お前はスーパーマリオをプレイした喜びを覚えているか?【メトロイド ドレッドレビュー(ネタバレなし)】

俺は今、任天堂から発売された最新のメトロイドシリーズである、メトロイド ドレッドの三週目をプレイしている。

メトロイド ドレッド 公式サイト: https://www.nintendo.co.jp/switch/ayl8a/

メトロイド ドレッドを詳しくご存知ない諸氏に説明しておくと、1986年にファミコンディスクシステムとして発売された初代メトロイドシリーズを皮切りに、メトロイドII、スーパーメトロイド、メトロイドフュージョン、メトロイドプライム…と連綿と受け継がれてきた、任天堂が誇るハードボイルドSFアクション探索ゲームである。

初代メトロイド 任天堂 Wii U のバーチャルコンソール版より https://www.nintendo.co.jp/titles/20010000002065

ファミコンディスクシステムで同年に発売された、同じく探索アクションゲームのゼルダの伝説と双璧をなす、任天堂の代表的な探索ゲーだ。

また、メトロイドシリーズは大きく2Dバージョンと3Dバージョン(メトロイドプライムシリーズ)があり、今作は2010年のメトロイド アザーエム以来11年ぶりの2Dバージョンの新作である。

今作では、かつて全宇宙を恐怖に陥れたDNA擬態生物「X」を絶滅させた主人公サムス・アランが、新たに「X」の情報を入手したことを発端とし、情報の発信元となる惑星「ZDR」に赴き探索をするというストーリーとなっている。

オッサンとアクションゲームの関係性

一般にアクションゲームというものは、集中力と反射神経が必要とされる。が、当然この能力は鍛えなければ徐々に下がっていく。

齢35のオッサンともなれば反射神経を必要とするような刺激の強い生活などしておらず、人によっては仕事に子育てと忙しい日常を送るのみだ。

妙齢のアンドロイドレディを従え、宇宙を股にかける34歳のピチピチのスペースパイレーツともなれば別だが、我々は一介の地球人である。

スペースコブラ シーズン1、エピソード1 復活!サイコガン(22:18)より https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%96%E3%83%A9/dp/B077TFHX4B

そんな我々オッサンは当然心でサイコガンを打つこともできず、打てるのは毎晩無駄打ちする自分のムスコのみである。

アクションゲームなぞというものは、オッサンにとってただの苦行でしかない……そう思っていた時期が私にもがありました。

そもそもアクションゲームの楽しさとは何か?

このブログを読んでいる諸氏が最初にプレイしたアクションゲームは何だろうか?

俺はスーパーマリオブラザーズ2である。

任天堂公式YouTubeチャンネルスーパーマリオブラザーズ2プレイ映像より(0:04)
https://www.youtube.com/watch?v=WZ8goc49oEM

スーパーマリオブラザーズ2は、ファミコンディスクシステムで発売された言わずと知れたスーパーマリオブラザーズシリーズの二作目である。

スーパーマリオブラザーズ2(以下長いのでスーマリ2)は、初代のスーパーマリオブラザーズの難易度を爆上げし、ファミコンディスクシステムで売り出した知る人ぞ知る名作である。

俺が物心ついたときには実家にすでにツインファミコンとこのスーマリ2があり、親が出かけている日を狙っては一日中プレイしていたのだ。
(当時ゲームは30分までという鉄の掟が実家にあり、それ以上プレイしようとすると叱られるシステムが存在した。今の俺は自由である。大人っていいね。)

当時の俺はなぜそこまでスーマリ2をプレイしていたのか?それは以下の点である。

  • Bダッシュで大穴を飛び越える爽快感
  • 超高難易度の空中ステージをテンポよく進むことによる達成感
  • ステージのレベルの高まりと同時に、己のプレイレベルも高まる相乗効果

当時の俺はスーマリ2プレイしながらこれらの点を常に感じており、脳汁を出しながらプレイをしていたのだ。

メトロイド ドレッドはオッサンでもプレイできるアクションゲームだ

話をメトロイド ドレッドに戻そう。

本作をプレイするには様々なアクションを必要とする。

メトロイドシリーズではお馴染みの、Bでジャンプ、Yでビーム、↓でモーフボールのみならず、今作ではLのフリーエイム、Xでカウンター、ZLのスライディング、Aで繰り出す瞬間移動(フラッシュシフト)と、様々なアクションが必要とされる。

は?こちとらそんな一度にたくさんのボタンを覚えられるわけないんだが???
残りの人生をルーチンワークだけで過ごしていくだけのオッサンやぞ??????
せいぜいできるのは十六連射程度やぞ?????????
あれから歳も取ってるから今は八連射ぐらいやぞ????????????

安心してほしい。

まず、メトロイド ドレッドには、丁寧なチュートリアルがついている。

ゲーム「メトロイド ドレッド」より

任天堂お得意のチュートリアルだ。

このブログを読める諸氏であれば、チュートリアルを理解して実行するのは容易いだろう。

このチュートリアルが、新しいアイテムが手に入るたびに常に表示されるのだ。

そして徐々に増えていく操作方法

ゲーム「メトロイド ドレッド」より

今作はただのアクションゲームにあらず、「探索」アクションゲームである。

最初にできる操作方法は、ビーム、ジャンプ、スライディング程度だが、序盤で取得するミサイルを皮切りに、壁つかみ、2段ジャンプ、瞬間移動などは、アイテムを手に入れることでようやく使えるようになる。

これらの新しい操作方法が増えるたびに、それに対応したステージに行くことができ、それに対応したアクションで応戦する必要がある敵が出てくる。

そのため、新しいエリアに向かうたびに新しいアクションを使う必要に迫られて、気づくと自分の手になじんでいるのである。

これらを繰り返したプレイヤーはどうなるか?

そうだ。気づかないうちにあらゆるアクションを使いこなせるようになり、己のプレイレベルが上がっていることに気づくだろう。

メトロイド ドレッドにはキャラクターのレベルアップという概念は存在しない。プレイがスムーズに進むということは、すなわち己がレベルアップしたということのみである。

具体例を挙げよう。まずは以下が私が最初にプレイした時の動きだ。

そしてこれがすでに2周クリアした後のプレイだ。

後者は動きに無駄がないことがわかるだろう。

メトロイド ドレッドは、プレイすることで自然とこの動きをマスターできるアクションゲームなのだ。

そう。かつて私がプレイしていたスーマリ2のように、己のプレイレベルが上がることが実感できるゲームである。

メトロイド ドレッドのプレイ時間は

忙しい社会人の諸氏は、やはりプレイ時間というのが気になるところだろう。

あまりにもゲームクリアにかかる時間が長いと、どうしても人はモチベーションを保てなくなってしまうものだ。

しかし安心してほしい。

メトロイド ドレッドは通常10~20時間程度で全クリできるといわれている。

また、通常ルートで探索をしなければ、およそ3時間~3時間半でクリアできるといわれる。

さらに、現在世界のRTA勢によるバグなしプレイ(No Major Glitches)は1時間半程度らしい。

speedrun.com:https://www.speedrun.com/mdread#Any

そうなのだ。バグを使わなくてもそれぐらいでクリアしようと思えばできてしまうゲームなのだ。

もちろん RTA 勢は世界のトッププレイヤーが集まっているので、誰しもそこまで短時間でクリアできるわけではない。

ただ、ゲームのシステムとして、1時間半でクリアできてしまうほどシンプルに作られているゲームなのである。

例えば、自分の場合は初回は12時間、2週目は4時間11分でクリアしている。

1週目はじっくり探索し、2週目はそれなりにサクサク進めてみたらそれぐらいになったわけだ。

では次の3週目を本気でやってみたら、どれぐらい時間を短縮させることができるのだろうか?

そう思わせる魅力がこのゲームには詰まっている。

そして俺は今日もメトロイド ドレッドをプレイする

わかるだろうか?子供のころに感じたゲームの面白さ、爽快感、プレイする喜びを大人になっても体験できているのだ。

メトロイド ドレッドは、オッサンが久しぶりにゲームの面白さを追体験できる数少ないアクションゲームである。

あのころスーマリ2をクリアできなかった俺にとっては、己をレベルアップさせて乗り越えられた喜びに満ち溢れた郷愁と夢と達成感に満ち溢れたゲームなのである。

おまけ:メトロイド ドレッドのプレイに詰まったあなたにアドバイス(ネタバレなし)

メトロイド ドレッドは探索ゲームのため、一度探索に詰まってしまうと延々と時間が過ぎてしまうことがある。

ずっと同じところをぐるぐるして時間を浪費し、心も体も疲れてメトロイド ドレッドのプレイを諦めてしまうことは、私としては非常に忍びない。

ただ、一方で探索ゲームの醍醐味は、自分でアイテムを探し当て、道を切り開いていくことでもあると思っている。

そのため探索ルートを他人に聞くことは非常に憚られるものだ。

そこで、ここではネタバレをしない範囲で、どういう探索をすればうまくいくかを書き記しておこうと思う。

  • 新しく行けた場所が行き止まりの場合、必ず何かがある。ミサイルを周りに打ちまくって壊せるブロックがないか確認をしろ。
  • 新しいアイテムを手に入れたら、手に入れた場所の近くに必ずそのアイテムを使用できるギミックが存在する。それを辿れ。
  • どんなに強い敵の攻撃も必ず避ける方法が存在する。諦めずに探せ。
  • 最後に、一番大事なことは、探索をとにかく楽しめ。このゲームは短時間クリアするゲームではない。探索に時間がかかっていることをストレスに感じる必要はないのだ。なぜならそもそもそういうゲームなのだから。

以上だ。

上記がメトロイド ドレッドをプレイする諸氏の指針となれば幸いである。

【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #004 木場 來々軒【ONLIFE】

ラーメンのアタマにお野菜は不要だ。

これが私の基本的視座である。

無論、嫌いなわけでも食べられないわけでもない。

不要だと思っているだけで、イデオロギーではない。

人間の主体的思考の枠組みを犯すから、イデオロギーは大嫌いだ。

だから、お野菜は必要に応じて頂く。

 

そんな私だから、担々麺を食べに出向く事はあっても、わざわざタンメンを食べに行く事はない。

ただ一軒を除いて。

そのお店は、東京都江東区にある。

ちょうど、東西線の木場駅と東陽町駅との境。

駅から歩く、秘境とまではいかないが、行列のできる一軒である。

 

來々軒さん、木場タンギョウ発祥の名店。

大通りを折れた路地に元々あったお店が、廃業を機に、木場タンギョウ文化の荒廃を憂いた気鋭の愛好者に継承した復活店なのだ。

タンギョウとは、タンメンとギョウザのセットのこと。

いつもの自分に戻ったかのように、食券を複数購入して着席。

心機一転、今回の記事に関してはご案内させて頂こう。

今、手元にある食券は六枚。

 

タンメンのアタマが盛られた小皿が、カウンター上に置かれるのでそこへ向かう。

これがアミューズ。

そう、アミューズ。

初手、餃子、瓶ビール。

アペリティフがすぐに来る、この日はハートランドにした。

ここには飲みに来ているので、アタマをおつまみにしてビールを飲み干す。

アタマには、かなり辛めの自家製ラー油をかけて頂くのが良い。

運が良ければ、女将さんからアタマのお代わりを勧めてもらえるので、それを受ける。

この辺りで餃子が運ばれる、その数五つ。

 

次手、白ワイン。

そう、白ワイン。

こちら來々軒さん、継承者の御子息が、なんとワインソムリエの資格を持っているのだ。

だから、こちらでは入荷さえあれば、かなりこだわりのその日のワインが提供される。

すなわち「木場にヌーベルシノワが存在する」のだ。

来店前にワインの有無を電話で確認しておきたい。

 

オードブルのギョウザを三つほどツマミながら白ワインを愉しもう。

だがその前に、さて、ギョウザには何を付けるか。

「蒼天航路」では劉備本人が饅頭で、諸葛亮がタレに喩えられたが、すぐに水と魚では如何かとたしなめられた。

そのタレの問題である。

 

私は、ギョウザを食べさせるのに凝ったタレは必要ないと思っている。

醤油の入った容器を眺めながら、酢だけに付けて食べれば良い、チャーチルがマティーニを飲んだ時の様に。

お店でタレが無ければ食べさせられないようなギョウザを出すというのは、すなわち堕落だ。

私は滅多に作らないが、自分で手作りしたギョウザが一番美味しい。

餡の下味次第で止まらなくなるほど美味しくなる。

時間がなくてスーパーで買ってきたのを家で焼いた場合には話は別だが(家ではポン酢に付けています)。

 

來々軒さんには鎮江香醋が置かれている。

小林秀雄の「蟹まんじゅう」ラストに出てくるあれだ。

南翔饅頭店の白磁に入ったあれだ。

流石だ、ヌーベルシノワはこうでなければ。

無論、普通のお酢やお醤油も置かれている。

 

話が逸れたが、ギョウザが冷めてしまう前にかじりつこう。

カリリ

という音がするのに驚く。

皮は透き通っているのに弾力があって、もっちりとした食感が楽しい。

しかしながら、焼き目は非常に軽快である。

餡の旨味は言うまでもない。

都内で一番美味しい餃子を出してくれるお店なのだ、とアプリオリに察知する。

鎮江香醋のコクがさらにギョウザを引き立てる。

ラー油は、マティーニグラスに添えられたオリーブ程度の量が良い。

 

決手、赤ワイン、チャーシュータンメン、大盛り。

残りのギョウザと赤ワインのマリアージュを満喫しながら、タンメンの到着を穏やかな気持ちで待とう。

果実味の爽やかな白に対し、この日の赤は渋味が軽やかで豊潤だった。

他所なら平気で一杯千円以上取られるだろう。

このギョウザの焼き手が、ソムリエでもあるのだから、これはもう頭の下がる思いだ。

そして、楽しい時間は一瞬で過ぎる事を証明するかのように、タンメンは意外に早く到着する。

ふんだんな野菜の間から、厚みある丸チャーシューが何枚も顔を覗かせている。

一口で食べてしまい、赤ワインの残りを飲み干す。

これをアントレと言うのは乱暴すぎるだろうか。

このお店でフレンチのコースが完結すると言ってしまっては。

ポワソンもソルベも無いが、それはどうでも良い事だ。

コーヒーは他所で頂こう、そうしなくたって構わない。

野暮の極みの差し出口だが、トッピングにチーズなんていかが。

 

チャーシュータンメンをタンメンに換えて仕舞って、頂きます。

中太麺がするり。

アタマのお野菜は、塩気ある茹で加減でしゃっきりとしている。

そう言えば、私は塩ラーメンを食べにいく事がない。

そんな理由からでも、こちらはラーメンドラゴンボウルなのだ。

タンメンの湯の字が、優しい塩気のつゆにとなってあたたかい。

 

酔いが回って心も軽くなっているかのようだ。

これで気の利いた事の一つも言えないようではいけない。

來々軒さんが美味しい理由は何故かって、タンメンだけに丹念に作っているから。

ギョウザほど出来が良くない冗談なだけに可笑しい。

タンギョウはタンギョーとの表記揺れもある。

それもまた可笑しい。

【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #003 ラーメン二郎 仙台店【ONLIFE】

有名観光地然としたラーメン屋さんへいく時は、一時間も待たされるのが嫌なので、開店の三十分前から待つようにしている。

その日は四十分前に着いた。

先頭が一名、これがありがたかった。

私はこのお店に這入ったことがなかったためだ。

そんなわけで、私はラーメン二郎仙台店さんの閉ざされたシャッターを見ていた。

 

物心つく前に七夕を見て以来、ここ仙台には奇妙な縁で惹かれている。

社会人になって以来、だいたい二年に一度は深夜バスで行くのだ。

文章を書くのに良い環境だと判明したため、これからもっと行く頻度が増えそうな気もしている。

この時の縁も奇妙だった。

 

「語り得ぬものについて人は沈黙せねばならない。」

で有名なヴィトゲンシュタインがその奇縁を取り持った。

あの超然とした断定と、およそ人間離れした言動にヤられて、著作なぞろくに読んでもいないのに引用したりを当時した。

そのツイートが文学界で一、二を争うほどのヴィトゲンシュタインマニアである諸隈元さんの眼に留まり、滅多につかないイイねがついた(実際には、その作家さんはヴィトゲンシュタインに関する全ツイートを可能な限りチェックしている流れなのだろうが)。

で、氏がその頃ちょうど、仙台旅行をしており色々な報告を呟いていた。

 

#どうでもよくない仙台情報

ここに、沈黙は破られた。

彼は怒涛のように吐露している。

「仙台で一番驚いたのはラーメン二郎 滅っ茶苦茶っうまかった」

「脂に頼りがちな都内の二郎に石油みたいな臭みを感じるのに対し、醤油のキレが効いてる神奈川系二郎を好む主因もそれ なのに仙台二郎では脂に蠱惑された」

「食べ物の中では世界一好きなのが関内二郎なので、その確信が揺らいだのはショックでした、、」

 

ヴィトゲンシュタイン、仙台、ラーメン二郎…点から線へ、私はそこにラーメンドラゴンボウルの存在を確信し、現地へと発った。

 

十二月の仙台である。

天候と日差しに恵まれ、日中はさほど厳しい思いをせずに済んだ。

花京院のホテルから、吉良吉影の邸宅があるとされる勾当台公園を見物。

石畳が眼に華やかで、広々とし、僅かばかりの家族連れは豊かな時間を過ごしていると分かる。

その後通りをぐっと折れ、広瀬通へ出、そこからは伊達氏代々の居城であった青葉城方面へ向けてずんずん進む。

仙台広し、三十分以上歩いて来た。

十時五十分着、お店の向かいのレンガに腰掛けて待つことができるのがありがたい。

 

前に並んでいた中年男性の後に続いて食券を買う。

初めて入る、系の付かない本物の二郎さんだ、緊張している。

今は、食欲なぞ度外視である、美味しく食べて幸せに帰るのだ。

私の食欲、この日は謙虚。

小で他店の特盛、大で他店の特盛二杯と言うこと程度の事前情報はある。

鰻重とアタマの大盛りで十分な私である、これくらいは特盛の範疇だろう。

 

では、そろそろ私も沈黙せねばならない。

対立のために食事しているわけでは無いのだ。

小ラーメン、それと気になったキムチ。

最奥から詰めて、行儀良く座っていく我々。

行列はすでに、長蛇になっていた。

 

すると常連らしき人が

「豚ないですか?」と訊いた。

店主らしき人が

「ありますよ!」と応じた。

前日の仕込みにも関わらず、食券機に反映させていなかったようである。

「えー、なら今からやろうよ!」

急ぎ、食券機は本来あるべきメニューを取り戻し、以降のお客さんたちは豚を注文できるようになった。

チャーシューが三枚増えて、五枚になる。

 

それを聞き咎めた先客が

「こっちもイイですか?」と食い下がる。

店主らしき人

「もちろんです!差額(百円)置いてください!他にいらっしゃいますか?」

ゾロゾロと手を上げていくお客たち。

当時、私は豚の差額が百円である事を知らず、幾ら払えば良いのかも分からなかったので、俯いていた。

我ながら新米の感に堪えず、流石に悄気たか。

 

さて、素人ならばせずとも良いと言われるコールと相成る。

「ヤサイヌキ、ニンニク、アブラ」

初回でヤサイヌキと言うのは、邪道と言われても仕方ないのではなかろうか。

だが私は、タンメンでも注文させていただくとき以外、九割がた野菜の類は無しにする。

挙句、にんにくジェノサイ道の求道者としてニンニクもアブラもマシマシにしなかったのは、外道である。

あぁ、全てが、感慨深い。

 

その一杯は、乳化したスープがキラキラと輝いているようだった。

キムチの赫がポール・セザンヌ然とした存在感を放っていた。

うどんのような確たる麺とだけ対峙したかったから、ヤサイヌキにして良かったのだ。

その味は、鮮烈だった。

濃い味は嫌いだ。

しかしながら、舌を刺すような快感が先走った。

このラーメンを批判する者は居るまい。

居たとすれば、それは…

さて、折角だからここで、もう一度ヴィトゲンシュタインにご登場願いたい。

「少なからぬ人々は、他人から褒められようと思っている。人から感心されたいと思っている。さらに卑しいことには、偉大な人物だとか、尊敬すべき人間だと見られたがっている。それは違うのではないか。人々から愛されるように生きるべきではないのだろうか」

私は誤りに気付いた。

褒められたい、尊敬されたいという気持ちでいたのかも知れない。

そういう姿を見せられる側は、良い気がしないだろう。

私自身も見せられているから。

 

褒められたい、尊敬されたいという姿はさながら、愛されたい、愛されたいと苦しんでいる姿に見える。

なればこそ、その姿が愛おしいと思える。

何も言わずに抱きしめたいような気持ちになる。

あなたと私は一つだけれど、あなたは私を見ていない。

 

LIFE WITHOUT LOVE IS LIKE JIRO WITHOUT GARLIC

まるで関内二郎さんのスローガンのようである。

私は近々、また仙台店さんへお邪魔して、小豚ラーメンキムチ生卵麺半分ヤサイニンニクアブラマシマシを頂くつもりだ。

【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #002 カップヌードル カレー【ONLIFE】

あぁ、好きなものばかり無限に食べたい。

濃い味の食事、脂ぎった大皿を何度もお代わり。

それを、コカコーラの何倍も甘いようなビールで流し込む。

ビールに飽きてからは、蒸留酒も良いが、香り高い日本酒やワイン。

右手に盃、左手はベタついたチーズを鷲掴み。

何も我慢していないから精神衛生は至上、それ故に病気にならない。

こんな空想が私の食欲を突き動かし、しばらくの間だけ自由になれる。

 

最近は追い飯という名で市場拡大を目論んでいる、ラーメンライス。

私はあまりこれをやらない。

ラーメンのスープを完まく(家系ラーメン屋さんの符牒でスープ飲み干しの事)するのは身体への塩分負荷がかかりすぎる。

他人の倍食べ続けたいから、塩分だけは摂取量を極力気を遣う必要ありだろうとアプリオリに感じているためだ。

 

そんな私でも、必ず飲み干すカップ麺がある。

カップヌードル カレーだ。

これは名前がすごい。

カップに入った麺、だからカップヌードル。

日本人なら好きだろうどうだ、とばかりにカレー。

 

ウォルコット・O・ヒューイ氏が

「ラーメンはやっぱりカレーラーメンに限りますな。」

という風なことを言っていたのにも頷ける。

そんな啖呵が切れる日本人はそうそう居ないのではあるまいか。

トランスバールにも居やしまい。

好きなものは好き、という人が好きだ。

彼は店舗カウンターで啜っていたが、そういったカレーラーメンで勝負しているお店がなかなか無いのが残念である。

お蕎麦屋さんでカレー南蛮も悪く無いのだが。

 

しかし案ずるなかれ、我々日本人にはカップヌードル カレーがある。

いや、とうの昔に世界規模の存在になっていた。

これらシリーズは、日本で生まれた世界初のカップ麺だからだ。

歴史のifを空想することが何かを生み出すと言うことも今更あるまいが、この命名がもしもカップラーメンであったならば、今ほどの規模の売り上げがあったのであろうか。

 

最後の一滴まで飲み干すことを望むよりも、“Wish you were here”一緒にご飯が無かった時に、目蓋から流れ出る涙はカレーより熱い。

追い飯と言うより、ラーメンライスと言うより、カレーライスが出来上がる。

当たり前のことだ。

日本人なら好きだろうどうだ。

玉ねぎが微塵切りになったようなのが良い香りをさせるからたまらない。

律儀に三分待って出来たばかりのカレースープよりも、麺を食べ終えた瞬間のスープの仕上がりが一番良い。

食べている間にかき回しているから、濃度が均一になって満足である。

希薄なスープから始めて、濃厚スープへ仕上がる。

その最高潮のところにご飯を。

ア◯リカンホームダイレクト。

生のまま突っ込むご飯はDead or Alive、生死を問わず。

炊き立て、冷飯どちらも美味い。

今回は空腹だったため、入れるご飯の量を口いっぱいギリギリまで入れてみたのだが、これだとちょっと薄味になりすぎて物足りなく感じる人が多いかと思う。

量を取るか、質を取るかなのだが、麺を食べ終えた時点でのスープの水準までご飯を入れるのが一番良い塩梅になるだろう。

 

カップのフチに口付けして、箸を使ってかき込むカレーライス。

これが食べにくい、それが良い、それで良い。

私の身体に流れているインド人の血が騒ぐ。

いや、一滴も流れてはおらぬ。

にもかかわらず、血が騒ぐのだ。

国民食の一つカレーライスがそうさせる。

 

問われている、だが何をか。

これはカレーか、ライスか、ラーメンだったものなのか。

すなわち私はインド人か、日本人か、中国人だった者なのか。

私は地球人であるとは宣言できぬ、先祖はずっと日本人。

そうだ、私は人間だ。

だからこそ、何度でも言おう。

人はパンでは生きられない。

 

だからラーメンスープはここぞという時、完飲する。

なりたけの超ギタに加えて、カップヌードル カレー。

ライスを入れたにも関わらず、完飲するとは諧謔だ。

私はここに宣言しよう。

カレーは飲み物、ラーメン汁物、麻婆豆腐は離乳食。

【人生5.0】Junの一食一飯 #012 こってりらーめんなりたけ Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #001【ONLIFE】

ウルトラネガティブとハイパーポジティブを併せ持つ、エクストリームニュートラル。

私の意匠はこれである。

換言すれば、右も左も均しく斬り捨て、我が身も捨てる、そんな意匠だ。

孔子はこれを中庸と呼んだに違いないのだが、私のような小人には実践できぬと明言している。

「国を平和にすることも、無給で労働することも、白刃の上を歩いて渡ることもできる。それでも中庸だけはなかなか出来ない」と言う風な事を、孔子先生は言っているから。

確かに頷ける、なぜなら私が注文するラーメンは必ずこってりで、均しくあっさりを注文することはなかなか出来ないから。

 

千葉で見初めて、津田沼に通い、飲んだ〆には池袋、はたまた駅前錦糸町、いつか行きたいパリ支店。

こってりらーめんなりたけさんだ(あんまり好きだから以下、敬称略)。

あの福岡西新にも支店があり、営業を続けていると言うのだから驚きである、一寸信じられない。

コンビニのカップ麺にも進出したようで、ご存知の方も多いのではあるまいか。

私はこのお店で十代の身体に焼ごてで刻印を受けた。

はたまた、刺青代わりの刺白と言うべきか、そのくらいに背脂こってりなのである。

 

なりたけのカップ麺は、蓋の上で後入れ背脂を温めておくのだが、仕上げに容器へ入れる際、一寸引いてしまうくらいの量が出る。

これが不思議なことに、お店で食べる際には抵抗がなくなる。

即席とはいえ、この料理—そう信ずる—は自分で作るものでは無いのだと確信する。

自分で作れないから外で食べる、これが外食の醍醐味であろう。

 

船橋から幕張の中高へ通っていた私が初めて食べたのは、同級生のゲーセン仲間に千葉店へ連れて行ってもらった時だ。

当時、貯めた小遣いのほとんど(と言っても昼食代五百円で百円の大きなプリンを一つだけ買った残金)をアーケードゲームの仕合に費やしていたから、電車賃のかかる千葉まで出る機会なぞ滅多に無かった。

また、それまで通っていたラーメン屋さんも一軒決め打ち、魚介だしの醤油ラーメン屋さんだけだった。

だから、都会にはとんでもない食べ物があると、味覚中枢の根幹に衝撃を受けた。

右脳と左脳との裂け目にめり込んだ背脂ツルハシは、私の人格をこってり極右へと大転向させたのだ。

以来、世間一般では背脂ちゃっちゃ系と言うのだろうが、なりたけはなりたけである。

 

普通のらーめんで十二分にこってりなので、騙し討ちを食らう羽目になるかもしれぬが、店名にはっきりとこってりと書かれている。

あっさり志向の方ならば「背脂なし」とか、少なめの「あっさり」を頼むと良い。

背脂の紫色した甘みに脳を焼かれた諸氏ならば、「ギタギタ」で。

私の場合はこれを「超ギタ」にして、大盛り、バター(酔狂で付ける)、もやし抜き(茹でてあるのは水っぽくなるため)、薬味(輪切りの葱の事)多めが基本だ。

気分でチャーシューとライスをつけて定食風にする事もある。

 

「超ギタ」とは、スープが無い代わりに其処にあるはずのものが全て背脂になっている代物である。

半ばこちらの我が儘を聞いて貰って作って頂いているようなものだから、これは飲み干さねばならぬ。

他店さんの張り紙だが、油そばのカロリーはラーメンのほぼ三分の二、塩分は約半分という説があるようだ。

あとはなりたけさんの超ギタを油そばと呼ぶかどうかだけなのだが、それは我々の胸三寸で決まる。

何、背脂の量は自分で選べるではないか、それだって我々の胸三寸だ。

 

「月(にくづき)に旨(うまい)と書いて脂となります。」

と書き出された、良く出来た嘘のような貼り紙がされている。

超訳すれば背脂サイコー程度の意味だろう、それには同感である。

しかしながら、説明の程度としては「土の下に羊を埋めて幸せ」のレベルなのだが、この説は真実だろうか。

旨いとは何か。

 

もう、普通のなりたけなぞ思い出せぬ、一度も注文した事は無かったのかも知れぬ。

近所にお店があって、気軽に行けるなら、普通を頂く機会もあろう。

しかし、私がなりたけに行くのは心が渇いているときだから、飲み歩いた〆に「超ギタが食いてえ!」と吠えるのだ。

普通のなりたけが食べたい、でもなりたけに来たら超ギタが食べたい。

そんなわけで今回も超ギタを注文させていただいた。

運ばれてきたお碗は、一面を蓮の花のように広がったチャーシューが覆い隠しており、とても良い。

この下に、お釈迦様がその蓮が咲いた池から見下ろした、地獄のような超ギタ背脂が溜まっているのだ。

蜘蛛の糸は必要あるまい、中には中太麺がとぐろを巻いて、引き上げられるのを待ち受けている。

卓上のにんにくをたっぷり入れるのを忘れずに。

 

啜り込んだその麺はもちもちとしていて、何より甘い。

ひ、ひ、ひ、思わず下卑た笑いが心の中で巻き起こる。

突き抜けている、全てが脂であるならば、これは全てがスープという事だ。

突き抜けている、普段ならば身体が拒絶するような塩辛さが気にならない。

比較の対象がないから脂も塩分も知らぬ、それほどまでにこってりしている。

人はパンでは生きられない。

イエス様だって息を吹き返し、輪になって踊るだろう。

 

狂気と狂喜が入り混じった食事を終えてからふと気付いた。

食券を何枚渡したのだったか。

チャーシューめん、バター、ライスの三枚、三枚だ。

しまった大盛りを押し忘れていた。

大盛りは百円で麺が二玉になる。

道理で食後の満足感を、切なさが上回ってしまうわけだ。

私は錦糸町駅改札に入った後で、何とも言えぬ切なさを感じていたのだった。

 

そうか、総武線で船橋の手前、本八幡で降りてそこのなりたけへ這入ろう。

どうせなら今度は人生初の普通を食べてみよう。

らーめん、普通、もやし抜き、薬味多め。

私が一番頻繁に通うラーメン屋さんでも「超こってりで。」と注文するが(もう先方で先に確認を取ってくれる)、なりたけの普通には遠く及ばない。

本来あるはずだったスープは熱く、とても美味しかった。

 

普通が一番美味しい、一食一飯の締め括りに相応しい気付きだった。

 

せっかく八幡へ来たので京成駅前のDue Italianで白いらぁ麺を食べて帰った。