストに目を合わせながらも、さらにその遠くを眺めているようだった。この眼差しが、いつもオーギュストを苦しめる。オーギュストには解るのだ、彼女が自分の中に別人を見ているという事を。彼女が身体を許すのは何人も居たとしても、心を決めているのはたった一人で、それが自分では無いのだという事を。船橋界隈での連続失踪事件の解決に向けて何の進捗も無いという失態に加えて、触れれば壊れてしまいそうなクロエを決して抱きしめることは出来まいという劣情が、瞳から溢れてしまいそうになる。クロエはその様子を見ているのか、見ていないのか、どちらかも解らず混乱に拍車がかかる。

広い執務室の大きな机から離れて、壁際に正座をしている大柄な男が一人。黒い革で出来た拘束着が、彼を後ろ手の前傾姿勢に背伸びさせながら地面に戒めていた。情事の一部始終を見せつけられ、猿轡を噛まされた素顔に大粒の汗を垂らしながら、この男もまた泣き出してしまいそうなほど心を踏みにじられていた。しかも、その状況に悦びを感じながら。長時間の見せ物を与え終えたクロエが、床に降り立って素足で歩み寄ってくる。

彼女の虚の視線を向けられながら、安藤玲は全身でてこの原理を再現するようにして、ただ一箇所の作用点に起こり続ける痛みに耐えていた。その痛みを和らげるように、クロエの細長く伸びた脚が鎌首をもたげる。内腿がきらりと光を反射する。爪先を押し当てられて、安藤はくぐもった吐息を発する。鞭のようにしなやかな足蹴りが其処を一閃。安藤は絶叫した。いやこれは咆哮だ。

『誘拐犯探しには探偵が要る、それも人探しのプロが。』軍閥に解決を委ねるなぞ実際問題不可能であるから、クロエは苦味走った表情で考えている。『今ここでのたうっている暴力装置に何の価値があるだろうか、協力者が増えるほど離反の可能性も増えるなぞという理屈も、後付けの気紛れだ。ならば、こちらの意向に気付くことなく、藪の中をただひたすらに嗅ぎ回るだけの追跡者が必要だ。』

足元に転がるあわれな男。先ほどまでは胸を張っていたのに、今はその頭部を彼女の脚の方に向け、後ろ手になった土下座のような恰好をしている。逆位置のタロット、という印象がクロエの暗い心に強烈な影響を与えた。タロット、大アルカナの像が眼前に殺到する。愚者、魔術師、女教皇、女帝、教皇、恋人、戦車、正義、隠者、運命の輪、力、吊るされた男。吊るされた男、今は愚者ではなくこの像を掴む。死神、これは自分の印象だ、掴んでいる、既に。節制、悪魔、塔、星、月、太陽、審判、世界。煩わしい。吊るされた男はあの公園にいた、その像が鮮明になる。だが、男は吊るされただけではない。狙撃、そして自ら吊るされた。槍の一擲。アンデルセン公園、デンマーク、オーデンセ市、自律稼働の追尾型投擲器。自律稼働、支配権は今誰にある。追尾型。

『引金であり用心金であり照準でもある、そういう機構なのだとすれば。』引き攣った笑みが目に焼き付いて、オーギュストの男性自身はたちまち委縮した。『我々はInternational Kidnapping Enterprise Associationだ。児童略取は飴で釣ると相場が決まっている。』

歯車と歯車は噛み合い、終焉に向けてまた一つ別の車輪が軋みながら動き出す。

 

第六章   緊求追急   了

【04】虚飾性無完全飯罪

CHAPTER:04 そんなら命は頂けない

これは走馬灯だろうか。

懐で暖めたあの卵が小さかったこと。ひび割れてから手出し無用だった、自分が役立たずの傍観者になったこと。殻から顔を出した雛鳥には、真っ先に自分の顔を見せたくて、殴り合いの喧嘩をしたこと。触れただけでも潰れてしまいそうな小さな体から、片時も目を離せなかったこと。鳥篭から離れての仕事に身が入らず、持ちうる時間は徹底的に費やす方法から効率重視路線になったこと。無垢な瞳をこちらに向けて、手のひらから一心不乱に餌をついばんでくれたこと。

いつの間にか頑丈そうな両脚になっているのに気付いたこと。それらしい羽根から翼へと生え揃って来たこと。躍動的な跳躍で重力に逆らおうとしていたこと。もう目を離していても活発な様子が頼もしく思えたこと。夏の青葉が秋色に染まったかのような毛色に変わったこと。部屋の篭から鶏小屋に移した日でも鳴き声はぴいぴいしていたこと。小石を飲み込み、餌をつつく勢いも強くなったこと。それからすぐに鳴き声が変わったこと。それでも手ずから餌やりがしたくて、黒革の手袋越しにしていたのを見つかって殴られたこと。初めて産んでくれた卵のこと。これ以上多く育てるのは自信がないなと苦笑いしたこと。

鶏小屋の掃除は部下任せにしたこと。小石をついばんでいるのを遠くから眺めたこと。地獄のような日々がまた舞い戻ったこと。小屋の掃除の件で部下を殴りつけたこと。その掃除をしながら煙草を吸ったこと。ピイちゃんに割く時間が減ったこと。それに気付かないふりをしていたこと。

瞳から零れた涙に反射して、思い出がキラキラと輝きだす。乱反射する光線の一つ一つから、かけがえのないあの日々が甦る。すぐ目の前にある。手を伸ばせばそこにある。涙が溢れて見えなくなる。だが瞼を閉じても眼に映る。切ない感情が込み上げる。怒涛となって声を出す。

 

Wにはどうしても受け入れられなかった。あれほど大切に育ててきたピイちゃんを、ただ食うために殺すという事を。

「家族を殺せるか!殺させるもんか!ピイちゃんは家族だろ、そうだろ!出来るわけがないだろ、家族だ、家族なんだ!」漆黒の軍装に抱きしめられた鶏は、Wの激した様子も感知せず、ただ大人しく抱かれたままでいた。

「卵をあっためたんだ!こんなにちいちゃかった雛から!あ、あ、あ、悪趣味だ、悪趣味じゃねえか!この、子殺しィ!」迸る激怒が外から内へと聚斂していく。

「食うんなら卵までにしておけよ!ピイちゃんはな、弱って死ぬんだよ!歩けなくなって、横になって、それでしばらくしてから死ぬんだ!そんなのは今日じゃないだろ!ピイちゃんの小屋掃除するから、殺さないでくれよ!そんなにピイちゃんが憎いのかよ!ピイちゃん、ピイちゃん、嫌だ、死なないでピイちゃん…。」別れは唐突に訪れたが、見送ることは出来る、それが幸か不幸かの判断は時間の解決に任せるにしても。

「何もかも体験する必要があるなら、本なんて無意味じゃねえかよ!こんな事させるんじゃねえよ、子殺し!」追いかけて来た部下の准尉二人をはじめとする軍閥構成員たちに向けて、Wは文字通り食い下がっているようだった。

『易々と歯車にはならんというわけか。流石はWAR GEAR筆頭といったところかな。』その様子を監視カメラで見ているのは、ここ習志野軍閥行田駐屯地、通称“団地”の長である永井日出男大佐である。彼の視線は代行者Wの姿から、喪服のようなスーツを着た別の男性へと移った。

「名人、やろうか。」綿摘壮一だった。なぜか分からないが、兵卒達の騒ぎの様子を見にきていたのだ。隣には小林少佐が控えている。壮一は、腕っぷしに驕りの見えるWの事を、よく名人と呼んでいた。

『此奴は掴んで投げ墜とす。』Wは思った。物を考えるということは、物を掴んだら離さないということだ。

Wは差し伸ばした両腕を、肩から一瞬で切断された。かと思うほどの衝撃を受けた。前方にいた綿摘壮一は、今や後方遠くで背を向けている。

「手前、何を背中向けてやがる!残心!」Wは両肩を押さえながらありったけの怒りに任せて吼えた。

頭が在った場所に両脚が飛び上がるほどの掌底がWを見舞った。真っ逆さまに地面へ落ちるその刹那に、彼は走馬灯を見た。

「見事です。」息を飲んで小林少佐が洩らす。

「氷嚢を当てて、食堂で寝かしといてやってくれ。献杯には目を覚ませるように。」

綿摘壮一は、我が子の恭一には雄弁だった。しかし、徒弟達に優しく接することはあっても、あまり多くを語らなかった。刈根流の最奥をあまり覗き込まれるのをよしとしなかったためだろう。だから、結局最後はこれだった。つまり、喧嘩するほど仲が良い。

雨がぽつりぽつりと降ってきた。仰向けになったWの顔を濡らした。

「師範先生!でもやっぱり、あんまりなんじゃないでしょうか!」Wの部下であるソゥ准尉が言った。

「鶏はまだ良いです。だから、大尉や我々にもっと優しい言葉をかけてくれませんか!」同じくスゥ准尉が言った。

「Wだけじゃないですよ。俺たちだって歯車じゃないんです!」

自棄になったか、無謀になったか。Wが見せた、雲一つない青空に落ちた稲妻のような在り方に絆されて、集まった十数人の男達が訴えた。土砂降りの雨が降り出した。

「兵卒達が意地を通す、か。あっち向いててくれ。」綿摘壮一は小林少佐にそう頼んだ。間髪入れずに、喪服が闇夜を舞った。

一撃の中に千撃を込めた本気の壮一を見るのは、小林少佐にとってこれが二度目である。言われた通り背を向けようとする前に、状況は決した。一対十三の戦いではない。十三対十三の戦いだった。皆が一撃のもと、同時に倒れた。これを見せつけられると、小林は堪らない気持ちになる。自分が百代がかりでもこの域には行けないと思い知らされるからだ。

そして小林は、ふと、何か異様な観念に囚われた。なぜ彼は、死戦を潜り抜ける時のような全力を、今この場にいる我々に演じて見せたのだろうか、と。彼にとって、二度目なのだ。一度目は、相手全員が銃口を壮一に向けている状況だったのだ。以来、今まで一度も見たことが無い光景だった。

不吉な予感めいたものを感じた小林は、壮一の顔を見ようとした。しかし、彼の顔は倒れた男達に向けられており、その表情を伺うことはできなかった。天候は、既に小雨に変わっていた。雨模様のように予想がつかない状況だとするならば、一体この予感は何なのだろうか。

壮一は向こうの人員に向けて手を振り、大きな声で応援を呼んだ。すぐに数名が駆けつけて、辺りを見るなり彼らは呆れたような笑顔になった。師範先生の技を直伝されたというのは非常に名誉な事だからである。倒れた男達に向けて、口々に羨みの混じった文句を言い、抱き起こして帰って行った。壮一はその後ろについて歩いた。談笑しているように見える。

小林少佐は、足元に転がって誰からも忘れられたようなW大尉を見遣った。Wはそれにいびきで応じた。良い表情だ、と思った。船橋は地獄だ。起きればすぐに地獄巡りの再開だ。せめて今くらいは、良い夢を見ると良い。小林の親心は、柄にもなくそんな感傷的な事を思った。Wの事を肩に担ぎ、士官学校校舎に向けて歩いて行く。其方には明かりがある。

奇しくも流血の無い夜。だが深い破滅を内包した夜。啜り泣くように静かな夜。