【六月号】棒きれ #003 おかねください【キ刊TechnoBreakマガジン】

十万円の寄付をしたけれど

欲を言うなら返して欲しい

これっぱかりのはした金で

あなたの人生かえやしない

最初の四万ぽんと渡した

次の六万無心した

まだ五千円しか返ってこない

連絡だって寄越さない

月五千円くれればいいのに

返す気ないなら言えばいい

あなたが期待をさせるから

僕は心がざわつきます

僕は半年も黙っていたから

思い返した感情が

とてつもない勢いをもって

肺の奥からあふれそう

返さないで良いと言った四万円

貸してほしいと頼まれた六万円

十万円の寄付をしたけれど

欲を言うなら返して欲しい

近々そちらへ伺います

どうせそんなこと反故にされ

どうしようもなく嫉妬して

おかねくださいと言わさせて

【六月号】酒客笑売 #003【キ刊TechnoBreakマガジン】

高校進学後から制度化された門限が、次第々々に延びて行き、いよいよ撤廃されたのが二十五の頃だったろうか。

文句があるなら家を出れば良いわけだが、生来の無計画が動脈瘤のように人生の行き先に詰まっており、おかげで私は成人を過ぎた子供のままでいる。

恥ずかしくはないのだが、恥ずかしむべき次第である。

仕事は向こうから来る、男は三十過ぎてから、この二つを心の中に無闇矢鱈と高く掲げて居たために、二十五の頃も非正規雇用に甘んじていた。

親からすれば、その時の私に一度見切りをつけた格好だろうか。

帰らぬ子を心配するのではなく、帰らぬ子は親の手を離れたと認識することが肝要である。

帰る選択をするより、帰らない選択の方が楽なのだから。

帰っていた頃もあった。

制度がまだまだ厳しい、学生の時分である。

酒を止めろとか、家を出て行けと言われては生きて行かれぬ。

私個人の権利を守るためには、酩酊しても泥酔しても、家に帰ると言う義務の履行は必須のように当時は思えていたのだった。

必ず帰る。

終電過ぎまで飲んで、東西線が東陽町止まりしかなかった時でも。

必ず帰る。

東西線を西船橋で起きることなく、折り返し逆方面の中野で起きたとしても。

必ず帰る。

いや、中野止まりならまだしも、運悪く三鷹まで行ってしまったときには帰れなかった。

駅から最寄りの古びたビジネスホテルのフロントに、ここのホテルと共に歴史を歩んできたかの様な古びた、それでいて気品のある老紳士が居たのが印象的だった。

必ず帰る、たまに帰れなくなる。

そんなこんなで、次第々々に門限は延びて行ったわけである。

千葉県船橋市に住んでいるから、東西線の終点である西船橋を中心に行動することになる。

そんな私でも、ここはどこだ?という経験が何度かある。

今日はそれをつらつら書く。

酒客ならば誰しも経験のある、珍談とも妙談ともつかぬ漫談である。

最初の衝撃は大船駅だった。

ということは京浜東北線だろう(酔っているので定かではない)。

私は西船橋から飯田橋を経由して荒川橋へ勤めに出ている。

端にあるから橋なのではないが、端から端へと移動する。

王子、十条、赤羽の呑助ゴールデントライアングルで気炎を上げる。

すると、赤羽から王子までのわずか二駅の帰りに深い眠りに就くことがある。

そのまま大船にたどり着くまで気付かない。

鎌倉市、小林秀雄の拠点ではないかと感慨深くなるはずもない。

前後不覚であることに変わりはないし、不慣れな駅はそれなりの規模があり、終電過ぎの時間に辺りは真っ暗で判然としない。

夏場なら路地裏のコインパーキングの端で仰向けになって、空が白む頃まで眠る。

幸いにも冬の大船へ終電で着いたことはなかった。

この頃は修行の成果が大分身についたらしく、大船まで足を伸ばしてしまうこともなくなった。

万一そうなったとしても、今ならば何処かへ転がり込むだけの元手はあるだろう。

駆け出しの頃は放埒生活がゆえに手元不如意がいつものことであった。

運悪く真冬にこうなったのが、東西線から東葉高速鉄道線へ抜けた東端、東葉勝田台で目覚めた時だ。

何紙か買った新聞紙に包まってアーケードの下で横になったのだが、あまりの寒さに耐えきれず、三十分おきにコンビニのカップ麺で暖を取るなどしていた挙句、たまらずなけなしの有り金をはたいて目の前のカラオケに逃げた。

たまに駅前に乗合の白タクがあるが、それでも安いとは言えない。

通常のタクシーなど言わずもがなである。

池袋からタクシーに乗った時と変わりない様に思えるのだが、酒客の記憶違いだろうか。

一方で、南北線から埼玉スタジアム線へ抜けた北端、川口元郷は駅前が全面公園のような歩道である。

辺りが真っ暗なのを良いことにごろ寝したが、朝日に照らされた私は通勤客たちの見せ物になった挙句、近所の無宿人から声をかけられた。

同僚たちがよく知っている土地柄なので、あぁあそこで寝たんですかと随分驚かれる。

知らぬが仏だが、死人に口なしにはなりたくない。

先日、大船に行かなかった代わりに、何故かはじめて蒲田で気付いた。

「久しぶりに地獄の様な飲み会がしてえ!」

と会長の一声で後輩三人と連れ立った帰りだ。

地獄の様な飲み会というのは、私自身が遺伝子レベルで記憶を消してしまいたくなるような醜態を晒すためか、私自身に記憶はない。

代わりに周囲の後輩たちが記憶していて、後日職場の記録に残る。

で、私の隣駅に住んでいる後輩と二人仲良く蒲田に落着し、アパホテルの厄介になった。

朝起きてシャワーを浴びて出るだけ。

アパホテルでなければならない理由はないのだが、酩酊泥酔状態の酒客に経世済民の判別などつくはずもない。

そうそう、この日も万一が(確率的には百に一程度の頻度とはいえ)起こったのだが、いつものことながら手元不如意である。

インターネットカフェで済ませれば良いものを、後輩に借してもらって泊まった。

翌昼前に起き抜け、近くにたまたまあった燕三条系ラーメンに這入って迎え酒。

おつまみが豊富で上機嫌である。

よほど飲み過ぎたのか、後輩はげんなりしている。

出されたラーメンの異様な威容に圧倒され、彼は悶絶していた。

そのお店は亀戸でよく行っていたので、私は懐かしく美味しく頂いた。

帰りに電車の中でベラベラ喋った挙句

「元気すぎ」

と言い放たれたのは忘れもしない。

興じて

「次から一駅分、ここ(電車の中)で俺が土下座し続けられたらもう一件付き合ってよ」

と言い返したのだが、彼にはまだ理性が残っていたらしく、我が野生の土下座は実現しなかった。

さて、今回も字数が近づいてきた。

またいつか、高島平で会いましょう。

と言いたいところだが、肝心の高島平に関する知見を示し、同じ悲劇が繰り返さない様にしておく義務があるように思える。

南北線で飯田橋を寝過ごし、目黒だか白金高輪だかから折り返す際に、おそらく赤羽岩淵行きではなく都営三田線の西高島平行きになってしまうらしい。

三鷹と東葉勝田台を行ったり来たりするだけの単純な東西線(および総武線、東葉高速鉄道線)に慣れた身には思いがけない陥穽、いや関頭である。

板橋区だか練馬区だかの奥地には四年に一度程度のありがたくないオリンピックみたいな頻度で流れ着く。

掃き捨てられるとも、吐き捨てられるとも言って良いだろう。

周囲には何もない、大通りをずっと遡って、二駅先へ行かねばならない。

西高島平、高島平、西台。

ここへ来てやっと駅前らしい施設が現れる。

二、三十分歩いた末、そこのインターネットカフェに泊まるのだが、そのときの安堵と言ったらない。

都営三田線での失敗は、疲れることはあっても絶望することはないのだ。

野宿する時は、2Lのお茶のペットボトル、親指で持つ部分に窪みがあるのをコンビニで買うのをおすすめする。

水分補給は無論だが、枕にちょうど良い。

#003 手元不如意の金色不如帰 了

【六月号】ヨモツヘグリ #005 門前仲町の名店【キ刊TechnoBreakマガジン】

店舗は、忽然と姿を消したわけではなかった。

だが、下されたシャッターの外側で、僕たちは呆然と立ち尽くしていた。

中には確かに人の気配がする、酔客らの談笑が聞こえて来る。

僕たち二人のためにあるかのような張り紙。

いついつから閉店時間が繰り上げられたと告知されている。

今は十九時二十分。

L.O.十分前のようだった。

通りの向こうに袖看板が見えたとき、不慣れな街ゆえの安堵があった。

四人連れの背広姿が踵を返すのが見えて、まさかという気がした。

実は先月一人で様子見に来た際、臨時休業だったからだ。

まさか、また。

門前仲町の名店、大坂屋。

理由は違うがまたしても食いっぱぐれたようだ、どうやら。

不慣れな街に慣れるために一度来たのだが、この日は別経路で来店したのだ。

しなやかな着こなしの、モツ野ニコ美と名乗る美女が手土産を持ってきたから。

その手土産は手掴みで、この後に控える乾杯の練習をしてから頂いた。

おむすびでも頬張るみたいに、一体何が結ばれるんだろうと考えながら。

広場を探し、ベンチに腰掛けて。

その公園は案外すぐ見つかった、近所の小さい子らがを母親たちに連れてこられていた。

ユークリームという人形町の名店のものだった。

苺と生クリームのタルト、チョコレートとフランボワーズのクーヘン。

僕は後者を選ばせてもらった。

濃厚なチョコレートが口の中でこってりと溶け、フランボワーズの強い酸味が二口目、三口目を強烈に促す。

毎日でも食べたいが、僕はスイーツ中毒になっていないのが救いか。

僕は手を伸ばしても食べられないものが食べたいのだ。

こんなふうな差し入れなんて最高じゃないか。

自分で自分に差し入れるわけにもいくまいし。

周囲に巻かれたフィルムを剥ぎ取って、くっついたチョコレートを舐め取る。

「僕は、ここが一番好き」なんて言ったりして。

一食一飯改め、優しい約束の宜敷準一にフードロスはあり得ない、いや。

「芥川龍之介に、ケーキを巻いたフィルムばかり寄せ集めて、好きなだけ食べさせるって話、あったわね」悪戯っぽく横顔を見つめられている。

あれは五位の心理と行動と変態食欲と貞操観念のアラベスクだ。

そう考えるとこの物語も、ヨモツヘグリと言わず、芋粥としてもよさそうだ。

あれには道中を共にする利仁というバディも居たっけ。

『芋粥を舐めるのは、お前ではあるまい。邪なるイエス、矮小な待ち人。五位の役回りを演じるにはもっと相応しい男が居るし、何よりお前にはあの芋粥を全て平らげるだけの業を授けてやらねばな。』

頭のどこかで声がしたような気がして、yは少々暗い気持ちになった。

その声の主が誰なのか、彼が知るのはもうじきのことである。

口にできないものを食べるのがヨモツヘグリの極意であるとしたら、一度口にしたものを再度口にするというのは一体何と呼べばいいのか。

ところでその頃、“団地”こと習志野軍閥行田駐屯地ではW大尉が大きなくしゃみをした。

ソゥ准尉はそんな彼に「Bless you!」と言ったが、大尉はその心意気を気に入った。

顛末を知らないのは、まるで世界で彼だけのようなのが皮肉だったのだが。

地下鉄の駅から門前仲町の地上へ顔を出せば、街全体が縁日のような風情である。

先日の下調べで見ているとはいえ、まだ慣れるには少しばかり異様な光景だ。

脊椎のような大通りから、ぐっと外回りで大坂屋まで行くところだったが、しっぽりと手土産に舌鼓を打つのに肋骨のような路地へ踏み込んだ。

仏門か宗門か神門か知らぬが、なにやらその手の門前なのだろう。

かつてそこらの神社で日本刀を用いた殺しがあったというらしい。

下見の段で大坂屋が臨時休業だった時には、落胆しながらも隣の路地を覗いて、煮込みと書かれた随分と大きな赤提灯を頼ったのだった。

規模の小さい中華料理屋染みた引き戸を開けると、なんとカウンターのみの立ち飲みで店内に入れるのはせいぜい六名程度、券売機で食券を買うというのが笑えた。

出された煮込みは、これはこれは、加賀屋名代の煮込みのようではないか。

そんなものは加賀屋で頂けば良かろう。

さて、今夜ニコ美嬢をエスコートすべき、煮込みを提供してくれる夜会はどこだろうか。

そんなことを話すために、例の路地へと連れ出してきたのだが。

店舗は、突然に姿を現したのだった。

路地を曲がり、大きな赤提灯が視認できる程度の距離で、さらに右手へと折れる方だ。

ひさしの小脇に書かれた、あの文字は。

店舗正面に横向きに置かれたスタンド看板に書かれた、あの文字は。

煮込みバル、と書かれている。

辺りはまだ真っ暗になりきってはいなかったが、さながら我々を誘う魔の巣が目の前に現れた様だった。

店の前まで行くと、以前はスナックだったとでも言いたげな扉の作りをしている。

僕たちは見つめ合い頷いてから、意を決して把手を掴み開いた。

ダウンライトの落ち着いた光が溢れる店内に、小綺麗な四人掛けのテーブルが三、四。

金曜の夜なのに他の客は一組もいない。

「どうぞ」

まだ若手に属するようでありながら、しっかりした体型の店主が笑顔で言った。

以上が、金曜の僕たちに起こったささやかな奇跡の一切合切。

真ん中のテーブルに着く。

飲み物のリストから、ちょっと洒落っ気を出してヒューガルデンの生。

モツ野女史にはぴったりの、あらごしもも酒があったのでソーダ割。

正面の黒板にこの日の煮込みが四種類書かれている。

豚肩ロースのトマトチーズ煮込み

合鴨と黒トリュフのクリーム煮

和牛すじ肉の赤ワイン煮込み

肩ロースとポルチーニのフォンドボー煮

左右の壁にはそれ以外のメニュー。

前菜や各種アヒージョ、豊富なパスタ。

飲み物が運ばれてきた。

「今夜は暑いので」

と気の利いた一言を添えて、野菜の彩が美しいピクルスが提供される。

鰹のカルパッチョ、煮込みを二種類注文。

ビールを飲み終えたらワインにしよう。

なんでも、ここの煮込みは白にも合うように味を整えてあるんだそうだ。

その夜、僕は少し悩ましかった。

食べ放題のバゲットに添えられた、バニラ香るバターがあんまり美味しかったからかもしれない。

【六月号】総力特集 劇場版少女歌劇レヴュー・スタァライト【キ刊TechnoBreakマガジン】

「貫いてみせなさいよ、アンタの煌めきで」

幾千万のポジションゼロが、煌めきの奔流となって嵐の滝の如く吹き荒れる。

東京タワーという舞台を無用のものとした彼女らの、一体どちらにアタシ再生産が起きたというのか。

トマトは潰れたが、失墜のままでいるのは誰か。

違う、開演したのだ、今。

スタァライトは、必ず別れる悲劇。

いや。

次々と告げられる訣別。

天堂、西條、実力ある者の順に咲く。

露崎は自信に満ちている。

花柳は世界を見据える。

石動は地べたに咲かず、翔ばんとす。

大場は台場へ、大舞台へ。

星見、日本一の英文科で星を掴むか。

愛城だけが、別らない。

神楽、不在の存在感。



「友よ」

ワイルドスクリーンバロックが 開幕する。

皆殺しのレビューは逆光を背にしてこちらを見詰めている。

純白の虎こそ、狩り立てられる獲物に相応しいのだから。

あなた、分かりますか、ルールが分かりますか?

誰も分からないままに応戦するしか無い。

一対多の死線の果てに、狩り立てられているのはどちらなのか。

ワイルドスクリーンバロック、自然の摂理なのね。

間奏が極大級の盛り上がりを見せる。

天堂だけが気付く、これがオーディションでは無いということを。

すなわち、私たちはもう舞台の上だと。

横たわり、血を流す少女達の中に、きっと私たちも横たわっていた。

舞台装置だと檄を飛ばされても、私たちは狼狽えていた。

ここから先、まばたきも赦されないであろう事に。

大場ななは、小学一年生でもア・プリオリに知っている簡単なことを、たった五分のレビューで明らかに示した。

ワイルドスクリーンバロック、弱肉強食という名を借りた絶対運命黙示録を。

「囚われ変わらない者は、やがて朽ち果て死んでゆく。」

聖翔音楽学園 第一〇一回公演の決起集会で配られた未完成の台本。

今は、今だけは、スタァライト九九組に沈黙していて欲しいと願った。

弦楽と鍵盤の織りなす旋律が、脚本家と演出家の心意気を誰もが受け止めていることを聴かせる。

舞台に関わる全生徒たちが、既に舞台の上に立っているからだ。

「生まれ変われ、古い肉体を壊し。新しい血を引き込んで。今いる場所を、明日にも越えて。辿り着いた頂きに、背を向けて。」

眩しすぎることも無いのに、だからこそ余りにも美しすぎて、全文を引用した。

ここで曲が転調する。

アタシ再生産が、一人一人に起きる。

彼女たちの覚醒を、特等席で見ているのは私たちだ。

「さぁ、張った張った!」

この後、わがままハイウェイが続くのは言うまでもない。

まるで流れ星のような二人だねと、眩しくて、眩しくて。

劇場にいる私たちは、まるで原始人のように言葉を失った。

仁義なき戦いのジングルのオマージュであることに気付くまで三ヶ月を要するほどに。

少女たちの誰もが発心と決心をする中で、ただ一人だけ、相続心の芽生えた者がいた。

九十九期生、露崎まひる。

夢咲く舞台へ輝く少女。

彼女の選手宣誓は見かけに過ぎぬ。

たった一人だけ選ばれた者だけが授かる金メダルを得るに相応しいかどうか、神楽ひかるのライバル。

いや、断罪の審判者だ。

その強さは、怖さを克服したが故。

怖さから、目を逸らさない強さ。

だから、執着しない、舞台で生きていく決意を、神楽ひかりに相続し、彼女もまた次のレースへ、別の舞台へ。

そうだ、スタァライトは、必ず別れる悲劇。

いや。

確信する、彼女の次が輝くことを。

二度目の鑑賞は、私に狩りのレヴューの意外な良さを気付かせた。

帽子の中の果実は潰れ、虎は檻の中に捕えられ、ななの咆哮が一擲する。

弓矢は狩猟のためにある、純那にとってそれは当たり前のことだ。

そして、作家の言葉が彼女の力だ。

「さあその牙抜きましょう」

あまりにも美しい歌声が伸びやかに響く。

言葉が彼女の背中を押してくれる、言葉は彼女の力なのだ。

だが、借り物の言葉は届かない。

言葉を託された矢は、大場の刃で両断される。

眩しいのは星ではないのだ。

星を掴もうとする姿こそが眩しい。

しかし、それももう見られないらしい。

「君は眩しかったよ、星見純那」

ゲーテ、ニーチェ、ヘッセとは誰か。

それは他人だ。

他人の言葉ではダメなのだ。

「殺してみせろよ、大場なな!!」

大場ななは取り乱し、見失う。

お前は何者だ、と。

それはお前自身か、と。

彼女は応える。

「伊達に何度も見上げていないわ」

星見純菜は、主役を演じた。

大場ななは、舞台に徹した。

それだけの違いでしかない。

そうとも、180°逆を向いて歩き続ければ、地球の裏側でいつか必ずまた会える。

断ち切られた写真の切り傷は、もう一度癒着する。

二人は、同じポジションゼロを歩いているから。

作中で最も爽やかな涙と、天堂真矢ぐらいにはなれる予感を確信させる決意の眼差し。

この後、天堂真矢と西條クロディーヌが頂上決戦を繰り広げる。

私は彼女たち二人を良く知らない。

まるでそれは、彼女たちだけが、お互いを良く知っているかのようだ。

光、よく影を知る。

影だけが、その光に応える。

そして、神楽ひかりがその舞台へたどり着く。

愛城華恋の待つ、東京タワー。

其処が一体何を暗示している場所なのか、知らない。

知る必要もあるまい。

彼女たちがいる、その場所がポジション・ゼロなのだ。

アタシは、アタシが立っている所にいる、それ以外のどこでもない。

そう言っているのだ。

スタァライトは、必ず別れる悲劇。

いや。

さっきまでの死んだ肉体に別れを告げて、彼女たちの誰もがアタシ再生産を迎える。

それを悲劇などと。

エンドロールが否定する。

眩しいからきっと見えないんだ、と。

地球で一番キラめいた少女の上位八人だ。

ポジション・ゼロって気分だぜ。

換言するならば、あなたの目を灼くのは光だということ。

【六月号】もう付属の餃子のタレを使わない(かもしれない) #003 餃子の王将【キ刊TechnoBreakマガジン】

十個上に星の先輩というのがいる。

星野先輩ではなく、星の先輩だ。

最近はめっきり頻度が落ちたが、以前はほとんど毎晩飲み歩いていた。

一食一飯の頃より、もうだいぶ前のことになる。

軍閥の食堂で昼を食い、夜は船橋で飲み歩き、これで朝食まで一緒に食うことになったらそれはもう夫婦と言っていいだろうと内心思っていた。

お互い未婚である。

夜はずっと仕事の話で飲んでいる。

星の先輩は、習志野の士官学校で一番の文官だ。

私から誘うのが四、向こうからが二、他所様と合同が一。

こうなると、何が仕事で何が日常か判然としなくなる。

当時もまた、私にとって一つの危機だったのだと思えてくる。

過渡期ではない現代なぞ、過去に一度だってありはしないのだ。

あるとき、星の先輩から東北旅行の提案があった。

仙台で落ち合って一泊。

その日は先輩の御学友も参加し、車を出してくださった。

翌朝は松島へ向かい、牡蠣とビール。

その後、フェリーで塩釜まで揺られて、電車で山形県の山寺へ。

登り降りしてから、再び電車で酒田市へ。

彼のご実家がそちらにある。

夏の旅行だったのだが、既に陽は落ちて真っ暗だ。

駅までお父上が迎えにきてくれた。

二十分ほどでご実家に到着。

真隣が小学校という、随分と恵まれた幼少期が過ごせそうなお宅だった。

すると、夕食の準備にまだ少し時間がかかるから、と前置きをした上で

「星を見ようよ」

と申し出があった。

この話をすると誰もが笑う。

ついたあだ名が星の先輩、なのである。

笑い話の自覚が最近できたので書いた。

さて、最近はめっきり頻度が落ちたのではあるが、先日久しぶりに飲みに誘った。

すると珍しく、ここに行きたい、と先輩の方からお店の提案をされた。

近々値上がりするそうなので、その前に行きたいと思ったんだそうだ。

餃子の王将である。

普段は一人餃子なので、今回は期せずして楽しめそうな運びとなった。

どこにでもあるようでいて、動線上にないため、滅多に行かない餃子の王将。

お店に這入る前に雨が降り出したので、駆け込んだ。

十七時過ぎ、店内にはそれほどお客はいないので助かった。

席につくなり先ずは生ビール、と行きたいところだったが。

生ビールセットのようなのがあり、これが笑える。

生ビール、餃子一人前、それとシャウエッセンの茹でたの三本で千円弱。

ふふ、王将餃子六個対シャウエッセン三本でとんとんとは。

ちょっと待たされてビールが出てくる。

乾杯して飲み干す、もう喉がカラカラだ。

味も何も判らないが、発泡酒ではないことは確かだろう。

美味い、脳髄がパチパチするかのようだ。

グラスが空になった瞬間に餃子が二皿と、シャウエッセンが一皿来る。

もう一皿は出来次第運ばれてくるらしい。

先に星の先輩に譲った。

お互い餃子には手をつけず、ビールをもう一杯注文する。

で、ちょっと待つ。

我々の良くない癖というか呪いというか。

飲み干す、ツマミ来る、飲み物待つの悪循環がよくある。

ちょっと待たされてビールが出てくる。

いよいよ餃子をぱくり。

極薄の皮は何故かパリパリに乾くことなく、十分に潤いを帯びており、官能的な口当たりをさせてくれる。

僕は思わず顔を赤らめでもしそうだった。

まさか飲食の快感を、言ってはなんだがこんなチェーン店でさせられるとは思いもよらなかった。

まだ一口目なのに再度の来訪は間違いない。

餡にしっかりと味がついているのも良い、涙が出てきそうになっている。

日暮里の仇を王将で討った。

ここまでコンマ三秒の感動である。

感動はビールで一気に流された。

夢か現か、確かめるように二つ目を口に放り込む。

絹のように滑らかな食感のおかげで、閉じ目に施された襞の一つ一つまでもがはっきりと感じられる。

僕が餃子を食べているのか、餃子の方に僕の舌を食われているのか判然としない。

官能的な口当たりというのは、どうやらそういうことのようだ。

忌々しくなって、その感情ごとビールで飲み干す。

何て美味しい食べ物がこの世にはあるのだろうかと、そんなものは錯覚だと一生に付されるかのような幻覚を見た。

気を取り直し、先輩に遅れて届いたシャウエッセンへ。

横にあるケチャップはこの日は一度も使わなかった。

ハリのある皮を破って口の中を縦横無尽に駆け巡る肉汁は、やはりこちらに軍配が上がる。

何もつけないでも食わせる気概を感じる塩味が絶妙だ。

売り場で見かける包装の鯨幕めいた不吉さを一顧だにさせない、貫禄の逸品である。

で、ビール。

口の中が上海対ミュンヘンの代理戦争状態ではないか。

餃子二個からシャウエッセン一本で食べ比べながらビールを飲む。

交互に繰り返してその優劣を測る。

測り切れるものではない。

ホッピーセットに移行して、もう一巡比べてみる。

判らぬ。

しかし、この餃子が一皿二六◯円というのが破格であることは解る。

対するシャウエッセン三本の価値は、二六◯円足り得るのか。

ここが争点だ。

疑問は解決せぬままに夜が、飲酒が加速する。

星の先輩は歴史好きで、僕のことを真田幸村と喩えるから彼の判断はなんとも言えない。

【六月号】巻頭言 神話と新説と真言【キ刊TechnoBreakマガジン】

呉越同舟、私も好きな言葉である。

芸術派の小林秀雄と川端康成、プロレタリア作家の武田麟太郎と林房雄が結成した同人誌「文学界」も当時は呉越同舟と評されたものだ(昨年一月に創刊一千号を記念した)。

啀み合う二人は、さいわいである、和解は彼らのためにある。

マタイ伝にもそうあった。

だから“ゼロサム状態”は回避されうるのだ。

今から二千五百年以上も昔の中国春秋時代の興亡を、文字だけで理解するのは難しい。

なるほど、だから実写版キングダムの予告が流れたというわけか。

いやいや、それでは少々時代がズレる(同じ時代ならば私は、王欣太の『達人伝~9万里を風に乗り~ 』を好んで読む)。

そんなわけで、シン・ウルトラマンを鑑賞してきた。

無論このシンには進化や深化という意味も含まれる。

初代ウルトラマンの主人公はハヤタ・シン(早田進)であり、本作の主人公は神永新二(かみながしんじ)、つくづくシンの字は意味深である。

この作品のキャッチコピーは

空想と浪漫。

そして、

友情。

前二つの観点が示す通り、娯楽作品として安心して楽しむことができた。

そして、二時間に満たない上映時間は、友情とは何かに思いを馳せながら観た。

序盤、息が詰まるような、禍威獣による災害に対処する混乱が終わる。

サラリーマンたちの群れに混じって、一人、霞ヶ関を闊歩する後ろ姿。

さっきまでとは打って変わって、日常が描かれるシーンだ。

そこを、聴き慣れた楽曲が、強くて弱い一人の者が街を征くテーマが流れる。

Early morning from Tokyo、いやEarly morning from Londonか。

関係ないことを言いたくはないのだが、真・女神転生の街のフィールド曲が想起され、私は思わず涙しそうになっていた。

世界が壊れたとしても、そこに安心感を見出せる、そんな気がしたからだ。

メディア上の斎藤工は野趣あふれる男前だが、神永新二を演じている表情はウルトラマンさながらで、これを見抜いたのはキャスティングの妙である。

初代と同様、彼もまたウルトラマンと一つになって活躍するのだが、ウルトラマンとして人間の行動や心理を探究し実践することに余念がない。

その不自然さは、観客にとっての分かりやすさへ転じる。

分かりやすさや安心感はこの作品の土台として確たるものがある。

脅威は大型禍威獣たちだけではない。

異星からの知性が人間社会、日本政府の裏側から侵略してくる。

ウルトラマンの物理的に巨大な正義の力だけでは争い切れぬように思われる。

それでも、ウルトラマンは知恵と力を貸してくれる。

我々人類、いや何故か判らないが地球の中でもその橋頭堡とされている日本の自律や矜恃のために。

だから、この作品のもう一つのキャッチコピーが

そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン。

なのである。

ウルトラマンが我々を理解しようとしたきっかけは人間のどのような行いだったのか、自分にその行いが出来るだろうか、考えながら話を先へ進めたい。

安心ではなく、安心感を仄めかすことで悪魔のささやきを仕掛ける異星人がいる。

ウルトラマンの安心と、侵略者からの安心感。

日本政府は他国に先んじる必要性に焦らされて誤った選択を掴まされてしまう。

それもそうだ、人智を超えた技術を、巧妙な策略に載せて提示されるのだから。

山本耕史という俳優のことを私はあまりよく識らない。

しかし、ウルトラマンに匹敵する安心感を俳優の表情が十分に提供する。

なぜならば、山本耕史演じる異星人はウルトラマンの人間理解、日本人理解とは別の角度から我々を評価しているらしいためである。

換言すれば、他者を手玉に取るのが巧みだ。

彼は、自分が今発している台詞を、どのような表情を見せながら言っているのか、よく知っていると断じて良い。

人類ならばきっと誰もが、アッと驚くような場所で両者が殴り合うシーンが、この作品のハイライトだ。

日本人ならば、おそらくほとんどが、同じ場面の殴り合いを演じたことがあるだろう。

何かを理解するために。

何をか、きっと人の心を。

そしてきっと、好きになりたいと願いながら。

古人はきっと月明かりに照らされて、僕らは燦めくネオンの下で。

いやいや、もっと淡くて朱い灯りに照らされて。

それからすぐ後、実際に二人は本来的な意味において殴り合うこととなる。

特撮ファンであるならば、誰もが嗚呼と納得するような場所で行うのだ。

ここに来て熱量は最高潮へ導かれている。

それは何故かと言えば、鷺巣詩郎氏の楽曲に導かれているせいだろう。

そうだろう、しかしながら、さらにそれは、政府の男に言い放ったアフターケアという名の全ての流れが奔流となっているせいだろう。

血闘は、さながら「例の作品」におけるシン・メトリーを彷彿とさせる一騎打ちを展開する。

ふと、ここまで書いたことを台無しにするのを恐れずに言えば。

もしかすると安心感は、この異星人と手を組んでいる「政府の男」が存在するが故かも知れない。

彼の出現が、劇場の座席に着いている私をグッと身構えさせた。

ここに来て、作品の構造的な複雑性、多層性が顕になる。

すなわち

侵略者、政府の男、光の星

ウルトラマン、禍威獣特設対策室、全人類

この対立の先の展開は、劇場で確認してもらいたい。

最後に。

私たちの理解者、随伴者、すなわち友達のウルトラマンはもういない。

私たち人間と友情を築こうとしてくれたウルトラマンはもういない。

そうでなければならない。

彼はたった一人の人間だけを救ったのだから。

その喪失感があんまり切なくて、エンドロール中も呆けていた。





四月二十日(水)から五月下旬までのタイアップ企画。

シン・ウルトラマンを最も効率よくメディア視聴者の目にふれさせられる企業がある。

マクドナルドの期間限定商品だ。

宮崎名物チキン南蛮タルタルの新商品、シン・タツタ。

一九九一年から日本人に愛されている、帰ってきたチキンタツタ。

そうか、あの世界にウルトラマンは帰ってくるに決まってる。

信じるしかない。

信じるということを、この作品は繰り返し教えてくれたではないか。

【五月号】環状赴くまま#009 西日暮里-田端 編集後記【キ刊TechnoBreakマガジン】

まだ陽が出ていることを懸念しながら、西日暮里にたどり着いた。

しばらくこの嫌な感じが続く事になる。

18時半、帰宅者たちの波が途切れることのない駅前である。

シャッターを切るのに難儀し、不審な目で見られたかもしれない。

少し歩いた所にセブンイレブンがあるのがやや不便で、エビスビールの取り扱いがないことは非常に不便に感じた。

ロング缶は残り半分でぬるくなるのでショート缶で出発した。

いい飲み屋というのは隠れているもので、駅前は殺風景だ。

おさらいすると…

前回のゴールで伺った千べろの喜多八さんは、良し、後で気付いたのだが、チレ串を注文しておけばよかった。

普段Kと訪れているのが、一つ向こうの路地にある千べろの三吉さん、ポタージュ風味のモツ煮はもう十分だがそれ以外はリーズナブルで種類が豊富。

大勢で飲むときによく利用する筑前屋さんが、西日暮里では韓国料理の李朝園さんと融合しているので、注文の幅を広げたいときには来たい。

ではおさらいを終えて出発する。

改札の向こう側にある路地から田端駅に向けて北上。

信号の先にあるさくら水産とミライザカが殺風景さに拍車をかけるかのようだ。

両店に挟まれた路地を行きながら、私は日暮里ー西日暮里間で感じた死の予感に、再び囚われそうになっていた。

繰り返しになるが、帰宅者たちの波は途切れることがない。

駅から離れたため、人混みと感じることはないのではあるが。

そこを駅へ向かって、手に手にA4サイズの洋菓子の手提げを持って、帰宅者たちと逆向きに歩くのは喪服姿のサラリーマンたちだったことが尚更不気味だった。

涼しい風がそよいでいたのがジャケット姿にせめてもの救いだったか。

T字路を左方向へ、そのまま真っ直ぐ歩けば次の駅に着きそうだ。

非常にシンプルなのだが、趣きのある風情が立ち並んでいる。

このポンプ置き場もまた、T字路の起点だった。

後ろを振り向いて一枚。

左方向には駐輪場が続くのでさらに北上していく。

と、右手に廃墟らしき建築物。

大学の研究棟かと思えたが、施設として生きている感じはしない。

帰宅者の群れを受け入れる街にポツンと現れる死の感覚。

後日調べると荒川区立道灌山中学校跡だという。

太田道灌公は日暮里駅前に碑が立っていた。

信長の野望で都心を選択すると太田家で始めることになる。

隣にはすぐまた駐輪場が、あるのだが、道が右へ九十度折れている。

地図を確認すると、真っ直ぐ続くはずだった道を一本間違えて進んでしまったようだ。

スタートから十五分経っている。

うなだれながら急ぎ足で来た道を戻った。

ポンプ置き場で見過ごしていた掲示板。

妙な自負心を感じる街の宝石店、珍しくて振り向いて撮影した。

気を取り直して、改札正面の路地に移動して再北上。

ゆるやかな坂がしばらく続く。

沈んだ気分は最低辺にある。

選択を誤るとまた行き止まりに着くことになる、表示に従えるので助かった。

ここらで尾根に到着した。

なんとも見晴らしが良い。

素晴らしい。

日光から中禅寺湖へ向かう途中、いろは坂を過ぎて明智平ロープウェイの展望台に着いたときに感じた開放感であると言っても過言ではない。

ただ見晴らしが良いだけではない、ここはこの尾根道が良いのだ。

感慨に浸っていると回送電車とすれ違ったのだが、誰も乗っていない電車の死の予感が、今は不思議と肯定的に捉えられた。

誤解のないように繰り返すが、見晴らしが良いことは言うまでもない。

この時、十九時前である。

幽明境を異にする夏の黄昏時が、死の空恐ろしさを生の充溢へ一変させてしまったのだ。

引き続き一本道、しばらくは下り坂だ。

先ほど私が言った、尾根道の良さが伝わりそうな写真が撮れた。

熱いコトワリと書いて、熱理さんの工場が蒼然と現れた。

映していないのだが、この逆側には安心のスーパー、マルエツさんが存在する。

その先に、少し歪な四叉路があった。

今日のゴールはこの先に設定してある。

実はこの界隈、良い飲み屋さんがあまり見受けられないようなのだ。

が、意外とあるな、こちら二件。

で、修繕中のこちら、恋湊さんは以前利用させてもらったお店。

美味しいお魚を出してくれるコスパの良い居酒屋だ。

目と鼻の先にある初恋屋さんも母体が同じらしく、地元の名店と認められている。

こちらのお店は禁煙のため、近くの煙草屋さんが用意してある灰皿まで移動して吸う必要があることをここに記しておく(煙草を楽しんでいる方がいたため、今回写真は控えたが、そこは四つ前の写真の路地にある)。

喜多屋酒店さん、角打ちをしてらっしゃるお客さんたちが見受けられた。

この界隈、飲み屋さんは少ないながら、名店揃いか。

正面から撮影しなかったが、浅野屋さんはお蕎麦屋さんだ。

お蕎麦屋さんにしては有り難いことに二十二時閉店、飲んだ〆にうってつけだ。

そして、本日のゴールがその向かいにある。

立飲スタンド三楽さん。

この店構えを見よ、くぐってみろよこの縄のれんを。

中にあるコの字カウンターは、全盛期にごった返したであろうお客たちを悠々受け入れたであろうと感じさせるような広さだった。

店内は外見以上に汚いのだが、それが良い。

すでに先客が七名ほどいらっしゃる。

私は指を一本立ててカウンターの角に着いた。

十九時五分、道を最初に間違えたのを差し引いても、景色の良さが歩みをゆっくりさせたらしい。

間を置かないように店内を見渡し、酎ハイ二五◯円とお刺身の二点盛り三五◯円を注文する。

酎ハイとお通しのお新香がすぐ届く。

「六百円です」

このお店も立飲みによくあるCODだ。

立飲みが本当に久しぶりなので驚いたが、以前の感覚を取り戻せた。

二点盛りはマグロとホタテ。

厚みは絶妙で、値頃感を保っている。

黒みがかった赤は久しく見ていないのだが、マルエツさんで売られている物とも思えない。

私としては全肯定メニューである。

とりガーリックペッパー焼き二五◯円、スパサラ一六◯円。

これは驚異的である、他所の半額だ。

レモン酎ハイ二七◯円、これで丁度良い酔いとなって帰路へ。

珍しく昼食が腹持ちしていたのでどこかに寄ろうとは思わなかった。

田端駅は左手にある緩やかな坂道を登ってすぐにある。

次はいよいよ駒込、私が山手線のハブとして最も高い頻度で使用している駅へ。




編集後記

何よりも環状赴くままが神回だった。

つい書き過ぎてしまった、写真が多い記事なので語り過ぎは無用かもしれない。

逆に、他の文章作品にほんの一箇所で良いから光る物を添える努力をしたい、書いたらそれで良いという物でもあるまい。

【五月号】棒きれ #002 すべての小さな星たちへ【キ刊TechnoBreakマガジン】

すべての小さな星たちへ、今夜は月も見られない

たまにはこんな夜もいい、月に一度か二度くらい

近視眼の僕の目に、あの月は少し明るすぎる

近視眼の僕の目は、小さな星こそ見つめたい

優しい光を浴びている

夜闇が心を落ち着かす

足元は暗く染まってる

星空の友に耳を澄ます

きらきら街が輝きだす

宿酔になって寝転がる

夜更しのため起き上る

星たちの声が囁きだす

とろとろ夜に溶ていく

空まで高く飛んでいく

遠くへ逢に行きたくて

夜と気持ちが加速する

歌うみたいに口ずさむ

僕等は言葉を交し合う

彩りを添えて届いてる

少しは詩心が動いてる

すべての小さな星たちへ、今夜は月も見られない

たまにはこんな夜もいい、月に一度か二度くらい

懐疑に満ちた僕の目に、星の光があふれ出す

懐疑に満ちた僕の目は、少しは光を取り戻す

【五月号】酒客笑売 #002【キ刊TechnoBreakマガジン】

「酒の席での迷惑は掛けたもの勝ち」

小林秀雄にお酒の飲み方を教わって以来、私の意匠は変わっていないらしい。

経験主義者の我々としては、迷惑の掛らない飲み方は無作法であるとすら感じられる。

すると、私の方はお酒が好きだが、お酒の方から嫌われている。

なんていう厄介な勘違いを持ち出して、また人様に迷惑を掛ける。

これは甚だ無益な次第であり、無作法は私の側にあること明白だし、心得た飲助から叱責か説諭かどちらかを頂戴することになる。

だが、彼らが一体何を心得ているというのか、覚束ない気もする。

家庭か、持病か、懐具合か。

まあそんな心得に過ぎまい。

生老病死の経験主義者たちに、いわゆる経験病の末期症状を垣間見ること通じて、何らかの尊敬や羨望の念がゆくゆくは生まれることを期待していたい。

さりとて、今この一杯の幸福感が、二十年後の幸福に関りがあれば上々なのだが。

さて、小林秀雄に「失敗」という短文がある。

そこに倣って、私と全く関わりない誰かとの一座建立を書こうと思う。

見ず知らずの人とお酒の席で会話が始まるというのは、先方によほどの余裕がある時か、双方が十分に酔っている時くらいだ。

前者では面白く無いので、後者を思い出す。

私は自分のペースで飲むということが出来ない成人した子供である。

初めのうちは見栄でグイグイ飲む。

酔いが回ってきてからは、お酒に呑まれてまたグイグイ飲む。

だいたい、今夜飲もうかと思い立つ動機といえば、飲まねばという半分は強制的で半分は強迫的な観念からだ。

これから脱しきれないうちは子供だと思う、達人の域には到底立てぬ。

酒体的ではなく客体的、言い方を変えれば他人事で飲んでいる。

そして、その場に安住しているのだから始末に負えない。

その日は九時過ぎに合流ということで、八時ぐらいから亀戸で飲んでいた。

テーブルが立ち並んだ広々としたホールにお客はまばらだった。

大衆居酒屋とダイニングの悪い所を併せたようなお店だ。

自分の引きの悪さとこれから来る友人の間の悪さ。

腹の虫を鎮めるように飲んでいた。

あまりビールを飲みすぎても、後に飲めなくなってしまう。

矮小な馬刺しをつまみながら、黙々と日本酒を続けた。

時間通りにKが来る、予定通り私は酒に狂う。

Kというのは彼死のKであり、幸福のKであり、また、仮名のKである。

予定通りとはいえ、七合飲んでいたとしても、別段普段と見分けが付かないそうなので、四合未満に飲んでいた私は楽しくおしゃべりを始めた。

Kの乾杯に合わせて私もビールからやり直す。

「韓国人が食べるクサい飯のことです」

「何ですか?」

「監獄料理」

「南仏料理にニンニクは厳禁です」

「その心は?」

「南無阿弥陀仏と言うためです」

「あんま巧くないぞ」

「イライラしてるから、イラマしてくれよ」

とまぁ、そんな下らない、いつものオゲレツ大百科で酒場をゲスのどん底に陥れていると、だいぶ酔いが回ってきた。

当然だ。

何食わぬ顔で二周目攻略スタートしたからである。

気が大きくなって気前良く注文した貧相な馬刺しの二皿目をKに勧めて、じゃあそろそろもっと良い店へ腰を落ち着けようという運びになった。

根が張るばかりで満足度の低い肴にイライラしてきていたのは事実だった。

「イラマしてくれよ」

「うるせえよ!イラマはするもんであって頼むもんじゃねえ!」

異常な放言に対し、真っ当らしい狂気の主張をしたKと店を出た。

今はもう閉業してしまったが、国道十四号線の裏路地にふくわうちという料理屋があって、景気の良い夜は都度利用していた。

本場物とまではいかないが、信頼のおける馬刺しを出してくれるお店だった。

当時すでにご禁制だったレバ刺しも、馬のものならば提供可能だったようで、高価だったがありがたがって食べていた。

酩酊寸前、いや、一線を踏み越えた私がそのお店へ這入った。

三席程度のテーブル席は全て埋まっていたが、五人掛けのカウンターは誰も居らず通された。

適当に瓶ビールと言わず、馬刺しに合わせる日本酒を注文。

徳利二つ、盃二つ、男二人、ご機嫌である。

人にこれを飲もうと言っているときは気が大きくなっている証拠だ。

どうやら、真後ろのテーブルに着いている女性四人の気配を感じ取って、粋がっているらしい。

当時まだまだ赤貧だったKはイマイチ懐具合が落ち着かなさそうだ。

「これ美味そうだ、食おう、出すから」

「いやぁ、悪ぃな」

「イラマしてくれよ」

カクン!

ありえない角度で私の背中が仰け反ったと後日談。

私は不覚にもカウンター席に腰掛けながら居眠りを漕いてしまいそうになったらしい。

確かに会話をしているようなのだが、突然眠りに落ちるらしい。

入眠の衝撃ですぐに目が覚めるので、眠気が払拭されると言うこともない。

グリン!

身体を捩りながら仰け反ったので、今度は動作が大きかった。

いよいよこの異常事態に見ず知らずの女性四人は騒然となる。

その様子を鋭敏に察したKは振り向いて

「失敬」

とだけ言ってカウンターに向き直る。

この一言で、尋常ならざるサーカスの幕が上がった。

観客の女性たちは無念無想ピエロに声をかける。

「何してるんですか〜?」

「私は会長です」

何してる違い、私を除く一同爆笑。

グリン!

「失敬」

「もぉ、会長大丈夫ですか〜?」

「もう大丈夫です」

カクン!

「失敬」

女性たち爆笑。

延々とこれを繰り返して夜は更けたらしい。

サーカスの主人はピエロを出汁にして、女性たちと大いに盛り上がったという。

私が無事家に帰り着けたわけがない。

帰れない話は次回にでも書く。

我が酒客笑売の殆どが、私が伝聞した後日談である。

#002 小林秀雄のエピゴーネン 了

【五月号】ヨモツへグリ #004 森下山利喜【キ刊TechnoBreakマガジン】

約束の地、シド。

約束という言葉は、優しさだ。

絶対や永遠などと言う、神との有耶無耶な契約とは違う。

人を信じる、人を信じている自分を信じる。

そこにしか約束はない。

約束の地、シド。

絶対は無い、だから面白い、それが楽しい。

大江戸線という、悪い冗談のような名の地下鉄があるとかないとか。

飯田橋地下には東西線、南北線、銀座線とあるが、大江戸線の乗り場なんて見かけたことがない。

などと言っては暴言にもなりかねないが、そういう視点もあるのだ。

無論、十分に調査してはあるから、知ってはいるが識らない。

ということは、大江戸線の方でも僕のことを知らないと言うことだ。

そういう存在ってあるだろう。

などと下らない事を思いながら、雨の日本橋室町の裏路地でモツ野女史を待った。

暑がりの僕にとっては心地よい冷気だ。

そろそろ彼女の、我々の世界での名が知りたくもある、それが僕にとってはyであると言うような。

しかしながら、識ることによってほんのわずかであったとしても関係性に変化が生じるのは望まない。

正体不明、謎の美女、モツ野ニコ美と、コードネームyこと優しい約束の宜敷準一。

こういう二人の関係のままがいいのだ。

お互いを契約で縛るような、優しくない真似はしたく無い。

サマになる渋いジャケットを羽織ってその女性サマは来た。

「今日は洒落た店でワインでもと思って」

「あら、イタリアンかしら。ハチノスをトリッパって言うのよね?」

大衆居酒屋の飲み物の選択肢の狭さに辟易していたためだろうか、彼女の瞳は普段見かけない色を帯びた。

「いや、すまないがそうじゃない」僕は苦笑しながら言った。「今日の大衆居酒屋は洒落ているからワインを提供するんだ」

意に反して爽やかな微笑み。

今夜、結果的に梅酒くらいはあったから、彼女が好きなソーダ割りを注文できたのも良かった。

門前仲町から二駅、もんじゃ焼きの街とは逆方向へ。

いよいよ、生きていて指折り程度しか乗ったことがない大江戸線に乗った。

願わくば、今日のお店へ足繁く通うようになり、大江戸線からも僕のことを知ってもらえますよう。

地上に出てみれば大きな十字路が、三ノ輪駅前大関横丁交差点を彷彿とさせる。

お牛様のモツも好きだが、お酉様に繰り出すのも縁起のいい風を感じられるから好きなのだ。

「ふぅん」お嬢サマみたいなモツ野女史が冷笑を浮かべて言った。「神社なんかに興味があるのかしら、全く別の施設に行くんじゃなくて?」

「行くのはそこでじゃない」

「不潔よ」

今度はキッパリ言われてしまった。

冗談が昂じてしまうのは僕の悪い癖かもしれない、反省だ。

「後悔しても反省しないが、一食一飯の宜敷準一なんじゃなくって?」

何だ読まれていたか、自己肯定感の高まるような否定の言を頂けた。

あるがままの姿だろうとあるべき姿であろうと、らしさを忘れてはならない。

「今日から僕は、優しい約束の宜敷準一だ」

「ふぅん、それなら私は、ミルキィでママの味のモツ野ニコ美ね」

信号待ちをして十字路を渡ってすぐにお店があるため、雨降りだが助かった。

本館と新館とがそれぞれあるのだが本館へ。

新館は煮込みを提供していないそうだ。

戸を開けると階段だけがあり、上か下かへ通じている。

そこで店員さんからの指示を受ける。

待たされることなく地下のテーブル席に通された。

ビストロという言葉がぴったりで、殆ど満席ながらそれほど窮屈な感じはしない。

十年ぶりくらいだろうか。

久しぶりのこのお店へのエスコートが叶って良かった。

ここに来るの、僕は結構楽しみにしていたから。

瓶ビールと、辛うじてメニューに載っていた梅酒ソーダを注文。

黒板に書かれている鰹の刺身、冷奴は海苔の佃煮を載せたものも。

テーブルで向かい合うと、さっそく唇の瘡蓋について聞かれた。

ありのまま話した。

一回ハズしたせいなのか、外れくじばかり引く羽目になったこと。

餃子に絞った焦点を少しハズして、焼き小籠包にしたら痛い目にあったこと。

目隠しして食べたら分からないかもしれない二杯の坦々麺は、それでもあの食感がもう気になっているのだということ。

赤星と梅酒ソーダと、お通しの細切り大根の酢漬け。

さらに最初の注文品が続々と届いた。

乾杯して飲み始める、仕事のことを忘れられる月に一度の時間。

六等分された冷奴を二人でつまむ。

モツ野女史は海苔の佃煮を自作したことがあると言うから驚いた。

飛んだ酒呑みじゃないかと思ったが、お茶漬けにするのが良いらしい。

僕の場合は時間がないからお茶漬けが好きなのだが、彼女はその時間を延々と煮詰める時間に費やしたのか。

煮たといえば筍も煮たのだとか。

職人魂の塊じゃないか、素直に感心する。

刈根流大衆活法の奥義に、無店無刀というのがあるが、それに通ずる。

店で飲まず自分で作る、包丁に頼らず自分で作るということに。

表面にごくごく薄く焼き目のついた鰹は、焦げた不快感や食感の差異を全く感じさせず、もっちりとした快感を口中に与えてくれる。

お刺身が美味しい大衆居酒屋さんは、高級割烹と言って良いのではないか。

他のお刺身、わけぎとマグロのぬた、コハダ酢こういうのも気になる。

食べきってしまう前に煮込みを二皿とガーリックトースト。

ここで僕はグラスワインも注文。

「ねぇ、さっきのハズしたって話だけど、一食一飯の社員食堂の回みたく?アレはきっと習志野軍閥行田士官学校の食堂って事よね、例の団地」その手の者とバレないように、彼女は声低くして目配せしながら言った。

読まれている、僕は苦笑して頷いた。

「ラーメンドラゴンボウルのお蕎麦の回とか。ねぇ、一体何の任務で長野県の山になんて行くのよ?」

無論、野外訓練の指導教官としてだが笑って誤魔化した。

熱々の素焼き皿に入れられて、ふつふつと音を立てている煮込みがやって来た。

持ち手は別添えの鉄器になっている。

入れ違いに串物を注文。

シロと呼ぶべき部位はすでに濃い茶色に変わっているのだが、プルプルした脂が付いていて食べ応えがありそうだ。

色の秘密は連綿とつぎ足された歴史と、それに使われた赤ワインである。

他にはギアラのみ、ネギが薄い輪切りになって載っている。

五十円ほど追加して煮卵入りの方。

頬張れば、店構え同様に洒落た味がして、僕はこういうのが好きだと改めて感じた。

ガーリックトーストなんて、洒落過ぎていて鼻につくと言わないでほしい。

パリの裏路地のビストロを、ここ森下の下町に再現したって良いじゃないか。

串物は普通といった印象。

ここは一皿二本で三百円である。

だから、二人で飲みに来れて幸いだった。

【五月号】もう付属の餃子のタレを使わない(かもしれない)#002 日暮里馬賊と京の華【キ刊TechnoBreakマガジン】

巷の連休というものは、僕みたいな血で血を洗う洗濯屋稼業とは無縁だ。

裏街の清掃員に休みなし、などというと気取り過ぎだと笑われるだろうか。

といったって、軍隊所属のエージェントみたいなものなぞ開店休業だし、デスクに座って読書でもしているのがせめて仕事をしているふりを神様に見せる身ごなしだ。

そんな日常だったのだが、たまたま妙なめぐり合わせで足を使う羽目になった。

お決まりの日本橋室町界隈よりも北へ、上野から日暮里。

最近、なぜだろうかこの付近に寄ることが多い気がする。

奇妙な縁だ。

上野に比べて、妙に手狭な感じがするこの土地だが、上野と比べること自体が酷か。

どうにも日暮里には目を引くお店が少ないというか、それを良いことに「目を引くような主張をしている店舗」に人が集まるかのような気がする。

そんなわけで、一仕事終えてからここのランドマークの一つともいえる、駅前の「馬賊」に這入った。

昼食時と夕食時のちょうど狭間だったのだが、店内はほとんど満席だったのが驚きだ。

僕の次のお客からは待たされている。

瓶ビールと手打ち餃子。

ここはもう十年位前に一度寄ったきり。

前に、いや前の友人が

「ここの餃子はとても美味しい」

なんて言っていたのを思い出す。

あいつは、今頃シドの地を踏みしめているだろうか。

突き出しに出たもやしのナムルで飲み始めながら昔が偲ばれた。

足で稼いだ仕事の対価が喉に心地良い。

待っている間に、空席に着いた他のお客たちの注文が聞こえる。

やはり餃子、それと担々麺。

女性の一人客もそれを頼んでいたのが印象的だった。

僕も担々麺を頼もうと思っていたから、見当外れではなかったようだ。

じきに餃子が運ばれてきたので、担々麺を追加した。

そのあとに来た学生のような四、五人組がやはり餃子と担々麺。

それを大盛りで注文していたのは盲点だった。

僕もそうすればよかったのだが、次は無いようにしたい。

熱そうな餃子が五つ、互いにそれほど癒着することなくひっくり返っている。

見た目にはドライな印象。

潤いを表に出さず、皮それ自体に秘めているかのようだ。

一口焼き目をかじれば、カリリという音が響きそうに思える。

僕は小皿にお酢ばかりだっと垂らし、そこへ醤油を一滴程度の気持ちで落とす。

ラー油は多めに入れる。

準備万端、火傷しないように半分かぶりつく。

『難しい』

これが第一印象。

梅雨の季節の空模様みたいな皮の食感なのだ。

極力風流に言ってみたが忖度してもらいたい。

餡は薄味で繊維質だ。

用意してある調味料を個人々々で調合して合わせたい。

この調合具合が餃子食いの醍醐味と言える。

鎮江香醋くらい強いのが欲しくもある。

僕のドライマティーニを意識したタレの調合では弱すぎた。

つまり、そろそろハッキリ言うが好みではない。

餃子はタレで食わせておけ、物言わぬそんな声に賛同はしない。

そろそろ担々麺が来そうだ。

皿に残った最後のは一口で頬張れるくらいに冷めている。

餃子一人前を食べ切るという物語は、展開がハッキリしていて面白い。

吹き冷まして半分ずつ食べる段、冷めたのを口に放り込む段。

それに寄り添う小皿のタレ。

最後の一つを口の中全体で噛み締めるが、やはり梅雨空を連想させる。

しかし、これを風流だと感じている人々が居るらしいことも事実。

そうだ、日暮里駅前の気質や風情を堪能するのに、味覚第一主義である必要はない。

この店が、あるいはこの土地が愛されているのだという証拠だ。

僕はお店の中で一人だけ疎外感を抱いているようだった。

届けられた担々麺もまた難しかった。

表層は真っ黒で、そういうタイプもあるだろうからそれは良い。

だが目を瞑って食べたとして、坦々麺であると看破できるだろうか、覚束ない。

坦々麺ではないと偽って出されたとしても、この挽肉の飾らないそのままの感じから察知できるだろうか。

なるほど、手打ちの麺は他所にはない食感だった。

もちもち、しっとりとしていて、あんまり美味しいからと言って頬張りすぎると咀嚼が大変になる。

なんとも、もしかすると本物の手延べ素麺ってこんな感じなのかもしれない(実際の手延べ素麺は、工程のほとんど全てが機械化していて人の手が加えられていないのが一般的な商品で、意外にも梅雨の季節を二、三度越してコシを出すのだという)。

これが本場の汁なしになったらどうなるだろう、いやメニューにあるのはつけ麺か、どんな味がするのだろうか馬賊つけ麺とは。

そんなことを思いながら再訪しているうちに病みつきになってしまうのかもしれない。

僕は十年に一度で十分という気がしているのだが。

五十二万五千六百倍の差があるのが可笑しい。

担々麺を大盛りにしなかったことと、餃子が難しかったということもあり、もう一軒気になった店舗へ行った。

駅から見て左翼にある「京の華」だ。

黄色い看板が嫌でも目立つ。

ここもまた、「目を引くような主張をしている店舗」の一つに数えたい。

餃子をテーマの食べ歩きのつもりだったが、僕はこういうことは一度ちょっとずらしてみる。

黄色の看板には青字で「手打拉麺」「焼小籠包」と書かれていたから、焼き小籠包を注文した。

六つで八百四十円、某有名小籠包店より少し値が張る。

高くて美味いがこの小籠包の欠点でもある、高くて美味いは当たり前だ。

役職手当が付くと忙しくなるというのと同じだ。

だから僕は一生ヒラで居たいし、安くて美味くて嬉しいお店を足で探したい。

それを誰かと共有するのは幸せなことだからだ。

小籠包はヒダが下になって焼き目が付けられている。

注文を受けてから焼いてくれるので十分弱で到着する。

絶対に熱いから、泣く泣く一つ目を箸で破り、タレに浸してかじりつく。

ここでもお酢に醤油を一滴、生辣油といった辛味ペーストは多めに入れる。

『難しい、いや上手くいかない』

裏目ばかり出ているのか、僕が低い位置にいるから裏目が見えてしまうのか。

判らない。

焼き小籠包というのを良いことに、これも手打ちと思える皮は厚ぼったく、中の餡からはそう多くの肉汁が感じられない。

僕が世界一好きな餃子も手打ちだから、今更手打ちなぞというものを有り難く思わなくても良いような気すらする。

気落ちしたせいで自棄になって火傷した。

二個目に勢いよくかぶりついてしまったためである。

最初の印象から、中に肉汁はそこまで含有されていないと見誤った。

前歯によって裂かれた皮の切れ目から、勢いよく肉汁が真上に飛び出した。

それが僕の上唇の外側を縦に焼いたのだ。

これには流石の僕も悄気た。

この後頼んだ担々麺の大盛りも、さっきとほとんど同じだった。

【五月号】総力特集 今夜、すべてのババァで【キ刊TechnoBreakマガジン】

「好きな映画は何か」と聞かれたら、俺は相手を選んでこう返事する。

「『許されざる者』だ」と。

「あれは大人になった、男から漢になった、女からをんなになった、俺たちのためのアンパンマンだ!」と声を大にして言うだろう

だが、本当に気心の知れた、あるいは心を許したいと思える相手には

「『マーズ・アタック!』一択だ!」と言葉を贈る。

今夜、俺はババァに関する詩を書きたい。

よみがえれババァ、俺の腕に抱かれて。

ご存知、ティム・バートンの奇形趣味。

ジャック・ニコルソンのジョーカーも素晴らしいが、続く『リターンズ』では何とペンギンとキャットウーマンがダブル悪役で登場し、以降の流れを、トゥーフェイスとリドラーのように決定付けた。

下水育ちの醜男&神経症染みたOLが強い力で中指を立てるような様は、見ていてなんとも共感を禁じ得ない。

(最新作『ザ・バットマン』ではペンギンを演じるコリン・ファレルの原型も留めない特殊メイク&キャットウーマンを演じるゾーイ・クラヴィッツの予想を裏切る期待以上の魅力など見所満載だった。)

その奇形趣味が遺憾無く発揮されているのが、『マーズ・アタック!』である。

脳味噌から目が飛び出したような火星人もさることながら、ババァだ!

このババァ、もうほとんど呆けてやがる!

漫★画太郎が描くババァの腕力を全て呆けに振ったかのようなババァ!

お前のようなババァがいるか!!

いたとしたらよぁ…てめー俺だってそうしたぜ!

『マーズ・アタック!』が俺のババァ趣味に火を付けたんだ!

どう考えたって、俺と、一緒に暮らしてるギネスババァを描いた作品だ!

(ギネスババァとはShunメンバーが家に来た時に、俺の祖母が着ていたTシャツにGUINESSのロゴがデカデカと書かれていたから以来そう呼ばれている、呆けてはおらず頭はしっかりハッキリしている。)

とにかく、観ろ!(雑)

現代の逆姥捨山がそこにある。

男よ、孫よ、無力なままで居てはならぬ。

さて、俺はジブリが嫌いだ。

バランスを取るためにディズニーも嫌いだと言っておく。

だが!

嫌いなジブリにもババァは居る。

ここは湯婆婆とかいうババァが経営しているから、『ババァの湯』だろうか…。

ん……んん〜?

これはババァじゃなくて奇形だ!

俺はババァが好きなんだ、奇形じゃねぇ!

何だこのババァ、ガンジャガンギマリ夏木マリがCVか!

ガンジャ「お客の全ては生かして於けぬ」

とか言って、ババァがミサイルみたいになって雲戻しガスのタンクに穴を開けた例のシーンは普通に泣いた(雲の王国)。

あれババァ出てないのに普通に泣けるの何でだろうか。

のぶ代がババァだからだろうか。

あと、カリオストロとジョドーみたいなババァいるよね。

これだ!

「あたしゃ、電気が嫌いだよ!(大事なことなので)」

このババァ達がたまらねえんだ!

テクノも嫌い、実写だったらピエール瀧かな。

白内障気味白髪のババァと力を合わせて、二人が身分と貧富の差をこえて作った渾身の鰊のパイを、小娘が一瞥するなり

「ババァのパイは食えたもんじゃねぇ!」

って呪詛をまともに浴びたせいで、魔女が魔力を失う展開には大いに得心するところがあった。

嫌いなものは嫌いと全力くそデカVOICEで言い放つ、その態度嫌いじゃないぜ。

だから俺からも言ってやる。

「オメェもいずれはババァになるよ!」

って、たまたま4/29の金曜ロードショー、魔女の脱臼便かよ!

最後、落下するガキを間一髪でキャッチしたときいわしたよね。

渡に船というか、三途に脱衣婆よろしく流し見た。

そしたら、ババァ!

二度も出てくるのかよオイシイなぁ。

ジョドー寄りのババァ、バァサって名かよ、ババァだな!

箱を開けたらチョコケーキ「運び屋本人が自分自身に届けろ」って依頼…あれか?

これ「Get Backersー奪還屋ー」だ!

ジャスト一分だ、夢は見れたかよ。

この映画、ババァ二人の悪夢か?いやいや。

魔法が使えないと何の取り柄も無いって?

「プログラミングの勉強したら結構いろいろ出来るよ」

ババァ、アドバイスが的確だな!

聖剣エクスカリバーならぬ、ババァ切り安綱ってあるよね。

漫★画太郎も(全然別のいつものクソ漫画として)コミカライズした、世界の名作『罪と罰』にそれは描かれている!

いや、ただの斧なんだけどさ。

ん〜、なんつうか、ババァを斧で切った話蒸し返してたら、俺の中のババァ成分がもう切れちまったみてえだな。

取って置きのババァを出して終わるか。

これだよ!

八つ墓村の岸田今日子は一粒で二度美味いぜ!

この岸田今日子の魅力を何遍でもしゃぶり尽くせるのが『御家人斬九郎』だ!

世界のケン・ワタナベといなせな若村麻由美、ここにババァが絡む!

松平麻佐女は九人産んだ肝っ玉バアさんで、家柄を誇っているものの超貧乏(ウチのギネスババァは本名を正子というのに妙なシンパシーを感じる)。

斬九郎は「かたてわざ」という副業を稼ぎにしているが、上りは麻佐女が高級料亭の食い道楽に注ぎ込んでしまうから親子喧嘩が絶えない。

しかも麻佐女は薙刀の達人でその腕前には斬九郎も敵わない上に、平気で抜刀し恐喝恫喝罵詈雑言のキチママだ!

このババァが鬼の形相から一転、斬九郎の稼ぎをヒョイと受け取っては「こればかりじゃ雀の涙」などと言いながらえも言われないラリ顔(脳内飲食によるエンドルフィンMAX状態のご様子)を見せるのだ。

もうね、岸田今日子さんを見るための時代劇なのだ、岸田今日子さんが居なければシーズン5まで続かなかっただろうね。

以上がババァを出汁にした記事だ、美味かったろ。

かちかち山の伝統を継承した、正真正銘のババァ汁である。

【五月号】巻頭言 事実と秘密と真実【キ刊TechnoBreakマガジン】

2021年のクリスマスイヴ、彼はモツ野ニコ美女史と神楽坂の路地裏にあるビストロで帆立のパイ包み焼きなどに舌鼓を打っていた。

年に一度も身に付けないくらいお気に入りの、金魚と水草を描いた明るい色のタイを締めて来たものだった(色違いの暗い方は年に五度は身に着ける)。

彼から彼女へのプレゼントは何を渡したかもう忘れたが、彼女は仕事着がわりにもなるようなボディスーツを寄越した。

商品の選別の眼差しの先に、彼自身の存在を見ていてくれた気がしたのが嬉しかったらしい。

さて、ニュースはその会食中に知らされた。

北欧の至宝、メインビジュアル解禁の報である。

妻への暴行により、ジョニー・デップがファンタスティック・ビーストシリーズから降板、後任をマッツ・ミケルセンが務めることは前々から発表されてはいたが。

『カジノロワイヤル』で世界へ向けて華々しく反逆の狼煙を上げてから15年。

その間のキャリアにハンニバル・レクターを演じ、危険な魅力に拍車をかけ、さらに人間的な魅力から世界中にファンを拡大した。

『ドクター・ストレンジ』でカエシリウス役を演じて来日した際には、公式ツイッターが「#マッツとこたつ」というタグで動画を投稿していた事も記憶に新しい。

今作で代役を引き受けた大きな理由の一つが、二人の子供がハリー・ポッターシリーズの大ファンで、圧力をかけられたからだというのがスゲー良い。

その男、ゲラート・グリンデルバルドは、ル・シッフルかハンニバル・レクターのヴィジュアルをそのままに、前髪は白髪を交えた様子をしているので

「あぁ、これだよ、これこれ!分かってるじゃないか!」

という感覚がファンの全身を歓喜で震わせるものだ。

その衝撃の度合いと言えば凄まじく、彼はBlu-ray Discを入手しすぐさま前二作を鑑賞したほどである。

心を開いて見てみれば、全面的に良い作品だった。

様々な視点や議論が散りばめられていた。

特に一作目は、目に涙を溜めながら見させられるようなシーンが多かった。

ジョニー・デップの人間離れした容姿が少し気になって、二作目中盤の屋内のシーンでは浮いているような印象を受けたのではあるが。

いやはや、ハリー・ポッターシリーズを毛嫌いしてロクに観もしなかった、厄介な映画好きの戯言だ……。

というわけで観に行ってきた。

Fantastic Beasts: The Secrets of Dumbledore and MADS MIKKELSEN

(邦題:ファンタスティックビースト ダンブルドアの秘密とマッツ・ミケルセン)

未見の方は眉間にシワを寄せないよう、以下ネタバレ注意!!

本作にはマッツの秘密として、お風呂入浴シーンがあるからおったまげた!

すげぇよ、マッツに恋したダンブルドア(世界のケン・ワタナベ似)がおっ勃つ!

お風呂上がりはチリンビールで乾杯だ!

真面目な話、『ダークナイト』ですら、冒頭五分間たっぷりと息詰まる強盗シーンを見せた上で、いよいよジョーカーがその顔を明かすのに。

一作目だって、化けの皮が剥がれるのは物語のラスト、拘束されてからなのに。

スッとぼけてんのかこの北欧の至宝さん、シレッとお茶飲みに来ちゃったもん!

そこからはまぁ、出るわ出るわ、原作の人も吹っ切れたかのように出す出す……。

これって、アレじゃねーかな、大人になってからそういう映画情報をキャッチしにいくように行動変容したけど、中高生ファンの人の中には当然裏事情を知らずに三作目観に来て

『このおじさんは誰だろう?』

っていう現象あるでしょ(笑)

旧グリは、北欧ではなく北極育ちなのだろう。

極寒の冷気を身に纏い、関わるものを震え上がらせる北風だ。

まつ毛の先まで凍りついていて、対話よりも命令を好んでいるらしい。

これに対して新グリは、早々にキャラ設定を変更されたかのように美味しい立ち位置。

マッツファンはこの瞬間を劇場で体験できて歓喜しているに違いない。

では、唐突ですがまとめ(2つ)に入ろうと思います。

まとめ1、先ず考えたこと。

ダンブル「サイコ野郎と距離おいたらさ、捨てたのやら何やらって逆恨み激しくってさ、困ってます」

みたいなのスゲー腹立つ。

確かに、グリはサイコ野郎で、ダンブルを利用するために言い寄ったとか、利用とまではいかないながらも敵対させないための束縛大好き彼氏なのかもだけど、だったら

「さも捨てたと取られるような距離の置き方をしたオマエの行動に非があるから、困っているのは身から出た錆だろ」

って思うよ。

で、その先は法が裁くわけで。

(上記は筆者の良くない思い込みであり、当然冗談です)

チリンのお辞儀なんか、そういうこと吹聴してる奴に相応しくないだろ。

いや、双子じゃないだろ、ホムンクルスだアレ!

だからクリーデンスも気付かなかったんだ……。

よく広告に書かれてる

「ハリー・ポッター」では明かされなかった最大の謎、解禁

ていうのは全く意味がわからなかったのだが、それはハリー・ポッターシリーズを全く観ていないからだろうか?

俺からしてみれば、ホムンクルスで二重のチリンすり替えして、名声を手に入れている権力欲とかそういうところが黒い秘密の誕生って感じね。

最後にあのカバンを手渡したのが誰かっていうのがそこら辺の動かぬ(状況)証拠ですわ。

まぁ、岸田今日子さんに似てて、僕は岸田今日子さん好きだからこれ以上言わないけど。

最後に一言。

一番好きなシーンは、マッツさんのパーティ会場入り。

【四月号】環状赴くまま#008 日暮里ー西日暮里 編集後記【キ刊TechnoBreakマガジン】

前回から一年半も開いてしまった。

「環状赴くまま」は、山手線を一駅分歩き、最後は千ベロで終える。

それがコロナ禍において困難になってしまっていた。

代わりに「一食一般」、「ラーメンドラゴンボウル」など成果もあった。

キ刊TechnoBreakマガジンは毎月最終日に、「環状赴くまま」と編集後記で終える。

前回とは文体が変わっている事だろうが、毎月のロケを楽しみたい。

1720スタート。

駅を背景に飲み歩きで始めるのがこの企画の主義でもある。

久しぶりの再開は一人で行うことになった。

夜の街が好きなのだがそうならなかったのは、職場の後輩が車で送ると誘ってくれたから。

少し引き返すが、馬賊という惹かれる名の中華料理店は日暮里のランドマークだ。

以前の友人が、ここの餃子が美味いんだと言っていた。

楽しみながら連載予定の「もう付属の餃子のタレを使わない(かもしれない)」、五月の取材場所は決めているから、六月は馬賊さんでも良いかもしれないな。

駅前の大きなビル。

中に一軒だけ、非常に良い店舗がある。

是非探してみて欲しい。

今日歩く一本道。

西日暮里へ向けて真っ直ぐ向かう。

立ち飲みができる酒屋さん。

角打ちには行ったことがないが、逆回りの回で寄ろうか。

いったいいつになるやら。

向こうのセブンイレブンで缶ビールをよく買った。

奥のベンチはプランターが置かれて、人が座って飲酒できないようになっている。

が、私の背部はまだベンチが生きていて、何人か雑談していた。

右手にあった焼小籠包のお店。

焼小籠包を前面に出しているお店ってそうそう見かけない。

いつか行ってみたいお店の一つ。

通りを右に折れる路地。

この先に立ち食い蕎麦業界のレジェンド、一由そばさんがある。

コロナ前は二十四時間営業だったから、界隈で飲んだ〆によく行った。

知っている街に行くと、こんな感覚で淡々としているな。

発見がいまいち見当たらない。

かつても行きすぎていた道。

両脇の居酒屋さんには当時から這入っていなかった。

今回も特に気を惹かれることはなかった。

唯一気になっていていたお寿司屋さんは、その日閉まっていた。

日暮里と西日暮里の境界発見。

常磐線が急カーブする踏切だ。

踏切の先は、京成線の高架下。

この向こうが西日暮里エリア。

振り返ると不吉な看板。

上記四点の写真が今回の蒐集で感じ入った。

縁起でもないかもしれないが、死が予感されるような写真だ。

人だかりは何かと思えばNASの送迎に来ていた保護者の方々だった。

足早に先へ。

右手。

日暮里に馬賊、西日暮里にアルハムブラ。

左手。

立ち並ぶ飲み屋さん。

アメ横に一瞬こんな並びがある。

ホルモン道場へ、頼もう。

喜多八さん。

タンとカシラ、タレ。

二本づつ注文のお店です。

一本百二十円、良いんじゃないでしょうか。

不覚にも今気づいたのだがチレがあった、これは押さえておきたい。

ニンニク焼き、こういうの初めて。

よく火が通っていて美味しい。

特製煮込み鍋、三百八十円と見てピンと来た。

案の定といった風情。

だよね、これ加賀屋のじゃんね。

加賀屋の方が良し、なれど辛子付きというの良し。

実は、この通りの一つ東側にある三吉という焼き豚屋さんへはよく行くのだった。

では帰路。

来た道を日暮里へ引き返して、例の路地を左に折れた。

過橋米線、麺がオススメの中華屋さん。

その先、一由そばさん。

幸運にも並び一名でスムーズ入店。

特盛、春菊、舞茸、玉葱。

これで七百円くらい、安い。

趣旨変わるけどご飯も欲しい、もったいない。

で、イブニングライナーで船橋まで。

最近、職場の先輩と二人で乗ったりする。

次回は西日暮里ー田端間、どんどん活動場所に迫ってきた。





編集後記

キ刊TechnoBreakマガジン四月号を無事に出すことができて嬉しい。

「ヨモツへグリ」、「もう付属の餃子のタレを使わない(かもしれない)」を担当している宜敷準一

「酒客笑売」を担当している禍原一屰

「巻頭言」、「総力特集」、「環状赴くまま」を担当している卍潤一郎

一同から御礼申し上げます。

為せば成るの力を信じて。

【四月号】酒客笑売 #001【キ刊TechnoBreakマガジン】

私のお酒は四合が分水嶺だ。

ここで掌が赤く熱を帯びてくる。

七合で前後不覚、一升飲んだという記憶も記録も無い。

こう言うと、大抵の人からはお酒が強い人だと見做されるのだが、そんなことは下戸の言うことで、私は酒豪でも酒聖でもない。

せいぜい酒客が関の山である。

だが、酒好きの飲助であることには変わりない。

人並みに、お酒にまつわる喜怒哀楽を享受している。

これまでの経験から、好きだが飲まないとか、飲み放題でセーブしながら飲むという様な人たちは、どうやらかつてお酒で大きな失敗をした反省があるらしい。

後悔しても反省しないが第一原理の私である。

大きな失敗を繰り返して来たし、またそんな失敗の記憶を忘失して来た。

繰り返す宿酔の不快感と高揚感が、眼の前に拡がる実生活という小さな世界を駆動させる。

この頃、愉快な事には事欠かないが、不愉快なことが殖えて来た。

だから、毎晩の深酒で朦朧とした脳髄から、不愉快の観念を打ち払うために書く。

読者は、他人の愉快は自分の不愉快という真理に照らして読むことに留意されたし。

さて、職場では「会長」の尊称で呼ばれているが、そこに至るまでの損傷は数えきれない。

勤め始めて二年目くらいか、部署で慰労会が設けられた。

池袋の百貨店屋上で開催されたビアガーデンである。

ジンギスカン染みたバーベキューのようなものでも食べながら飲んだ。

無論飲み放題、注ぎ放題だ。

ビアサーバーなぞ、飲む側の人間がおいそれと操作出来るようなものでも無いので、そこから注ぎ放題というのは気持ちが浮かれるものである。

私の気持ちが浮かれているのは、まだ良い。

毎晩飲むと言ってもその頃は、麦とホップのロング缶二本程度だ。

仕事なら向こうから来ると高を括っていたから非正規雇用に甘んじており、毎晩飲み歩くなんて必要性を発明するだけの懐事情ではなかった。

当時は過度の減量に励んでいたから、四十分のランニング後に飲む発泡酒はたまらない。

過度というのは、今と違って食事制限もしていたためで、肴は決まって豆腐である。

その状況下で、食べ放題、飲み放題、慰労会。

私の気持ちが浮かれないわけがない。

部署の中から八名の飲み会だった。

四、五歳離れた先輩二人、私の同期が一人、十五上の課長二人、大御所格が男女二人。

この中でもとりわけ、先輩の一人は私を会長と呼び始めた張本人だし、課長の一人は後に同じプロジェクトで反目する羽目になるので、別の機会に書くことにもなろう。

宴も闌の頃になって、前に座った先輩が二人ひそひそやっている。

私はまだ、右も左も判らぬひよっこ、二人は気鋭の有望株だ。

すると、副島先輩が席を立ち、しばらくしてから戻って来た。

「禍原(まがはら)さん、飲み過ぎたんじゃない」

「これはどうも」

先輩から受け取ったジョッキにはウーロン茶が入っていたのでグッと飲んだ。

一口で判った。

これはウィスキーだ。

注ぎ放題だとこれがある。

試されるのが嫌いで、挑発には乗るタイプの私だ。

すぐにその中味をウーロン茶でも飲み干すように一気に空けようとして止められた。

副島先輩は、悪戯好きだが優しい方で、職場内で非常に慕われている。

全部飲み切る前に止めてくれたから、私も慕っている。

この一件があったから、彼は私を「会長」と呼ぶようになった。

広域指定暴飲暴食団 禍原会 会長 禍原屰一

以来十年弱、これが私の肩書だ。

さて、愉快な話の裏には不愉快な話がある。

その日の帰り、当然私は酩酊した。

学生時代から帰巣本能だけは破綻したことが無かったため、タクシーに乗せられ家まで送り届けられた。

池袋から船橋までの料金は、当時赤貧の暮しだった私には大きな痛手である。

だが、それはまだ良い。

金曜夜の宴の翌日は、職場で外部のイベントに駆り出されていた。

集合時間に大きく遅刻し、出番には辛うじて間に合った。

イベントも終えて、慌ただしく搬出を行っていると、階段の踊り場で例の課長に呼び止められた。

この男を仮に、残念な方の福沢とでも呼ぶ事にする。

福沢は先ず、至近距離で右手を差し出した。

その仕草を「私から貴方へ、伝えることがある」という意味に捉えられなかった私は、失礼に当たらぬようすぐさましっかりと握手した。

固い握手のまましばらく小言が続いたのだが、昨夜の酒がまだたっぷりと残っていたからまともに聞ける筈もない。

代わりに、どこまでがおでこでどこからが頭か判然としない、眼の前にあるぴかぴかに禿げ上がった頭部に、呆けたような冷笑を備えた自分の顔を写し見するようであった。

私は笑えない酒が嫌いだ。

#001 会長、禍原一屰の無謀 了

【四月号】棒きれ #001 鯖の詩【キ刊TechnoBreakマガジン】

今日も鯖

明日も鯖

鯖鯖鯖鯖

鯖が好き

朝起きて

鯖食べて

回転寿司では

鯖で〆め

塩焼きだ

照焼きだ

一時間かけた

鯖味噌だ

鯖缶は

大根煮

冷や汁にしても

イイ感じ

夕食は

お刺身だ

衣まとわせて

揚げ物だ

今日も鯖

明日も鯖

鯖鯖鯖鯖

鯖が好き

鯛が好き

鮪好き

それでもやっぱり

鯖が好き

【四月号】もう付属の餃子のタレを使わない(かもしれない) #001 大阪王将業務用冷凍餃子【キ刊TechnoBreakマガジン】

学部一年の頃、二外の講義で

「ドイツで早い、安い、美味いを狙うならケバブです。おまけに、栄養バランスも良いから、長旅で資金面が不安になったら、屋台がそこら中にあるからおススメです」という話があった時、

『餃子みたいなもんか』とふと思った。

美味しんぼのアニメで山岡士郎が、餃子は完全食になりうる云々していたためだ。

資金面が安心だった欧州旅行において、ドイツでは右も左もバーガーキングで世話になり通し。

結局、買い食いした屋台はブランデンブルク門に臨んだカリーヴルストと、オクトーバーフェストの出店だけ。

だから、ケバブには少しも縁が無かったのだが、餃子には少なからぬ因縁がある。

因果、と言っても差し支えないかもしれない。

先日もその因が生じた。

モツ野ニコ美女史と、業務上の連絡を取っていた終わりのことだ。

やりとりの仕舞いに、その日は家で餃子を食べたなどと話が出た。

理研の大葉ドレッシングにつけたらいくらでも食べられるのだとか。

僕は家で餃子ということを滅多にしない。

作ることになるためだ。

市販のものを焼くくらいなら、別のごった煮なりなんなり作ってしまう。

しかし、彼女の意見は、僕の心に抜けない棘となって残留した。

僕にとって餃子は、地元の町中華と、木場の来々軒の二つで自足できる。

しかし、それも小さな世界の出来事だ。

ありのままの人生に折り合いをつけているような場合ではないのではあるまいか。

モツ野ニコ美という、素性も本性も本名も不明の謎の女。

不定期で行われる、彼女と同じ現場での仕事が少しだけ楽しみになっているのだが、その合間々々の慰みにでもふらっと餃子で飲み歩きというのも、なかなかに酔狂なものだ。

と思って、早速買ってきた。

先ずは、家で、だ。

家から始まり、家で終ろう、と思う。

買ってきたのは、業務用の大阪王将冷凍餃子。

千円弱で、五十個前後入っている。

話は逸れるが、#001ということで、まあよかろうと思って述べる。

千円で五十個なら、一つ二十円。

なるほど、これを業界最安値と仮定してよかろう。

近所の好きなお店では、五つ四百円。

自分で作れば、二十四個で五百円ほどだろうか、手間賃も含めば額は跳ね上がるが。

何が言いたいというわけでもないが、有り難いことと当たり前とを混同してはなるまい。

では、作る。

冷凍餃子の有り難さは、作らなくて良いことである。

だから、焼くだけで良い。

だが、私は焼かぬ。

串うち三年、裂き八年、焼き一生。

鰻と一緒というわけでもあるまいが、私には焼きの技術はないに等しい。

日にたった三度しかない食事の機会を、焼きに左右されて一喜一憂したくはない。

なので、茹でてしまう。

男三人なら、大鍋に全てを入れて水を張り、茹でるだけ。

一人の夜は、小さなフライパン一面に餃子を載せ、水に浸して火にかける。

沸騰したら食べ頃、というわけにはいかない。

その時は、まだ餃子の温度にむらがあり、冷たい箇所が残っている。

沸騰させたまま三分程度が良い。

少々煮過ぎたとしても煮崩れしないのは大したものだと思う。



アクアリウムを優雅に遊ぶ観賞魚というには大袈裟にすぎるが、真っ白な金魚が一面にたゆたっているようだ(金なのか白なのかという議論は置くとして)。

これを湯豆腐すくいでドゥルルルル。

湯豆腐すくいでドゥルルルル?

ふむ、気に入った。

理研の大葉ドレッシングで満たした器に入れてから、湯豆腐すくいでドゥルルルル。

「げほん!!」

むせた。

本来、生野菜に振りかけて頂くためのドレッシングが気管にダイレクトに作用した。

炎のさだめかと思った。

気を取り直し、渇いた心をビールで癒し、飽くことなぞないであろう戦いに備える。

二度目は慎重に頂く。

強い香りの餡と、爽やかで滋味あふれるドレッシングが絶妙だ。

で、ビール。

さっきは慌てて飲む羽目になったわけだが、やはり気持ちがほぐれる。

餃子とビールでドゥルルルル。

美味しい、楽しい、心地良い。

なんかもうこれだと、餃子は飲み物。

……と言うのはパクりみたいで面白くないから、餃子は麺類。

となると焼き餃子は焼きそばみたいなもんだ。

もう付属の餃子のタレを使わないかもしれない。

謎の女と、たまのモツ煮で飲み歩きも良いのだが、一人餃子で飲み歩き。

こういうのに出向いてみる気が俄然湧いてきた。

【四月号】ヨモツへグリ #003 川崎おさやん【キ刊TechnoBreakマガジン】

約束の地、シド。

誰がそこに行く。

僕と、その他に誰かが。

その誰かと、僕は会えるだろうか。

いつか、どこかで。

七輪の煤煙に包まれて。

策が成るか成らぬか、成るように為すのか。

二十日ほどの勤労、心労、気苦労、過労。

あとは実働部隊が為すこととして、僕は連絡会の帰路についた。

隣を歩いているのは深緑のコートを着た女性、謎の女モツ野ニコ美。

風を切るようにして二人は、日本橋一丁目を歩く。

僕は肩の荷が降り、彼女は現状の成り行きに満足していた。

「時に」と言って我ながら可笑しな日本語を口走ったものだと思わず笑い、「銀座線で新橋へ出てから、川崎まですぐなんだけど。」口調が統一されていないのがさらに可笑しい。

「川崎、そうね」彼女が微笑してこちらを向いた。

「覚えてる?」

「もちろん、いつ行けるか楽しみにしてたの」

「今夜」その日初めてしたかのように、僕たちは目を合わせた。

解放感をビールで恍惚感へと止揚する、おあつらえ向きの夜だ。

寒風すらも肌に心地良い。

川崎駅前は、さながら「池袋」の活気である。

さくら通りを横断しようとすると、外国人旅行客が立ち止まり、地面に向けて硬貨を投げた。

何かと思いそちらを見ると、ボロを着た老人が、そばに平皿を置いて地べたに座っていた。

誰が乗せたか、硬貨の枚数はそれなりにあるようだ

横切ろうとしてすれ違った、これもまたボロを着た別の老人は、高濃度酎ハイの缶を手にして歩き飲みしている。

歩き飲みの老人は、地べたの老人を忌々しそうに見下して、何事か口にしながらとぼとぼと歩いて行った。

約束の地、シド。

あるとすれば、それはここかもしれない。

そうであっても構わない。

新川通りの左側をしばらく歩く。

通りの向こうはまるでサンシャインシティを平屋にでもしたかのような施設だ。

四つ目の曲がり角は、いくらか狭い路地なので見落とさないように。

そこで折れて少し行けば、軒先に七輪を積んだその店「さおやん」が。

ガラリと引き戸を開け、奥へ。

店内は満員御礼。

そんな気がしたので席は予約しておいた。

ここ川崎総本店は朝九時まで営業しているから、待っていることができさえすればいずれ席は空くのだろうが。

モツ野女史が決めるのを待つ。

梅酒ソーダ割り、ふむ彼女の好みが分かってきた。

僕は瓶ビール。

これに併せて、煮込み二つ、鶏ユッケのマヨネーズ味二つも注文してしまう。

すぐに届いた飲み物で乾杯して喉を鳴らし、深くため息をつく。

それからすぐに注文の品が届いた。

ここの煮込みは、言うなればジャパニーズトラディショナルシチューだ。

中にはちょっと何が入っているやら分からないが、色々とゴロゴロとしていて美味しい。

硬すぎず柔らかすぎず、ハッキリと形が残っている髄がたまらない。

一口頬張って、グイグイとビールをあおる。

僕が世界で二番目に好きな煮込みである。

向かいの女性は無言で、しかしながら箸が止まらないといった感じで食べている。

鶏ユッケは満遍なくマヨネーズで和えられている。

「これが鶏マヨね」モツ野女子は臆することなく卵黄を崩し、食べた。「あっはは、これも良いわね。ねえ、七輪で焼くものも注文しましょうよ。これしかないと、すぐ食べ切っちゃうもの。ゆっくり焼きながら、それに合わせてつまみたいの」

「焼くものを注文するのももちろん良いが、食べ切ったら追加したって良い。僕はね、卑しく聞こえるかもしれないが、ここに来るたび鶏ユッケはお代わりする気でいるんだ」

と言って気付いた。

一人じゃない、独り占めじゃない、報われる瞬間だと。

ここではシビレを食べておきたい。

他所ではなかなかお目にかかれない。

シビレの語源は、sweetbread、甘い肉を意味する膵臓のことだ。

このsweetbredという言葉が日本に輸入されたため、sweetの音から膵臓と呼ばれたんだとか。

膵臓とは全く別の位置にあるものの、胸腺の事も指すそうで、まとめてそう呼ばれている。

膵臓は足が速いので、実際に店舗に出回るのは胸腺であることがほとんどらしい。

仔牛の胸腺は、フランス料理でリードヴォーと呼ばれる。

それと、刻んだネギがたっぷりと載ったハラミ。

それぞれ七輪に載せて、炭火でじっくりと焼いていく。

早くも僕の鶏ユッケがなくなったので、予定通りお代わりを注文。

それから、賽子状の豆腐、納豆、めかぶ、おくらの上にとろろがかかり、生のうずらの卵が載っている、ずるずるという商品も頼んだ。

これは醤油を適量たらして、箸で滅茶苦茶に掻き混ぜてから頂く、いわゆる爆弾というやつで、僕にとってはこれくらいのタイミングで持ってこいの逸品なのだ。

焼き目がつかないようにじっくりと焼いたシビレを互いの皿に載せる。

以前は付いていなかったが、別皿に特製パウダーが盛られている。

ははぁ、パリパリに焼いた鶏皮串に振りかける例のあれか、悪くない。

シビレはもちもち、くにくにとした食感だが、味わいは白子のように濃厚だ。

このお店、川崎さおやんには、ならではの商品が多いからいつも来店を楽しみにしている。

どうしたらこういうお店を見つけられるのか、と黙って食べていたモツ野女史が満足げに聞いてきた。

十何年も昔の記憶が一気に蘇る。

路地裏の溜まり場で一際懇意にしていた、三歳年上の摩耶という変わった名の男。

学生の頃に連れられてきて以来大好きなお店になったのだった。

彼はすぐにトヨタに就職が決まって、愛知県に越してしまった。

あんなに魅力的な人格者だったのに、最後に会った日には気弱になっていた。

友達なんてあの人にはすぐにできるだろうに、なぜか分からなかった。

会うときは決まって、僕一人だけと会っていたという理由も。

ここでならまた会える気がして、毎回通っているのかもしれない。

【四月号】総力特集 小林秀雄『無常ということ』【キ刊TechnoBreakマガジン】

 滋賀県の日吉大社、山王権現にわざわざ巫女さんのコスプレをした若い女性がやってきた。

「どうであってもかまいません。どうか、どうか」

とんとこと鼓をうちながら、聞き入ってしまう様な美しい声で唄っていた。夜も更けて人が寝静まったあと、十禅師社の前でのことである。

 なんでそんなことをしているのか、人から問い詰められると

「生死無常のありさまを考えてみれば、この世での自分のことはどうであってもかまいません。どうか死後は浄土に生まれますように」

と言ったという。鎌倉時代後期のことである。

小林秀雄『無常ということ』の書き出しは、上記『一言芳談抄』の引用から始まるが、この始まり方の効果は

「何を述べるのか、と読者に一種の謎めいた感じを抱かせ、筆者の思考のなかに一瞬にして誘い込む効果(高等学校現代文B指導書、三省堂(以下、指導書)、p.323)」

があるという。

実は、小林秀雄を扱っている教科書があるという情報を入手し、非常に頼もしく感じたのでその指導書を入手した。

今回はそれに関する雑談と情報のまとめを記しておきたかったのだが、巧く行かなかったため今こうして書き直しているところだ。

結論から言えば、やはり小林秀雄『無常ということ』は、文章でありながらもそこに確固として存在する一つの物質的な美術品である、という実感を強く感じた。

この実感が、書いておいた五千字を粉砕してしまったのである。

では改めて、『一言芳談抄』からの原文を載せる。

「ある人いわく、比叡の御社に、偽りてかんなぎの真似したる生女房の、十禅師の御前にて、夜うち更け、人静まりて後、ていとうていとうと、鼓を打ちて、心澄ましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれて云、生死無常の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候、なう後世を助け給へと申すなり。云々」

小林秀雄はこの文章を「読んだ時、いい文章だなと心に残った」と続けている。

なるほどそう思う。

日本語訳などと比べてみれば、歴然として文章の“姿”が優れている。

小林秀雄は、人間の外見と同じように、詩や文章や言葉にも姿があるとよく言う。

実はこの『一言芳談抄』の良さを共有する為に、彼は『無常ということ』を書いたのではあるまいかとも思われる(ポータルとしての小林秀雄)。

そして、小林秀雄はこう主張する。

「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」

『一言芳談抄』の和訳という解釈と、私が行おうとした『無常ということ』への解釈。

それを彼は否定する。

「解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ」と。

だけど、今回、全国の中高生が格闘するであろう内容を、手元にある指導書をよすがとして、それでも解釈したいと思う。

出来る限り、解釈から離れることに努めながら。

さて、指導書の冒頭「学習目標」から三つの大問題がブチ上げられる。

(以下引用、指導書、p.310)

・「歴史の新しい見方」や「新しい解釈とかいう思想」、これらの筆者が否定している考えは何かを理解する。

・「上手に思い出す」ということと筆者の歴史についての考えとの関係について理解する。

・筆者の個性的な文章表現(文体)を理解する。

(引用終わり)

絶句である。

特に前者二つ。

文体に惚れて読み進めた経験が我々ファンにはあるので、後者一つは頼もしいのだが、それらをひっくるめて教えられるものなのだろうか。

いや、そんな事を意識しながら精読というか分析したことはないし、『無常ということ』を誰かと議論したこともない。

逆に考えれば、今の高校生はその機会を与えられて幸せということなのだろうか(三省堂の教科書を与えられなかった生徒は不幸せだなと思うとかなんとか逆説的な冗談も交えておく)。

唐突だがここで問い。

問 歴史とは何か。あなたの考えを書きなさい。

基本的にこういうのは、連想ゲームでやっていけば良さそうなものだ。

歴史という概念を中心に据え、その周辺にあるものを連想しながら言葉にしていく。

例えば、人、過去、事件、書物、記録、変遷など。

これらに語句を肉付けし、文脈化していけば良さそうだ。

答 過去の人物たちが引き起こした、あるいは引き受けた出来事や記録の変遷。

悪くなさそうだが、指導書には別の指摘も載っている。

「歴史を学ぶことで、よりよい現在の姿を探究する」という面だ、なるほど。

その後の記述には、小林秀雄の文体が「考えるようにして書いた、あるいは書きながら考えた(指導書p.310)」という指摘(文学者内での通念として一般的)、「あたかも物質的な美術品のよう(指導書p.310)」に堅固な文章という指摘(初めて見る意見だがその通りに思えて冒頭で受け売りを書いてしまった)、「「考えること」「書くこと」の奥深さに目覚めること(指導書p.310)」という生徒に向けての願い(今私がこうして書いていること自体、程度は低いが全く同類である)、こんな風なことが述べられている。

しめくくりに、「それにふさわしい批評としての「古典」といえる作品である(指導書p.310)」と、2013年のセンター試験に出題された「鐔」に対するフォローを入れているような風に見える所も面白い(後述)。

本文の要旨をまとめておく。

常なるものを見失った現代人は、もはや人間というより一種の動物である

小林秀雄がこう主張する理由として、自身の体験がまず先にある。

その体験は純粋経験と言っても良いかもしれない(これを「タイムスリップ」と表現しているYAHOO!知恵袋の回答があった、そう読み替えてみるのは良いことだと思う)。

幻覚という言葉だけで片付けられないほどに、鎌倉時代を鮮やかにありありと思い出していた」という比叡山(山王権現)散策中の体験である。

この体験をきっかけとして分析と思索を重ね、ついに

解釈づくで歴史を眺めなくなって以来、ますます歴史は美しい。記憶するだけではなく、思い出すことも必要である」という結論に到る(ベルグソンの思想の影響があるらしいが、ベルグソンについて未だ知らない)。

「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」

自己流で本文を紹介しようとすると、以上のようになるのだが(太字は『無常ということ』本文をパラフレーズして添えた文)、さてここで疑問。

題にもある「無常」や「常なるもの」が一体、本文の内容とどのように関わってくるだろうかということだ。

考えながら書いていたが、直観できないものは分析に頼るしかない(小林秀雄は直観なき分析はないと主張するので、その流儀から逸脱するが、直観がないものは仕方がない)。

そこで、ありがたいことに指導書があるので、それに促されてみるとしよう。

一応触れておくと、小林秀雄の「幻覚体験」の引き金となったのが、『一言芳談抄』中の短文が比叡山散策中に急に思い出されたことだ。

指導書には、当然というべきか、作者の概要を調べ学習させた後、音読と黙読を踏まえてから、『一言芳談抄』の現代語訳と内容確認を指導案の例にしている。

『一言芳談抄』は中世の念仏行者らの信仰をめぐる法語類を集録した書で、『徒然草』に引用があるという。

だから続く本文には「恐らく兼好の愛読書の1つだったのであるが、この文を「徒然草」の内に置いても少しも遜色はない。今はもう同じ文を目の前にして、そんな詰まらぬ事しか考えられないのである。」と書かれる。

例の幻覚体験の引き金となった文章があるにも関わらず、そのときの状態に戻ることができなくなっている。

ここで、小林秀雄は気付く。

「それを掴むに適したこちらの心身の或る状態だけが消え去って、取り戻す術を自分は知らないのかも知れない。」と。

しかし、そんな意見は「子供らしい」と一蹴する。

続いて、悪文登場、私の理解力不足も十分に考えられるが。

「こんな子供らしい疑問が、既に僕を途方もない迷路に押しやる。僕は押されるままに、別段反抗はしない。そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態に、少しも疑わしい性質を見付け出す事が出来ないからである。だが、僕は決して美学には行き着かない。」

理解力不足は指導書に促されるままに読み進もう。

曰く「「途方もない迷路」を文中で言い換えた表現は「美学の萌芽とも呼ぶべき状態」を指し、世の美学者たちが理解するような方法で「美学に行き着」くことはないと宣言している。美とは、あの経験と同様に一回限りのかけがえのないものである」ということのようだ。

悪文と断じたのはまだまだ私の経験不足だったようだ。

「僕は決して美学には行き着かない」という、これは小林秀雄がよくやる、他の一切を斬り捨てる断定だったというわけか。

キーワードから連想しながら、徐々に文脈化を進めていけば、すなわち。

歴史

―― 歴史は美しい。

―― 幻覚のような鎌倉時代の美しい思い出 。

―― あの美しい歴史上の人々や事件、すなわち景色を上手に思い出すということは、生が一回性であることに無自覚なままでいなければきっと出来るはずだ。

これを以って、私自身が『無常ということ』にケリをつけたと言っても良いだろう。

どうだったであろうか。

私の解釈が『無常ということ』本文に粉砕された様が伝わったであろうか。

それは、『一言芳談抄』の訳文という解釈と、原文の美しさとの差の様に歴然と顕われていると観てもらえるのであれば、筆者としての目的は達成したと一応は言えるか。

「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」

と書かれているのに、随分と駄目なことをした。。

興味本位で逆上せて、指導書なんぞ入手してみて、その暴露的好奇心を満たすために『無常ということ』を解釈してしまったことで気付けた。

学生時代に小林秀雄を読むことが習わしになっていた私にとって、高校卒業後に「教師が現れた」というのは、世の中捨てたもんじゃないなと思わせるような出来事だった。

それはきっと見方を変えれば、「生徒も現れる」と言ったって良いはずなのだ。

全ての人に対して、謙虚に教えを乞うような生徒でいたいと私は思う。

雑記Ⅰ

小林秀雄を全集一巻から読んではならない。

とくに『様々なる意匠』を読むべきではない。

ただし、小林秀雄は全集で読むべきである。

図書館で借りるのが良い、文庫を買うのは勧めない。

目次をざっと見て、短いページ数の関心あるテーマを選ぶのが良い。

例えばそれは、スポーツかもしれないし、好きな作家の作品評かもしれないし、国家や教育といった概念かもしれないし、ゴッホや徒然草かもしれない。

朝日新聞の特派員として戦地に赴いた従軍記や、紀行文も面白い。

小林秀雄はあまり自分語りを遺していないからだ。

美食家だったが、食に関しては、知る限り『蟹まんじゅう』の一作品しか遺していない。

これは上海にあったという南翔饅頭店の前身である長興楼に(場所は推測である)、小籠包を食べにいくという食レポなのだが、読むだけで絶品である。

雑記Ⅱ

池田雅延(小林秀雄晩年の編集者、小林秀雄をよく知る生き証人)の『随筆 小林秀雄』二十七回において。

小林秀雄は、朝日新聞『天声人語』と夏目漱石に並ぶ入試頻出御三家の一角だったという。

しかしながら、丸谷才一による批判があり、一九八◯年ごろから入試に出題されなくなった。

そんなようなことが書かれており、面白く読んだ。

意見を受けた小林秀雄の姿勢や指摘の的確さ、池田雅延の憤りや痛快な意趣返しも良かった。

そんな中、十年ほど前、二◯一三年のセンター試験に小林秀雄の『鐔』が出題され平均点が大幅に下がり、大きな議論を引き起こした。

共通一次を含めた史上初、まさに満を持してである。

反面、受験生たちの(ツイッター上での)声で印象的だったのは

「古文が出た」

というもので、彼らの無念がひしひしと伝わってくる。

文章は良いのだが、同じ小林秀雄の別の作品を選べば良かっただろうにと思う(例えば後期に書かれた平家物語など)。

のではあるが、これを機に十代の中高生が小林秀雄を読むようになれば良い。

理由は分からないが、だから今回の文章を書き始めたようなものだ。

小林秀雄の文章は難解で飛躍もあるのだが、読み切れば

「そういう見方もあるのか」

と為になることが豊富だ(それが顕著なのが『考えるヒント2』)。

課題は何を採り上げ、どの順に提示するか、これが上手く行きさえすれば読者は自発的に次へ次へと読み進めるだろう。

小林秀雄のユニークな見方、多様な見方、どちらも生きる力の一助となるし、古典や美術に対するポータルともなり得る。

大学卒業までにしっかり読み切っておけば、同期の十歩先は楽に行ける(採用面接で好きな作家や尊敬する人物として挙げてしまうと、もしかすると面接官が入試で嫌な目に遭っているせいで落とされることもあるかもしれないから気を付けたい)。

雑記Ⅲ

小林秀雄に『年齢』という文章がある。

四十八歳の作だ。

鎌倉小町通りの天ぷら『ひろみ』にはかきあげ・穴子・メゴチが載った「小林丼」というのがあるのだが、この『年齢』という文章には「小林定食全部載せ」といった趣があって、この頃大好きである。

前年秋に京都の寂光院の見慣れた景色が何とも言えず美しく感じられたこと、若い頃に八ヶ岳で経験した壮絶な登山体験、谷崎潤一郎『細雪』における鯛や桜の問題、孔子の耳順、喧しい頭脳で識ろうとする美術と単純に見るという目の作用との乖離や調和、若い人が面白がろうとしても理解できない『徒然草』。

ここで再度、『無常ということ』からおよそ八年ぶりに主張がなされる。

「「平家」には、見えたものだけが見えたと書かれていて、題も「足摺」と附けられた。」

すなわち

「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」

八年の歳月を経て小林秀雄は、ついに『細雪』を通して明言してくれた。

「年齢とは、頭脳と感性の一致を指すのだ」と。

そんなことは一言も書かれていないが。

最後に、私が小林秀雄を読むようになったのは、石川一郎氏のblog『ロックンロールブック』に負うところが大きい。

氏は、何らかのケリが着いたらしく、そのblogは今は読むことができない。

代わりに『ロックンロールブック2』として、その思索や鑑賞の幅を広げて執筆中である。

【四月号】巻頭言 嘘と痛みと戦争【キ刊TechnoBreakマガジン】

 諸隈元著「人生ミスっても自殺しないで、旅」に

「どんな言葉も嘘くさかった。」

 というくだりがある。戦争に関する知識を字面で垣間見、現地の旅情に感傷を仮託している著者自身の罪悪感の吐露だ。酒を飲んだ帰りの地下鉄で読みながら、言い様の無い心持になり、胸が詰まった。サラエヴォの事はよく知らないが、調べればおそらく正確で公正な情報を得られるだろう。あとは時間の問題だけだ。そして、ウクライナの事も分からない。時間の問題にしているという怠惰のせいもあるが、不安定な情報の移ろいの中に黙って身を置くという勇気が出せないためでもある。だが、そうも言っていられなくなって来たらしいから、こうして書き出した。

 Shunメンバーのツイートに

「そしてこの有事に自分は何ができるんだろうとも考えてしまう。」

 とあったのだが、私には今が『有事』であるという自覚が無かった。過渡期でなかった現代など、過去のどの現代にも無く、それは現代にもあてはまるという自覚はあるが。『何ができるんだろう』という感覚も同じく、一寸の虫にも五分の魂程度である。言い換えれば、有事だろうと平事だろうと、人類愛を根底においた自己実現を日々更新すること。西田幾多郎の説を蟻んぼにでもなったつもりでやっている。

 そこにShunメンバーは一線を画してしまった。さあ、これはうかうかしてはいられない。さらにここへ来て、冒頭の字面が私を戒める。実現性と現実性を兼ね備え、実行の勇気を奮い立たせて行動できることは何か。自衛隊のウェブサイトで予備役の募集を読んだ。だが、駄目だった。申し込めるのは三十四歳までだった。死んだ母方の祖父に手を合わせる思いがした。彼は出征予定の前年に終戦を迎えていたからだ。父方の祖父は満州でスナイパーをしていた。嘘くさく感じられることなく、かつ実現できそうなことは他に思いつかなかった。

 話は逸れるが、利休と秀吉の対立に興味を持ったのがきっかけで、マーティン・スコセッシ監督の「沈黙」を観る必要があった。だが、見放題対象外だった。埋め合わせに戦争映画を、なるべくエンタメ色を抑えた、まともなやつを観ようとした。洋画劇場で観たがうろ覚えだったリドリー・スコット監督の「ブラックホーク・ダウン」を選んだ。先日、Shoメンバーと同監督の「エイリアン・コヴェナント」を鑑賞したばかりだったのも選んだ理由の一つかも知れない。

 洋画好きなら誰もが安心するであろう、ウィリアム・フィクナーだ。信頼感のあるマッチョな隊長を演じている。キャスト一覧を眺めれば、トム・ハーディ、ヒュー・ダンシー。心許せる俳優たちの、奇しくもハリウッドデビュー作だというのが嬉しい。はたして探せるだろうか。そのような気楽な心境でいられるだろうか。

 寄せ集め部隊間の軋轢、上官への揶揄、兵卒たちの気の緩み。先行き不安が増してゆく。雲行きが怪しいとはよく言ったもので、MH-60 ブラックホークの行方は燃やされたタイヤから立ち上る黒煙のごとく真っ暗である。非人道的な部族虐殺を断行するアイディード将軍の側近を拉致すべく、空陸百名の三十分で終わるはずの作戦は、夜明けまで十五時間に及んだ。ガンシップ乗員は燃やされているタイヤが、彼らに向けられた煙幕であることに気付かない。地上部隊を足止めするバリケードは、既に随所に張り巡らされていた。合流の遅延が、部隊へ致命の一撃を撃ち込む。

「誰も置き去りにするな。」

 私はありきたりな言葉を聞かされたくないのだが、これには説得力があった。そして、百人の部隊はそれを実行する。命令を出す少将も、実現のために様々な手立てを打つ。どんな言葉も嘘くさいから、映画で展開される実行の勇気に胸が詰まる。無論、米国視点の正当化、米軍礼賛と言われればそれまでなのだが。

 市街戦の巻き添えで人がばたばたと死んでいく。映像が私の眼を通過したせいで、死が数字に変わってしまうから何も感じない。戦争の何が嫌かって、人々の死を株価の下落を通じてしか感じられない人間の多さが嫌なのだ。私も同類だったらしい。こんな言葉も嘘くさくて嫌になる。ここまで書いて、やはり黙っていたかったと思う。さりとて、ただの映画感想文にしてしまうわけにもいかない。

 ソマリア連邦共和国は、東アフリカの角状になった半島を領する国家だ。一九七七年、西部に接するエチオピアのオガデン地域のソマリ人たちが、ソマリアの軍事独裁政権が掲げる大ソマリ主義に共鳴し、エチオピア政府に独立のための反乱を起こす。オガデン地域に対しソマリアは軍事支援を行うも、エチオピアをキューバとソ連が支援し紛争状態となる。結果的に、ソマリア側は撃退され大きな損害を受けると共に窮乏が加速。独裁政権は、バーレ大統領自身が属する南部氏族のみを重用し、北部の生産物で得た外貨を南部の開発に充て続けたため、八十年代全般に渡る、バーレ独裁政権への反政府武装闘争を引き起こす。

 主要都市は次々に陥落し、九十年には『モガディシュ市長』と呼ばれるまでに大統領の影響力は失墜していた。その翌年、首都も制圧され、バーレは国外追放、さらに北部はソマリランド共和国として独立を果たす(正式には二度目)。しかし結局は、第二の独裁者としてアイディード将軍が就任したに過ぎないのだった。

 現在のソマリアは、独立したソマリランドと、東部を接する領土紛争中のプントランド、さらに中南部は四つの自治区となっており、統一されてはいない。ソマリア内戦は現在も継続中だ。この映画は、九二年末に国連が米兵中心の多国籍軍を派遣した後の、九三年十月三日の戦闘を描いている。二千年代には国境を接するエチオピア軍による進行や、米軍の再介入など、まだまだ書き切れないが本筋に戻る。

 作品終盤、不純な理由で観始めた私に天罰が下る。洋画劇場でカットされていたであろうシーンだ。ある漫画家の日記漫画で上映当時のこの箇所は知っていたはずだったのだが。直視できず、動画を一時停止し、シャワーを浴びた。嘘くさくても痛みは感じるのだ。他人の不幸は蜜の味だが、身内の不幸は心が痛い。戦争の犠牲者は、他人でも身内でもない。心が痛むのは同じ人間だからだ。ウクライナの事をそんな風に、同じように考えている人たちと共に、私がここに居ることに安堵していても良いのだろうか。

「国に帰りゃ、こう聞かれる。『おい、フート、何で戦う。なぜだ。もしかして、戦争中毒か?』俺はひと言も答えない。なぜか?どうせ分かりゃしない。奴らには理解できない。」

 自分自身を全く重ねて見てしまい、嘘くささは最高潮に達した。この感覚を文章に残したくて書き出したのだった。だが、何を悲観する必要があるだろう。自己同一より自己欺瞞、自己実現より自己叛逆。積み上げてきたものを棒に振ることが至上のものであるならば。そうとも、お国や名誉のために戦っているんじゃない。なら俺たちは何のために戦っているのか、ぜひ鑑賞してみて欲しい。

 とかくに人の世は住みにくい、と感じてこう思った。嘘くささとは、ラッセルが「幸福論」の前半で、不幸の原因として指摘したうちの『罪の意識』ということではあるまいかと。第一部第七章を読み返す。しかし、僕は悪事の露見を恐れているのではない。もしかすると、僕は僕自身の道徳を疑っているのではあるまいか。

「新しい週が始まる。月曜だ。」

 目の前の戦いに馳せ参じる、寡黙な実行者を僕たちは尊敬する。実行するとは意識を殺すことだからだ。誰かではない。