藤子不二雄Ⓐが先日4月7日に亡くなった。
享年88歳だそうだ。
藤子不二雄Ⓐは、本名を安孫子素雄といい、かつて藤子・F・不二雄とともに藤子不二雄というペンネームで、オバケのQ太郎、忍者ハットリくん等を手掛けた、言わずと知れた児童漫画界の巨匠である。
幼少期から馴染みのあった漫画家が亡くなり、言いようのない空虚さを覚えたのは俺だけではないだろう。
藤子不二雄Ⓐの代表作は、怪物くん、忍者ハットリくん、プロゴルファー猿、笑ゥせぇるすまんだろうか。
幼少期に、これは Shun が好きなドラえもんを描いた作者のアニメだよ、と笑ゥせぇるすまんのアニメを見させられたことがある。
笑ゥせぇるすまんは、例えば仕事に疲れたサラリーマンが癒しを求めて嬢に熱を上げたあげく、最終的には幼児退行するような話があるアニメであった。
あれは一種の虐待だったのではないだろうか。
さて、それらの藤子不二雄Ⓐ作品の中で、今なおカルト的人気を誇る漫画がある。
「まんが道」だ。
まんが道とは、藤子不二雄Ⓐの半自伝的漫画であり、相方の藤本弘(藤子・F・不二雄)との出会いを皮切りに、漫画家への憧れと葛藤、トキワ荘での仲間との出会いや別れを繰り返し、一人の漫画家として成長していく物語を描いた作品である。
まんが道は、1970年から連載を開始し、途中から「愛…しりそめし頃に…」と名前を変えながら、2013年まで長期連載された。
まんが道の中では、手塚治虫を始めとして石ノ森章太郎や赤塚不二夫など、当時の漫画界の巨匠が魅力的なキャラクターとして次々と登場する。
中でも個人的に一番魅力なキャラクターが、寺田ヒロオこと「テラさん」である。
寺田ヒロオ
寺田ヒロオは、本名を寺田博雄と言い、代表作は「スポーツマン金太郎」や「背番号0(ゼロ)」などのスポーツ児童漫画をメインに描いていた漫画家である。
高校自体に、かつて出版されていた「漫画少年」という雑誌に魅了され、その雑誌に漫画を投稿し始めたという。
その後、一時は就職をするも、井上一雄・福井英一の「バットくん」という漫画に刺激され、漫画家になるために上京。
その上京先が、まさに手塚治虫が仕事場として使用していたトキワ荘であった。
テラさんという兄貴分
テラさんがトキワ荘に住み始めたころは、まだ同居人の漫画家は手塚治虫のみであった。
当時テラさんはまだ駆け出しの漫画家だった一方、向かいの部屋に住む手塚治虫は誰もが知る超売れっ子漫画家である。
そのため、頻繁に雑誌の編集者が手塚治虫の部屋を訪ねてくるが、トキワ荘はあくまで手塚治虫の仕事場でしかないため、いないことも多々あった。
その際、訪ねてきた編集者は、必ず向かいの部屋に住んでいるテラさんに手塚治虫の居所を尋ねるものだから、何回も色んな編集者に聞かれて辟易していたらしい。
そのような状況の中、富山から手塚治虫を訪ねてきたのが藤子不二雄Ⓐである。
藤子不二雄Ⓐは、富山から編集者との打ち合わせで東京に来た折、せっかく東京にきたのだから、と手塚治虫を訪ねた際に、テラさんと初めて出会っている。
出会った二人はその日に意気投合し、4時間も漫画談議で話し合ったという。
それ以来、ことあるごとにテラさんは藤子不二雄の両名を気にかけてくれ、悩んでいれば話を聞き、困窮していればお金を貸し、と非常に頼れる兄貴分であったようだ。
テラさんの兄貴分としての側面が特に描かれているのは、藤子不二雄が下宿先からトキワ荘へ引っ越す下りである。
テラさんは新たにトキワ荘の住人となる二人のために、家賃のこと、生活費のこと、生活必需品、お金の使い方、トキワ荘の地図など、引っ越しのノウハウをあらゆる情報を一つの封書にアドバイスとしてしたため、下宿先の藤子不二雄に送ったという。
藤子不二雄の両名はそれまで実家と下宿先にしか住んだことがなく、一人暮らしの経験がない二人は、そのアドバイスを大いに喜んだという。
テラさんの漫画に対する姿勢
一方で、テラさんという存在は、漫画というものに対して強い執念を持っていることも描かれている。
彼は元々「漫画少年」という漫画雑誌がきっかけで漫画家を志したということもあり、児童漫画というものは「子供たちに夢と希望を与える漫画」であるべきだと考えていた。
しかし、同時にそのころ関西圏では、ちばてつやを始めとして、派手なアクションを前面に押し出した劇画が勃興しており、一大ムーブメントとなりつつあった。
当然テラさんは、派手なアクションに終始し、夢も希望も与えない(ようにテラさんからは見える)劇画という漫画を、公然と批判するようになってしまった。
有名なエピソードとしては、会ったこともないちばてつやに対して、「君はこういう漫画を描かなければならない」という内容を手紙に書いて送りつけたこともあるという。
その後、次から次へとトキワ壮の後輩が売れていく中、「子供たちに夢と希望を与える」児童漫画を描き続けるという妄執にとらわれたテラさんは、徐々に売れなくなってしまう。
そしてある時、連載していた雑誌の編集者に対して、「これ以上悪影響のある漫画と同じ雑誌に連載することはできない。この漫画を切ることができないならば、自分のほうから連載を降りる」と宣言してしまう。
当然編集者は売れる漫画を切れるわけもなく、寺田ヒロオは自ら筆を折ることになってしまった。
寺田ヒロオのその後
まんが道の中では、その後のテラさんはあまり描かれていない。
そのころには他の漫画雑誌の波にのまれて廃刊となってしまった「漫画少年」の復刻を模索したり、「漫画少年」の記録を世の中に残そうと記録をまとめているところが少し描かれているのみだ。
史実の寺田ヒロオはその後どうなったのか。
「愛…しりそめし頃に…」の巻末にある藤子不二雄Ⓐのインタビューの中で、次のようなエピソードを語っている。
愛…しりそめし頃に…(3)(藤子不二雄(A)デジタルセレクション)p.229
後年、当時の仲間が集まって、テラさんの家へ遊びに行ったことがあります。
夜が更けるまで楽しく過ごして、おいとまする道すがら、振り返るとテラさんがいつまでもいつまでも手を振っている。
「なんだか最後のお別れみたいだね~」と言ってたら、翌日、奥さんから電話で「今日を限りに、寺田は外との接触を一切、経ちました」と連絡があった。
それから一年後に、テラさんは亡くなりました。
実際に、トキワ荘メンバーとの最後の別れ以降は、寺田ヒロオは一人自宅の離れに引きこもり、酒浸りの生活をしていたという。
そんな生活を続ければ当然病気になるが、家族の説得にもかかわらず頑なに病院に行くことを拒否し、そのまま亡くなってしまった。
藤子不二雄Ⓐは、それを別の書籍のインタビューで「緩慢な自殺」と表現している。
手塚番 ~神様の伴走者~ (小学館文庫) Kindle版 p.221
テラさんとこは豪邸なんですよ。その庭に別棟があって、奥さんと子供さんは、そこに住んでるんです。テラさん、本宅に引きこもって。
奥さんが朝、ご飯を玄関のとこに置いとくんだって。それが食べてあって、次にお昼を持ってく。食べてある。奥さんともいっさい顔を合わせない。
1年後に、朝食持ってって、昼いったら、まったく手をつけていなかったんだって。心配になって奥さんが品質へ行ったら、テラさん、ベッドで眠るように亡くなっていた。まあ、緩慢なる自殺っていうかね……。
藤子不二雄Ⓐが描いたまんが道とは一体なんだったのか
まんが道は、二人の漫画家が、手塚治虫という神に出会い、憧れ、仲間と切磋琢磨し、社会の荒波に揉まれながら、一人前の漫画家へと成長していく、そういう漫画である。
しかしその影で、荒波に揉まれて消えていった存在を、藤子不二雄Ⓐはどうしても記録しておきたかったのではないかと思うのである。
まんが道の中では、手塚治虫と同じくらい尊敬する存在として、テラさんが描かれていた。
テラさんという存在がいかに頼れる存在なのか、トキワ荘の中で皆の心の拠り所となる存在なのかが、何度も何度も描かれているのだ。
手塚治虫という神に出会い、テラさんという師に出会った。
藤子不二雄Ⓐにとって、その二人との出会いがなければ、自分はないと考えているのではないかと思うのである。
末尾に
藤子不二雄Ⓐ先生、これまで素晴らしい漫画の数々をこの世に生み出してくださり、ありがとうございました。
天国で、新漫画党の皆様や、相方の藤子・F・不二雄先生とともに、チューダーで一杯やってください。
ここに、先生のご冥福をお祈りいたします。