【2024冬号】酒客呵業 #002 秋葉原 赤津加【キ刊TechnoBreakマガジン】

「本物の乞食は、懇願せずとも物がやって来る」

 禍原先生の言である。彼は職員室内で賞味期限が切れた物は何でも寄越して下さいと宣言している、小洒落たスーツの自称物乞いだ。数年前、デスクの上に十ダース以上あろうかという程のカロリーメイトが誰かから寄贈されていた時、彼は『乞食行為で蔵が建った』と心底満足したものだ。乞食道は乞食祈祷から遊離し、さらなる自然体の境地へ止揚すべきだと、聞かされる側からすれば堪ったものじゃないお得意の屁理屈を練り上げている。最近、彼は自分の事を乞法大師食海と号してみてはどうかと、割と真剣に思い始めている。

 この乞食行為の原動力になっているのが、慢性的な金欠である。それは連日連夜の飲み歩きに原因があるわけで、財布の中身に関しての計算力は偏差値三十台と言える。これで早大卒の化学の先生と言うのだから聞いて呆れる。『お金がないならもやしを食べれば良いじゃない』とか『貧乏人は麦を食う』とは、職員室内で宮廷道化師気取りの彼が聞こえよがしに吹聴する不遜な冗談だった。彼を笑う者が彼に内心笑われる。地べたからの下から目線は、彼からすれば相手の事を見下げ果てている事になるのだ。そして、そんな不届きな驕慢さを、決して誰かに悟られないよう細心の緊張感を持って同僚たちと接しているのだった。

 朝も昼も、大ぶりな耐熱容器にもやし二袋と熱湯を入れて、電子レンジで茹でている。これに肉を入れれば鍋になるし、肉が無ければ温野菜になる。肉の有無は禍原先生の懐具合で決まるのだが、温野菜で通すことが専らだ。この頃はスープジャーを買って来て、このもやしを茹でた残り汁を保存している。よく話す後輩の山崎に笑いながら『これが汁乞食だ』と自慢げに言ったら、山崎は調子に乗って彼を乞食道の先輩として茶化す様になった。

「自分も乞食して良いですか?」と笑顔で先輩に許可を取ろうとするのは、乞食行為を通じた物のやり取りにまつわるちょっとしたコミュニケーションの妙味に気付き始めたからだろう。生徒指導も大切だが、後輩の育成も必要だ。山崎は学芸大出身の最若手だからか、同僚からいじられる事が多く話題に事欠かないので、今後もちょくちょく出てくるだろう。

『今月金が無え』と口癖のように“月末に”言っているのは、給料が出てから一週間もせずに散財するからである。江戸っ子は宵越しの銭は持たないと言われるが、禍原一屰に言わせれば月跨ぎの銭を持つ事が出来ない。それでいて彼は江戸っ子では無いのだから手に負えない。船橋生まれ、船橋育ち、現在はたまたま東京と埼玉の境目ら辺に勤めている。王子、十条、赤羽の呑助ゴールデントライアングルは、水を得た魚ではなく酒を得た肴さながらに彼の日々を潤いのあるものにした。財布は乾いた。懐の寂しさは、また人間関係の希薄さを際立たせた。だから、眼に見えない、在るかも分からない「絆」と言うものを求めて飲み屋街を彷徨い歩くのだ。

 二十一日、給料日が来た。その日は月曜日だった。日曜に安酒を食らって床に着いた彼は、明日は給料日だからと生まれ変わったかのように晴れ晴れした気持ちで眠った。そして、翌朝には給料日である事などすっかり忘れて仕事に没頭し、朝礼で指摘された際に思い出してまた舞い上がるのだった。こう言う理由で、彼は給料日の喜びを二度感じる事が出来るわけなのだが、それは酒の飲み過ぎによる記憶力の欠乏と引き換えの幸せだ。そんな日の朝礼の最後には冗談好きの教頭から指名が入る。

「禍原先生から、何かありますか?」

「今日は校長の黒木先生からお給料を頂戴しております、ご馳走様です!」

と、最近やって来た校長の息子に向けて深々と頭を下げて最敬礼する。このやり取りに同僚たちはうんざり気味だが、誰かの不愉快が彼にとっての愉快である。そして、この事はしっかりと記載しておくが、そんな禍原先生だとしても、実務者としてはかなり優秀な方なのだ。何なら問題教師は他に何人か居る。ただし、これは彼の同僚の不祥事告発文章では決してない。

 禍原一屰の酒客呵業は、酔って祓うと言う事に他ならない。飲み歩いて酒代を払うと言う行為により、その街その土地の魔や禍や怪を祓う。その日の夜は、バドミントン部の指導で汗をかいてから呵業へと繰り出した。向かったのは秋葉原。

 昭和通り改札から秋葉原山陰方面へ出れば魅力的な飲み屋が軒を連ねているのだが、反対方向の煌びやか過ぎて彼には似合わない風情がする電気街口へ行かねばならなかった。意外にも品揃えの良いニューデイズでスーパードライとクラフトビールを一缶ずつ、ポリ袋と共に買ってから向かった。久しぶりに降り立った街の印象は、いつもと違って感傷的だと彼は思った。と言うのも、津波の様に押し寄せて来るはずの電飾が、その夜はどこか遠く朧げに見えたから。ラジオ会館の先を右に曲がった高架下の薄暗さに彼ははっとした。まるで黄泉の国への入り口だ。彼一人だけがこの街の中で浮いているから、そんな事に気付いたのかも知れない。欲望渦巻く電気街で、彼一人だけは酒を渇望していたからだろうか。

 そんな事は慢性化しているのだが、日々の生活が立ち行かない時、彼もまた追い詰められる。追い詰められて、物狂おしい心地になって、その果てへと呼び寄せられる。今夜はこの地だったと言う事だ。中央通り交差点。この地の事は詳述しないが、今夜はこの地が彼を呼び寄せたのだろう。

 ガードレールに腰掛けてビール開封。運動後の水分補給は心地良く、気候的な肌寒さは何とも思われなかった。一缶目のスーパードライはすぐ飲み切った。彼はしばらく呆っとしていた。こんな短時間で酔いが回るはずがないのだが。やがて二缶目を取り出して、カラメル様の濃厚な味わいがするクラフトビールをちびちび飲み出した。

『このまま行けば、俺もあの通り魔の様になる。俺なんか、視点を変えれば刑務所の中にでも入っていた方が、世間のためだ。そうなりたく無くて仕事をしているが、その仕事が俺を引き裂く。過労という名の自傷行為を癒すための毎晩の飲酒が、また俺を苛む。』

 彼の勤務校が「格物」という名で独自に展開している道徳教育がある。禍原先生は格物の部署における実質的なナンバー3だ。課長の福澤が中二、部長の江戸川が中三、ヒラの彼が中学一年生を担当している。教壇では常々、『視点を変えよう』と訴え続けて生徒を教材に向かわせている。そんな彼の視点は、自分自身を、あたかも凶悪犯罪者と同列であるかの様に思わせるらしい。ただ生きて行くと言う事が、それほど辛いものなのか。

『居場所が欲しければ頭角を現すしかないと気付いた十年前から、生徒たちに分かりやすい授業を提供したくて必死に準備して来た。教材さえあれば、後は毎年繰り返していればそれで済むはずだった。実際にはそんな俺に、道徳教材開発の要員として白羽の矢が立てられてしまった。三十過ぎれば誰だって、厄介な部署で重要な業務を負担する事になるが、俺の仕事は永遠に無くならないし、更新されなくなれば腐敗してしまう。俺は道徳教育を考えすぎているせいで視野が狭くなり過ぎた。死刑囚の絶望が分かるのに、被害者の哀惜が理解出来ないなんて狂っている。』

 だが彼は、言わば遺された側の一人だ。だからこそ、彼に出来る事があるはずだった。それが、酔って祓う事である。ガードレールでがっくりと項垂れていた彼は、頭を上げて満足そうに笑った。それは、四辺ある横断歩道を踏破しながら、缶に残ったビールを振り撒き、飲酒結界、泥酔魔法陣でも描いたら上等な弔いになるだろうと思ったからだ。そしてすぐに、不審者扱いで警察沙汰は御免だな、と視点を変えて踏み止まれた事も満足だった。彼は、十七名の死傷者達に哀悼の念を込めながら、濃い甘さのビールを足元に流す。自分の内部に渦巻く矛盾を再度強く認識した禍原先生は、アスファルトに強く着地した。

『さて、飲み屋さんへ行こう』

 随分前、初めての卒業生を見送った後の慰労会が、外神田のちゃんこ料理店で開かれた。会費は校長持ちだった。その二次会に、当時の学年主任だった江戸川が連れて行ってくれたお店がすぐ近くにあるのだ。横断歩道を渡り、神田明神通りをすぐ左へ。店仕舞い前のレトロゲーム専門店、その正面の通り一帯は、様々なコスプレをした客引きの女性で溢れ返っている。こう言う景色は無いよりあった方が良い景気だから、禍原先生は笑った。なかなか見られるものでは無いが、こんな所で見られた事に満足気である。

 通り二区画目の左手、赤津加が時空の狭間に穿たれた楔の様に在る。朽葉色した木塀のぐるり、屋根看板には堂々たる『菊正宗』、屋号の書かれた暖簾をぱっとくぐり引き戸を開ける。コの字カウンターは大盛況だったが、別にテーブルの席をすぐ作って下さって助かった。

 肌寒い中でビールを二缶飲んだから、早速燗酒を一本つけて頂く。一緒に持って来てくれたお通しは、白身魚の刺身に茗荷の甘酢漬けが添えられているのが良い。禍原先生は浮かれ気分になって、季節を感じる注文を続けた。平目刺。実穂じそ、紅たでのあしらいに、さり気ない気品と風格。本わさびの脇にそっと縁側が添えられているのには感銘を受ける。秋刀魚は名に恥じぬするどさで、はらわたの苦味が酒を恋しくさせた。最後はレモンサワーに変えて、かき揚げ。

 彼は大満足だったが煙草が吸いたくなった。お会計をして表に出る。吸えそうな場所は無い。千代田区は五月蝿いから、この路地では吸えまい。他のお店の邪魔にもなる。コンセプトバーなら吸える所もあるだろうと思い、立ちんぼに声をかけるべく彼はふらふら路地から出た。その先にあるのは札びら乱舞だ。大酒喰らうから記憶も失くす。妖怪巾着切りと呼んでいる。

酒客呵業 #002 悪寒 ー了ー