【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #008 千葉 アリランラーメン【ONLIFE】

平日に休みを取って、のこのこと車を転がして、というよりは車に転がされるようにして、何をしてきたかと思えばラーメンを食べに行ってきた。

へぇ、車なんて運転できるんだ、という自分の声がする。

自慢にもならないような走行距離がかつては積み重なっていたものの、ハンドルを握る必要性から手放されてもう久しい。

公道の支配者という感情なぞ一切なく、単に交通法規の真面目な遵守者として、軽自動車の中で浅い呼吸をしながら過ごした。


一車線の一般道から高速道路へ乗り上げてからしばらくすると、あったなぁ、と思わず苦笑いしてしまうようなランドマークが右手すぐに見遣れた。

『時が流れる、お城が見える』だ。

人生斫断家とも評されたアルチュール・ランボーが生きていたころには、高速道路もその脇のラブホテルも在りはしなかった。

彼のような大反逆者が眺めた景色はどのようなものだったのか、今となっては想像するのも果敢ない。

『無疵な心がどこにある』遺された詩にはこう続く。

どこにでも在ったためしなぞなかったと断じてもよいが、永遠にそこかしこに在り続けるのだとも思いたい気持ちのほうが強い。


このあとしばらく道なりです、というナビの音声に安堵する。

『僕の前に道はある、僕の後ろに車はいない』

寝床の次に広いこの棺桶の中で、性善説が前提となるこの潮流に身を委ねながら、月並み程度の感想だがこの社会と、その奥に確かにいるであろう人とのつながりを感じた。

低速運転すなわち安全運転とならないのが面白い、久しぶりだから思い出した。

変化すなわち進歩とならないのと同じか、ゆめ忘るまい。


おそらく昼前に、ラーメンドランゴンボウルは七つ目が集まる。

身体に刻まれた記憶を頼りにぽつぽつと書いてきたが、最後はまだ食べたことのないラーメンを食べる冒険がしたかった。

シーズン2があるとするならば、博多のとんこつラーメン、道後温泉の屋台、北海道の鶏ポタージュ、まだ食べたことのないラーメンドラゴンボウルを探す旅に出たい。

今日はそれに向けての必要な旅支度だ。


九州、四国、北海道へ向かって。

その第一歩として、千葉県は房総半島のど真ん中へと車を走らせている。

この土地は利根川で本州から切り離されているから房総(半)島なのである。

島が誇る三大ラーメンのうちの一つ、アリランらあめんの八平さんを訪れる。

地図を見ただけで秘境感しかないのだが、それゆえに人気店でもあるようだ。

世界で二軒しか提供しているお店がないというのだから無理もない。

今朝調べると、しばらくは十時半から営業だという。

朝食(の袋ラーメン)を済ませたのが九時、飛び出すように安全運転した。


果てしなく続くかに見える道程も、いずれは目的地に向けて折れねばならない。

一般道に戻ると、しかし、その場その場のラーメン屋さんの多いこと。

砂漠を征く旅人の孤独に星座が寄り添ったように、公道を征く運転者たちの空腹にラーメン屋さんが寄り添ってくれているのだ。

無疵な心と同じように、ラーメンドラゴンボウルはそこかしこに在るかに見えた。

往来がこうも繁盛していると、出発前に抱いていた田舎という感じも薄れてくる。

ずーっと道なりに走って、いよいよ峠に差し掛かるという処でお店があった。


山道の食堂然とした、まろやかな店構えをしている。

車から降りると雲一つない快晴に気付き、一息つけた。

先客は一組のみ、慣れないお店は開店から行くのが良い。

テーブル席に案内され、決めていた注文を告げる。

アリランチャーシュー、大盛り。

アリランというのは朝鮮にある伝説の峠らしい。

峠越えの英気を養う一杯をという想いがその名に込められている。

玉葱が茶色のくたくたになったやつがラーメンに載っている。

なるほどこんな切り方もあるのかと思わせる、ダイス状である。

碗にはさらにチャーシューが五枚載っている。

期待通りというか予想以上に柔らかいチャーシューに、にんまりである。

だが、麺自体は平凡な醤油ラーメンだ。

変だな、しまった、期待しすぎたのか。


自棄食いでもしそうな荒んだ心を、ラーメンが癒してくれた。

これが、見た目に反してくどくないのである。

この甘みは玉葱か、近所の平凡な町中華では絶対に出せない深みだ。

茹で過ぎ御免とでも言いたげな麺すら、価値あるものになってくる。

チャーシュー、玉葱、麺の食感が統一されていて優しい。

優しさか…平凡な、優しさ。


尖ったラーメンばかり食べてきた、そんな気がする。

今日だって、尖ったヤツを信じてやって来たのだった。

でもそれが期待外れなんかじゃなく、贈り物でも渡されたみたいだ。

行って、帰って、文字にして。

分からないから、書く。

それが今は楽しい。

【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #007 戸隠 奥社前なおすけ【ONLIFE】

なぜ何も無いのではなく、何かが在るのか?

違う、何もでもなければ、何かでもない。

なぜラーメンが無いのか。

ラーメンが無いならば、ラーメンドラゴンボウルも無いのか。

そこに無ければ、無いのだ。


では、何があるのか?

そこには痩せた大地があった。

だが、高く険しい山岳が連なった。

魅せられた人々が集ってきた。

やがて寺が建ち、宿坊が出来、集落が起こる。

千年以上前には歌枕として知られる名所となった。


そこは長野市戸隠。

九頭龍伝説を起源に持つとも、岩戸が高天原から投棄された先とも伝えられる。

戸隠にラーメン屋さんは無い。

お蕎麦屋さんがあるばかり。

規模や範囲は小さいながら、博多にあるのが豚骨ラーメン屋さんばかりであるのと同様か、それ以上かもしれぬ。

ラーメン屋さんの無さ加減は徹底しているからである。


戸隠山のふもとを戸隠と呼ぶが、ここ一帯に五つの社が点在しており、まとめて戸隠神社と呼ばれている。

社には、岩戸伝説に由来する神々が祭られており、修験道の霊場としても名高い。

蕎麦巡りに合わせて、五社巡りもすれば知食共々満たされるだろう。

さあ一緒に、神秘が見え隠れする、雄大な自然と文化に触れる一歩を踏み出そう。


まず、長野県道七十六号長野戸隠線、北端の坂の突き当たり、宝光社からスタート。

いきなりで恐れ入るが300段弱の石段に出鼻をくじかれそうになる。

夏場午前の木漏れ日は涼やかだったのだが、汗と息切れが吹き出す。

ここに祭られているのは天表春命(あめのうわはるのみこと)。

参拝後に杉林の中の神道を歩いていくと、近所に火之御子社。

御存知、天地開闢以来最も有名なダンサー、天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祭っており、芸能に関してはこちらに参るのが大原則。

ここの社は五社の中で最も控えめな印象で、参拝のお客もまばらなので良い。


この後、表通りの坂道を登りながら商店街を行き過ぎ「越後屋商店」で真澄を購入する。

入店して左手に冷蔵庫が三台あり、その真ん中下段にあるのが、かつて「みやさか」今は「真澄 出荷年」と銘打たれた美味しいお酒だ。

女将さんは切っ風のいいお方で

「それは美味い酒ですよ」

「酒の味、知ってるね」

なんて言って、良い機嫌にさせてくださる。


坂道を登り切れば中社正面大鳥居。

樹齢九百年と言われる天然記念物に指定されている堂々たる三本杉が脇にあり、今までとの規模の違いは一目瞭然だ。

このすぐ近所にあるしなの屋さんでお蕎麦を召し上がれ。

戸隠という土地柄、どのお店で食べたってお蕎麦は美味しい。

東京では戸隠蕎麦の名をたまに見かける程度だが、本場では「ぼっち」という小分けになってざるに盛られている。

どのお店で食べたって美味しいのだから、店舗ごとの差異はサービスの蕎麦前に出る。

おしんこやらかりんとやら種々様々なのを、しなの屋さんが出すのは蕎麦饅頭。

餡子のはいった小ぶりなやつに、甘じょっぱいタレがぺとっと塗られていて、クセになる。

手土産に買って帰ることもできるが、日持ちしないので宿で夜のつまみにする。


付近のお土産屋さんを物色したら、中社で合格祈願や商売繁盛を。

ここには岩戸伝説の参謀、天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)が祭られており、近辺の繁盛ぶりも含めて個人的に好きな場所だ。

中社から次の奥社までの距離が開いているので、県道36号を登っていき、そばの実さんのすぐ手前を鏡池に向けて折れる。

鏡池の景色は大河ドラマ真田丸のOP冒頭で使われていて、大パノラマと言って良い。

丘にあるどんぐりハウスさんでガレットというのも、お蕎麦の違った楽しみ方だ。


続く先は自然散策道の表示に従って、真っ直ぐ随神門へと進む。

大門は朱に彩られ、屋根は茅葺き。

その威容は、先にある約二キロの杉並木と好対照を為している。

暗く、静かで、日本が誇る幻想風景の中でも屈指の静謐さが身を包む。

二百段を越す石段の最上段にまず、地元で信仰されている九頭龍を祭る九頭龍社があり、少し上に奥社がある。

奥社に祭られているのは、天手力雄命(たぢからおのみこと)。

ここでは必勝祈願を行う。

当然のことながら、帰り道は下りなので助かる。

石段を降り、下り坂気味の杉並木を抜け、随神門と大鳥居の向こうには県道がある。


県道へ出てすぐのバス停からバスに飛び乗れば…。


ここで満を持してラーメンドラゴンボウル、神々しさを後光に伴い、降臨。

随神門の先、大鳥居を出てすぐあるのが、奥社前なおすけさんである。

お品書きからのおすすめは、

葱の香る熱いつけ汁に鴨のお肉や舞茸がごろごろと入った、鴨ざるそば。

山葵より強烈な刺激がクセになる、辛味大根おろしざるそば。

海老、野菜、きのこの盛られた天ざるそば。


ラーメンは無い。

なぜ何も無いのではなく、何かが在るのか?

ラーメン屋さんの無さ加減は徹底している。

そして、戸隠という土地柄、どのお店で食べたってお蕎麦は美味しい。

ならば、このお店がラーメンドラゴンボウル足り得る理由も無いのだ。


ある、理由ならば。

お蕎麦しか無いにもかかわらず、ラーメンドラゴンボウルは存在している。

それは、お品書き筆頭の対を為す、激辛鴨ざるそば。

赤い、激辛の名に恥じぬ赤いつけ汁。

辛い、激辛の名に恥じぬ、思わず唸る辛いつけ汁。

増量のために十ぼっち追加したら、全てまとまってざるに載ってきた。

これが辛い。

食べる手を休めると口の中がひりひりしてくる。

だから、辛さを抑えるためには次々に口へ運ぶ必要がある。

辛いから手を止められない、手を止めないのは美味しいから、美味しいから辛い。

破綻した理論を展開する脳髄は、もはやその思考スピードが、お蕎麦を手繰る動きに追いついていない。

そこに無ければ、他所にも無い、唯一の逸品。


パスタ、ピザなら小鳥の森さんが良い。

岩魚と高原野菜の和風パスタ、おっとこれ以上変わり種ラーメンドラゴンボウルは増やせない。

ちょうど字数も尽きた。

【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #006 稲毛 炭よし【ONLIFE】

「俺は、お前が切っ掛けになって、俺達三人の友情が終わるんじゃないかと思ってる。」

先日、こう言われた。

ことの発端は、今から遡ること一三八億年前、いや、宇宙の起源にまで遡る必要はあるまい。

我々の問題解決にカントの助力を得ようと欲するならば話は別だが、彼もまた第一アンチノミーに突き当たって因果律が破綻してしまうことになる。

そう、ことの発端はごく私的な問題で、今流行の歌手の歌を流すのを止めてくれと要請したのを、冒頭の発言の主が聞き咎めたのだ。

その男にはこう弁明した、大きな失恋から立ち直れないでいて、その女性がよく聴いていたんだ、と。

二十年来の付き合いの友人は、すぐに私の“ある種の例え話”を察したらしく発言を撤回してくれた。

 

以上の話から二つの議論がなされる。

一つは、これからラーメンを食べるのにカントを持ち出す馬鹿があるか、という判り切った、つまり議論の余地のない議論(それを洒落とか冗談とか与太とかいう)。

もう一つは、大切なものを失ってから嘆く馬鹿があるか、という我々が繰り返し陥る、つまり繰り返された議論(それを友情の決裂とか失恋とか喪失とかいう)。

後者に関して、我々は先にも述べた通り、カントの助力を得ずとも我々自身で解決に至った。

友情のように壊れやすいものは、大切に扱いさえすればいっそう壊れなくなるという、誰もが知るであろう事実の再共有だけで、我々の友情はより強固になったと信ずる。

ただ、逆上せていた私が、恋だの愛だのも喪失しやすいものであると知るのが後になったまでのことだ。

 

今日探し求めるラーメンドラゴンボウルは、すでに喪失してしまったお店である。

 

先ほど、ラーメンを食べるのにカントを持ち出す馬鹿があるか、などと口走ったがそれに似たような粗忽者を知っている。

我々三人がシェアハウスをしていた頃、その家の空き部屋にもう一人入居してきたのがその男だ。

何せ、引っ越しするのに行き先も聞かず、車に荷物を詰め込んだのだから。

で、後部座席でこんな話をしたらしい。

「どこら辺に行くの?」

「イナギ(東京都多摩地域南部)だよ。」

行き先も聞き、道中二人は運転手を尻目に与太話、車が向かう方角が西ではなく東だったと気付くはずも無い。

ついた先は、稲毛(千葉市北部)だったから、二十三区外とはいえ都内に住めると思った男は大いに動転し、行き先を伝えたKもそんな聞き違いに腹を抱えて笑ったという。

 

まるで落語の枕のような話だったが、そこ稲毛に伝説の店舗があった。

駅から徒歩十分強のシェアハウスから最も近いラーメン屋さんが三件。

行列のできる家系、地域密着型のタンメン、そしてそのお店、炭よし。

行列に並ばず、タンメンは食べずの私が選ぶのは当然、炭よしさんだ。

私は部屋に週一度しか顔を出さないので、ある日提案されて這入った。

座右に拝してあるのは、平凡な「醤油トンコツ」の中華そばだったが。

 

「何だ、このメニュー。」ロマンチストのKが惹かれたようだ。

「面白いね、それ頼も。」本文冒頭の発言をした男も話に乗る。

「じゃ中華そばにする。」私のこんな所が癪に障るのだろうか。

 

端麗なイメージの中華そばからは遠い、トンコツ醬油の深い味わいに間違いはなかった。

いや、間違いだった、両名とも眼を剝いて彼らが注文した一杯を激賞している。

私も蓮華で一口頂くと、そこにあったのは鶏ポタージュとしか言い様の無い、濃厚かつ鮮烈な味わいのスープだった。

どろどろの粘性スープは口の中一杯にへばりつき、鶏そのものの香りが鼻へと抜ける。

これは、加熱した鶏がその形状を保てなくなって、どぷんとゲル化した生命の一杯だ。

他店ならば嬉しい肉感の豚チャーシューですら、この碗の中で存在感に疑問が生じる。

海苔めんまホウレン草にさながら家系を連想、花弁の様な白ネギはしゃなりと優しい。

どんとこいや 炭よし :https://minkara.carview.co.jp/userid/602368/spot/709923/

全世界の鶏白湯が単なる白湯に帰してしまうほどに空前だった。

鶏白湯として提供された訳では決してないのだから当然なのだが。

惚れ込んでから何度も食べようとしたが、店主の体調不良とやらで不定休。

もともと稲毛を拠点とした活動に私が参加していたのは週に一度きり。

そして僅か数ヶ月後に突然の閉店を迎える。

鶏ポタージュとして文字通り絶後の一杯は、伝説となった。

 

伝説には噂が付きまとうのが常である。

曰く、マスターは千葉の錚々たる名店を渡り歩き修行していた。

曰く、茹でたてのうどん、揚げたての天ぷらを出すお店だった。

うどんは三百円、天ぷら五十円だったというのだから、店舗周辺での需要と受容があったかどうか疑問なのだが、それにしても安い。

 

曰く、うどんに加えて、長州ラーメンを提供するようになった。

曰く、二〇一二年末(およそ十年前になるとは!)の再オープンを機に、ラーメンのみを提供するお店となった。

にもかかわらず、お客からの要望でうどんの限定提供を再開した。

我々が越して来たのが二〇一四年五月、再オープンから一年半後のこととなる。

 

曰く、以前はカレー屋さんの経験もあるらしい。

曰く、カレーにチーズを溶かして炭の香りをつけていた。

ちょっと何を言っているのか分からない。

そしてその技術をラーメンに転用したメニューも作っているらしい。

 

以来私は、ほんものの鶏ポタージュを食べていないし、目にすることもない。

面影を探して注文した鶏白湯ラーメンに、落胆することなら繰り返している。

今回、この記事を書くにあたって、その美味を伝えきることが出来なかった。

数度だけ食べた感動よりも、喪失した感傷に浸ってしまうのだ、どうしても。

もう朧げなあの味の影を追いかけて、私は関連するウェブサイトを渉猟する。

私はどうして、死んだ我が子の年齢を数える様な真似をしているのだろうか。

そんな風に考えて涙が出そうになり、ラーメンドラゴンボウルを取り落とす。

 

「我々は国宝を永遠に失ってしまったのだ。」

冒頭の発言者、TechnoBreak Shunメンバーが、昨日私を慰めた。

 

【参考一覧】

食べログ 炭善(掲載保留)(4件の口コミ、2012/03再オープン前にうどんを出していた情報が唯一見られる、2012/08再オープン前に長州ラーメンも出していた情報もあり)

https://tabelog.com/chiba/A1201/A120104/12028267/dtlrvwlst/

 

ラーメンデータベース 醤油トンコツらーめん 炭よし(6件のレビュー、2014/01/11鶏塩に「命のラーメン」と記載有、感動の92点)

https://ramendb.supleks.jp/s/66252.html

 

Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E- 炭よし(炭善)@稲毛 千葉の名店を渡り歩いた店主さんが満を持して開業!(2013/03/19お店の背景が詳細に記載されており、資料としての価値が第一級、gooblogの更新頻度も非常に高く今回好きになりました)

https://blog.goo.ne.jp/sehensucht/e/a8041291c24c6dd5447290c58f29bc40

 

Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E- めん屋いとうけ@稲毛 炭よし跡地に家系LIKEな濃厚ラーメンのお店が登場!(2014/11/03炭よしさんが短命でかつ、塩チーズが美味という事を裏付ける内容)

https://blog.goo.ne.jp/sehensucht/e/daaef556f9e0bf37d0a9a4b1bf4b5f71

 

お水をどうぞ 炭よし@稲毛の『中華そば』(2013/03/23鶏塩がリリース時はライトで女性向けだったというのが面白い)

http://blog.livedoor.jp/mostly_benten/archives/1765245.html

 

お水をどうぞ 炭よし@稲毛の『鶏塩ラーメン』(2013/03/23上記記事の直後に注文の連食、コクのある鶏白湯だったという)

http://blog.livedoor.jp/mostly_benten/archives/1765256.html

 

続おもしろラーメンブログ 炭善@稲毛(塩チーズ)(2013/02/16塩チーズの秘術と未知なるカレーの存在に震える)

https://ameblo.jp/yokozunayokozuna777/entry-12476052903.html

 

どんとこいや 炭よし(2013/12/01夏前に来店した記事だというが、鶏塩に“鶏ポタージュ”の記載がある唯一のもの)

https://minkara.carview.co.jp/userid/602368/spot/709923/

 

cafefreak 失敗しない稲毛でのラーメン屋さん探し!食べたくなったら急げ!(2016/01/08稲毛のラーメン事情を俯瞰できる)

https://cafefreak.jp/6337

【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #005 金龍ラーメン御堂筋店【ONLIFE】

年末の職場閉鎖期間、私は研修で大阪へ行く。

都内での研修は十二月中旬にあるのだが、通常業務を優先させるために申し込む事はしない。

止む無く、家で怠惰を謳歌する時間を、自身の鍛錬に昇華させる。

ちょっとした旅行感覚を味わうためにも。

期間は二十九、三十の二日間、これを二十八日に前入りする。

行きも帰りも深夜バス、泊まりはネカフェの貧乏旅行である。

 

休日が湧くと朝七時に起きてロング缶のビールを二本飲んでから寝直し、昼に起きたらワインをボトル半分飲んでから三度寝、活動開始は十六時頃。

大抵はこんな風にして、文化的な活動は無いままに一日を無駄に過ごす。

だったら、無給で働いている方が良いのだ。

中庸は能くす可からざるものなれど、爵祿くらいは辞する事が可能だ、週に一日くらいなら。

 

そんな透かした理屈で誤魔化しているが、真実はきっと違う。

過労だとか過度の飲酒だとか異常食欲や変態食欲とか、碌でもないこれもそれも形を変えた自傷なのだろう。

アクラシア問題、これは哲学上の大議論だという。

曰く、ソクラテスはそれを単なる無知と断じた。

曰く、アリストテレスは欲望や感情による葛藤を生じていると諫めた。

 

だからその頃は恐ろしく金がなかった。

金なんかあるから不安になるのだと信じていたから。

果たして不安はなかった。

だが、金もなかった。

それでも生きていく事は出来たのだった。

 

深夜バスに乗って朝七時前に梅田へ着く。

夜明かしした酔客は駅へと向かっている、あれは夜勤明けの勤め人か。

すれ違うように朝日の射す方へと歩く。

バスのオプションで付けた大東洋の朝湯を浴びる。

一度だけ、その前にウェスティンホテル一階のアマデウスで朝食のビュッフェも付けた事があった。

あのオプションはそれ以来目にしないが、貧乏旅行のクライマックスがいきなり来た感じがして、良かった。

 

だいたい十時頃には拠点である難波へ到着する。

それから夜まで、凡そ碌でもない事をして過ごす。

だから一体何をしていたか覚えていない。

もしかすると、前乗りなぞしていなかったのかもしれない。

研修は十時から十七時までだったから。

 

もう地図に頼らずに難波を歩く事はできるが、周辺に一体どんな名所があるのか、私はとんと知らぬ。

空白の一日なぞ存在していなかった。

存在しない空白の一日を作った心理はなぞだ。

壊されるより先に狂ってしまえ、壊れた事を気付かぬために。

 

研修を終えてから、ネカフェのチェックインまで五時間以上ある。

御堂筋と千日前通が交差するすぐそばに、フラットタイプの完全個室をナイトパックで予約してある。

それまで碌でもない事をして過ごすのだ。

貧乏旅行はこれだからたまらぬ。

年末の大阪で雪に降られた記憶はない。

寒さが身に染みると思ったこともあまりない。

懐具合が唯一の欠点だったのだが、制限のある中で自由を求める事なら出来た。

 

いや、それを彷徨と言うのかもしれない。

自由を求めて彷徨っているのであるならば。

なぜならば自由なんて無いのだから。

この皮膚の外に、物質的自由というものなぞ存在するまい。

自己の中にのみ、精神的自由がきっと在るのだ。

 

否、在った。

物質的自由が、其処に、目の前に、頑として。

御堂筋をぶらついていれば、その一角は厭でも目に入る。

金龍ラーメンが其処に在る。

迫り出したカウンターというより、これは台と呼びたい。
その内部から立ち上る朦々たる湯気がこの店の放つ熱気を物語る。

そこへと群がる客たちで、台の周りがひしめきあっている。

椅子は無く、立ち食いだから混沌が秩序立っていて面白い。

 

強烈な何かに束縛されてお店へ突入、何が自由なものか。

食券は二種類、ラーメン六百円とチャーシューメン九百円。

対峙する券売機に見据えられ、強烈な制限を受けた私の全身が強張る。

震えるほどに痺れる、このお店は大盛りなど用意していない。

つまり、チャーシューメンを食べて、次にラーメンを食べてそれが大盛りという事になるのだ。

大盛りラーメン、千五百円、ここに爆誕である。

 

台の上には、ラーメンボウルに白菜キムチ、ニラの辛子和え、きざみにんにくがそれぞれ盛られて割り箸が突っ込まれている。

勝手に取って、勝手に味を調整する事が無言で示されている。

これは啓示か、屋根から突き出た龍の啓示か。

しかし、未だ七つ集めきらないラーメンドラゴンボウル。

降臨するのは一体何。

 

そのラーメンはすぐに出てくる。

チャーシューは薄いが、冬場のこの寒い季節感と精神的疲労感による感謝の念が勝る。

生存本能がチャーシューを味わう事を禁じ、麺と一緒にさっと手繰ってしまう。

その麺を一口食べると、なんともスタンダード未満のとんこつ醤油様の味がする。

換言するならば、懐の広いラーメンの味という事だ。

清濁併せ呑むかのような、個性を主張しない事で却って個性に目が向くような、そんなラーメンだ。

すかさず台の碗から全ての具材を、これでもかというほどに、どかどか投下する。

何を食べているのか分からなくなるほどに入れてしまう。

熱いつゆにキムチをひたしたもの、その脇に麺が沈んでいるような料理だ。

これには火傷を防ぐという効果もある。

つゆが辛いのはニラのせいではない、にんにくを入れすぎたからである。

これが私の、にんにくジェノサイ道。

臭くなるのは生姜無い。

 

関東者が往く、年の瀬の立ち食いラーメンは、普通とは一体何か私に問うている。

二十四時間営業だから、なんなら翌朝も食べてしまう。

金龍ラーメンさんは、ミナミに五店舗あり、残り四つは小上がりの座敷で食べる。

さらに、そこは大釜からご飯を自由に取る事ができる。

なあんだ、金のない貧乏旅行者にも優しい面をちゃんと見せてくれるではないか。

休日返上労働者の諧謔と哀愁、肉体と精神双方の再生。