船橋ノワール 第四章

かつて、イギリスに大層な博打好きで知られた貴族がいた。彼の好みは賭けトランプ。公務も疎かに、寝食も惜しまず、鉄火場での賭けに興じる日々。

流れは誰のもとにある。今落ち目なのは本当に自分か。利益の総量が保存されない均衡の破綻はいつ起こる。向かいの男が仕掛けた賭け金の引き上げは虚勢か。沈黙した表情の下に激情を抑えた者だけが唯一この場の有金を攫うことができる。鉄の意志が錆び付いて知性と感性の軋轢がわずかな所作に顕在する。目元、喉元、胸元、手元、卓の下では足元にそれが顕れる。何が、甦る昨日までの絶望が。何が、今日一日の期待が。何が、明日からの生活への希望が。

Carpe diem.ーその日を摘めーそう言って、彼は刈り取るのだ。最後のマッチ棒で見た灯りのように華奢な何かを。麦畑用の両手鎌のように避けることの出来ない何かで。敗北者たちは思い知らされる。望みは希だったのだと思い知らされる。そうして真の絶望が、滅望がやって来るのだ。絶望、希望、滅望。授業料は高くつくが、一連の人生訓を教授するのに彼を超える大先生なぞそうそう見つかるものでは無い。皮肉な事に、彼は大ペテン師と呼ばれることはあっても、大先生と呼ばれることは生涯無かった。それもそのはずだ。巣立った教え子たちは例外無く学び舎へ戻って来るのだから。彼は天使の翼を捥いで、子羊さながらの四つ足に仕立てて飼い殺す術に長けている。分かっちゃいるけど辞められないと言う、人間の性の様なものまで教えないためである。彼は貴族だが、四つん這いになった納税者たちの上に胡座をかいて搾取するよりも、もっと上等な趣味を持っている。Carpe diem.

彼の名はサンドウィッチ伯モンタギュー。全六感の一分一秒を卓上の動向に集中するため、口にするのは二枚のパンにハムの切れ端を挟んだ物。彼の人となりや職務に対する姿勢の真偽については諸説あるが、しかしその食事様式には彼の名が現代にまで刻み込まれている。同様に、江戸時代の鉄火場で、博徒たちから好まれていたのが鉄火巻き。どちらも手を汚さず、片手で摂ることができ、当時の賭場で食されていたという共通点を見出せるのが面白い。これらは説の一つに過ぎないのではあるが。

毎月六がつく日の船橋駅前では異様な光景が見られる。駅前にその店を構えるメガ・アマテラス。この店先に朝七時頃から人々が並び始め、九時になる頃には長蛇の列が東武拠点ビルの裏、さらに駅前バスロータリーの上まで延々と続くのだ。彼らの目当ては回胴式遊技機。五百六十七台を誇る遊技機からその日メダルを吹き出しそうだと見当つけた台に座るための抽選待ちの列である。

月に三度の六がつく日、その男はこの列に並ぶ。抽選番号の如何に関わらず、着席した台では千円でCZを捉え、そのゾーン中の三択は悉く正解させ、突入させたATでは子役の波から特化ゾーンへ、ラッシュ中は上乗せの嵐。流石の強運も陰りを見せたかというAT終盤、左リールに刺さる中段チェリー…。約束されたかのようなその豪運を信じてはいないのか、ボーナス中の演出では常に完全告知を選び、確定演出を拝んでは安堵している光景は不思議だとしか言いようがない。

有り得ないことが起こっているのだ。いや、限りなく有り得ないことが起こっているのだった。昼の月でも見ているような。レバーを叩くそれは魔拳だった。

十時過ぎから打ち始め、二時に差し掛かるかという頃にコンビニ袋から取り出した握り飯を頬張る。休む事なく台と相対しながら、その台がメダルを切らした時、店員を呼びメダル補充をしてもらう時だけが一息つける瞬間だからだ。いやいや、それに加えて、この男が水分補給できる瞬間もある。ベットボタンを押下し、レバーを叩き、三つのストップボタンを停止する。淀む事なきその一連の動作を妨害する唯一の瞬間。すなわちロングフリーズ。この時、男は台から離れて自販機へ向かう。買って来た缶コーヒーの栓を開け、一口飲んで溜息をつくのだった。期待値たかだか二千枚とは、地獄の閻魔も一目置くようなこの男にとっては誤差の範疇なのかもしれないが。八時ごろのメダル補充でまた握り飯を頬張り、他店より少し早い十時半にこの店の営業が終わる。一枚二十円のメダル三万枚ほどを換金し、その日も男はいつもと変わらぬ帰路につく。

コンビニで買う握り飯は決まってツナマヨネーズ、その男はこれを好んでいる。二百年後、サンドウィッチや鉄火巻き同様にその名が冠されているか誰も知らない。おにぎり、おむすび、男の名は五十嵐。

博徒と呼ばれるには少々気が弱い彼は、その証拠に月三度の大勝を手付かずのまま貯金している。確定申告もしている。いわゆるパチプロとして生計を立てている五十嵐だが、月のほとんどは、船橋に九つほどある店舗でAタイプを回すだけにしている。千円でランプを光らせ、7を揃え、ボーナスゲームを消化し、三百枚のメダルを換金し、その日は帰る。一日を五千円で過ごす日々は、裕福だ。しかし、そんな彼に長らく不調が続いている。

日替わりで九店舗を訪れる彼が、いつものように両替した千円分のメダルをAタイプに入れ、いつものようにランプを光らせる。ここまではいつも通りだ。しかし、揃うのは77バー。あり得ないレギュラーボーナス。初めは、自分にとってのこれはむしろプレミア演出だなどと思っていたくらいだが、それが二日三日、二週三週と続いているのだ。もちろん六のつく日にメガ・アマテラスでAT機を打てば大勝する。しかし、月々のほとんどがAタイプ一発勝負の五十嵐にとって、レギュラーボーナスだけに偏ってしまったこの運気は何か底知れない異変が起きている事を示唆しているに他ならない。それはベルもスイカもチェリーも全く落ちないスロットと同じ様に、明らかな異変だった。何かが起きている。そのことに気付いているのは彼だけだった。だが、何が。そのことまでは思いもよらない。一体何が起こっているのか。

この小説を読む諸兄は、くれぐれも賭博者とならないことだ。いかなる仕事にも感謝し、自分の趣味の時間を大切に、本当に必要な人たちとだけ過ごす。賭博はこの三つ全てをふいにする。

日々の仕事に感謝しているかどうか意識下にはないものの、それなりに真摯に取り組んでいる男たちはここにもいる。彼らは趣味を仕事にしているようなもので、互いに互いを必要と認め合った人間である。話は船橋本町四丁目の事務所に移る。

濃いカーキのワークキャップを被った鈴井が、ご自慢のモニターを持ち上げて移動している。瓜生はまだ退院して間もなく、ダブルブレストのジャケットを着たままソファで寝ている。子桜の姿は部屋にない。

「ほい。」

横になった瓜生の前にモニターを設置した鈴井は、続いて接続をPCに切り替える。養生中の瓜生の復帰はまだ先のようだが、彼は事務所に体を置くようにはしていた。この事務所でのドンパチ担当は、綿摘恭一を別にすれば彼自身なのだという自負があるためだ。スーツの袖の下に隠したS&W M60は、瓜生が誇る『暗中必殺のエフェクター』である電動アームに抱かれて、目覚めのために眠っている。とはいえ、開店休業中の店番のような気楽さも持っていたので、横になりながら映画なり動画なりでも見ながら時間を潰すつもりでいる。特に今日は、注目の動画の新作が配信される日でもあった。

「いやぁ、すまんね。」

「ういー。」

鈴井の厚意に感謝して、動画サイトYouSATURNから登録してあるチャンネルにアクセスし、トップに更新されている新着動画を映し出した。

閑やかながら泰然たるチェロの響きでオープニングBGMが流れ出す。

画面自体はまだ何も映されておらず黒いままだ。

だから、目を閉じて、その音楽にだけ耳を傾けられる。

いつまでも聴いていたいと思う旋律。

『世界の処刑から』

戦慄のタイトルが、低く落ち着いた声の男性により発せられる。

「今日は、415年ローマ帝国からお届けします・・・ッッッフィィィィィ!!」

これは、YouSATURN登録者数1800万人を誇り、総再生回数50億回突破の人気動画。船橋暗黒街非公認堕天使を自称する、スナッフィーが務める五分間の短い動画である。船橋市内で非合法薬物の売人たちを不定期に拉致し、彼らを血祭りに上げる様子を収めることを信条としているものだ。

真っ白な部屋に置かれたソファに深く腰掛けて足を組んだ、茶色いトレンチコートの男が画面に映る。顔も茶色のストッキングでできたような覆面を被り、頭の上に小さな耳のついたベレー帽を載せている。手元のテーブルには、大きな皿。その上に、あらかじめ殻を開けられた生牡蠣がいくつも並べられている。おもむろに覆面をずらして口元までまくり上げ、生牡蠣を食らい始めたスナッフィー。

「牡蠣食えば・・・。」

一つ食べ、口元を濡らして咀嚼している。

「牡蠣食えば・・・。」

二つ目を食べ終えて飲み込む。

「牡蠣食えば・・・。」

三つ目を頬張りながら、おもむろに立ち上がり、ふらふらとカメラに近付いてくる。その口元は、もう彼の涎か牡蠣汁なのか区別がつかない。カメラ前に到達しその向きを右に少しずらすと、彼が座っていた椅子のすぐ横には、天井から吊るされた縄を首にかけられ、粘着テープで口を封じられ、後ろ手に両腕を縛られてその場に立たされた、全裸の男が居た。

「殺してしまえホトトギスーーーーー!!!」

スナッフィーは手に持った牡蠣殻を大きく振りかぶり、男の露わになった男性器目掛けて思い切り振り下ろした。皮一枚残って切断された男性器はドクドクと血を滴らせながら、無残にもぶら下がった。男は激痛に目を見開き、自分の陰茎がもう二度とその機能を失ってしまったであろうことを悟り、声にならない絶叫を猿轡の中で上げた。千切れた精嚢からピンク色をした何かが見え隠れしている。何を隠そう、この過激なスナッフが国内外を問わずその手のファンたちを熱狂に駆り立てる原動力となっている。彼は世界で最も成功した動画配信者の一人だ。全てが無修正である。

「泣かせてみせようホトトギスァァァァァァァァ!!!!!!」

今度は二つの牡蠣殻を両手にそれぞれ持ち、吊るされた男の目元に向けて渾身の力で振り下ろした。目蓋が削げ落ち、血で真っ赤になった片目。もう一方の眼球は眼窩に蠣殻が突き刺さったために飛び出している。目蓋を削いだ方の殻はその勢いで鼻まで深く切り抜け、そのまま口を塞いだ粘着テープを破いてしまった。男の絶叫がこだまする。

スナッフィーは違法薬物の売人を心底憎んでおり、彼らのこういった叫びが呪詛の言葉に変わり、命乞いになるまでは聞き飽きていた。そして、口を塞いでいた粘着テープが剥がれて、売人に言論の自由を与えてしまった以上は、さっさとブチ殺してしまうのが彼の精神衛生上、最も効果的な解決策なのだ。すぐさま、一枚の牡蠣殻を逆手に持ち、熟練大工の鉋がけよろしく猛然と男の体からその肉を削ぎ落とし始めた。全てが無修正である。

「死ぬまでッ!待とうッ!!ホトトギスッッ!!!」

燃えるような痛みに直ぐ男は気絶し、その体重で自分自身の首を吊っている事になっているのだが、スナッフィーはその手を緩めることがなかった。動画の下部にテロップが流れ出す。415年にローマ帝国の哲学者である女性、ヒュパティアがキリスト教に対して異議を唱えた事により、キリスト教徒たちから同様の虐殺にあったことを解説している。この番組は、配信後すぐさま各国のファンたちにより外国語訳され世界中に転載される、血の教養番組だ。全てが無修正である。

しかしながら、『世界の処刑から』はこの回をもって最終回となる。

動画は、鉋がけの様子を延々映して、五分丁度で唐突に終了した。肩から腹までの皮を削ぎ落とされ、肋骨が覗ける程にまで男は変わり果てていた。神をも恐れぬ仕打ちだが、同様のことが1700年程前に神の信奉者によって為されたらしいということは皮肉な話だ。話し合いに応じなければ力比べで解決を図る、それは今も昔も変わらない。そういう業界で彼らは飯を食っている。動画冒頭で瓜生は、牡蠣といえばフライが一番美味いのになどと思っていたのだが、すぐさま彼の男性自身が縮まる思いをした。こうなる事が解っていながら、まだ船橋界隈にヤクの売人が後を絶たないのはどういったわけか不思議でならない。売人連中の中には、犯罪組織の末端としてでなく、そこらのゴロツキが個人で販売しているような者まで居る。それは取りも直さず、実入りの良さが他のシノギとは比べ物にならないほど良いからだ。言い方を変えれば、スナッフィーの脅威が目に見える形で存在したとしても、違法薬物ビジネスというものは断りきれない条件ということだ。

瓜生は、ローマ帝国では同様の手段で、女性が殺されたという事に思いを馳せる。幸福のために存在する宗教に対して、哲学を持ち出して挑戦するとは上等だと思った。自分の中に在る、女を愛するという感情が徐々に肥大し、憎悪の種子が芽吹き始めているのを自覚した。哲学とは所詮、問題解決のための一手段に過ぎないのに、如何ともしがたい問題に対して救いを与えるという宗教を貶めようと試みた者に対する報いとしては当然だと彼は直感的に結論付けた。

瓜生はキリスト教徒では勿論ないが、キリスト教的救済や信仰心の高潔さに対する敬意を持っていた。彼が今までに犯した罪など些細な物だから罰など恐れてはいないのだが、しかし今の生活に対する悩みや迷いは確実にある。さらに、先日西船橋のキャバクラで、正当防衛とはいえ堅気の人間を殺してしまった事が、精神的な動揺を増幅させていた。こういう時、彼は浴びるほど酒を飲んで、金を掴ませた女を思う存分犯すことで心身のバランスをかろうじて保つようにしている。この界隈には、そんな哀れな男から金を受け取り、合意の上で犯されてやるような(犯される事に合意なぞあり得るのだろうか)聖母マリアも三つ子を生んでしまいそうなほどの自己犠牲の精神で生きている女性が何人かいる。宗教に対する哲学の横柄に憤慨した瓜生であったが、ふと、それならそれで哲学が宿命的に背負わされている悲哀の像が自分自身と重なった。その瞬間、全てを赦してやれそうな優しい気持ちが胸いっぱいに広がって、心臓を覆い茂った憎悪をあっという間に包み込んでしまった。瓜生はこの、今まで出来なかった事が出来るようになるという瞬間に、非常に大きな意義を見出している。まるで、今度は自分が聖母マリアにでもなったような気がして、純粋に心の底から嬉しかった。

部屋を見渡すと鈴井の姿がない。おそらく、気分転換に焙軒へでも珈琲を飲みに行ったのだろう。アイツが戻ったら、今度は俺も焙軒に入って人生の幸福について想いを巡らせよう、と瓜生は思った。寝てばかりじゃなく、日差しを浴びて散歩がしたい。退院後、久しぶりに前向きな感情になったのは良いことだ。そこへ綿摘恭一がドアを開けて入ってきた。挨拶と労いの言葉を瓜生にかけ、子桜はどうしているか尋ねる。

「あぁ、兄貴、どうも。生憎とアイツは今、舞浜にいるようなんです。こないだの銚子に次いで。どっから掴んだ情報やら、ソドミーランドとゴモリーシーの間の動きが不穏なんですって。ネズミが大勢死にそうだって、随分興奮した口ぶりで電話かけてきましたよ。」

行動的な子桜に対して妙に感心するとともに、綿摘恭一は少々落胆した。たった今、鈴井と落ち合って連絡を受けた内容が、オカルト好きと言われている子桜にこれ以上ないほど向いているように思えたため連れ出そうと思っていたからだ。彼の力を測る意味でも、適切な難度の調査であるとも思えた。

「今朝、上から連絡があって、達磨神社って所を調べに行けって事です。ドンパチは無いでしょう、ただの雑用ですね。」鈴井はこれだけ伝え、過剰なほど背筋を伸ばした敬礼をし「じゃっ!」と言って裏通りへと消えていった。

鈴井は、東武の連絡員としてこの事務所に在籍している。それは、彼が優れたシステムエンジニアであるからだけでなく、合理的な判断に基いてチームを運用する能力が認められているからだ。この事務所と彼ら一同を管理しながら、どの任には誰が適しているかを判断し、上層部と連絡を取りながら仕事を持って来るのが任務の中で重要な部分を占めている。必要な通信機器一式は事務所にあり、原則的にチーム内の指示は口頭でなされる。上席付きの連絡員が徒で接触してくる事もままあるほどだ。

ともかく、道連れに誘い甲斐のありそうな子桜が捕まらない以上は仕方がない、単独調査に乗り出すしかない。瓜生に大事を告げて、事務所を後にする。

「兄貴、近所に美味い珈琲を出す店があるんです。今度一杯ご馳走しますよ。」

実現するかしないか不明な言葉でもって、瓜生から送り出された。

単独調査とは言え、しかし、そこへ行くまでに足が要る。達磨神社こと白幡神社のある大神保町は、すぐ北に白井市との境があり、南には八千代市が位置する。生まれてこのかた乗車したことのない北総線白井駅が最寄りという、そこへ行くまでがちょっとした冒険と言えるような場所にある。さらに、単独調査は気が進まないというそれなりの理由もある。この二つの問題を解消する単純な答えは、金で解決する事だ。綿摘恭一はその業者に電話をかけた。

発信後しばらくして、食肉工房アンドレに繋がった。業者というからには、後始末以外にも運び屋としての営業もしているはずだ。俺自身を運んでほしい。

「言っとくが恭一、生きてる人間とバイクでタンデムするのは交際相手だけと決めてるんだ。」

その発想はプロフェッショナルじゃない。

「だから、車で行く。どこで拾えばいい。」

助手席に乗せる乗せないで同じやり取りがあったとしても、呼び出してしまえばこちらのものだろう。船橋駅前北口バスロータリーを指定する。三十分程して、白のBMWが到着した。不思議な事に、助手席に乗り込んだ際、アンドレが何か言ってくることはなかった。

県道288号夏見小室線を北上。船橋の揺かご夏見ー夏見台を抜け、道なりのカーブで北東方面へ。マンションばかりだった夏見とは打って変わって、金杉で通りに面しているのは戸建ての住宅のみと言っても過言では無い。だから、八千代方面へ向けて、錆びた鏡のようになった空が一面に続いているのが見渡せた。左手の御滝公園を振り返ると、向こうにあるのは雲の目立たない青空。

それぞれの庭の敷地が広がり、住宅同士の間隔も空いてきた。商店の類は目に見えて減っている。駅前からずっと一車線が続いていたから、白のBMWは吼えることもままならず不憫だった。アンドレは黙ってハンドルに手を置いている。口数の少ない俺のことを、隣の運転手はどう思っているだろうか。仕事の間柄という悲哀。

それにしても、アンドレは二言目には交際相手と言うが、この男に女の一人や二人いるのだろうか。業者なんて言えば聞こえはいいが、堅気と極道という二つの畳の縁の上に立つ、陰とも陽ともつかない幽明境の亡者の様な存在だ。つまり、看板では堅気に向けた肉屋を営みながら、その裏で極道から死体処理や密輸の下請けという綱渡りの典型といった日常を送っている。そんな男と交際するのは、同じ綱渡りの曲芸師めいたやくざな女で無ければ、文字通りバランスが取れないでは無いか。にもかかわらず、女などと呼ばずに、よりにもよって交際相手などと呼ぶのが可笑しい。もしかすると、アンドレと付き合っているのは本当に純朴な素人女性だからなのかも知れない。ならば、相手に裏の顔は見せていないのだろう。工房への立ち入りも禁止しているに違いない。どう見たって人間用である処理場を見られれば言い逃れはできないし、伏せていた分知られた瞬間の衝撃は計り知れない。最悪、その場で口封じなんていう、笑えない悲恋で終わる可能性だってある。仕事が仕事だけに、身体にこびりついた臭いを念入りに落としてからでなければ、こんな密室同様の車内に乗せることすらままならないだろう。現に今のように。

アンドレの言う、いわゆる交際相手が彼岸のものか此岸のものか、そもそもあるのかないのか興味は尽きないが、同時に彼の異色の生き方も興味深い。チェーンソーが工房でも愛用の工具なのだということはまず間違い無い。あの日、西船橋の大日本プラザで持っていた得物は、アスファルトをまるでベニヤ板のように易々と引き裂いていた。闇夜の西船橋でひときわ目立つオレンジ色をしたあのチェーンソー。同様に、アンドレのバイクも車も、エギゾーストノートが特徴的で、彼の嗜好が現れているのだということは想像に難くない。さらに、あの夜に身につけていたあの真っ黒な革張りのライダージャケットもその現れとして関連付けられる。今思えば、改めて長身痩躯の彼の体型をギリギリと締め上げるように誂えた、身に纏うための鴉の羽根。死体解体、鎖鋸、排気音、二輪車と四輪車、黒革の拘束衣これらが瞬間的に一列に整列するのが見えた。ふふん、お前ってものは、大した変態さんだよアンドレ!こういった手合いと交際するなんて、その生活には苦労が絶えないことだろう・・・。

いや、待てよ、『交際相手』と言う限り性別は限定されない!熱せられた飴のように引き延ばされた時間の中で考えを巡らしていることに気づき、綿摘恭一はそうするのをやめた。これをしていると、到着までがさらに長く感じられる。それに、仕事前だというのに、考えれば考えるほど疲れる性質の内容になっている。運転席のこの男の本性がどういうものか、この仕事の間柄を保っている限り、いずれ垣間見えてくることだろう。

三咲で新京成線の踏切を越えさらに北東へ。流石に駅前には商店の数が増えたがそれもすぐに終わり、見晴らしの良い県道57号線との三叉路をそのまま直進。ダイトー整骨院のプロポリスという看板が胡散臭い。神社、霊園、畑が多く、良く言えば静かな、悪く言えば田舎な景観が広がる。船橋県民の森直前で左折。そのまま、人気の全く無くなった薄暗い林道をぐるりと半周すると、この先キャンプ場の看板。そのキャンプ場の手前、左脇に達磨神社へと続く小路があった。鈍行でゆらゆらと40分がかりの行程だった。

自然を守り続けようという心。その自然に親しみ、共に歩まんとする意志。船橋にこれほど鬱蒼たる森林があるとは、市街での暮らしからは想像もつかないことだ。郷土に自然が必要なことは、街に書店が必要なことと同じくらい自然なことだ。そんな一面の林の中で、背筋に空恐ろしい何かを感じるこの小路。ここをまっすぐ進めば、目的の達磨神社こと白幡神社がある。

達磨神社とは、船橋唯一と言っても良い、知る人ぞ知る心霊スポットである。曰く、2000年代に大学生が三人の少年から金品目当ての暴行を受けて死亡し、その死体が遺棄されたという場所。曰く、船橋市内に居を構えるオカルト研究家が度々メディアで取り上げ、霊能力者たちの霊視により女の霊が共通して確認されているという場所。曰く、帰宅途中の女性を狙った暴行事件が後を絶たないという場所。ネット上の情報はありきたりなものだった。事件の波紋に尾ひれがついて拡散し、周囲の人々を巻き込んでいく。暗く、冷え冷えとした、この地ならではの条件が揃ってしまった結果だろう。おまけに、神社の本殿には呪われた達磨が安置されているという。

車を降りた安藤玲は目を細めた。あまりにしんとして、冷ややかな空気を感じたためだ。人である無しに関わらず、彼は多くの命を処理してきた。そして、人の魂や霊などというものは存在しないと結論づけている。しかし、食肉工房という自分自身の結界を離れた今、感じているのはこの土地自体が持つ結界だ。それが、我々の訪れを拒んでいるのを感じる。この不思議な感覚に対する気付き。安藤玲は、今までに処理してきた数多の命に感謝した。

林道脇の小径から、すぐ先にある二つの灯篭と同じく石造りの鳥居が見える。そこをくぐり、さらに松林に囲まれた参道を直進すると、およそ百歩ほどで社務所にたどり着いた。そこまで行くと、社務所の裏手に隠れて随分と小ぶりな本殿がある。横幅四歩、縦幅三歩だ。鴉の鳴き声が煩わしい。

今回の任務、一体ここで何をしろというのか。鈴井からの伝達ではただの雑用。そのことが却って俺の興味を引き立てたのだが、このまま何も無かったで帰っていいものか。そもそも、本殿の扉が開いてはいるものの、その異名の由来とも言える達磨なぞ安置されてはいない。一体何なのだ・・・。呆然としていると、道連れのアンドレがふと言った。

「なぁ、こっちの社務所か。こっちじゃないのか。」

ふむ、なるほど、俺が囚われていない視点だ。単独でもいずれ気付いただろうが、やはり意見は多くあったほうが良い。社務所はそれなりに大きい。しかし、扉には当然鍵がかかっている。

「ちょっとどいて。」

言うなりアンドレは扉を蹴り破った。簡単に鍵は壊れ、その扉から中に踏み込む。目の前には、狭い廊下。直進して突き当たりの収納庫の前を右折すると、広い居間だった。いや、左手には調理場もある。ここは『キッチン』兼ダイニングのようだ。壊れた家具やゴミで雑然としている。部屋の中央にある大きなテーブル上には、散乱した食器と分厚い鉄で出来た大ぶりな鍋。開いてみると、これはグラタンだろうか。見て戦慄する。なんと言うことだ、出来上がってから腐敗した様子が無い。ここは、おそらくまだ生きている。それくらい新鮮な調理だった。半分ほど食べられて無くなっている。流しの水道をひねると、水が出た。生きている。こんなオカルトじみた場所に住んでいる人間が居るということだ。

そして、俺はしばらく我を忘れてしまった。強烈な既視感。だが一体、どこで見たのだろう。こんな場所を訪れたことはない。おっと、何か汚物らしきものを踏みつけてしまった。ああ、クソ!いい靴を履いてくるんじゃなかった。とは言え、このスーツも靴も、バッグの中の機関銃も含めて俺自身を形成しているのだ。初めから納得づくでこの場に来ている。とは言え、何かただならぬ不気味な感触が背筋を伝わる。やはりこんな所に一人で来なくてよかった。アンドレに謝意を込めながら独りごちる。返事は無い。アンドレの名を呼ぶ。やはり返事は無い。アンドレの名を叫ぶ。最早、彼の気配すら感じられない。急いで部屋を抜けると、廊下の続きと上階への階段。駆け上がってアンドレの姿を探すが、そこには居ない。不気味なマネキンたちがあるばかりだ。単独調査ならこうはならなかったと自分自身を呪った。今ははっきりと、自分が取り残されてしまった不安感が加速しはじめている。来た階段を駈け下り、右手の廊下を先に進む。突き当たり正面とその右に扉がそれぞれあった。何処か離れた場所で、ガタンと大きな音がした。そちらのはずであろう右の扉を開く。アンドレの名をもう一度呼ぶ。一体全体どこに居るんだ。ここは居間だ。中央にテーブルとそれを挟むように一人がけのソファが左右からそれぞれ二つずつ向かい合っている。アンドレ・・・どこにいるんだ。既視感がさらに強まっていく。一体、どこで見たのだろうか。何か、何らかのVTRで見た気がする。左手奥にある暖炉。たしか、ここの中にレバーが・・・果たしてそれはあった。それを引き下ろすと、部屋の一部の壁が開いた。隠し扉だ。しゃがみこんでその奥へ進む。まったく、勘弁してくれよ。その先は、非常に狭い通路だ。すぐ先に、階下へ向かう梯子がある。先へ進む。一つ、二つ、十八ほどその梯子を降りて階下へたどり着く。今までの廃墟然とした屋内と打って変わって、驚くほど白い部屋。ここでようやく気が付いた。この既視感は確かに動画で見たそのままだと、ようやく思い出した。梯子から足をつき、そして振り返った先に、アンドレの後ろ姿を見た。彼は呆然と向こうを眺めているようだった。彼の肩に手をかける。ぐるんと首をこちらに回した彼の目からは血が流れていた。いや、血潮のように熱い涙を流していた。

「こんな、ここは、本物だ。恐ろしい。こんな場所に、これほどの設備があるなんて。」

アンドレは錯乱していた、明らかに。部屋を見回すと、そこは整理整頓された真っ白な地獄だった。排水溝とシャワー、流血を洗い流すためのものだ。天井から吊り下がるロープとそれを支えるウィンチ、何のために使うか明らかだ。部屋の反対側に檻がある、人が寝るには十分な二畳ほどの広さだ。三脚とビデオカメラ。チェーンソー、ハンマー、鶴橋、ショットガン。

明らかだった。『世界の処刑から』その撮影現場そのままの光景が眼前に広がっていた。一隅に置かれた一斗缶の中に大量の牡蠣殻。どうりで鴉が啼くわけだ。この場で何人もの惨たらしい処刑が行われていたのだから。このことを突きとめろという依頼だったとでも言うのか。はっきりとした収穫はあった。あのスナッフィーの根城を明らかにしたのだから。東武側からすれば、早急に手を打たなければならない商売上の敵の居処を突き止めることができたわけだ。しかしながら、俺自身も非合法薬物売買は決して看過できない。そこだけは、その一線だけはスナッフィーと無言の共感が出来ている。無名の俺のそんな感傷を、先方が知っているはずもないのだが。

突然、大音量が鳴った。全身の神経が総毛立ち、予測される危機に備える。

Sail away.

自分自身の緊張感にそぐわない、妙に癒される旋律が響く。流れ出した音は、殺気とは対極にある波動。この曲が選ばれているその意図は一体何なのだ。

Sail away.

冷静さを取り戻して思うことは、間違いなくこの家の主人が帰還したという事だ。タイミングが悪すぎる。アンドレはまだ正気を取り戻していないような目をしている。

Sail away.

ドサッ、と梯子を一息に飛び降りた気配を背後に感じて、俺はバッグから機関銃を掴み出した。

何てこった、このタイミングで一番会いたく無い相手と対面してしまった。決して無防備では無い俺達だが、不意を打たれたのも確実に俺達であった。

「ん〜、二代目と業者だフィー。こんなとこで何してるっフィー。」

はっきり言って、一切の敵意を感じない。不法侵入相応の事をしているのはこちらであるにも関わらず、だ。何だ、何なんだ一体。このまま射殺されても辞さないというわけでも無かろう。フラフラとした足取りでこちらに歩み寄るスナッフィー。頭での考えが追いつかない。意表を突かれ過ぎているのだ。一体、このノーガード戦法は何なのだ。これ以上の接近を許すのは、すなわち自身の生命の存続を脅かす境界に達してしまう。その瞬間、この時間は熱せられた飴のように引き延ばされた。

打開策その一、すぐさま銃弾を浴びせて、この男を蜂の巣にしてしまう。だが、このトレンチコートには当然対弾繊維を編み込んでいるはずだ。そして、ここはスナッフィーのテリトリーであって、思いも寄らない罠を作動させてしまう恐れがあった。それこそ、下手をすれば、彼のポケットの中にあるスイッチ1つでこの部屋に毒ガスとは言わないまでも、我々の神経を麻痺させるだけのガスを放出することさえ可能だ。この男が頭から被っているストッキングめいたマスクには、そのガスを遮断するに十分な高分子機能を持たせた繊維を使っているはずだ。打開策その二、非合法麻薬の売人を殺すこの男に敬意を払ってこちらから停戦を申し込み、穏便に事を済ませる。だが、スナッフィー自身、俺が麻薬売買撲滅のために組織に身を置いている等と知る術がないので、信用される可能性はゼロだ。その場で話を合わせて、背中から撃ってくる可能性大、これは兵法の基本のキだ。打開策その三、奴が行動を起こすまで引きつけて、それに対する応答を返す。これは最も難しい対応なのだ。この狭い空間で後の後は取れない。ということは、後の先は後の後に如かず、後の後は先に如かず、先は先の先に如かずという大原則を放棄した下の下のさらに下という選択肢となる。もう、答えを、結論を出す必要がある。果たして先を取ったのはスナッフィーだった、およそ理解し得ないやり方で。

「綿摘の、いや十二位。何をしに来たッフィー。俺はこないだ食った牡蠣に当たってもうどうしょうもなく病み上がりなんだッフィー。分かったら、こないだの火炎瓶は水に流して、さっさと帰ってここで見たことは無かったことにして欲しいんだフィー。お前が違法薬物に対して興味がないらしいことは知ってるんだフィー。」

停戦という事なのか、向こうからの提案か。

「本当に、さっさと行くんだフィー。別に、この場でお前ら二人を殺そうなんて思ってないフィー。お前はお前の流儀で違法薬物除去に精を出したらいいんだフィー。」

この男は、いったいどこまで知っているのか。しかし、ここまで自己開示された以上は、その藁にすがるしか無い。未だに呆けたアンドレを引き連れ、梯子を登る事を急かす。

去りゆく二人の後ろ姿を見届けながら、スナッフィーは考えた。あの男が、仕組みから何から何まで、この船橋の荒廃を変えるのであれば、いよいよ自分に課した使命は幕を下ろすのだと。我ながら珍しく、妙な期待をしている。

我が妻を薬漬けにした、あの忌まわしきアムステルダムからの流れ者、ブルーナファミリーを南船橋のラ・ラ・モールで皆殺しにしたあの日から、自身がそれまでの心血を注いだ西武構成員としての人生は終わった。そして、新たにスナッフィーとしての人生がはじまったのだ。麻薬販売人を一人一人血祭りに上げ、麻薬を奪い、新たな売人に横流しして収益を上げ、その売人を次の標的とする一連の流れが出来上がって、自分なりの正義を執行してきたつもりだった。その過程で、自分自身も薬物を利用し、自分には効果を最大限に利用できる適性があることにも気付いた。覚醒剤やコカインを使用した自分自身は、痛みも死も恐れず、ただひたすらに文字通り鉄槌や鶴橋を振るう執行者としての地位を確立した。こと自分においては、頻度にさえ気を遣えば、依存症になる恐れは限りなく低いと思われた。組織の後ろ盾もなく、一個人でここまでの地位を築き上げたのだ。潤沢な資金を投資して『世界の処刑から』を配信し始めて、さらなる収益を得たころから目的が曖昧になってきた。

殺すためには獲物が要る。獲物たちは麻薬を捌く。彼らに、もともと彼らだった者達から奪った麻薬を売り付ける。そして、次の獲物として彼らを狩る。動画配信の収益は鰻登りに増えていく。だか、果たして自分が求めていたのは、金では無かったのだ。亡き妻の無念を晴らすべく、この街で、ひいてはこの世界で違法薬物の売買が無くなる事を望んだのだ。それが、そんな自分が今では、ドラッグによる無敵に近い力を得て、やっている事といえば負の連鎖への加担となっていた。悪い冗談だと、薄々気付いてはいたのだが。しかし、自分がしている違法薬物の『リサイクル』と違い、東武が組み上げているのは生産、精製、流通、販売という錬金術だ。その秘密を暴かない限りは、こちらも手の打ちようが無い。いつか、この船橋にあるはずのドラッグ工場を突き止めて、全ての大麻を燃やしてパーティーを開くその日まではこの戦いを続けるつもりだった。

つい先日、浮浪者同然の素顔で西船橋の歓楽街に赴いた時、聞こえてきた綿摘恭一の評判は、俺の二の舞になるような後進を作り出さない事を強く意識させた。あの、親父以上の威厳を持った叔父貴、綿摘壮一の秘蔵っ子なのだから。彼なら託せる、そう思う。その出会いに心から、万感の思いを持って感謝し、この住処に火を放つ。ガソリンと灯油を四対一の体積比で混ぜ、溶かせるだけ砂糖を溶かし込み、仕上げに触媒としてアルミニウム粉末を少量加えた燃料をウィスキーボトルに入れる。さらに、口を閉じたガラス管に濃硫酸を封じたアンプルも入れて作り上げた火炎瓶。梯子の上から階下にこれを投げ落とす。

ぼうぼうと燃え盛る屋敷に背を向けながら、スナッフィーこと飯島誠は、今後の身の振り方について思いを巡らせていた。金はあるのだ。無いのは理想だ。強い心で全てをゼロにし、今度は、いや今度こそ大切なものから順に箱の中へ仕舞っていこう。お気に入りの鶴橋一本肩に担ぎ、悠々と松林を立ち去った。

BMWに乗り込んだ二人は、そのまま車を走らせ、道なりにさらに半周、県道288号夏見小室線へと戻った。右手にラーメンショップが見えるが、遅すぎる昼食どころでは無い。一目散に船橋方面へ向かった。時間帯の関係だろうか、その頃には一車線の道路を快適に進むことができたのだ。三枚のお札なぞ無くとも、無事に帰れそうだった。快速で排気音を鳴らす白のBMW。その運転手も、何か興奮交じりについさっきまでの出来事を口走っていたようだが、同じく興奮冷めやらない自分としては、その言葉の全てを記憶することは出来なかった。幸か不幸か、お互いの目的地は京成海神駅。さらに二人とも昼食をとっておらず、もう日も沈んでしまったから、そこで一緒に食事をしようという事になった。

食事らしい食事を地元で摂るならば、間違いなくここ海神亭だ。店の前で降ろしてもらい、アンドレもすぐ先の工房駐車場に車を駐めてすぐに入店した。俺は餃子を一皿と瓶ビール、アンドレは唐揚げとチャーハンを注文した。年老いた店主が、快活に受け答えて調理に入る。その時、扉がガラリと開き、二人の男が這入ってきた。

「おう、ジジイ、いつものな!」

「汚えんだよ、よくこれで潰れねえな!」

こいつらは地元の人間じゃ無い。ここ海神は町内会の横のつながりが強い。こういった横柄は、決まって東武の成り上がりなのだ。今や西武が撤退して、我が物顔で辺りを跋扈している。さて、こいつらを機関銃掃射で皆殺しにすることはできるが、その代償に一ヶ月近くこの店を営業停止にしてしまっては、俺は一体何処で回鍋肉にありつけるだろうか。熱せられた飴のように引き伸ばされようとしているこの時間を引き裂いて、ガラガラと引き戸が開け放たれた。真っ黒な軍服に身を包んだ将校たち三、四人が押し入って、二人のチンピラを有無をも言わさず引き立てていく。

「おい若造ども、この店は今夜俺たちの貸切だ。宴会の続きはあの世でやるんだな。」

永井老人が入れ替わりに言い放つ。続いて綿摘壮一が入店する。俺の隣に老人が、アンドレの隣に親父が座った。

「餃子一皿と老酒。」

「レバニラ炒めを、それと瓶ビール。」

店主の声が活気付く。タイミングが良すぎる、出来過ぎだ。

「なぜ、あんた達のような、影の住人が姿を見せる?」安藤玲は、息を飲みながら、かろうじて言葉にすることができた。

「あぁ、なんせ、恭一の初仕事だったわけだからな、祝い酒に、さ。」

あり得ない、その情報は知り得ないはずなのに。親父と、まさか東武が通じていようはずがない。しかも、このタイミングで俺たちがここにいる事を知りようはずもないのだ。

それを察して永井老人がボソボソと耳打ちした。俺は天を仰いだ。彼ら習志野軍閥の拠点としている行田団地は、旧海軍無線電信所船橋送信所として「ニイタカヤマノボレ一二◯八」の電文を送信している。通信傍受なぞ、朝飯前だと言うのだ。

「恭、今夜は動物園の忘年会だな。」

遠い記憶だ。どんな話だったか、全く思い出せない。永井大佐は、興味津々で耳を傾けようとしている。

「おサルさんは、いつもの木の上に居ません。代わりに、会の参加者の膝の上に代わる代わる寝転びに行きました。みんなが彼の頭を撫でてくれて、森にいる以上に居心地が良いと感じました。」

喉を鳴らして永井が笑う。この老人、親父が話すときはいつも愉しそうだ。

「チーターさんは、一気飲みが好きです。誰も彼に追いつけません。だけど、みんなが無理なく盃を傾けてくれるその姿を見ているだけで、嬉しいと思いました。」

安藤玲はぽかんとしている。船橋の伝説が隣に座っている現実に追い付けない。

「ゾウさんは、この年末に少し悔しいことがあって、涙を流す代わりに浴びるように、まさに浴びるように酒を浴びました。だから、その目に光る涙に気付いた者は誰も居ませんでした。」

綿摘恭一はこの寓話の背景を突き止めようと思いを巡らした。そして、その事自体が上滑りしていくのも同時に感じた。

「今年の幹事はオオカミさん。例年参加していなかったけれども、幹事の番になって嫌でも参加せざるを得なくなりました。会の最中、普段一匹狼だった彼は、今までに無い一体感を得ていました。」

綿摘壮一が一人語りを続けていく。店主が一人に一皿、焼き餃子を出す。さらに、唐揚げにレバニラ炒めが二皿ずつ供される。すぐさま瓶ビール四本と紹興酒一瓶を、店の倅が差し入れた。店側の気持ち、という事だ。酒を頼まなかったアンドレは苦笑しているが、運転も終えたので真っ先に老人達のグラスに酒を注ぐ。その返しに、永井が恭一に、壮一が安藤に酌をしてやる。

「改めて恭、お前の初仕事に乾杯だ!」

西船橋輪舞鈴に勤めている片柳美穂は、少し早く店を退勤して家路に向かおうとしていた。あれから彼女は、非合法組織の欺瞞を受け入れ、この船橋がどういう状況であるか理解に努めた。詰まる所それは、自分自身を見つめる事でもあったから、今は活き活きと日々の業務に励めていた。馴染みのお客さんも何人か出来た。前まで話すら出来なかった姉さん達と、先日のあの出来事から分け隔てなく話せるようになった。舞衣さんからは「望愛ちゃん、お客の品定めはよくよくしなきゃダメよ。」といつも声をかけてもらっている。というのも、あの日死んでしまったお客さんからの視線を、ただ一人、薄気味悪く感じていたからという理由かららしい。あの時、冷静さを失って刺してしまった、名前も知らないあの人が、また来てくれることがあるだろうか。しっかり謝りたい。私たち水商売の女は、皆が皆、私みたいな人間でない事を知ってほしい、そのために謝りたい。私は

真っ黒なミニバンが彼女を跳ね飛ばして、片柳美穂はそれから気を失った。すぐに運転席のドアが開き、男が女の身体を引きずって、後部座席へ押し込む。一分もかからず、車はその場から消えた。

五十嵐義阿は今夜もAタイプのスロットを打っている。いつもと同じく、千円で甲高いガコッという告知音。レギュラーボーナス。明らかな異変だった。何かが起きている。そのことに気付いているのは彼だけだった。だが、何が。そのことまでは思いもよらない。一体何が起こっているのか。

 

第四章    隣人邪悪    

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