船橋ノワール 第六章

十畳の和室、瀟洒な山水の軸を掛けた床の間を背に、綿摘壮一、永井日出夫の両名が並んで座り、酒を飲んでいる。届いたばかりの天婦羅は四人分だが、対面の客たちは鰈の焼物にも碌に手を付けず帰ってしまっていた。永井老は早速タラの芽を一つまみ噛み締め、酒で流す。特別本醸造の八海山が春の香りを引き立てる。もうこれで十分。あとは、健啖家の壮一が楽しそうに飲み食いするのを眺めていれば良い。ここ、船橋市湊町にある割烹旅館玉川は、創業大正十年。『ダス・ゲマイネ』を含む太宰治前期三作品が書かれた所縁ある旅館だ。この界隈では最早入手困難になっている美味珍味が秘めやかに集まる、今となっては誰も知らない場所である。

「アサシンメイカーの永井先生が、他人様に先生付けですか。」

「先生も沢山いるからね。教師、弁護士、医師、代議士。作家先生も然り。しかし、そのピラミッドの頂点にいるのはヤクザ者の用心棒ですよ、綿摘センセ。」

「揶揄わないでくださいよ、其奴だけ人様の役に立って無いじゃないですか。」

「ははは、それは裏を返せば、ある程度なら世間様の役に立っているってことかい。」永井大佐が笑いながら言い、壮一は照れ隠しか何か解らぬが手元の猪口をグッと飲み干した。

先刻までこの部屋には、千葉県議会議員くろす太一、並びにその秘書赤木光が同席していた。船橋東武が麻薬取引でせっせと金力を貯えて来た一方で、船橋西武が誇った武力はそのほとんどを失ってしまった。今、地元に必要な正義の士を、くろす議員に担ってもらうべく、先生には県政から国政へと飛翔し、ゆくゆくは閣僚になって頂きます、という永井老からの打診だった。その晩も一体どんな無理難題を吹っ掛けれらるか、くろすは終始冷や汗だったが、その進言を聞いた時には上の空。警護の赤木は酒を飲まなかったので、対照的に涼しい顔をしていたが。

代議士くろすは、永井の切り札というよりは財布だった、少なくとも当人はその様に受け止めていた。用命はと言えば、行田駐屯地に予算をいくら配分せよだとか、行田士官学校に船橋市教育課長の視察を寄越せだとか、施設の改修や設備の導入に便宜を計れだとか、その手の事ばかり。今夜の急な会合も断るわけにいかず、一体何かと出向いてみれば、いつになく丁寧な口ぶりの永井から労いの言葉を受け、今までの働きぶりに報いるべく入閣の手立てを打たんと言うではないか。

くろす議員にしてみれば、黙って酌を受けていれば、莫大な政治資金が只で転がり込んでくるのだ。こんなに楽な事は無いように思われるが、勧められるがままに飲めば飲むほど、何が正気で何が罠やら見えなくなる。向付の鰹からして、薬味が何かも感じない、粘土を食っているようだった。それを看過しながら、特務の大佐はこんな調子で語りかけていた。

「相思相愛という言葉がありますな。肴と酒、肉には葡萄酒、酒に對しては當に歌うべし。これを先生の事に当てはめてみれば、それは政治とカネ。ま、そんなところです。」

これまでの付き合いでは、一度たりとも聞かされたことの無い、暗示的な命令がされている。洒落とも冗談ともつかないような口調で、だ。隣にいる綿摘壮一は、惚けたような表情で悠々肴と酒を楽しんでいるのだが、首から下は満身に殺気を帯びているというのが、こちらの混乱に拍車をかける。

「人生、幾何ぞ。」そんな様子を察したか知らずか、壮一が合いの手を入れた。曹操、短歌行。

彼は石川の鶴乃里で火蓋を切っていた。スーツもタイも真っ黒、これは死んだ大典に対しての弔いを意味していたのだが、政治屋のくろすでもそんな事は知る由もない。兎も角、断れば殺す、と遠回しに言われているとしかくろすには思えなかった。『人生、幾何ぞ。』とはそう言う意味であるとしか読み取れないのだ。無論、壮一にそんな気などさらさら無かったのではあるが。

秘書の赤木は運転も務めるため酒を飲まないが、壮一の殺気を何とか跳ね除けようとするのに必死だった。本題も終えこれからが宴という頃、兵庫県から送られてきたという鰈を残し、二人は早々に部屋を辞したのだった。

一通りの献立を平らげ、最後の水菓子が運ばれて来てから永井が告げた。船橋東武がいよいよ今度は、我々の排除に乗り出す気でいることを。筆頭第一位、郷田環が行田駐屯地の回線に割り込むようにして連絡を寄越してきたという。

「金塊を、そろそろお譲り願いたいとさ。」

「いくらでです。」

永井老人は静かに手を開いて見せる。指を五本立てている。

「五千兆円ならば、妥当じゃありませんか。」そう言って壮一は盃を飲み干した。

「五億と告げてきたよ。」冗談では無いといった感じで、永井は憮然と吐き捨てる。

「ほう、連中さざんかとつつじの見分けもつかんとは。」壮一は思わず陶器の盃を手の内で割ってしまった。豹変した顔付きには、先程までと打って変わって怒りが漲っている。

習志野軍閥の士官養成学校兼集合住宅、通称“団地”は、軍閥の基幹通信基地として重要な役割を果たしてはいるが、それらはあくまで建前だ。薬園台にある習志野軍閥本部駐屯地、通称“塔”とは一線を画した任務を永井部隊とまで呼ばれる彼らが担っている事は公然の秘密だった。彼らが擁するそれは、血溜まりの中から引き上げられた金色に輝く闇の文化財である。

なんと無残な平城京。七百四十年から僅か五年間で現在の京都府にあった恭仁京、滋賀県紫香楽宮、大阪府難波京と三度の遷都を経て、七百四十五年に五年ぶりで再び平城京へと遷都した。この背景には疫病の流行、旱魃、飢饉、大地震や乱といった社会不安があり、聖武天皇が世の平和を願って遷都を繰り返したという理由がある。度重なる遷都によっても世の乱れは治らず、聖武天皇は自身が信ずる御仏に救いを求めた。そして遂に七百四十五年から十二年の歳月と、のべ二百六十万人ともいわれる人手をかけ、奈良の大仏こと東大寺盧舎那仏像が完成した。鋳型の中に銅を流し込む一般的な製法が採られたが、工程の最後の五年間は鍍金に費やされた。

当時、鍍金の主流は水銀アマルガム法である。青銅やジュラルミンに代表される様々な合金があることからも分かる様に、金属同士は混ざりやすい。この性質を利用し、液体金属に固体金属を溶かすというのが、水銀アマルガム法の理念だ。口の中で「融けた」チョコレートと共にガムを噛んでいると、ガムが「溶けて」しまうというのと理屈の上では似ている。水銀5に対して金1を溶かし合わせたアマルガムを、鋳造した大仏に塗り付け表面を松明で焼き水銀を蒸発させ、残った金の面を磨き上げる。引き起こされた日本史上他に類を見ない水銀蒸気による公害により、当時の左官をはじめ奈良の人々は斃れた。表面を覆う呪われた金塊は50kgとも60kgとも言われる。

完成から百年後の地震により、仏像の頭部が落下。五年ほどで修理落成供養があったが、その三百年後と七百年後にそれぞれ戦火に包まれる。なので、金などは早々に散逸するのだが、その主たる理由は夜盗による窃取である。当時の聖武太上天皇、孝謙天皇もこれらに早急な対応を示し、以降は下手人の捕縛と金箔の奪還を専門とする集団が検非違使別当直々に組織され、回収された金塊は密かに正倉院入りして供養されるのだった。それらが何故、船橋の一軍閥に秘蔵されているか、その話はまたの機会に回す。

時に、七十年代の金価格は一万五千円/g、50kgで七億五千万円である。船橋東武はこれを値切って五億円と申し渡して来たのであるが、壮一の言葉を借りるに、この奈良大仏を覆った金は五千兆円が妥当であると言う。果たして、何が一体そんな馬鹿げた金額が妥当であると言うのか、その話もまたの機会に回そう。

かように話がずれ込んでいる間に、綿摘壮一は膳を平らげ、鶴乃里の四合瓶を空け、手付かずの料理は包ませて運転手の若い准尉への差し入れに持った。今夜永井大佐の運転手を勤めているのは、専属の小林少佐ではなかった。壮一は残り物の手土産を准尉に渡してから、座席で永井老人に理由を尋ねた。

「いや、何、コイツさ、こないだおイタでこの車乗り回したのよ。そこにWを乗せてね。」口ぶりには愉快さが滲み出ている。Wというのは軍閥でも選りすぐりの代行者に授けられるコードネームである。

「私もね、永井先生、大親友の乗り物を無断で拝借して駆け抜けた日がありましたよ。」

「盗んだバイクかね。」

「盗んだのは馬ですよ、馬。」

「ねったい。」と言って永井は吹き出し、あとは二人とも大いに笑った。

 

石窯パン工房パァントムの修理鈴音は、店員として職場で日々感じている充足感以外の幸せを、この日久しぶりに感じていた。店で販売しているこくうまカレーパンが、カレーパングランプリの東日本揚げカレーパン部門の最高金賞を獲得したためだ。これには誰もが、お客さんももちろん驚いた。だから、父から、今夜なるべく早く帰ってみんなでカレーにしようと言われて、鈴音は嬉しかった。彼女の我が家ではカレーが自慢のご馳走だったのだ。お店のものとの違いは具の大きさだけ、けれどもウチでしか食べられないカレー。それと同じ味の商品が受賞したというのは、なんだか自分の家族が褒められたみたいで、とても誇らしかった。

父はビールを飲み終え、家族のために赤ワインを開けた。鈴音は、家のカレーがパンやご飯以外にワインにも合うということを知って、少し大人になった気がしていた。ワインなんか自分で飲むことなど全く無いから、却ってこんな日が特別幸せなものに感じられる。大きくてほろほろに煮込んだ牛スネ肉をナイフとフォークで頂くと、もうこれはただのカレーではないように感じる。これがウチのご馳走。お店で焼いたフランスパンにつけて食べる。小さい頃、ご飯で食べていたのと違ってこれも美味しい。ワインの程よい酔いに任せて、一家全員が幸せなため息をついているようだった。

「お客さんが勝手に応募して、みんなの協力のお陰で審査員さんが勝手に一番にしてくれた。父さん喜ぶだけ、楽でいいね。」戯けた様子で父が言う。毎日仕込みから何まで行っているから、一番苦労しているのは父であることに間違いはないし、それに加えてお店の誰一人楽はしていないのだが、今夜の父はいつもにまして上機嫌で何よりだ。

「それじゃあ、鈴音ちゃん、少し早いけどお誕生日おめでとう。」父がテーブルの下に置いておいた黒い紙袋を差し出した。銀文字でdunhillと書かれた黒い厚手の紙袋だ。その中にはやはりまた黒い箱が入っている。

「お父さんこれ高いやつ!」鈴音は吃驚して声を上げてしまった。

「鈴音ちゃん、いつも慎ましく生きてるからたまにはね。」父は慣れない様子でウィンクをした。

溢れ出そうな期待感を抑えるのに苦労しながら、恐る恐るその蓋を持ち上げる。せっかくの高級品をこんなめでたい日に贈られたのに、もしも的外れな品物だったとして落胆した表情を父に見せられるはずがないからだ。だから必然的に恐る恐る中を確認することになる。期待した表情では駄目なのだ。落差の大きな失望感が顔に出てしまう。彼女の強さの源は、そういった心がけにあると言って良い。

蓋を取り上げると、真っ黒の天鵞絨でそれは包まれていた。

その生地に触れた時、鈴音は不思議と心が安らいで、今までの精神的な動揺が落ち着いていくのを感じた。

『きっと大丈夫。』——彼女がこの直感を外したことは今までにない。

黒い革の表紙、これはノートだ。

「嬉しい!」一目見るなり彼女は言った。

「派手じゃないのが好きだと思ったから、これ選んで正解だったわね。」母の英理子が父に言った。

箱から取り出すと、ノートの小口には銀があしらわれている。きらりと光るその様に、鈴音は感動を覚えた。黒の中の黒、それでも輝きがある。心強い気持ちになったのを実感する。この感情は、まるで隣に姉が寄り添ってくれている時を彷彿とさせるものだったからだ。いつも姉の背中を追いかけていた、目の前を姉が歩いている、すぐ目の前を、だから一歩を踏み出し続ける事ができた。そして、その安心感に鈴音は幸福を感じていた。

「お姉ちゃん、今どうしてるだろ。」普段、努めて話題にしないようにしている事がふと口から出てしまった。家族みんな、姉のことが好きだから、家に居ないことを寂しく思っている。

「そりゃ、お姉ちゃんは父さん以上に頑張っているよ。」

姉は都内に部屋を借りて、丸の内に勤務している。見習いのような安月給から始めて、正規雇用になったのが勤務開始から五年目のことだった。

「そうね、笑っていられないくらい忙しいかもしれないけど、頑張り屋さんのお姉ちゃんはそれを幸せに感じてるって、お母さん思うけど。」

出来ることを探し、居場所を作り、求められる存在になるまでにどれくらいの苦労があったか想像もつかない。そんな姉のことを、鈴音は誇らしく思うのだ。大学を卒業して以来、都内で暮らすようになってから姉は帰ってきていない。連絡はあっても、姉自身の話題が出ることはそうそう無かった。鈴音は姉からの弱音を聞いたことが無かった、もちろん強がっている素振りも見なかったが。

「このノート、なんだかお姉ちゃんみたい。気取らない凛としたカッコ良さがあって、でもここみたいに目立たないところがすごく綺麗なの。」両親は顔を見合わせて笑った。プレゼントするのに二人はそこまで考えていなかったからだ。

遠く離れていても縁がある、絆がある。頑張っている人を、想っている人が居る。そんな人たちが在る。

 

強い風が吹いている。向かい風。その夜も鈴音の姉、修理美櫛は西船橋駅北口に立っていた。

駆け出しの頃は、職場に住み込む気構えで日々格闘していた。良い給料で働きたい、社会的な安定が欲しいという気持ちよりも、大好きな同僚のみんなから褒められたいという気持ちの方が強かった。物心ついた頃から何となくなりたかった職業だったが、そんな彼女に原体験がある。大学四年の頃に学科の飲み会で、どうしてそんな仕事に就きたいのかと聞かれたときの事だ。

『私くらい優秀な人間が現場にいれば、日本がほんの少しでもマシになるから。』と返答したのだという。

飲み会での放言はもう覚えていなかったが、卒業後の同窓会でその時の事を聞かされて驚いた。当時、向こう見ずだった頃の自分らしい答えだと思うが、そんな風に言ったんだという事を聞かされても肯ける点がある。以来、自分がこの仕事で働いているのは、これからの日本を担って行く若い魂のために命をかけているのだという自覚が生まれた。大胆で不敵かもしれないが、彼女にはそんな気がしていた。

幸か不幸か、そんな無謀な感傷に浸って働いていたせいで、正規雇用となり職場での存在感も増して行ったのは確かだ。新人の頃に比べて蓄積された経験から、まだ悩むことはあっても、もう迷うことはない。悩むよりも前に、まず考えているからだ。考えて悩むことはあるが、その先に決断がある。決断してからはもう迷わないし、失敗したら非を認めて謝ればいい。失敗する前に修正がきくから、大抵の事は成功に漕ぎ着かせることが出来る。物事は成るようになるのではない。人間には辛うじて、いや、人間には命からがら何事かを成し遂げる力が具わっている。これは彼女が業務における経験を通じて培った信念の一つである。

しかし、どこで歯車が狂ったか、今の美櫛の夜の顔は商売女だ。

朝七時にはオフィスを開け、誰よりも早くから仕事をはじめる。やっと二十一時過ぎになってから退社して何処かで食事を摂り、東西線で大手町から西船橋へ向かう。一晩に一人客を取り、そう安く無い料金で相手をし、何処かの安宿で寝てしまう。住処に帰る事は殆ど無いからキャリーバッグを引いて移動する。出勤前に駅のロッカーにそれは預ける。棺桶の中で生きているような気がするが、死んだ方がマシだとは彼女には思えない。彼女が死んでしまっては、長い目で見た時に国の損失につながると、そんな風に思っているからだ。彼女の代わりは勿論居るだろうが、そうは居ない。居るだろうけれども、探し出すのは難しいだろう。

夜に仕事では首を絞められる事もあるし、首を絞めてやる事もある。相手が望む事はなんだってしてやるし、されてやりもする。物の様に扱われる自己と、それとは別に物の様に他者を扱う自己とが混ぜ合わさって来ると、一つの身体に二つの命を生きている気がして来る。自分が客か、客が自分か分からなくなって来て、それはきっと同じで一つの事なんだと思えて来る。自分の仕事は昼と夜、一体どちらが本当なんだろうか、きっとどちらも自分の仕事であるには違いないが。それで、もう今の自分は、仕事と勉強と遊びの区別がつかない。

仕事の量は増えた。部下後輩の指導が必要になったが、一向に改善されないその連中に対する憎悪が募るばかりだ。奴らは悪意があって、自分の指示に従わないのではなかろうか。お前たちの能力が低いと私の評価が下がるではないか。職場から私が必要とされなくなるのはこのクズどものせいだ。折角、叩き上げでここまで来たのに、居場所を作ったのに、頼られる人材になったのに、こいつらときたら寄生虫だ。そして、苦しんでいる私のことも顧みずに仕事を割り振る糞上司、他部署の無能な課長、職場に火をつけてやりたい。残業なんかこれ以上するもんか、残業は給料泥棒がやることだ、一分一秒も無駄に出来ない。私には見通しがある、段取りをつけられる、計画通りいかない時のための計画を毎朝立てている。そんな優秀な私の時間を、誰も彼もがくすねようとしている。時間泥棒は自覚がないからたちが悪い、だから平気で盗めるのだ。悔しい、私の優秀な頭脳は、お前たちに奉仕するためにあるのではない。コンビニのレジ待ちの客が多いと、其奴らからも時間を盗まれていると感じる。そういう時は、商品を万引きしたくなる、盗んでいるのはお互い様なのだ、盗まれたくなければ私の時間を盗むな。今、私のこの黒い革のノートを盗み読んでいるお前。

コンビニで買うのは専ら酒だった。休日は朝九時過ぎに起き、ロング缶のビールを二本飲み、すぐに眠る。昼過ぎに目覚めたら、赤ワインを開けて半分ほど飲み、また眠る。それを夜にもう一度行い、次の一週間が始まる。よく聞く笊だの枠だのと言うのに、自分が当てはまらなくて良かったと思う。酔えなければ地獄だ、眠れないから。眠れなければ仕事にならない、それではプロとは言えない。この夜の顔を拵えたのは、昼の仕事を続けるためなのに、就寝と起床の時間を固定できないようでは仕事する資格を欠いている様なものだ。熱狂のうちに仕事を続け、その最果てにある未だ何か判らない何かを垣間見る。その為に、僅か一時だけ物の様に扱われる、物の様に寝てしまう。その時だけは全てを忘れられる。その時があるから、再生を毎朝感じられる。毎晩死んでいる女が、これ以上死にたいなぞと望む必要は無いのだ。おまけに再生までもが付いてくる。

これは形を変えた自傷行為。このシステムから外れてしまうと、最早自我を保つ事が出来無い。誰か遠くの人たちの幸せと自分の生活費のために出社すると、その日のストレスを帳消しにする方法が他に見当たら無い。そして彼女は、こんな自分を愛しいと思っている。身を粉にするとか、寿命を削るとか、そういう生き方では無いのだ。自分が死んで誰かを救う日を繰り返す生き方だからだ。たまたま彼女は、今朝も目を開いて起き上がることができたというだけである。

強い風が吹いている。向かい風。駅から拡散して行く方へ向かう男達に色目を使う。何人かと目が合う。彼女は交番の先にある方の、小さなバスロータリーに立つことが多い。まぁ、今夜も小一時間で客が付くだろう。そう思って過ごしていると、ふと周囲に人の気配が途切れた瞬間があった。電車の発着によって人の波に疎密があるから当然なのだが。

声も出ないような大きい衝撃を背部に受けて、彼女は跳ね飛ばされた。その身体を抱え上げて、男が真っ黒なミニバンの後部座席へ押し込んだ。十秒もかからず、車はその場から消えた。

 

「エッ!万葉集の原本!?冗談でしょう?」子桜殉が素っ頓狂な声を挙げた。

習志野軍閥行田駐屯地、通称“団地”。船橋東武第十二位綿摘班の四名は、綿摘壮一からの招きを受け、この士官学校の校門を通過しようとした。応対に出たのは、三十過ぎに見受けられる横柄な軍人だった。黒衣の軍装に、大尉の階級章。大尉は、彼らの事を如何にも軽蔑しているという視線を隠そうともしない。口数の少ないボスでは不味そうだと子桜は気を遣い、事情を説明すると、取次の通信がかかりすぐに上官らしき男がやって来た。階級章は少佐。

案内されたのは行田士官学校の大講堂、その舞台の下手裏にある細長い物置の様な部屋の中。綿摘班の面々と少佐と大尉を含む数人の軍人が座っている。恭一は父から、腹を空かせて来いと言われていた。この夜少し面白い事があるからだという。士官学校通用門でその旨述べると、無愛想な大尉なぞ何故か地面に唾を吐きかけたものだ。一際丁寧で紳士的な少佐がその後の対応に現れた時、子桜は捨てる神あれば拾う神ありの心持ちとなった。

大講堂まで歩きながら、三名の班員はめいめい、この施設に関する他愛無い観念論を戦わせた。鈴井瞬は、通信機器全般とそれらの運用システムに興味津々だったが、こればかりは“団地”の最高機密と言ったところで、少佐は返答の代わりに笑顔を見せるだけだった。だが、鈴井にとってはその笑顔だけで十分当たりは付くのだ。彼は全てを悟ってしまった。瓜生昇は、男社会の縮図のような歪さを指摘し、その不自然な有り様に唾棄せんばかりの悪態を捲し立てた。鉄槍に貫かれた傷は不思議とすぐに快復し、今こそ好調絶頂にありといった様子である。秩序有る暴力と、秩序無き暴力、我々は前者を尊んでいるだけですよ、と言った風な言葉で少佐は物腰柔らかく応じた。挑発に易々と乗らない男の態度に感心したらしく、瓜生はすぐに大人しくなり、冗談めいた言葉を口にするほどになった。子桜は、行田駐屯地の表向きの任務ではなく、まことしやかに噂されている裏の任務に関して探りを入れたりしたのだが、流石に正倉院宝物堂御親封レベルの機密事項である“金塊”について馬鹿正直に情報開示がなされるはずは無い。しかし、鈴井に対して返答しなかった事を気にしてか、それとも瓜生との冗談で気が緩んだか、つい子桜の話に関しては冗談めかして万葉集の原本なぞと口を滑らせた所で案内先である例の物置部屋に到着したというわけだ。

「田子の浦ゆうち出でてみれば、だなぁ。」鈴井は静岡県富士市での思い出へ遡行する。あれは、もう十年近く前、三人でガタガタのオンボロ車で下道をせっせと運転して旅行した日のことだ。

「それは百人一首だろうが!俺は断然あしびきだな、あぁ鴨鍋が喰いてえ!」富士市吉原での郷愁は瓜生の一声で煩わしい現実へと呼び戻された。地獄とは所詮教養人の想像力の範疇にしかない、と鈴井は思った。ビジネスホテルおくむらよ、生しらすの思い出たちよ、さらばである。

「万葉集の原本は、現存しないんです!現存しないと、されているんですよ!いや、まて、それは裏を返せば、あってはならないという…。」子桜は隣に座った綿摘恭一に興奮気味で話す。

「私も知らないのですが、金塊なぞという一人歩きした噂より、私が知る内輪の噂話がそれなんですよ。」少佐は和やかに話題を否定する。

しかし、恭一は百人一首にも万葉集にも興味がないとみえ、というよりもさらに興味を持っている子桜の銚子からの土産話を披露してくれと言った。

「え?えぇ、良いですよ。ご存知かと思いますが、銚子では地元の喧嘩っ早い銚子漁師会と、新興の商工協同組合が対立しています。」そんな事は誰も知らない、軍閥の佐官がようやく風の噂で聞いたことがある程度なのだが。「漁師会というのは表向きで、会頭の船頭一擲は山サ会のトップ。この組織はまあ組織って感じじゃなくて皆んなが皆んなで穴を塞ぐって言うような、前時代的というか拡大家族的な集団です。で、商工協同組合ってのも実のところは、組長の本膳醸太郎が入山田組ってのを仕切っているんです。この連中はまあ企業的で、反社会行為をビジネスみたく扱います。で、報道はされていませんが、入山田組は、山サ会の会長である船頭の娘を誘拐しようと企てたんですよ。ただ、やはりちょっとこれは、I.K.E.A.と比べれば連中は素人の寄せ集めなわけですから、上手くいきませんでした。まるっきり別人を、しかも一度に三人も拐っちまったそうで。」

軍閥の少佐は目を瞑って黙っているが、大尉の階級章をつけた不遜な態度の男は、顔全体に広げた冷笑を隠そうともしない。拐われた三人はどうなったかと恭一が問うと、

「そりゃ、遠洋漁船に乗せて、太平洋でバラまかれて終わりですよ。ただ、明らかに三人いなくなってるわけですからね、同じ学校の同学年の生徒が。で、漁師会は地元にずっと居ますからね、その遺族達に泣き付かれて、さぁ喧嘩だと、こう言う事でドンパチを始めたわけです。商工協同組合の言い分としちゃ、したかどうかわからない誘拐は棚上げで、先にカチコミをかけてきたのはそっちだろうと言う口実で堂々と応戦してるんですよ。泥沼ですよ。こういう話の類は、ここいら船橋にいる我々極道も、一つの事例として学ぶところは多いかと思います。」

「兄さん、随分と詳しいんだね。」直立不動の姿勢を崩さず、しかし侮蔑的な感情を隠そうとせず、大尉が発言した。

「へ、へ、へ、軍人さんコイツはですね、そういうネタを嗅ぎ回るときは姉さんになるんですよ。ねぇ、処女の兄さん。」瓜生が調子良く応じた。「つまり、コイツの趣味は女装って事でしてね、キャバクラみたいなところに巧みに忍び込んじゃ、悲しい男の良心につけ込んでベラベラ喋らせるのが上手いんですよ。先輩方も、そんな盛り場じゃ気を付けて下さいね。あぁ、でも、そんな所に行くのは皆さんご法度ですかね。」

「どちらかと言えば声優ごっこが趣味なんだけどなあ。」観念したような苦笑をしながら子桜が言い返す。「ちょっと、君の趣味を知ってる俺からすれば、押し倒されて処女を奪われるんじゃないかと気が気じゃないよ。」

「だったらだ、ならそれは瞬に護って貰いなさいよお嬢さん。」さも眼中に無いと言われたかのような事に不満げな口調で瓜生が言う。

「殉君、大丈夫だよ、昇にそんな気ないよ。」鈴井瞬が笑って合いの手を入れる。

「へぇ、洒落たスーツの兄さんはどんなご趣味で。」またしても大尉が、侮蔑的に言った。

「女ですよ。」俯き加減に低い声で瓜生が唸る。「私は女の美しさ、神聖さにひれ伏してるんです。愛の奴隷というヤツですな。足元に跪いて、お願いします、貴女の外在化した美の深奥にある内的感情の美に、私めもぜひに交感させて下さい。と言って現金を渡すんです。だから私はソイツみたいな男には全く興味ありませんとも。商売女限定です、彼女らの中にはそれこそとびきりの天使達が、心優しい女神達が混じっているもんなんですよ、神秘ですよ。なぜって、私のようなクズにだって彼女らは尽くすんですから、全く理由が分からない自己犠牲じゃないですか。あの子たちの殆どが、この社会からの犠牲者なのに、まだそれでも己を捧げるんです。」目を輝かせながら男が言った。

「流石は第三のゴーゴリだよ。ここらで一つ、最近あった心温まる話を頼む。」子桜が話を少し進める。

「あのね、殉君、こう伸ばした人差し指をね、クイと曲げる。」と言って瓜生は人差し指だけでこちらへ来いとでも言うような手振りを交えながら話す。「このスムーズさなんだな。ね、こう人差し指をクイと曲げるようなスムーズさでね、四つん這いになった僕が尻を舐めさせている女にクソをひり出すわけだ!」万感の思いを込めて言い放つ。

子桜殉は、そういうのじゃねえんだけどなと言った表情で目を瞑り笑いを堪えながら俯いた。直ぐ何処かからか「ぺん!」とかそう言うような堪えきれなくなった笑い声が発せられた。直立不動の姿勢をとっていた大尉が、宙に向かって吹き出してしまったのである。自分の笑い声に対する照れ隠しがあるのか、吹っ切れたかのような饒舌さで大尉が主張を始める。

「狂ってるよ、あんた。あんたのような輩が、この街を狂わせる。あんたのそのクソの尻拭いを、俺たちがしてるってわけだよ。」

聞き終えるや否や、直ぐ脇の椅子に腰掛けていた少佐が立ち上がりざまに大尉を殴りつけ、彼は一回転弱宙を舞った。受け身を取って直ぐに立ち上がり、今度は憎悪を目に宿らせて直立不動で瓜生を見据える。その脇に少佐が立ち直り、同様にぐっと顎を引いて瓜生たちを見遣る。もう一人控えていた若い准尉もそれに倣った。

「あらぁ〜、これは修道士染みた生活を心掛けてらっしゃる軍閥の皆さんには、少々刺激が強すぎましたかな?」全く事態が飲み込めず、瓜生は軽口を叩く。

「おい、フョードル!こちらはお前さんの話がな、お気に召さねえとよ!」子桜は言うなり立ち上がって、少佐の目を睨み付ける。それで瓜生も気が付いて、立ち上がって大尉を鋭く睨む。

鈴井は、どうなろうが知った事なしという表情をして座ったままだ。馬鹿が勝手に馬鹿をやるというわけにはいかない、飼い犬の責任は飼い主の責任というのは極道の世界の常識でもある。恭一は両名に落ち着いて座るように言った。

「我々は顔潰されたら生きていかれませんから。」東武では滅多に聞かれない、西武譲りの発言を子桜が返した。

「だって今のはねぇ、ボス、全く秩序もクソもねえ暴力だったじゃないですか、え?」

行田団地の軍閥に綿摘壮一が着いているのは、近接戦闘指導顧問として刈根流現代殺法の伝授に務めているのだという事を彼らは知らない。といって恭一は今そこまで伝えてやるのも、余計なお世話になりそうで口をつぐんだ。

「若先生、コイツはおっ始まりそうな状況ですが、単なる喧嘩ですんでね。手前どもの二人がやりまさあ。」少佐が若先生こと恭一に向かって言い、扉の傍まで下がった。師匠筋の壮一の息子に対して、単なる義理で言っているだけだが。

その時扉が開き、まさに今夜の会の主催者である団地の老人永井日出夫大佐と、その影の侍従綿摘壮一が這入ってきた。彼らは、割烹旅館玉川から乗り付けたのだ。

「おう、何しとる。」永井が片手を振って、三人の軍人達にこやかに言った。

彼らは、揃って軍靴の踵を打ち鳴らして敬礼した。小学生が悪さをしている現場を担任に押さえられたかのような印象を受ける。彼らの間を縫って、綿摘壮一が恭一の元まで来て肩を叩く。

「おぉ、恭ちゃん。若い衆、はじめまして。」

恭一は壮一に目礼。殺し屋稼業の父が、葬式へでも行くような格好をしていると言うのは、この頃の記憶にない出で立ちで、なにやら不思議の感があった。それは自己への問いでもあった。自分自身も殺しはする、だが弔った事などない、いつか野垂れ死ぬのが終着点だからだ。父親のように長生きしている極道はそうそういない。円満に足を洗うなぞあり得ない。表舞台から去った者は楽屋で静かに殺されるものだ。父親は憎らしいが上手くやった。暗殺者が暗殺される確率というのは若干低下するし、表舞台から去ったとはいえ楽屋に引き上げたという訳でもない、彼は早々に裏方に徹したのだった。親父は老衰で死ぬのだろう、と恭一は思った。では、自分自身はどんな風に死ぬだろう。目の前で死闘を演じていた男、親父の兄貴分、だから自分にとっての大パパ、狙撃で殺されてしまった。親父のあの装いは、大パパの弔いなのだと今になって気付いた。凶手として生まれるとは、凶手として生きるとは、まず最初に殺したのは自分自身の心だったのではなかろうか。だから、誰の死に対しても動じない、淡々と仕事をする、結果として己が死のうがそれは構わない。こう考えているというのは、何か大切なものが欠落しているからではなかろうか。親父が憎らしい。大切なものを大切だと思える感情が生きていて、大切に扱おうとする行動が伴っている。一方で自分は空洞、虚、無。

しかし、綿摘恭一が人の生き死にを考え始めると、必ずあるところで思考の糸が途切れてしまうのだった。彼自身、掛け替えのない命の喪失を経験しているから。熱せられた飴のように引き延ばされた時間もまたその瞬間に途切れ、彼は我に返った。

永井が何やら指示を出していた。三人の軍閥は出て行った。この後の召集の確認に走らせたのである。永井老人も簡単な挨拶を済ませて、別の扉から舞台袖へと出て行った。

部屋に残ったのは綿摘父子と、第十二位付きの三名だ。壮一が手近の椅子に腰掛け、他の面々にも着席を勧めて話し出す。

「大病患っても煙草をやめない奴。医者にあと一本吸ったら死にますよ、と言われてから吸う煙草の味はどんなだろうね。美味いはずがないだろう、ただ漫然と吸っている中毒者なんてもんは。」話は唐突に、何やら趣旨の読めない話題から始まった。「それが、ボクシング世界タイトルマッチ直前、前日計量ならどうだろう。それも、計量前に、だよ。フライドチキン、唐揚げと言った方がいいか。どうかね。自分の人生を台無しにする食事だよ。食いながら、何をやっているんだ自分はと思いながら、やめられない、止まらない、分かっちゃいるけどやめられない。そういう食事だよ。いったい自分は何のために生きて、死ぬ気で生きて来たのか、あと一歩なのに、ゴール直前にもうどうしようもなく転落していく感覚。」彼が言うのはもちろん、思考実験というか小学生の雑談で話される程度の、もしも、に過ぎない。「これがシャブで何遍も捕まっちまう有名人達はよ、夜ごとその感覚を味わってるんだぜ。いやこれは芸能人に限らない、唯一そういった哀れな芸能人連中と一般人連中が持てる接点ってのは、覚醒剤の快感なんだよ。それは美味いなんて言葉じゃ言い表せねえよな。気が狂っちまうんだよ。実際、気が狂っちまってるに違いないんだ。あれでまだ正気でいられるのは、俺の知る限りじゃたった一人よ。俺が何を言いたいか分かるか?」

綿摘恭一だけは澄ました顔をしていたが、他三名はぽかんとした顔をしていた。子桜殉だけは、そんな顔ではあるものの、首を左右にぶんぶんと振る反応を示した。

「人生を台無しにする快感は、漫然と毎日やるもんじゃねえのよ。死ぬ気で必死に生きている、そんな風な、生活のために生活しているような人間こそ、絶対に手を出しちゃならない。そういう、命の灯火を燃え上がらせるのと引き換えに、足下照らして、一歩一歩進んでいるような人間に、勧めるような事なんてあっちゃならねえんだよ。一発でパタっと人生と引き換えにできないような代物は、あってはならねえのよ。俺が西武の綿摘と呼ばれた所以は、そういうところにあるんだな。」

出て行った三人の軍閥は、会場入りの確認へ行き、当番の人員以外はすでに整列している事を、小林少佐が舞台袖の永井大佐に伝えた。恭一達が控えている部屋に、永井老人の声が聞こえてきた。丁度壮一の話も終わったので、彼らはそれに耳を傾けた。

「僕はね、僕はまだ生きてますよ。余程の事がなければまだ死にません。天命ってものが、僕らにはある、違うかね?」そう言って、永井は少しだけ押し黙った。

講堂に集まった行田駐屯地のほとんど七百人くらいの軍閥構成員達は、息を呑むようにして話を聞いている。まさか、永井大佐がこの基地を離れるとでも言うのではないかと、気が気でない様子である。

「僕は死にませんよ、まだね。でも、殺されちまったのが居るんですよ、軍閥じゃないのに殺されちゃった。」ここで睨むように会場全体を見据えて「狙撃で死んじまったんだ。極道だけどね、俺達が嫌いなね。極道が何人死のうが、関係無いやね、そうだろう?だけど、その人は、君らの先生の大切な人だったんだよ、綿摘師範のね。綿摘師範は、君らの小林師範代の師匠に当たるわけで、この街のために非常な苦労をなすった事を、君ら知らんとは言うまいな。」

舞台を見上げる全員の顔がハッとした。外部指導顧問の綿摘師範と、彼らのほとんど親代わりのような小林師範代との、潔よくも美しい友情のような師弟関係を誰もが目の当たりにしていたからである。無論、綿摘師範が彼らに対して、厳しくも愛情に満ちた指導をしていたことは言うまでもない。綿摘壮一は良く笑顔を見せたし、問いを発して彼らの答えを促そうとしていた。なればこそ、小林少佐は鉄拳制裁という嫌われ仕事を買って出ていたのだという理解を誰もが出来た。

壇上の永井大佐は、後を小林少佐に引き継いだ。小林少佐から説明がなされる。

「おめえらには言ってたな。殺し、殺される時は雨模様のように予想がつかないと。今夜は師範先生に代わって俺たちが、大きな弔いをする日だ。」

綿摘壮一は、舞台からの声を聞きながら、部屋の中にいる我が子とその部下たちに話を続けている。

「そんな事を思いながら、結局は自分の人生台無しになんかそうそう出来やしないんだ。食わせてかなきゃいけない人間を抱えるようになれば猶更、な。だもんだから、こうして、こういった鶏を卵の時から手塩にかけて育てて、自分の半身ほどって感情が生まれてきた所を、絞めるのよ。自分の代わりに、自分も同様って思える存在を台無しにして、これを食うんだ。格別だぜ、これは。はじめて食う時には、涙が流れるもんなんだ。これをやらされて泣かない奴はガキ以下だ。ガキだって泣くよ。泣きながら、美味い美味いって食うんだ。こんなもん毎日は食えねえよ。六年だ。小学生が中学生になるくらいの期間。中高一貫校通いの我が子に下の毛が生えて、受験戦争で殺し合いを終えるくらいの期間だ。その間、みんなで百羽位飼うんだよ。一年もすれば顔の区別がついてよ、性格まで見えてくるようになる。そしたら名前を付けてやるんだな。一羽一羽を特別扱いしてやりたくなるのよ。」他所で飲んできている壮一は、軽薄な距離感を取ろうとはせず、さらに随分と饒舌だった。ここで声の調子を低くして「大典の弔いに、今日は四年物を食わしてやる。俺だって、猶更つれえよ、あと二年は一緒にやれたはずなのに。大典を失った気持ちと全くおんなじだ。」

話が終わってからは、会場騒然のばたつきがあり、状況は怒涛のように進行した。大きなうねりのようになって動く軍閥構成員たちのきびきびとした様子。ソファに腰掛けて、ただじっと光を見つめているかのような父、壮一。話が終わって、永井大佐は彼のもとに戻って来た。長椅子に腰掛けて、大きな書籍を黙って読んでいる。綿摘恭一とその第十二位付きの三人、誰も口を開こうとしなかった。瓜生なぞはもう疲れてしまったかのように見える。鈴井はこの後の御馳走を楽しみにしている様子だったが、元より口数が少ない。子桜は、生きる伝説の壮一を前に緊張して声も出ない。

「恭ちゃんは覚えてるかな。」遠くの光を眺めるような目をして壮一が言った。「狙撃手に狙われたらどうしたら良いか。」

恭一の表情は、あの時と全く変わっていないように、父の目に映った。今度は、何のこと?とでも言っているかのような表情だが。眩しい笑顔のこの子に先立たれたく無い、その一心で掟を作り上げたのだ。

それからしばらく、また誰一人、話をする者はなかった。大典の献杯に出された唐揚げは、涙が出るほどとは言わないまでも、それは美味だった。瓜生は大いに舌鼓を打ち、子桜よりも鈴井の方が熱心に相槌を打った。すでに鈴井は、似たような料理を自分の手で拵えたいという思いを心に宿していた。恭一は遠くに、一際大きく肩を震わせて、涙を必死になって拭いながら箸を動かす大尉の姿を認めた。

 

明くる日。

市内在住のスロッター五十嵐義阿は、この地に住む人間として唯一、大禍の予兆に苛まれ続けている。それが一体何なのかは知る由も無かったのだが、スロットでビッグボーナスが引けない日々は、依然として続いている。この日もジーンズに白のTシャツ、サンダルというシンプルな装いをして、何日続いたか数えるのもやめたが、レギュラーボーナスの百枚程度のメダルを換金し、ブラブラと帰路についていた。店内滞在時間は五分に満たないが、日給二千円は厳しい。無論、不調前の稼ぎが蓄えてあるし、贅沢な生活をしているわけではないから、まだまだ暮らして行かれるわけだが。それでも、先の見えないトンネルの中にいて、周りが霧に包まれて、自分がトンネルの中に居るのかすら分からない、前進とも後退とも判然とせず身動きが取れない、いつになったら晴れるやら助けが来るやら分からない、そんな精神状態が一番やり切れなかったのである。

「おむすびさん!」

遠く背後から声を掛けられた五十嵐は、ギクリとしてその場に立ち止まり、ゆっくりと振り返って言った。

「五十嵐ですよ、やめてください、そう言うのは。探してたんですか。」

「や、失礼しました。いえいえ!見かけましたんでね、つい、ね。」愛想の良い笑顔とともに五十嵐の元へ駆け寄り、そう言ったのは子桜殉である。「もう今日の稼働は終わりですか?時間あれば、ちょうど昼過ぎですし、大神宮下のサンサーラでカレーでもどうですか?」

五十嵐は探し回ってたくせにと言い返してやりたい気持ちだったがどうせ、会いたいなと思った時に会えるのがおむすびさんじゃありませんかとか何とかまた言われて、憂鬱な気分になるのは自分の方だろうと思い直し、ただ頷いた。道すがら、取り留めも無いような話ばかり聞かされたが、熱っぽく喋るこの男の話を聞き流すのは嫌いではなかった。自分の知らない世界を垣間見れるというのは、少しだけ生きた心地がする。一日の余った時間を図書館で過ごすだけ、と言うのに比べれば本当にたまにだが、こう言う時間は悪くなかった。この日子桜が話したのは、アンデルセン公園で見た一部始終だった。特に、目を奪われた少女、ともすると心まで捧げるに等しいような印象を抱いた少女について詳しく話した。海老川を越え、二人がカレー屋に着くまで長いと感じることはなかった。

仄暗い店内は落ち着いた内装で広く、二人は窓際のテーブル席に向かい合って座った。子桜は五十嵐にソファ側を勧め、自分は椅子に腰掛けた。

サンサーラにはクラフトビールが置いてあり、それを飲まされたが、昼間のビールはやはり格別だと思った。しかし、五十嵐はこの店で、少々驚かされる光景を目の当たりにした。子桜からは大ジョッキを勧められたが、味が濃過ぎて飽きてしまうので、中ジョッキで種類を変えて二杯飲むことに決めた。子桜もそれに倣うことに変えたが、一杯目は大ジョッキで注文した。運ばれてきたビールを、子桜はなんと一口でほとんど飲んでしまった。これには五十嵐も、内心驚いた。味わって飲むようなクラフトビールを一気で飲んでしまうなどと、ちょっと考えられないことだった。似たような光景はこのしばらく後にも起こった。

五十嵐が中ジョッキ一杯目を飲んでいる、まだ中程度。飲み干した大ジョッキに付着した泡が落ち着くのを待ちながら、子桜が何とはなしに言った。

「もう、十年くらい前の女友達、栃木に住んでいたんですがね、実際に会ったことはないんですがよく話したりして、顔もあまりよくは知らないんですけど、とっても良い子で、独り身だった自分としては千葉と栃木との距離が恨めしかったくらいなんですけど、そこはまあやはりここは三番瀬ですから諦めてたんですけど、その子がある時こんな話をしたんですよ。」

五十嵐はジョッキに口をつけたままで、子桜の問わず語りを目で促した。いつもの陽気な語り口とは一線を画す、どこか暗い様子がした。子桜は店主に二杯目をやはり大ジョッキで注文してから、話を続けた。

「その子、当時はもうすでに母親と二人暮らしだったんですが、小さい頃父親に連れられてパチンコ屋で遊んでたそうなんです。まだ小学校に入る前だったんだそうで、なかなかヒドい話じゃないですか。遊んでたのはその子じゃなくて、父親の方なのに、それもそれなりの金銭をはたいて。父親がパチンコ台に向かっている間、その子は店の中をウロウロしたり、漫画を読んでみたり、お年寄りと話をしてみたり。で、似たような境遇の、同い年くらいの女の子と仲良くなったんですって。休日に連れられていくと、たまにパチンコ屋で顔を合わせて、どちらかが帰るまで一緒に過ごしたそうなんです。で、ある日、その子が来なくなったんですって。成長して振り返ってみれば、その子は当時誘拐されてしまったんだなって、報道されているのを見て感じ取ったんだそうですよ。これは有名な事件なんで、駅や交番に張り紙をよく見かけるやつです。五年おきに県境の河を跨いで交互に女児誘拐を繰り返していたから、関連性の特定がずいぶん遅れた、連続誘拐事件ですよ。彼女からその話を聞いた時、私の人生は決定的に変わりました。」暗くなった子桜の表情がより一層の悲しみを帯びた。

店主が子桜に二杯目の大ジョッキを持って来た。受け取るなり彼は、それをぐっと半分以上飲み、息をついた。彼は酔いたいわけでも、酔っているわけでもない。早飯早糞芸の内というのが教義なのだ。

「顔なんてろくに知らない、だけど友達以上恋人未満。大切な人がこの世から理不尽に去ってしまう、残された人間の気持ちがほんの少し分かったんです。幸運ですよ、擬似体験なのにこれほどの危機感と使命感を得られたんですから。以来私は、こんな風に探偵家業に勤しんでいるんです。」そして声の調子を一段と落とし、やや身を乗り出して言った。「五十嵐さん、この船橋で、妙な失踪事件が連続して発生している。決まって商売女が、無断欠勤して、住んでいる部屋の様子は全く今までのまま姿を消すんです。こんなやり口だったとしても、プロじゃないですよ。いくら商売女であったとしても、堅気相手にこんな手当たり次第ってのは。一体、何人消されたのか。船橋犯罪史上最大の汚点です。被害者が被害者だけに、捜査もろくにされていないから、誰も気付いていないかもしれない。今日、せっかくお会いしたから、こんな話をしておきたくて。まだ誰にも話していないんですが、じきにウチの連中で暴こうと思っているんですよ。それを知っておいてもらいたかったんでしょうか。」

五十嵐が一杯目のジョッキをようやく飲み終える頃、子桜が注文したポークカレー大盛りと、五十嵐のビーフカレーがやって来た。小皿に福神漬けと、アチャールという玉葱の酢漬けが付く。玉葱の辛味が残っていて、刺激的な薬味である。

子桜は大盛りのポークカレーを、親の仇のように食い始めた。さっきまで自分が体験した事を饒舌に話していたのに、食事が来るなりいただきますと言ってから猛烈に食している。順手にスプーンを持った手と、咀嚼している口とがずっと動き続けている。三日三晩食わなかった人だってこんな風にはなるまい。それに何だ、このスプーンの持ち方は。隠された宝の地図の秘された印を読み取って、何が埋められているのか日が暮れるまでに拝みたいという夢追い人の歓喜で食っているのか。あるいは、夜明けまでに死体を埋めなければならないと、スコップで穴を掘っている人夫の腕力で食っているのか。はたまた、これは鳥が空を馳け、魚が水に踊るような至極自然な食い方なのだろうか。いやいや、彼は見栄で食っているのだ。一杯目のビールジョッキも飲み干すし、一皿のカレーライスは誰よりも早く食いたいという質だった。

五十嵐は、目を伏せていた。子桜の食いっぷりが、何か見てはならないもののように思えたからだ。あんな好印象の、人当たりの良い、嫌味なところの無い人物、危機感と使命感で突き動かされているのだと言っていた彼に、何故こうも浅ましいような面が剥き出しになるのだろうか、何か暗い後ろめたいような気持ちにさせられたのだ。五十嵐は口数の少ない男だ。だから、思うところは多い。子桜の話を聞くのは好きで、心の落ち着く時間を、ごくたまにだが過ごした気がしていた。

五十嵐は思った。何故、今日なんだろう。どうして、カレーなのだろう。この男の本心は、一体何を思っているのだろう。今日、自分と彼とを巡り合わせたのは何なのだろう。違う、自分が彼に巡り合わせなければならないのは誰なのだろう。そして、この街にこれから何が起こるのだろう。口数の少ない男が、自分自身との対話を始める。対話を進行するかのように、無意識にスプーンひと匙のカレーを口へと運んだ。もう、その時には、目の前の男の皿の上はきれいになくなっていた。口数の少ない男の心から、叢雲が晴れる。その晴れ間に、形作られた言葉の姿が見え、ぽつ、と口からもれた。

「あなた、そのお嬢さんに、近々会えるんじゃないですか。」

「ん、え、何です?」子桜は没頭させていた意識をカレーから逸らした。

「お嬢さんと会いたいですか?」それはアンデルセン公園に居た少女だ。

「あんな小さな子が、あんな所でどうするのか、気になってはいますが。」

「待っていれば、きっと来ますよ。きっと来ますよ。」

「待つだなんて、ねぇ。あ、ビールください。」子桜は三杯目のビールを注文した。

だが歯車には噛み合う機構が必要だ。

 

当事者を除き、この街に実際に起きている異変に気付いたのはI.K.E.A.が最も早かった。そのはずだ。誘拐ビジネスのプロ集団のお膝元であるこの船橋で、連続失踪事件など“起こり得ない”ことだからだ。それに、国際誘拐企業連合の日本における本拠地が船橋に置かれている理由は、各国の要人を亡命させるための中継地だからである。密かに海路からやってくる顧客を、千葉シティが世界に誇る整形技術で別人に仕立て上げ、目的地へ送り届ける。届け方は海路もあれば空路もあり、顧客の懐具合で決められるが、別人として生きる彼らが選択するのは専ら成田発である。したがって、連合が船橋で行っているような誘拐ビジネスなぞ一種の狂言であり、本業をこそ見咎められないようにするための偽装である。難民や移民を大規模に船に載せて労働や性的搾取に利用しているのは、黒海沿岸や地中海南岸の支部で行われているから、こんな極東の湾内でわざわざ細々とやる必要はない。要人一名あたり五百万ドル前後の商売というのは、日本支部総帥のクロエ・ド・リュミエールにとって退屈そのものといったところではあるが、その倦怠感もまた組織の維持と意義のためには必要なものであり、つまりクロエにとって仕事とは退屈する事であるというわけだ。なればこそ、退屈凌ぎに命を賭けてやろうという気にもなっているらしい。

船橋市内での多発が推測される失踪事件は、今やクロエの趣味の一つとなった害虫駆除、これを日課のようにしているI.K.E.A.がいち早く察知したものだ。職業柄、彼らにしか知り得ない情報に、妙なノイズが混ざっていた事に気が付いたとでも言うべきか。しかし、動きの目立つ同業組織を暴力で説得あるいは退場させるのならばまだ出来ようものだが、各地で目立たないように凶行を重ねるローンウルフ型の犯人を割り出すのは連合の得意とするところではない。国際誘拐企業連合の威信にかけて探し出さねばならないのだがその解決の糸口が見えず、クロエの側近オーギュストが報告する口ぶりも明らかに歯切れが悪い。

クロエは、白磁のように澄んだ素肌に暗い表情だけを纏って、オーギュストからの切れ切れの報告を聞いている。クロエはオーギュストに目を合わせながらも、さらにその遠くを眺めているようだった。この眼差しが、いつもオーギュストを苦しめる。オーギュストには解るのだ、彼女が自分の中に別人を見ているという事を。彼女が身体を許すのは何人も居たとしても、心を決めているのはたった一人で、それが自分では無いのだという事を。船橋界隈での連続失踪事件の解決に向けて何の進捗も無いという失態に加えて、触れれば壊れてしまいそうなクロエを決して抱きしめることは出来まいという劣情が、瞳から溢れてしまいそうになる。クロエはその様子を見ているのか、見ていないのか、どちらかも解らず混乱に拍車がかかる。

広い執務室の大きな机から離れて、壁際に正座をしている大柄な男が一人。黒い革で出来た拘束着が、彼を後ろ手の前傾姿勢に背伸びさせながら地面に戒めていた。情事の一部始終を見せつけられ、猿轡を噛まされた素顔に大粒の汗を垂らしながら、この男もまた泣き出してしまいそうなほど心を踏みにじられていた。しかも、その状況に悦びを感じながら。長時間の見せ物を与え終えたクロエが、床に降り立って素足で歩み寄ってくる。

彼女の虚の視線を向けられながら、安藤玲は全身でてこの原理を再現するようにして、ただ一箇所の作用点に起こり続ける痛みに耐えていた。その痛みを和らげるように、クロエの細長く伸びた脚が鎌首をもたげる。内腿がきらりと光を反射する。爪先を押し当てられて、安藤はくぐもった吐息を発する。鞭のようにしなやかな足蹴りが其処を一閃。安藤は絶叫した。いやこれは咆哮だ。

『誘拐犯探しには探偵が要る、それも人探しのプロが。』軍閥に解決を委ねるなぞ実際問題不可能であるから、クロエは苦味走った表情で考えている。『今ここでのたうっている暴力装置に何の価値があるだろうか、協力者が増えるほど離反の可能性も増えるなぞという理屈も、後付けの気紛れだ。ならば、こちらの意向に気付くことなく、藪の中をただひたすらに嗅ぎ回るだけの追跡者が必要だ。』

足元に転がるあわれな男。先ほどまでは胸を張っていたのに、今はその頭部を彼女の脚の方に向け、後ろ手になった土下座のような恰好をしている。逆位置のタロット、という印象がクロエの暗い心に強烈な影響を与えた。タロット、大アルカナの像が眼前に殺到する。愚者、魔術師、女教皇、女帝、教皇、恋人、戦車、正義、隠者、運命の輪、力、吊るされた男。吊るされた男、今は愚者ではなくこの像を掴む。死神、これは自分の印象だ、掴んでいる、既に。節制、悪魔、塔、星、月、太陽、審判、世界。煩わしい。吊るされた男はあの公園にいた、その像が鮮明になる。だが、男は吊るされただけではない。狙撃、そして自ら吊るされた。槍の一擲。アンデルセン公園、デンマーク、オーデンセ市、自律稼働の追尾型投擲器。自律稼働、支配権は今誰にある。追尾型。

『引金であり用心金であり照準でもある、そういう機構なのだとすれば。』引き攣った笑みが目に焼き付いて、オーギュストの男性自身はたちまち委縮した。『我々はInternational Kidnapping Enterprise Associationだ。児童略取は飴で釣ると相場が決まっている。』

歯車と歯車は噛み合い、終焉に向けてまた一つ別の車輪が軋みながら動き出す。

 

第六章   緊求追急   了

船橋ノワール 第五章

作戦開始の時刻まで、まだ余裕がある。そこへ、向こうからセダンが接近して来た。先に到着していた第十一位の面々である。

「待たせるんじゃねえよ、新入りども。」運転席のドアを開けて、大柄で筋肉質な男が眉間に皺を寄せながら言い放つ。タンクトップに、デニムを合わせた色黒の男。いや、男たちが車内からぞろぞろと出てくる。さらに、向こうにももう一台停車している。

第十一位側の認識としては、自軍の数合わせ程度にしか第十二位を見ていない。また、序列的にも見下しているのは当然だった。そして、のこのこやって来たのは理系学部にたまたま混じったような文系連中が四人だ。三人の手下は全員眼鏡を掛けている。落胆と苛立ちが手に取るように分かる。熱せられた飴のように延びた時間の中で、綿摘恭一が考える隙も与えずに、瓜生昇が電光石火で結論付ける。

『此奴ら揃いも揃って野球部出身で御座いって風貌だが、同じ高等教育まで受けた人種のようには到底思えない。それもそのはずだ、俺達が安定した生活を掴み取ろうと当て所もなく勉強に明け暮れていたその頃、此奴らは遊びの延長みたいな部活で散々に人生の夏休みを謳歌して、さて引退したと思ったら下の根も乾かないうちに(下で間違いない)推薦入試で進学バンザイと来やがる。挙げ句の果てが、俺らも此奴らも同じで仲良くヤクザ稼業とは、そんな結末を一体誰が決めやがったんだ。』誰が決めたか知らないことを、瓜生昇は即断で決め付けた。そしてこの男は、一度きりの人生だから、どんな挑発にも応じる。果たしてそれが挑発で無かったにせよ。

「アンタ、そんなことより靴紐が…。」まだ自己紹介も済んでいない大柄の男は、そう言われてジッと足元を見つめる。スニーカーには特段変わり無い。しかし、ふと視線を上げた先にあった光景は、異常だった。名前も知らない新入りの手中に、小型のリボルバーがいつの間にか握られている。目が合った瞬間に瓜生はS&W M60の撃鉄を起こし、一同がその音に気付いて一斉にそちらを注目する。

「バァン。アンタ死んだぜ。」引き金を引けばいつでも殺せる。スーツの袖に隠した電動アームが静かに目覚めたのだった。この場にいる誰かが死ぬまで、それが再びの眠りに就くことは無い。これが、瓜生昇のシューゲイザー。

「手前、何向けてやがる!」金縛りのようになりながら、半狂乱で男が叫ぶ。今までは、いつだって銃口を向ける側だったから。第十一位付きの面々は、まだ銃を身に付けていない。完全に想定外の事態である。まさか、身内に銃口を向けられるとは。

「五月蝿え!こちとら予定より十分も前に到着してんだ!第十一位の序列が上ってだけで、手前達そのクソの周り飛ぶ蝿ほどの存在が!何を上からデカい口ききやがる!無礼に死で報いる礼儀を拝まされてえか!」序列が上であるならば、その構成員たちも上役となるのだが、今この場の瓜生の狂犬さながらの気迫に第十一位付きの一同固唾を飲んでいる。此奴らどう言う教育を受けてるんだと思いつつ、第十二位自身が船橋に来てから日が浅い事までは頭が回らない。

「分かったから、向ける相手はこの中にいる連中だろうが…。」男が、怒り半分呆れ半分という顔で柵の向こうを親指で示す。

鈴井は運転席から姿を現さない。子桜、瓜生に『よっ、肝っ玉』と目配せ。起こした撃鉄を元に戻した瓜生は、しかし袖の下にある仕掛けが露見した以上、次に死ぬのは俺か連中のどちらかだなと刹那的感情に囚われた。西武に居た頃には、親兄弟からこのような仕打ちを受けたことはないのだ。ついこの前まで睨み合っていた兵隊同士だから、東武に来てからは外様扱いすらされない現実を突き付けられた。怒りの余りつい暗中必殺のエフェクターを作動させてしまったが、これはそうやって見せびらかすものでは無い。見せた以上は、死んでもらうか死ぬしか無いのだから。後悔しても反省しない、それは悧巧な奴がすることだ。

瓜生が昂ぶった感傷に浸っている間に、恭一が簡単な挨拶を先方と済ませる。第十二位から直々というのがどうやら驚きのようで、今度は逆に第十二位本人が非礼を詫びられる側に回った。束になっても機関銃には敵わないと思っているのだろうか。腕っ節と捨て身が取り柄のような男たちは、対弾素材の上着を羽織ることすらも恥じ入るといった有様。第十一位の捨て駒上等という気概すら感じるのは、東武構成員らしからぬ班員だ。東武といえばもっと狡猾で卑劣なのが常だが、義竹は上手く部下を手懐けているらしい。その代表格は大内と名乗った。実は瓜生が勝手に決めつけた通り、野球部出身で陽気な好青年だったのだが。

「仁さんは、今日別行動です。兵隊は俺たち義竹班の六人と、そちらの。」運転手の鈴井を除いた三人、併せて九。車両から出て、西部劇のようなガンベルトを腰に巻き終えた彼ら。どうやら第十一位付きの義竹班は、何らかの拘りで使用銃器は回転式拳銃で統一しているらしい。廉価で扱いやすいとはいえ、これが正気とはとても思えない。瓜生はダブルブレストの上着の背面腰部にホルスターを取り付け、後部座席に仕舞っておいたGSh-18を差し込んだ。子桜は弾薬の入ったショルダーバッグを担ぎ、ルガーを抜いた。綿摘恭一は代替器だったミネベアM9に続いて与えられたAR15を後部座席から引っ張り出した。音に聞くその長物を見て、義竹班の男たちは唖然の様相である。漫画でよく見る日本一有名なアサルトライフルの実物だ、引き取る時には恭一自身も同じ表情をしていた。いや、その時は余りにもあからさますぎて、これからの愛銃にするのが気恥ずかしい思いの方が強かったかも知れない。

 

「M4カービンをベースにバレルは14.5インチのミリタリーモデルながら、フルオート射撃は勿論、使用弾薬を5.56から9mmパラベラムにカスタマイズして汎用性を上げてある。それだけなら、コルト 9mm SMGで済む話だが、コイツはガス圧作動方式って所が売りだ。ガスブロックを兼ねる照星は9インチミッドレングス。12インチライフルレングスの用意もあるからお好みで。」漆黒のライフルを披露しながら、銃匠さかもとのマスター坂下竜次はそう言った。小型で持ち運びやすいM9はこのまま手元に置いておこうと、恭一は思った。この銃は、それこそ戦争用とも呼べる大袈裟な印象を受ける。その銃を手に取ると、意外にも軽量だ。

「強度と軽度を維持するために、バレルには硬化テクタイト複合鋼を使ってある。流石にそれ以外の部品は炭素樹脂にしたが、高くつくよ。」自信を持って硬化テクタイト複合鋼が扱える職人は国内でも指折りである。素人が此奴を使って殴っても、相手の方はあまりの軽さに戸惑うことだろう。この銃匠、表向きはお好み焼きが楽しめる居酒屋を営んでおり、その特殊合金は此処の鉄板やヘラにも使用されている。銃を構え、高くマウントされた光学照準器を覗く。

「銃床は楓。レンズはニコン。此奴はサービス。」M203がテーブルに乗せられた。なるほど、だからわざわざガス圧作動方式と言うことか。しかし、こんな物までくっ付けておいたら、味方から使うのを期待されるようになるからダメだ。擲弾発射器の二つ名は遠慮したい。持ってきた分の金を払い、残りは後日連絡してもらう事にして、店を出た。

市役所出張所の海堂は、届け出された新規登録銃器を見るなり怪訝な顔をした。本来米国で民間向けに販売されているAR15は、単なるライフル。子桜達が持つようなハンドガンとサイズこそ違えど、どちらの性能も一発ずつ手動で引き金を引く必要があるという点で同じだ。しかし、添えられた銃籍登録申請書は黄色の用紙、特殊の二文字が赤字で印刷されている。この銃は一度引き金を引けば、連続射撃が可能な改造銃という事だ。同じ型で軍用のM16がおいそれと手に入る筈がないのだから。この点に関して厳しい規制のある国内に於いて流通経路なぞ皆無だ。よしんば入手できたとして、いずれは細かい交換部品まで用意できなければならない。にもかかわらず、この銃の匂い立つような艶やかさは何だ。前回届け出された、陸上自衛隊のお下がり染みたM9とは訳が違う。そうこう考えている間に、受け皿へ免許が提出された。この通りに従うしか、仕事のやりようがないのだ。『アンタ、こういうの初めて?』とは、まさに今、海堂自身が置かれたこの状況に他ならなかった。

瓜生達三人はというと、乗車前の昼、事務所でしきりに触らせてくれだの写真を撮らせてくれだのと騒がしかった。特に子桜は、綿摘家に伝わる武術がなんだの実包の呼び名の由来がかんだのと興奮冷めやらぬ様子で捲し立てていた。鈴井の琴線に触れたのはやはり、この銃を所持しているのはデュークがどうだのパチーノがこうだのと、気持ちは分かるが的外れな比較ばかり並べ立てられた。

 

こんなに早く装備する機会が来るとは、と綿摘恭一は自身の皮肉に苦笑する。何年かすれば、この銃から離れられないような、兄弟以上夫婦未満の関係になっているのだろうか。想像出来ないし、実際その別れはすぐに訪れるのだが、どちらも彼には思いもよらない。見る者を様々な表情に惑わす兵器を肩に担ぎ、彼は門へ向かう。アンデルセン公園北ゲートは半壊しており、侵入者を拒まない。第十一位付きの男達はあまりジロジロと機関銃を見ないようにしながら、先ほどの小競り合いでは第十二位側に華を持たせる形で終えて良かったと思った。先日の打ち合わせでは、ここをずっと前進できれば芝生の広場があるとの事だ。大規模な攻防になるとすれば、それ以降だろう。がらんどうの廃屋となったジェラート売り場周辺の索敵を済ませる。前方遠くに馬鹿でかい像が立っているのが不気味だった。

それは、平和を呼ぶ像。昭和六十一年、船橋市民が世界の恒久平和を願って、平和都市宣言をした記念に建てられたものだ。願いは残念ながら届かなかった事になるが、その像は今から始まるであろう戦火を拒むかのように屹立している。燃え上がる太陽を主題にしたと一目で分かる意匠も、此処船橋に於いては悪夢からの使者以外の何物でもない。この一線を超えたら後戻りできないと、誰もが思って固唾を飲む。平和を呼ぶ像が纏っている、そう思わせるだけの異様が、いや威容が彼等の胃の腑へ一つまた一つと石を入れてくるようだ。おそらく、一人の男を除いて。

「おー、芸術は爆発だの人が作ったのか。ボス、グレネードランチャー無いんすか。」碑文を読んだ瓜生昇が面白半分に軽口を叩く。無かった事にしようとしていたM203の事を指摘されたようで恭一はギクリとした一方、この発言には義竹班の強面一同も呆れ顔となった。野生児の好奇心だなどと好意的に解釈する者はおらず、その場に応じた行動が取れない社会からの落伍者の認識が、第十一位側からなされた。

「ねえねえ。」あまりにも場違いな少女の声が、彼らの一瞬の気の緩みと言う寝耳に水を差し、肝を冷やされた全員が息を飲む。そちらを振り返ると、美しい一輪の黒百合の様な少女が佇んでいた。13歳とも8歳とも見える容姿。襟の白い、黒のワンピース。手を後ろに組み、上半身を楽しそうに揺らしながら、満面の笑みをこちらに振りまいている。

「かくれんぼしましょ。」厄介事は何故連続して起きるのかと、第十一位付きの班長、大内は思った。従来の薄情で暴力的な東武の構成員なら、目撃者として始末してしまうだろうが、彼らはそうしない。ただ、この少女が好奇心で付き纏って離れないとなると、班は壊滅しかねない。あるいは、抗争に巻き込まれて死なれでもしたら寝覚めが悪い。そんな事くらいは理解できるから、この娘を門から遠くに離して戻って来ないようにしなければならない。だが、義竹班の男たちが少女に対応するまでもなく、本日一番の厄介者が早速獲物に喰らい付く。

「やあやあ。これはこれは可愛らしいお嬢ちゃん。カークティビャザヴート?なんだそのツラは、かくれんぼはもう始まってるんだ。見つかったら射ち殺される、死んだら終わりのかくれんぼが。ほら、俺が目をつぶっている間に行けよ。ひとーつ、ふたーつ、」これに肝を冷やして、あどけない少女はすぐさまこの場から逃げ去るかと思いきやそうはならない。浮かべていた笑顔は今や鬼の様な形相となり、目を瞑って数え始めた瓜生の額に穴が空くかという程睨みつけている。その表情は先程までと打って変わって、顔中に深い皺が刻まれているように見える。第十一位付き達は、これで良いのだろうかとも思いつつ、厄介事は厄介者に任せて置こうと決めた。一方で第十二位側の判断はそうではない。おそらく数秒後には、ひと昔もふた昔も前のヤクザ者の背中に彫られた不動明王が如き形相でガンを飛ばしている少女と、一度言ったら撤回しない天才と狂人の狭間を揺れ動くやじろべえとが目を合わせる羽目になる。その状況を飲み込み次第、瓜生はGSh-18を抜き撃ちにするだろう。まだ付き合いの日が浅い綿摘恭一ですらそれくらいの予想がついた。

「お姫様ご機嫌よう、御伽の国に現れた貴女は紛れもなくここの姫君。どうか此奴めの無礼をお許しください。私めは子桜殉、こちらにいる騎士殿の衛士を務めておりますれば、ここは危のうございます。」狩人の反応で瓜生の絡みに割って入り、子桜は俺に芝居を合わせるように目配せした。俺は、彼女と同じ目線まで腰を落とし、簡単な自己紹介をする。綿摘恭一、三十三歳、趣味は読書。俺の声も届かないような満足げな表情をして、少女は子桜に向けて笑みを浮かべている。それが俺の目には、まるで娼婦のような妖艶さに見えて不気味だった。何故そのように見えるのか、その時は見当もつかなかったが。

「ねぇ、おにいさあん、かくれんぼしましょ。」一際甘い声を出して子桜を誘う。

「姫君、今の我々がその大役を仰せつかるには些か荷が勝ちすぎておりますれば、後ほど時間ができました折にお望みのまま。」義竹班の男達も、話している本来の意味が判然としないこの会話を通して、子桜殉と名乗った男が演じる役回りが何を意味するのか分からずにいた。瓜生は瓜生で、目を瞑ったまま数えるのを止めて待っているこの状況を、自分自身でもよく分からないでいた。それでも目を瞑りながら、この状況にさらに子桜が介入したという事は、自分の立ち回りが賞賛されて然るべきだと確信したのではあるが。もしかしたらこの後、二人で手を打ち鳴らし合えるかもしれない、と。

少女はにこにこした表情で、門の方へと去って行った。

「殉君、もう目え開けて良い?」

「キスするわけじゃねえから早く開けろ。」目蓋を開いた瓜生は、子桜が片手を挙げているのを見た。その手をピシャリと打ち鳴らし、そのままポケットからドライバーを一本出して咥え、美味そうに火を付けた。

ちょうどこの場所で、道が分かれている。直進する本道と、右手に折れる路地は道幅が狭く木々が繁っている。義竹班一同は、ここで二手に別れる提案をした。我々の厄介払いをしたかったのだろう。本隊が正面から押し、遊撃隊は搦め手から隠密行動で、最終的に挟撃しようという算段だ。敵の主戦力を十分引き出した上で、機関銃の一斉掃射が最も効率的だった。戦力的にそれが最善だったし、綿摘達一同で行った先日の打ち合わせではそちらからの迂回路も想定していたため、二つ返事で受け入れる。こちらとしても、鉄火場に対弾装備すら着て来ない命知らずと行動を共にするのはぞっとしない。

「アンタらが、ここぞの時に来てくれることを期待してるよ。」警戒しているのか、波風の立たないような指示が出されて両班動く。

別れてしばらくすると、発砲音が聞こえた。遠くに乾いた音が交互する。六挺の回転式拳銃は支障なく働いているようだ。彼らは、効率的な陣形で前線を押し上げて行っているらしい。こちらは、木々の林の中を進む道ながら、守備の兵隊はどうやら配備されていない。この進路が、我々第十二位側の迂路ではあるが、背面からの奇襲を可能にする一縷の光明となる筈だ。しかし、第十一位付き義竹班の銃声が、この道を進むにつれてどんどん遠のいていくのは若干不安ではある。十分に警戒をしながら、極力最大限の進度で先を急ぐ。分かれた道を、左方向の内回りへ。天気が良く、木漏れ日が快いと思わずにいられない。

義竹班の一同は、像からすぐ先の、枯れた泉を左面へ展開。廃墟になった売店で、駄弁っていた旧西武残党を始末した。この銃声に対する反応は、流石に旧西武と言わせるだけのものだった。そこからは進度を落として、しかし着実に前進していく。タイル張りになっている段々から先へと向かうには、開けた地形が防衛側の有利ではあったが、六人は互いを護るような行動を心がけていた。それは功名や野心からではない。義竹仁の顔に泥を塗らないよう、この日の仕事を終えてから、全員で祝杯を上げるそのためだけに鉄砲を扱っているのだ。およそ東武の構成員らしからぬ毅さを備えた、組織の今後に一石を投じる働きぶりである。すぐ先の小屋に居座る数名の男たちを、外壁から窓ガラスまで纏めて蜂の巣にし、そこへ班でも腕の立つ二人が突入する。ここを押さえ、残るは西側半分メルヘンの丘ゾーン。実際のところ射撃訓練場以外での発砲は嘗て経験したこともなく、修羅場というのは初めてだったが、第十二位の加勢なぞ頼りにせずとも作戦は順調に運んでいた。

その頃第十二位一同は、荒れ果てた散策用の林道をぐっと左に折れ、一度は遠くに聞こえていた銃声の元へと再度近付いて来た。園内の看板に、自然散策ゾーンと区分されているだけあり、管理されなくなって久しい今は暗く鬱蒼とした樹林だ。警戒すべきなのは、西武残党による文字通りのアンブッシュ。幸いにも、ここまでは全くの手薄で、進行速度は極力早めることが出来た。義竹班は健在だろう、発砲は絶え間無く続いている。何度かあった小径への分岐ではなく、四叉路に差し掛かったその時、銃声が一斉に鳴り続け、しばらくしてピタリと止んだ。大勢で連発する必要があったのは、どこかの拠点を抑えるためだろうか。合流を急ぐか、側面攻撃のタイミングを掴むか、綿摘恭一は戦略上に於いても岐路に立たされている。しかし今は合流を見送り、銃声の方角を迂回するように、水溜りのような小さい池の間を縫って進行。あれだけの人数が、ここで全滅しているぐらいなら、もう尻尾を巻いて第十二位側だけでも逃げた方が良い。それに、これだけドンパチが続いた後だから、西武の残党はいよいよ警戒を強めて抗戦するだろう。側面攻撃はその時を待てばよい。天気が良く、木漏れ日が快いと思わずにいられない。

アンデルセン公園を東西に分断しているのが、南北に延びた太陽の池だ。この上に架かる幅六人強の橋が、唯一この東西を結び付けている。この橋は長く、位置取りも高い。義竹班の大内は警戒を強めた。順調だったのはここまでだ。今までは不意打ちで圧せたが、これからは徹底抗戦の様相を呈するだろう。おそらく旧西武の拠点と見える、正面向こうにそびえる巨大な風車が持つ威容に気圧されそうだった。馬鹿げている、ドン・キホーテって柄でも齢でも無いというのに。気力を奮わせて脚に力を入れると、右手前方から銃声。壁を白く塗った平屋建てからのものだ。橋の手すりは柵状で、銃弾からの防御には全く期待できない。平屋の周囲には椅子やテーブルが散乱していることから、元々食堂か何かだったところだろうか。それならば、あそこでも大勢が拳銃片手にこちらの動静を睨んでいるはずだ。そこからまとめて誘き出すことができなければ、折角の機関銃も意味を為さない。

「散開!あの建物からの死角に隠れろ。」

幸いにも平屋は下手でこちら側には丘があり、その上で伏せれば銃弾は難なく凌げる。冷静に対処できそうだった。第十二位の到着を待ち、機関銃で屋内の掃除を任せるのも良さそうだ。作戦の幕引きまでの見通しはついた。ただ一つ、そびえる風車でどのような立ち回りを演じるかを除いて。

綿摘班一同は散策路から外れ、向こうに見える広場へと急行していた。公園東側は先ほどの銃声から察するに、既に義竹班が一掃し終えているはずだからだ。急いでいる理由は、さっきまでとは異なる銃声が遠くで、おそらく公園西側で絶えず鳴っているからだ。力強い銃声が、一秒弱ほどの間隔で続いている。一体、何発撃っている?恐怖のつり橋わたり、綱わたり、ネットトンネルくだり。焦れば焦るほど、向こうの広場までを隔てるアスレチックに足をとられる。ネットとびつき、モンキーわたり、ユラユラネットわたり。ヘビースモーカーの瓜生はゼイゼイ言いながら、何やらブツブツと悪態をついている。一方で子桜は器用に四肢を使って潜り抜けているようだ。V字つり橋わたり、足かけさかさま横進み、ターザンうつり。これで東側ワンパク王国ゾーンに合流できた。ちょっとした達成感を噛み締めながら、額の汗を拭う。

「瓜生が追い付いたら、俺たちはあの橋から西側へ向かいます。ボスは先に、そこのボートハウスから船で裏手へ渡って下さい。」子桜から挟撃の道筋を示され、それに従う。強い銃声は止んでいた。

その頃鈴井瞬は、北駐車場から早々に移動を終え、千葉県立船橋県民の森の自然を満喫していた。ここまで車で一分、目と鼻の先にある。どうせ連絡と回収なのだから、その効率を最大限に発揮するためと称して、束の間だけでも鳴り響く銃声や硝煙の臭い、人間どもの雑念から離れようとした。こういう事全てをひっくるめて任務と捉えると、なかなかどうしてこの現場も悪くない。杉林をサッと横切り、広場に出る。出発前に淹れたコーヒーが魔法瓶の水筒に入っている。リュックサックから組み立て式のコンパクトなサンセットチェアを出し、組み立てる。これの座り心地は抜群だ。実はこの日のために、午前中の食事は果物とヨーグルトという、簡単なブランチで済ませていた。ここで数枚の食パンにマヨネーズを塗って食べるためだ。

都内で一人暮らしのビジネスマンが昼に食べたら自殺でもしたくなるように思わせるようなこのメニューを、喧騒とは無縁のアウトドアでやることに大きな意義があるのだと鈴井は考えている。他に誰もいないこの場所で、他のメンバーにも知らせずに、孤独を噛みしめに来ているのだ。さらなる味付けと言っては何だが、マヨネーズはハンドブレンダーで自作してきた。材料を全て常温にしてから混ぜたので、美味そうに見える。全く、心が洗われるとはこの事だった。

『作戦終了の通信が入って無線アラームが静寂を打ち破るまで、ここをキャンプ地とする。』心の中でそう呟いて、愉快だった。

その他、通信傍受用の計器類は作動してはいるものの、ラジオ番組ほど熱心に耳を傾けようという気も無く、そのため行田にいる軍閥から斥候が放たれていることには結果的に気付かなかった。どうせ野次馬が来ているだろう、程度に認識はしていたのだが。そんな事、今はどうでもよいのだ。スーパーの食パンは柔らかく、マヨネーズは味が濃く、コーヒーは酸味が良く、陽光は空高く。自身がこの環境に溶け込んだかのような一体感に浸っている。だから、瓜生達の殺したり殺されたりという役回りにだって感謝の念が自然と湧いてくる。通信装置を使えば、彼らの状況は分かる。だが、今はその様子を想像するだけで良い。仮に状況が悪かったとしても、こちらまでドンパチに参加して生還者ゼロとするわけにはいかないのだから。

一方、子桜と瓜生は、静かにボートを漕ぐ綿摘恭一を眼下に見ながら、太陽の橋を慎重に渡っていた。走れなかった理由は、橋の中央にタンクトップを着た男の死体が一つ有ったためだ。うつぶせで倒れているから顔までは定かでないが、背格好から大内ではないかと予想される。背中から心臓付近を撃たれたか、赤く染まったシャツの周りに大きな血溜まりが出来ている。他の連中は無事だろうか、そう思った瞬間に気付いた。

「こっちに頭を向けて倒れてるってことは、敵に背を向けたところを撃たれたって事だ。逃げようとしたか?」まさか既に第十一位付きの班員は全滅しているのでは無いかと察し、子桜と瓜生は目を合わせる。

事実、平屋を警戒して丘の上で伏せていた義竹班一同は、気配なく風車小屋から出てきた男によって、一人々々が虫けらのように殺された。一面の凄惨さは、先ほどの大内の比では無い。手足が千切れた者、内臓が飛び出した者、顔が半分吹き飛んでいる者。あるいはそれらを併せた者。この光景を見て、子桜は未知の脅威に対する報道精神に火が付き、瓜生の心臓はこの邪悪に対する静かな怒りに覆い尽くされた。丁度その時、綿摘恭一の機関銃が向こうの白い壁の建物で唸りを上げはじめた。

「これをやった化け物があの建物に居ればボスが危ない。」そう言い終えるか否かの瞬間、子桜の視界に男の姿が映った。

その様子に気づいた瓜生は、サッと銅像の影まで飛び退いて先に発砲した。男は、まさに銃を構えようとしているところだった。一発、二発と聞こえた銃声は、子桜の身体には当たっていないらしい。冷や汗と胸の鼓動が煩わしいが、息つく暇もない。三発、四発。瓜生の援護を受け、何とか子桜は、手近な花壇に咲いた花々の中へ身を隠すことができた。舞い散る花弁は、自分がそうさせたのか銃撃によるものなのか分からない。五発、六発と絶えることなく、子桜の方へ銃弾が浴びせられる。地面をのたうつように、対弾繊維を編み込んだジャケットを砂だらけにして、何とか弾に掠らないように遮蔽物に向かって動いた。瓜生が、

「デザートイーグルだ!」と叫んだから。

およそ5mの高さを持つアンデルセン像の裏に隠れた瓜生からは、敵の様子が良く把握できた。グレーのソフト帽を被り、身に纏うのは漆黒のトレンチコート。年季の入った長い顎髭は白髪の方が多く、右目には伊達男かくやと言わんばかりの眼帯をした偉丈夫。鼻持ちならないジジイが向こうへと、両手の銃を交互にブッ放している。十一発、十二発。執拗に、追い詰めるように子桜に銃撃が続いている。そんな事は考えたくないが、あの二挺拳銃がどちらも.50口径なら装弾数は七発。もう撃ち止めだ。両手の塞がった状態で、弾倉の再装填をどうやるつもりだ、呆けジジイ!

男はアンデルセン像に向けて発砲するのを躊躇っているのか、ずっと向こうへばかり射撃を続けている。十四発目の銃声が確かに鳴って、間。

「殉、今だ!!」十字砲火を仕掛けてジジイを殺る。祈るのは、子桜が既に始末されていないこと、それだけだった。

「応!」体勢を整え直した子桜が、銃声がしていた方へルガーを構える。その老人と目が合った、気がした。実際には目を合わせてはいない。右目には眼帯が当てられ、左目は帽子の鍔に隠れているから。いや、弾切れになったはずのデザートイーグルに目が釘付けになっていたと言う方が正確かもしれない。

『デザートイーグルだ!』そう言ったじゃねえか、昇。何で両刀遣いだって言わねえんだ!子桜は、鉄球クレーンの衝撃染みた銃声から、逃げ惑うばかりで精一杯だった。再装填が一度あったのだと思いながら、銃声の数を数えていた。だから、その得物を両手にそれぞれ持っているという、今の光景を急に信じるわけにはいかなかった、何としても。今、この光景を受け入れたら、何でもありになってしまうからだ。それはおかしい。あんな物を両手撃ちが出来るはずがない。そして、その一方で、どうしても認めざるを得ない、或る一つの伝説を思い出した。

この界隈で“ウィザード級”と言えば、超一流の暗殺者を指すが、その由来は、“魔法使い”と呼ばれた綿摘壮一の通り名、ザ・ウィザードに因む。尤もその名は、結婚後に姓が綿摘に代わる以前、刈根壮一が三十歳前後で呼ばれていたものだが。そして、当時の船橋に居たもう一人のウィザード級、その腕力は魔力仕掛けと称された、百の通り名を持つ“戦神”こと大典而丹。二十歳以上も歳の離れた綿摘壮一を、兄弟と呼んだ男である。六十がらみの綿摘壮一が引退だなんだと言っていて、八十を優に超える大典而丹が、現役さながらの銃撃戦を演じている。

ミイラ取りの心得は?ミイラになるな。深淵を覗く時?深淵もまたこちらを見つめているのだ。では、伝説の殺し屋-グランド・アサシン-と対峙するときの心得は?自問自答する子桜を、瓜生が撃ったGSh-18の銃声が現実に引き戻した。応、今だ。弾切れの二挺拳銃に、もうこれ以上有利な状況を作らせるわけにはいかない。大典の右手に握られていたデザートイーグルは、今その足元に落ちている。そうだ、棄てるしかない。ルガーの弾丸は、盾代わりに出された左腕の袖に当たるだけ。もっと精密に狙わなければならない。大典の右手はトレンチコートの懐へ。あるいは、瓜生の弾丸が、奴の後頭部に命中するのが速いか。しかし奴は、大典は何をしている?翻ったトレンチコートの裏地は、どこかで見覚えがあった。

大典は右手に持った銃を棄て、コートから同じ銃を取り出して安全装置を外した。次に左手の銃を棄て、すぐに右手から受け取り、空いた右手は先ほどの動作をもう一度繰り返して安全装置を外した。こんな動きを見ている間も、二人は必死に射撃を続けている。それでも、弾は対弾繊維のコートに当たるばかりらしい。子桜は綿摘恭一の機関銃が駆けつけてくれるのはまだか、祈りながら引き金を弾いている。

ところで裏手にいる瓜生は、デザートイーグルを二挺とも手放したこのジジイはやはり呆けているらしいと思った。撃ちたい放題はこっちの方だ、と瓜生は思う。どう言ったわけか、律儀にもこちら側にあるアンデルセン像には傷を付けられないと見えるらしい。子桜には悪いがこのまま囮になってもらうしかない。殺るのは今、俺しかいない。

子桜は、大典の手元に新たに握られた二挺のデザートイーグルに戦慄した。また、逃げなければならない。形勢逆転の機会は逸した。もう一度、死に物狂いで遮蔽物へと逃げ切らなければ。十四発の弾丸、次は避け得るだろうか。もしも生き延びられたら、その次にこそ勝機はあるか。ただ、生存本能だけが、大典が羽織るトレンチコートの裏地のタータンチェックを思い出した。

『四次元トレンチ・・・。』イギリス軍が第一次世界大戦以来、国内で持ちうる最高の職人芸と現代科学の粋を集めてもなお、実用化にこぎつけるまでに後百年はかかると言われている兵器。まさか、大典があのコートの中に、無数のデザートイーグルを忍ばせているのだとすれば。勝機無し。前へ伸ばし切った両腕を力ませた大典が、その手に握る二挺拳銃にグッと力を込めた。ようだった。ハッキリと見て分かったのは、デザートイーグルの・・・遊底が滑った事だ。

『えー、死んじゃう。嫌、死んじゃう。Yeah,死んじゃう。遺影遺影遺影遺影。』鳴っているギターの旋律、いや戦慄。これは走馬灯だ。自分に向けて、はっきりと銃口が向けられている。引き金を引かれれば、音速を超えた弾丸に五臓六腑を破壊され、血反吐を吐く前に絶命する。だから、もう余りに実感の湧かない連射音を遠くに聞いて、機関銃が間に合ったという冷静な判断が出来ないほどだった。

絶体絶命なのは子桜よりも、むしろ瓜生の方だった。本人がそうと気付いていなかったから猶更だった。それは瓜生昇の背後高くから音もなく飛来した。背中にドン、という強い衝撃。前に倒れまいと本能的に左足を出して踏ん張ったが、不思議と体勢を崩すことはなかった。だがその瞬間、まるで雷にでも撃たれたかのような激痛がし、声も出ない。自分の腹から血塗れになった金属製の棒が突き出て、地面に刺さっているのが分かった時に絶叫した。

「みいつけた。」耳元で少女がささやく。

「カ・・・カークティビャザヴート?」少女の方へ首を向け、絞り出すように発した言葉。己の動揺を悟られないようにするために咄嗟に出た言葉は、却って混乱を証明しているように聞こえるが、二人の間でこのやり取りは成立している。

少女は、立てた親指をグッと地面に向けた。まだ自己紹介も済んでいない小柄な少女から、そう指を差された瓜生はジッと足元を見つめる。銀の槍から滴った血が地面に溜まろうとしているのが見える。だがその血はただ溜まらず、すぐに文字を描き出したのが異常だった。

ᚠᚢᚱᚲ

何語か分からないが、その血文字を見て瓜生の目の前は真っ暗になった。

子桜のルガーが狙いをつける相手もデザートイーグルを構えていたことから全て諒解したものの、あれは大パパじゃないか、と綿摘恭一は機関銃の引金を絞りながら思った。父親の兄貴分、だから大パパ。窮地を脱した子桜が、向こうで何か叫んでいるが、銃声で掻き消されて何も聞こえない。デザートイーグルの銃口は今や、恭一と子桜それぞれに向けられている。が、二丁拳銃の凶手もまた、乱入者の正体を察したようだった。だから、攻勢はより苛烈になり、両手のデザートイーグルはまた放り棄てられた。

船橋東武第十一位義竹班を救う迄には間に合わなかったものの、綿摘恭一の側面攻撃は絶好だった。それは間一髪で子桜を救い、ひいてはピンで留められた虫のようになった瓜生を救う事にもなったから。当たれば死ぬ.50口径の銃と秒間十五発の機関銃との相対は、熾烈な膠着状態に至る。

行田駐屯地から動静の偵察に来ていた二人組は、童話館の屋根に張り付いて、一部始終を見ていた。しかし、通信機器を使用した報告が仮に公園内外で傍受された場合、存在を知らしめることになるためあくまで見ているだけだ。命令が届くこともないから介入もしない。習志野軍閥の特務に就くエージェントWは、帰還用の車内で待機しているスゥと代わっておけば良かったと後悔している。彼は、黙ってじっとしていることに苦痛を感じる性質だった。

地面に槍で磔になった男は動かず、少女から嬲られるがままになっている。その少女の足元に駆け寄って跪いた男は、その手から銃を捨て何かを訴えているようだった。手を広げて何やらわめいているのを、少女が見つめている。大典の銃口がそちらへ向かないように、射撃の手を緩めない綿摘恭一。この状況を主導しているのは誰か、はっきりとしない。

「ソゥ、どう見る?」Wは右隣で腹這いになっている男に訊ねた。

「何とも。ただ、あの老人、ウィザード級の噂通り只者じゃないですね。」

「ああいうのが船橋に居るうちは、俺たちがする仕事もまだ半分で済むんだよ。」

「共喰いじゃないですか。」

「二代目は免許持ってるだけだ。」

「それでも張り合ってますよ。」

「生きてるうちに見てきた射撃の弾数を上回っちまうんじゃねえか、これ。」

「ハハハ、駄目ですよ。」ソゥと呼ばれた男は、Wの感情を先読みして諫めた。どうせ自分も混じりたいと思っているはずだからだ。「アサルトライフルとデザートイーグル二挺、先に弾を切らした方が死にますね。」Wの装備について触れると反発されそうだったので、話題を逸らす。彼らはちゃちな拳銃しか携行していない。

「矛盾、だな。あの故事は結局どうなるんだったかな。」

ドラゴンの尻尾をくすぐるようなもんじゃないですか。

「デーモンコアだ、それは。槍から目を離すなよ。」

無駄口を叩いている様でいて、二人の男の表情は真剣そのもの、と言うよりも緊張し切っていた。しかと目に焼き付けて生還し、報告することが任務だから、その緊張感を紛らわすために口を開かずにいられなかったと言うのが真実だ。瞬きも極力しないようにして、その光景を見届けている。大典がかぶっている中折れ帽が宙に舞った。

再装填を繰り返しながらAR15を撃ち続けていた綿摘恭一は、突風が起こったのかと思った。だが、帽子が脱げて露わになった素顔からは眼帯までもが外れ、くるくると錐揉みしながら落下していた。それまで眼帯に覆われていた瞼からは、鮮血が太い筋となって流れ出ている。鳴り響いていた銃声で、何が起きたのか誰も分からなかった。ただ、少女だけが、雷に撃たれたように身体を強張らせて、大典の方を凝視した。彼女はもう、まさに虫の息となっている瓜生も、無様な時間稼ぎのような命乞いをしている子桜のことも眼中にない。

大典に正対している恭一は見上げた。子桜は少女の視線の先を確認した。屋根の上の偵察員は仰向けになってようやく、その脅威が背後に迫っていたことを知った。半キロ先、300mほど上空に静止していた一機のヘリコプター。それは今、尾翼をこちらへ向けて南西方向に飛び去ろうとしている。

『狙撃成功、帰投する。』公園敷地外の路上に停めた車内で、ヘリコプターの通信を傍受したスゥだけは確かに聞いた。しかし、現場の様子を見ているわけではないので、狙撃と言う言葉の意味する所は判然としなかった。その後の『部下と鋏は使いようですよ。』という発言の意味するところも不明だった。とは言え、目の前でそれを見ていた現場の人間たちですら、何が起きたのか断定することは出来ない。

 

『恭ちゃん、スナイパーに狙われたらどうする?』遠い記憶、父から問われた言葉を急に思い出した。分からない、考えたこともない。あの時、父は自分に何を伝えたかったのか。

 

三十年以上前、刈根壮一という一人の殺し屋が伝説になった。当時、非合法組織が群雄割拠の首都圏はさながら世紀末の様相であったが、繰り広げられていた抗争“第二次環七ラーメン戦争”を一晩で終結させたからだ。ラーメンブームの終焉は、アサシンブームの払暁となった。わずかばかりの生存者や目撃者が、白馬に乗って現れた謎の男の挙動を口々に称え、いつしか彼は“ザ・ウィザード”と呼ばれるようになった。男も女も彼に憧れ、黒いトレンチコートが流行し、スーツの脇に拳銃を吊るすようになった。

そのブームをさらに加速させたのが『凶手の掟』だ。当時、全くの無名だったと言われる記者が、刈根壮一に取材し、その行動規範や哲学を一冊にまとめた書籍である。第一条「命乞いならあの世で言わせろ」第二条「一流の凶手は一流の革靴を履いている」から第三十一条「死にたくなければ墓から出るな」で終わる一冊のルール。サブカルマニアの子桜は当然この古典とも呼ぶべき著書のファンであるし、この界隈で生きるものなら誰もがその概要程度は知っていなければならない。

この書籍の中に「スナイパーに狙われたらどうするか」という題で書かれた章もあった。結論から言えばその内容は、国内での殺し合いは今後一切、狙撃と言う不意打ち闇討ち大量殺人を自粛せよという、凶手としての矜持に訴えかける文章だ。ルールの中にマナーを盛り込むことで、狙撃に対する絶対的弱者を護ろうという刈根壮一の願いが込められていた事を知るものは誰もいないが。本書が広く国民に読まれることで、凶手という存在の地下活動が広く知れ渡り、大衆からの誤解は大いに払拭された。壮一がその生涯を賭して極めんとする刈根流現代殺法は、ここに一つの到達点を迎える。自らがその境界に立つ死線に法を敷いたのだ。それから数年後に結婚、綿摘に姓を変える。兄貴分の大典而丹が親父格になると同時に叔父貴格就任、表舞台から去ったというのは既に述べた通りである。

話を戻そう。つまり、この界隈で狙撃とは最も悪辣であるとされる禁忌であり、現場にいる全員何が起きたのか混乱して分からないのである。

唯一、大典而丹だけが、人生の幕引きを察した。男は背後の風車小屋へと向かって歩き出す。吹き付けた風に弄られて、漆黒のトレンチコートが裾をバタバタと言わせた。それを聞いて、大典は風に向かって語りかける。

「おお、一緒に来てくれるか。」餞別代りと強請られて壮一にもう一着を寄越した時には、そっちなら呆けずに済むだろう、と半ば強引に引っ手繰られたようなものだったが、今日に至るまで頗る健在だった。なぜなら、あの頃の“記憶”があったから。溢れ出すそれのほとんど半分に壮一が居て、残り半分には少女が居る。しかし今は、“思考”にまで費やしている時間は無い。階段を上がり、窓から風車に輪縄をかける。何という事はない、かつて一度は行った動作の通り、それで首を括った。だらんと吊り下げられた身体が、ぶらんぶらんと揺れている。

『カークティビャザヴート?』ロシア語で相手の名を尋ねる際の成句である。ただ一点、二人称が余りにも馴れ馴れし過ぎたため、大いに不興を買っているのではあるが。その少女の名は揺子。瓜生の胴体諸共に地面を穿った銀の槍を抜く。子桜の目には、もうその少女が二十歳を過ぎた、強い意志を持った女性のようにも観えた。

少女が駆け出し、風が立つ。詩が旋律を得るかのような、ふわりとした跳躍。右手の槍は大典の背部から胸へと突き刺さる。肉体という老いた器は空になり、その輝かしい魂が解き放たれて星になる。

朦朧として呻る瓜生を支え、子桜がすぐ目の前の南ゲートへ向けて歩き出す。静寂を破ったアラームに飛び起きた鈴井は、次はたまごサラダを用意すると再訪を誓う。全身に欠損が見られないことを確認し、綿摘恭一はまた煙草に火をつけた。

一足も二足も速く、船橋東武に帰り着いた第十一位義竹仁。第八位の戒備に経緯を報告し、死んで行った者たちの分は、次の要員に気前良く払って貰いたいと告げた。使えるようになるまで仕込むのに時間はかかるが、鉄砲玉どもの学の無さは美徳だ。馬鹿ならぬ、部下と鋏は使いようなのだから。

全てを見ていたスナッフィーこと飯島誠。放置されたかつての親父分の死体からコートを剥ぎ取り、袖を通す。ウッドストックと名付けたお気に入りの鶴橋を懐に忍ばせる。四次元トレンチも今や、便利な嚢に成り下がった。豚の耳に真珠と言っても過言ではない。

行田駐屯地で報告を受けた小林秀英少佐は、ただ一言

「槍は何処だ!」と叫んだ。

「消失しました。背中に刺さって、胸から突き出る事無く消えました。」特務代行大尉W、同准尉ソゥの二人は口を揃えて言った。無いものは無いのだ。少女の行方も分からない。

習志野軍属大佐、永井日出夫から綿摘壮一に直通回線で連絡が入った。会話の最中に自分の声が安堵していると気が付いたのは、我が子の存命によるのか次期第十二位の椅子を回避したことによるのか分からず、その事が輪をかけて愉快だった。しかし、次の話題は不愉快極まりないものだった。

「跨いじまったね。」越えてはならない一線を、だ。狙撃の禁忌を侵した。

「豊臣秀吉の感覚でいると朝鮮で失敗するんです。しかし・・・。」義竹は身動きが取れなくなったのではない。鴨がネギを背負って来たのでもない。ただ、刑死者が頸に縄を巻いて階段を登っているだけなのだ。要は時間の問題だった。

受話器を置き、綿摘壮一は呟く。誰も彼もが分かっていないのだろう。永井先生はもとより、大典而丹その人までもが。

「今日が水曜日って事を、さ。」

さて、死んだのは誰か。

 

第五章    自縄自吊    了

船橋ノワール 第四章

奇しくもその日は水曜日だった。

食肉工房アンドレの定休日であるにも関わらず、今朝は四時に得意先から予約が入っていた。人肉解体業者の朝は早い。相手が相手だけに、寝ぼけ眼というわけにはいかず、昨晩彼は十九時に床に就いた。我ながら健康な生活を送っているとつくづく思うのも、ひとえに肉中心の食生活のお陰だと感じる。全身を締め付ける黒革の仕事着に身を包み、安藤玲はヘルメットの中での瞑想を終えた。

連れて来られたのは、大柄な筋肉質の男。両腕を後ろに縛られて猿轡を咬まされた状態だった。動きを鈍らせるため、右脚にはナイフを刺したままにしてある。その眼には諦めの念が見て取れる。作業場の天井から太い鎖が、ただぶら下がっている。素朴な造りのそれを、男の両腋に通して括り付けた。硬く張られた鎖に両肩まで繋がれて吊るされた男は三十過ぎといった所か。引っ越しあるいは運送業者のような体格をしている。つまり彼は、体型維持の努力を怠らないプロの“運び屋”なのだろうという事が、同業者の直感で解った。

剥き出しのコンクリートに四方を囲まれた、薄暗く手狭な部屋の中は、先日目の当たりにしたスナッフィーの仕事場ほど洗練されてはいないものの、この食肉工房は安藤の聖域である。依頼主から材料が届けられるから、檻などは必要ない。他にあるのは鋭利な刃物が一式、水洗用のホース、お気に入りのチェーンソー。そして、今朝は生きた素材と、それを見ている眼球六つ。『哀れだ。』安藤は似たような境遇のその男に内心同情した。彼と我とに違いは無い。肉体作りは生涯現役の気概の顕れだ。それはつまり、稼業が現状で軌道に乗っている証拠だった。

すぐ傍に、ウェディングドレスもかくやと言わんばかりな純白のドレスに身を包んだ女性が立ち、その光景を睨めつけている。婚礼用には少々機能的に過ぎる意匠だったが、それがどうしたと言うのか。披露宴会場が人肉解体工房で行われている、それだけのことだろう。今朝の仕事は、国際誘拐企業連合から直々に持ち込まれたもの。安藤玲は業者として最優先の顧客相手にこの仕事を引き受けざるを得なかった。東京湾最奥の南船橋を国内最大の拠点とする連合。その船橋支部代表とは、つまり日本支部総帥相応の意味を持つ。International Kidnapping Enterprise Associationで絶大な権限を持つクロエ・ド・リュミエールその人が腕を組み、涼しげな表情をしてその場で傍観している。人肉解体現場の特別桟敷に居ると言って良いだろう。

肉の食い方については、日本では及びもつかないフランスの舌が、クロエとアンドレとを宿命的に結びつけた。切っ掛けは、安藤が手を下す素材に懸ける情熱と、その仕事に対する姿勢だった。解体用人肉の入手経路というものは、とかく人身売買の営業経路と重複が生じやすいものだ。査察として定期的に出向く関東一円の様々な焼肉店で、ある日彼女の舌が一口で見抜いた事があった。鹿浜橋のアドレナ苑店主を丁重な尋問にかけると、彼はすぐに話し始めた。それを辿って行き着いたのが、京成海神駅前の此処、食肉工房アンドレと言う訳だ。以来、安藤は不用意に連合のシマを荒らす事なく、違法ではあるにしても合意の下に新鮮な素材を手に入れられるようになった。そして、連合は暴力部門を持たないながらも、船橋支部代表の手元には忠犬という強力な札が入った。

まさに人形のような顔立ちの彼女の、いつもと変わらぬ澄み切った瞳の奥に、暗い影が射している事に気付く者はこの場に誰もいない。西船橋のホテル街で、安藤が綿摘恭一を殺し損ねたことは、依頼主のクロエとしては想像通りではあるものの予定外だった。連合には暴力専門の部署が無いため、あの時は安藤に外注となったのは止むを得ない事ではあるが。船橋東武第十二位の一騎打ちに便乗し、結果的に東武・連合共に“採用試験”突破とも言える結果。船橋東武にこれ以上の戦力が追加される前に殺してしまう算段だったが、先代第十二位の呆気なさたるや、何ともはや。機関銃を扱う特殊免許もさることながら、一族に代々伝わると言う近接格闘の心得が、あの呉の暗殺術をも凌いだということか。方針転換で恭一を取り込み、協調路線に舵を切ることにしたのは、第十二位就任早々に流れてきた西船橋からの情報が理由だ。曰く、船橋西武のシマで女どもを侍らせ、公然と現船橋東武の体制批判を言い放ったのだという。だから、船橋東武では手出ししにくい、南船橋の虱どもをこの様に一匹ずつ捕らえてやることにした。

しかし、ここに来てまさか、東武が西武の残党狩りに乗り出す事になったというのはぞっとしない。彼女は自分の思い描いた絵図が、日に日に予定から脱線しているこの事態を楽しもうという気にはなれなかった。今度の仕事で、綿摘恭一は死を免れ得ない。さながら田園の麦のように命を落とす。誰が判断してもそうだろう。クロエの判断も同様だった。だから彼女は苛立っている。一度手放したものをもう一度手放すのが運命なのであれば、彼女はその神を刺し違えてでも殺す女だ。

「支度できました。」安藤がクロエの側近オーギュスト・ドートリッシュに伝える。眺めていたのであればその様子も解っていようものだが、クロエはオーギュストの通訳を受けても知らん顔だった。そしてなに食わぬ顔で、ムッシュ・ド・船橋に執行を命じる。彼女が話す仏語とは、仏の言葉なぞではない。死神からの密やかな口付けだ。

「猿轡を外せ。首斬りにしろ。」オーギュストからの伝達に安藤は竦然とした。

「こんな夜明け前に、猿みたいな断末魔は困ります。」工房でチェーンソーを使用した事は未だ嘗てない。解体にはよく研いだ刃物数本で事足りるからだ。もともと活け造りを前提に建設した工房ではないので、防音には自信が無かった。解体する手順として、まず始めにナイフを入れる喉にこんな形で手を着けさせようと言うのは、全く素人の発想でもあった。水洗用ホースがあるとはいえ、飛び跳ねる血飛沫の量は見当もつかない。それより何より、大好きな喉ナンコツをそのように扱いたく無いのだ。男は必死に目を瞑り、ぶるぶると首を横に振っている。

クロエは詰まらなさそうに右手をぷいと振る。返り血が跳ねても構わないように、オーギュストがポリプロピレン製のカーテンをクロエの前に高く持ち上げる。此処が独裁政権下の某国ならば、機関銃の一斉射撃が始まる合図。殺るしかないのだ。気持ちを切り替える。人間を生きたまま殺す試みはこれで二度目だ。高揚感に身を委ねる。自分の仕事を、連合の麗しき死神が見ている。大きく、しかし早く呼吸する。

その呼吸に合わせ、I.K.E.A.本部が置かれたスウェーデンにあるハスクバーナ社が、安藤の為に特注で仕立てたチェーンソーを始動させる。特注の依頼はクロエの命令であり、その譲渡はすなわち彼女の意思で誰であろうと惨殺するという魂の契約を結んだも同然なのだ。フル回転のエンジンが爆音を鳴らしながら駆動している。名も知らぬ男の眼には、既に生への執着、つまり恐怖という感情が顕れていた。

安藤、さっと左手で猿轡を取り除く。男は泣き叫んで命乞い。

「オイオイ、しっかり胸張って顔上げねえと、キレイに切れねえだろうが。」オーギュストは持ち上げたカーテンを下ろし、男の顔の傍まで寄って言った。必要な伝達事項以外には一言も発しないオーギュストがそうしたのは、つまり顔を上げろと言うのは必要な伝達事項という事だ。クロエとは対照的に、彼は流暢な日本語を雄弁に扱う。安藤としても、そうしなければ余計な箇所まで傷付けてしまうから、顔は上げて欲しい。しかし電動のこぎりに自分から首を差し出すなど、まともな神経では出来ない。出来るはずがない。こんな事になるなんて。殺すなら別の方法で殺してほしい。様々な言葉が男の口から飛び出す。安藤はチェーンソーを停止させて下ろし、ヘルメットを傾げてオーギュストの方を向いた。

「I.K.E.A.のシマを荒らしていいのはI.K.E.A.だけなんだよ。特に、お前たちが扱うヤクは南船橋に流すなって事を、これからみんなに良く知ってもらわないと。」東西の冷戦状態であれば、両者が一線を越えて来る事は無かった。だが、撤退以後に市内が東武一色となる前に、新習志野ー南船橋までに越えてはならない一線を引く必要があるとの判断だ。船橋東武に向けて、これから国際誘拐企業連合が相手となることにやぶさかでないと血文字で宣言をする。肉屋のアンドレこと安藤玲は、駆動を弱めた鎖鋸を再び最大出力で唸らせる。だが男が、男の名は大塚と言うが、大塚が発したのは、家族の名だった。叶うなら最後の言葉を交わしたいと言う願いだった。安藤は再度チェーンソーを停止させて下ろし、ヘルメットを傾げて念押しのようにオーギュストの方を向いた。

「自分の臆病を家族にまで伝えたらダメだろう、それは。もういい、早くやれ。お前一人だけにはさせねえから、安心しな。」オーギュストはこういった場面に慣れているようで、徹底して冷徹だった。吐き捨てるように言って、またプラスチック製のカーテンを高く持ち上げる。この期に及んで外部への連絡など許されるはずが無いのに、演技か本音か知らないが命乞いはこれだから聞いてはならないのだ。この業界、つまり職業凶手達の間で、命乞いを聞いてはならない事は鉄則の第一条であると言われる。会話などが始まる前に、相手が死んでいる事が職人気質であるためだ。頭では分かっていても実践までに経験が要るし、それまでの命のやり取りで必然と短命な者が多いから、鉄則を遵守しつつ臨機応変という動きが出来無いのは半端者である証なのだが。勿論、今のオーギュストの行動は、主人の望みが恐怖心を与えて殺す事であるから、臨機応変であったと言える。同時に業者に対し、的確な指示も出さねばならない。厄介な問題ほど、解決してから主のクロエは満足するから、従者の腕の見せ所となる。その為に彼は日本語も覚えたし、単純すぎる問題は敢えて複雑にし直すという趣向を凝らす時さえある。

一方で安藤は、逃げ出したい気持ちを抑え、高揚感を維持するのに必死だった。今までしていた死体の処理では、こんな工程を考えすらしなかった。それまで彼が考える死とは、もっと抗いようのない大きくて強い存在だったのだが。最初の経験、西船橋のホテル街では、自分自身が死そのものだったのに。今か、あの時か、錯覚しているのはどちらなのか。一瞬、安藤は大塚と目が合った。無論、ヘルメットがあるから、大塚には分からない。しかし、大塚もその時、磔にされたかのように動きが止まった。瞬間、安藤は大塚の喉元をチェーンソーで縦に突き刺した。鎖鋸は気道と頸動脈の間を裂いて延髄に達し、すぐに大塚は恐怖から解放された。絶命して項垂れた頭の重みで、顎まで裂いてしまわぬよう、最速で仕事を済ませた。気道が裂けた時の、あの喘々という嫌な呼吸も聞こえない。その間、コンマ三秒。だが、安藤玲にとってその時間は、三時間に及ぶと言っても過言ではない疲労に感じた。せめてこの同業者を苦しませたくない一心で仕事をしたい。それ故、横向きに歯を入れて首を飛ばし、頚動脈を断裂させてしまうのを避けたのは本能。喉から得物を抜き出すと、男はすぐにがくんと俯き、裂けた喉からだらだらと血を溢した。返り血は鎖鋸を差し込んだ際に、回転する歯によって飛び散った僅かな血煙がヘルメットを覆ったのみ。

記憶が飛びそうになっている程に鮮やかすぎる仕事を終え、ヘルメットの中で雄叫びを上げたい衝動を堪える。あまりの興奮に安藤は勃起している。このまま刃を振りかざし、安いビニール製のカーテンを切り裂いて、サイコのジャネット・リーよろしくクロエ・ド・リュミエールを惨殺したいという思いが頭をよぎり、彼は下半身を痙攣させて射精した。しかし、フランス人形の奴隷になるのは良しとしても、己の殺人衝動の奴隷にまで堕ちてしまうわけにはいかないのだ。そんなやり方では、自分の手で掴み取ったことには決してならない。凄腕の業者は、その冷静さを併せ持つが故に神域へとその足を踏み込める。今の安藤は、まさに死を体現する存在だった。

黒づくめのヘルメットとライダースーツに隠された男の様子を易々と見抜きながらも、クロエ・ド・リュミエールの不機嫌は晴れない。いつ見ても安藤の仕事ぶりは、期待に応えて予想を裏切る。それだけに、西船橋のホテル街であの忌々しい軍閥からの横車さえなければと思えば腹が立つ。船橋東武の歯車に組み込まれた綿摘恭一が、自分のコントロール下にどんどん置けなくなっているというその事にも我慢がならない。ましてや、その活殺与奪を他者に譲渡するなぞ言うまでもない事だ。この気晴らしには益々の血が要る、と純白ドレスの死神は思った。それは無慈悲で理不尽かつ容赦無い、嵐のような流血を意味していた。連合が戦争に乗り出すとはそう言う事だ。業者は一人では足りない。

クロエはドレスと同じ白のハンカチを安藤に投げて寄越す。飴と鞭ならぬ、ティッシュとハンカチはこれから益々用意する必要がありそうだ。此処でチェーンソーに血を飲ませ続けることになるから。工房の防音改修は費用を立て替えてやろう。欲しいならスウェーデンの家具まで付けてやる。だが、業者は一人では足りない。

今はクロエと目を合わせられないアンドレはヘルメットを脱がず、朝食用に昨日準備したタンシチューの食卓に二人の客を招く準備を始める。献立を聞いたクロエが少女のような喜びの声を無邪気に上げたのは、通訳を介さずとも解る。安藤は顔が耳まで赤くなるのを自覚し、ヘルメットを脱がずにいて良かったと思った。受け取ったハンカチは、ヘルメットの血飛沫を拭うのでは無く、後で使う為にポケットに捻じ込んだ。

その日も朝八時五分前に、綿摘壮一は自宅を出た。ゆっくりとした足取りだが、一歩々々は確かだ。軋んだ身体が痛みはするが、痛いだけであってそれ以上でもそれ以下でも無い。彼は今朝も、いつもと変わらぬ陽の光を浴びながら、その光の粒子一つ一つを眺めながら歩く。丁度八時、ログハウス風の外観とスペイン産の石窯を擁するベーカリー、パァントムに到着する。

駐車場に停まっていた真っ黒なセダンから永井老人が姿を現わす。この車は西船橋で綿摘恭一と安藤玲を諸共に撥ね飛ばしたものだ。運転席からは小林秀英が壮一に目礼する。堅気だから軍隊式の敬礼は遠慮してくれと綿摘壮一は常々言っていた。そういう彼自身、極道の中の極道だったのだが。

「おはようさん、いい天気だね。」こんな言葉をどちらからかけたかは、彼ら二人の長年の関係からすれば取るに足らない事だった。開店から一時間後のこの時間は、普段なら店内に他の客が十人弱と空いている。二人の朝はここから始まる。何もなくなった船橋にインフラが整備され、上前を撥ねられることなく物流が循環し、味わいや質の高い飲食がまた提供されるようになって出来たこの店で。

揃って店に入ると、この日は既に二十人程の客が店内に居た。それだけでも十分な数なのだが、休日ともなるとこの倍は店に入り、自分の意思で動く事すら困難なほどになる。今朝の壮一はカレーパン、永井老人はいつもと同じくるみパンをトレーに載せた。名札にすずねと手書きされた女子が、明るい声でイタリアンパニーニが焼きあがった事を告げ、売り場に並べ始めた。焼きたてのこの商品は、ふっくらとはりのある見映えで、これ以上ないほど美味そうだ。

「鈴音ちゃん、おはようさん。」と永井老人がその店員に挨拶する。壮一とは異なり、最早歳相応の胃袋になってしまった自分。その事に今朝は怪しく物狂おしい感情を抱きながら、運転手の小林少佐の為にイタリアンパニーニに手を伸ばす。毎朝のようにこれを好んでパクついている小林が何とも微笑ましい。

「おじいさん、おはようございます、今朝は暖かいですね。」彼女の明るい返事は、暗くなった心中を陽光のように照らし、影が伸びきった感情を一掃した。妻子無き彼にとって、この場所から壮一と一日を始めるのは意義深いものだった。孫ほども歳の離れたこの娘と言葉を交わし、壮一に託した夢に揺られて、この老骨が朽ちていくのを身を以て感じる日々は何たる幸福であろうかと思う。いや、これからもまさしく幸福であるに違いなかった。昨日、あの報告を受けるまでは。

「コーヒーカップは三つでよろしいですね?」レジに立つ店長の横手英理子が訊ねる。購入者はここで、受け取ったカップにマシンからコーヒーを注げるサービスが得られる。受け取ったカップに壮一がコーヒーを入れ、そのうち二つを永井に渡す。永井はカップ二つを手に取り、その片方とパニーニを運転席で待機している小林に差し入れた。

綿摘壮一は店舗入り口の傍にあるテラス席でコーヒーを啜っている。

「なぁ壮ちゃん、良くないことが起こる。」

「県民の森が燃えちまうより酷いことですか?」焼け落ちたスナッフィーのアジトは、広報ふなばしの第二面に不審火として小さく載るだけで処理された。これに便乗するかのように紙面には、災害時の避難やら廃棄物の処分やら住宅改修の費用やらと言った防災対策の記事が掲載された。県民の森の松林に延焼しなかったのは奇跡としか言いようがないが、その住人が建てたシェルターの堅固さの裏付けでもある事を知る者はごくごく僅かだった。

「それ以上かも知れない。こんなに早くなるなんて思ってなかったよ。燃えるのは県民の森じゃなく、その隣…。」

「…⁈」報告を受けた壮一は、三十を過ぎたばかりの我が子の死に様を想像した。それは壮絶で、堂々たる犬死に他ならなかった。願わくばそうならないで欲しいが、不可避のものであるとは壮一自身が一番良く知っている事だった。

「恭一が死んだら、俺が船橋東武の第十二位ですか?」壮一が軽口をたたいてみせたものの、永井老人は二の句が継げぬと言う表情をしていた。

朝十時、船橋大神宮には穏やかな時間が流れている。

小高い丘の上に広い境内を持つこの神社は正式名称を意富比神社と言い、太陽神を意味する大日、あるいは食物神を意味する大炊に社名を由来すると言うが、諸説ある。主祭神に天照大神を祀っているのは、日本武尊が東征の折、船橋において戦勝祈願のついでに地元の旱魃を救おうと、天照大神を祀って祈願したことに端を発するとある。この直前、現在の横須賀走水から上総へ船で東京湾を横断する際の荒天を、妃の弟橘媛、古事記では弟橘比売命の入水と引き換えに鎮め、無事渡り切っている。その喪失感は余りに大きく、嘆きの歌が詠まれた碓氷峠、古事記では足柄峠以東の諸国が吾妻と呼ばれるようになったのがこの故事に因むというのは有名な話だ。降ったのは叫び泣く様な大雨だったと察せられ、祈りの旱天慈雨がこの地を潤し、枯れた河川を瞬く間に蘇らせた。船橋市の臍に位置する、金杉の御滝不動の湧水を源流とし、東京湾へ流れ着くその川は海老川という。船橋市街に於いては市街東境を北から南へ流れる。本町一丁目交差点から東へ直進すると、船橋大神宮の正面に海老川橋が架かっている。それには船橋地名発祥の地という碑があり、その全文をここに引用したい。

『古い伝説に寄れば、船橋という地名の起こりは、この海老川の渡しに由来する。古代の英雄が東征の途次、此地の海老川を渡ることが出来なかったとき、地元民が小舟を並べて橋の代わりとし、無事向こう岸に送り届けたという。海老川は長く住民に親しまれてきた。春堤に風吹けば花蝶遊び、秋洲に水澄めば魚鱗踊るといった時代を経、近年の都市化の中で浸水被害が繰り返され、流域住民にとって“恨みの川”となったが、今、市政五十周年の記念すべき年に当り、国、県の御協力を得、市の総力を結集し、河川及び橋梁を改修、“希望の川”として蘇ることとなった。』昭和六十二年のものである。昭和三十年代から始まる海老川の河川改修事業の経緯も非常に興味深いが、ここでは触れない。関東が政治の中心となる江戸時代以前の海老川は、今では想像もつかない程の大河川だったか。日本武尊は走水において、この程度の海は一っ飛びであると大言し海神の怒りに触れたのが余程堪えたと見え、船橋の土地の民に助けられたと言うのが面白い。

海神と言えば無論、船橋にもある地名だが、日本武尊の別の伝説にその名の由来があるらしい。曰く、ここの海上に光り輝く船を見つけ、怪しく思って近付けば柱に掛かる神鏡があり、その鏡を持ち帰った場所、だから海神と呼ぶ。神鏡が祀られて出来たという神社には二つの説がある。と言うのも、元々海神は船橋海神と呼ばれた海神村と、行徳海神と呼ばれた西海神村に別れており、おそらく双方の村で主張していたのではなかったかと思われるからなのだが。あるいは、双方真実か。いずれにせよ、千葉街道こと国道十四号線以南は埋立地で、かつてここは遠浅の東京湾の海岸だったから、二つの神社の鳥居は当時南の海へ向けて建っていた。

一つは船橋中央病院前の十字路傍にある龍神社。大海津見命、仏名で娑竭羅龍王を祀るが、むしろ弘法大師空海にまつわる石芋伝説の方が知られているかもしれない。かつて神宮寺を務めたのは、そこから東に四百メートル程度の位置にある赤門寺こと大覚院。龍王山海蔵寺の号に当時の名残がある。

もう一つは国道十四号と総武線との陸橋付近、入日神社。ここの石碑には由来として

『当町鎮守「式内元宮入日神社」は皇統第十二代景行天皇の王子日本武尊が東夷御征討の砌り伊勢湾方面より海路を利用し先ず上総の国に上陸。次いで軍団は上総の国を出帆せられ下総の国に入るに及んでこの地に上陸された。上陸地点は現在地に当たると伝へられている。その後村人によって日本武尊の上陸を記念し且つその御遺徳を偲び併せて郷土守護、五穀豊穣、豊漁の神として社を建立し崇拝して来たのが即ち入日神社である。祭神は天照皇大神と日本武尊を祀り古くから船橋大神宮意富比神社の元宮と言い伝えられている。』そう主張するのはこの碑文のみだが。

この言い伝えについて船橋大神宮は、天照大神との関係を、市街北一キロ先の夏見台一帯が伊勢神宮の荘園、夏見御厨だったことに起因するとしている。平安末期の頃だ。夏見御厨について詳しい事は未だに判明していないが、吾妻鏡には院御領船橋身御厨の記述があり、室町時代まで存続したと推定されている。その後、夏見御厨の衰退と共に、地元最大の太陽神を祀る意富比神社に合祀され、以後は天照大神への信仰が強くなっていったと言うのが通説である。

この夏見と言う地名に関しても、その由来に日本武尊の東征と縁がある。父である景行天皇がこの地へ赴き、地元の人にこの地の名を問うたところ、都言葉を理解できず

「只今は、菜を摘んでおります。」と返事をした云々。東征完了後の巡幸であったか。海老川には船橋を架けて渡ったか。以上、記紀には一切記述の無い事だが。

ところで、この川は当時から海老川と呼ばれていたわけではなく、古代は大日川と書いておおいがわの名であったらしい。意富比神社の信仰はやはり篤かったことを示しているようだ。では、それが何故海老川と呼ばれるようになったかと言うと、この地へ来た源頼朝に川で獲れた海老を献上した際に名付けられたという説が広く知られたものである。無論、冗談に過ぎないのであろうが、洒落た冗談だ。

実際にこの地へ来た征夷大将軍は、徳川家康である。東金への鷹狩の折り、旅の宿泊地として船橋御殿を建設し、三代に渡って利用していた。それ以後、東金での鷹狩が催されなくなると、船橋御殿は廃止された。ちなみに、その跡地には日本一小さいと呼ばれる東照宮が建っている。さて、船橋大神宮境内の見所の一つに、土俵があるのだが、これは徳川家康が漁師の子供たちの相撲を供覧して以来のものだと言う。十月二十日の例大祭では奉納相撲の取り組みがあり、その前の土日には子供相撲が開催される。

境内の見所と言えばもう一つ、かつてこの場所が海岸であったことを示す灯台だ。あの忌まわしい事件により木造瓦葺だった初代は焼失したが、被災から十年の期に新たに建てられた。以来四十年、夜空に向けて煌々とライトを照らし、光の柱を演出している。灯明台は、船橋復興を象徴する存在である。

朝十時、船橋大神宮には穏やかな時間が流れている。神主である大神宮秀作は、その灯明台の下を箒で掃いていた。灯明台は、彼の策謀を象徴する存在でもある。陽が沈んでからLED光が照らすのは、何も夜闇ばかりではない。

十三時ごろ、スナッフィーこと飯島誠は、トレンチコートの上から重ね着したいつもの浮浪者のような身なりで喫茶店に入った。愛用の鶴橋も入れられるバッグと同道するその姿は、やはりどこからどう見ても浮浪者にしか見えない。覆面をしていない時の彼は、市街では一人のホームレスに過ぎない。違いを挙げるとするならば、処刑動画配信から足を洗うと決めてからの彼が、ホープレスでは無くなったと言う事か。注文を告げて席に着く。

美味い話と甘い香りは気を付けろ。大麻の依存性が低いなんて事はない。それが事実だとしても、実際に出回っている紙巻には即効性と持続性と依存性が高い合成麻薬がかさ増しのために混ぜられている。美味い話は無いし、その香りは純粋な大麻でも無い。入るのは楽だが、一歩踏み出せば真っ逆さま。これが真実だ。タダより高い大麻は無い。いわんや覚醒剤をや。

虚栄心ならまだマシな方だ。他者より優位に立ちたいという心理は自然なものだから。だが、他者との比較に疲れ、自分がオンリーワンではないと気付いた瞬間、何故あの時ナンバーワンを目指す努力を怠ったのかという後悔と絶望が押し寄せてくる。優劣だけで人間関係を築いた“離脱症状”に抗うためには、より多くのものに“依存”しておく必要がある。酒、煙草、博打のどれか一つくらいなら我慢できるのと同じように。

畢竟、絶望とはその場限りの幻想にすぎない。絶望には決まって現実味が伴っているのが厄介なだけだ。それは薬物を摂取したときの症状によく似ている。だが、覆水が盆に返らないとは誰が決めた。泥水でも啜ってみれば分かることがある。例えば、薬物に手を出すよりは経済的である、とか。虚栄心にすらも絶望色の化粧が必要になってしまったこの世界では、0.01mm程の規範なぞあろうはずもなく、ただ剥き出しになった陰部に短絡的な旭光を当てるのに誰もが必死だ。

ゴキブリが一匹死んでいる。だが、死んだゴキブリに興味はない。今までの俺は屋根裏に巣食った蜘蛛。捕えて、喰らい、肉とする。だが、その屋根裏、いや地下室はもう無い。狩りの時間は終わった。もう十分だろう。もっと対外的な持て成しをするべき段になったという事なのだ。いつ狙われているか分からないだけに、元々連中にとって分が悪い戦いだったのだから。これからは、この俺が敢えて火中の栗拾いと洒落込もう。生身の人間相手のルールは破棄だ。此処船橋で最も薬物精製能力を持つ施設はどこか。先ずは、五十年経っても政府から見放された東京湾沿岸、海浜地区の工場群から当たることにする。船舶航行がきな臭いのはそういう理由からと見える。良いだろう。あいつらが大好きな、もっともっと甘い香りを囂々燃やしてやる。

「お待たせしました。」丁寧を通り越した卑屈な笑みを浮かべて、船橋本町の珈琲屋焙軒の店主、降巣惹句が言った。六十手前で、うねりのある髪が肩にまでかかるロングヘアの男だ。その甲高い声に飯島誠はふと我に返ったのだが、そんな様子に気付くことなく店主はこちらに猫背を向けてカウンターの方へと引き下がっていた。

『小汚ねえ野郎。コーヒーショップにコーヒーなんか飲みに来やがって、一文の得にもなりゃしねえ。さっさと消えろ。』この小汚く見すぼらしい、風呂にもまともに入っていない様子の男に対して、降巣は心の中で悪態を吐き、それから完全に興味を失くした。浮浪者なぞという者は例外なく、薬物という頼りになる最後の友達に裏切られた成れの果て。だから、そういう目をしているものなのだが、男の眼はそれとは違った種類のギラつきを帯びており、降巣が最後まで気にしなければならなかった点はそこだった。しかし、浮浪者は浮浪者に過ぎないのだし、なによりスナッフィーこと飯島のような薬物中毒にならない覚醒剤常習者がいるという事自体、通常考えられる事ではない。飯島の表情からは、乱用者特有の気配すら読み取ることが出来なかった。

飯島がグッと口に含んだ珈琲は、それでも降巣がこだわって淹れた果実の香り高い甘みを含んだ一杯だったが、彼の味覚がそれに気付いたかどうか知れない。まだ熱いカップの中身を二口目で飲み干し脇に退け、皿の上に勘定を置いて店を出た。滞在時間は僅か十分に満たない。足取りは一歩々々踏み締めるかのようだ。防犯カメラのレンズだけが、店での一部始終を見つめていた。

徹夜で徘徊していた眠気を醒ますには贅沢過ぎる時間だったが、代わりに毎日々々覚醒剤を注射というわけにもいかないのだ。頻度にだけ気を遣いさえすれば、薬物に魂の全てを売り払うこともない。その実感があるだけに、飯島は世の依存症どもが憎くて憎くて堪らなかった。彼にとっては、ドラッグもジャンキーも纏めて殺して万事解決としたい。昨晩から今日にかけての、調査と言う名の徘徊はこれで終わり。新たな、仮初めの根城を目指して、船橋駅北口のバスロータリーへ向かう。タクシーを拾う程度の金には無論困ってはいないが、今の飯島誠には金も時間も夢すらも十分に有るから、バスに揺られているのが良いのだった。駅を越えた先、一旦エスカレーターで上に昇り、もう一度乗り場の中心へ向かって降りる。小室駅行きの5番乗り場でバスが来るまで十数分待った。結局、乗るバスも行き先も、今までと変わってはいない。それは、己の来し方行く末を暗示しているのかも知れない。得た夢の対価は何か、飯島は早く思い知る必要があったのではあるが。

十四時過ぎ、船橋東武第十二位綿摘班一同は、船橋駅前から北上する県道を、トヨタのSUVに揺られながら通過していた。

「背中に拳銃とモノ押し当てられて、後ろから『たとえ親の死目に会えなくなっても、お前みたいに小利口そうな面した男をブチ犯してやるのが大好きでねぇ』って耳元で囁かれたのよ。」子桜がルイジアナ・スピリット・ペリックの煙を吐き出しながら言う。

「え⁈男から⁇」助手席の瓜生が聞き返す。

「そう、男から。」車内の男達は、後部座席の子桜が語る、先日舞浜であった出来事のハイライトに耳を傾けていた。

「ま、そこは探偵さんですよ、演技でギャン泣きしておしっこ漏らしてやったら、奴さんのチンポも萎えちまったらしく解放。」子桜の言に運転席の鈴井が間髪入れずに、

「殉くん、行く前とスーツ変わってないよね。どうやって帰ってきたん?」

「そん時のスーツだよ。」

「降りろお前!俺の車おしっこ付いちゃう!」

「うひゃひゃ!君ってものはモテモテじゃないの、舞浜にはドレス着て行ったわけじゃないのに!」瓜生はもう車内で何本目になるか分からないドライバー6mgの煙を、美味そうに吸い込んでいる。彼の喫煙ペースは車内で一番早く、バニラ香の副流煙は全員が厄介になっている所だ。

「流石ソドミーってだけあるよ、ドレス着て行くんだったかなぁ。」舞浜のソドミーランドとゴモリーシーとの冷戦が紛糾する予兆を逃さずに現地へ飛んだ子桜だったが、幸か不幸か火薬庫に火が着く前に不本意な撤退を果たしたと言うことらしい。

「しかし気に入らねえな、女装趣味のオカマ野郎が自分の貞操第一で尻尾巻いて逃げてきたとは、飛んだ処女様じゃねえか、行くんならケツに気合入れて行ってこいや!」子桜の志半ばな撤退に対する率直な批判。こういう時の瓜生は公平だった。それに慣れている子桜はにこにこしながら言わせ放題にさせているし、鈴井はどこ吹く風で運転を楽しんでいるらしい。車内の騒がしさは、事務所での騒がしさと遜色なかった。

 

『マンハントじゃねえか…。』吐き捨てるように子桜が言った。

『ポーさんのマンハント‼︎』何かのアトラクションのつもりで瓜生が発した。

『人の味を覚えたヒグマかな?』鈴井の羆好きは高水準のようだった。

 

昨夜の打ち合わせでは、この日の船橋東武第十二位への指令は、初の団体行動と言う事だった。終戦協定と同時に解散したはずの船橋西武残党が、武装して立て籠もっている拠点の制圧。家屋の襲撃であればものの数分で済みそうなものだが、今回は範囲が広い。第十二位の集団規模のみでは到底人員が足らず、第十一位の義竹たちとも合流して遂行する。今彼らが北上している県道は、ほんの数日前に、綿摘恭一と安藤玲が通行した経路と全く一緒である。

子桜は重々しい口どりでマンハントと評した。最終的かつ不可逆的な殺戮を目的とした根絶作戦は東西抗争の頃には見当たらないのに、事実上の終戦から間も無くそれが行われるというのは非常に恥知らずな事ではないかと憤っていたためだ。そして、これで自分たちはいよいよ、かつての親兄弟に銃口を向けることになる。資料上での東西抗争に詳しい子桜は、連絡員の鈴井から伝達を聞いて、今回の作戦が船橋暗黒街史上稀に見る殺戮になる事を予見して気乗りしなかった。鈴井と瓜生はこれまでの歴史を知らないし、興味もないらしい。職業凶手として、ある程度割り切っているような節がある。

彼らが向かっているのは船橋アンデルセン公園。先日焼け落ちたスナッフィーのアジトがあった県民の森のすぐ隣に位置している。閉鎖前は、世界の人気観光スポットテーマパーク部門に於いて日本国内第三位だったこともある施設だ。組織を失くした船橋西武構成員たちのごく一部は船橋東武への抵抗を決め、残された武器を手に大親父格を頼ってそこへと流れた。

大親父格とは、当代の親父格以前にその地位に居た者たちへの尊称である。非合法組織のトップが代替わりするというのは、その大概が死亡によるものだ。そのため、大親父と呼ばれた時には既に故人である事が殆どである。その代の構成員が大親父と呼ぶかどうかで、生前の会頭が支持されていたかどうかが露骨に分かる。船橋からの全面撤退に踏み切った弱腰の戸井田興造なぞはその典型で、ジジイで呼んでもまだ足りず、風貌から渾名した狸を頭に付けた蔑称で呼ばれる程だ。

だが、その先代は違った。歴代会頭の中でも屈指の武断派で、彼の穏やかな引退はその苛烈なる半生からはとても想像がつかない。長生きをすればするほど怨恨堆積するこの界隈で、結局は誰もが彼への意趣返しを企てなかった。そんな気を起こしただけで悟られてしまいそうな、畏怖の念が船橋全土を覆っていた時代が十数年前にあったのだ。これにより正面切っての抗争は避けていた船橋東武だったが、その一方で麻薬売買での資金調達はこの期で絶頂に達した。あまりにも強大なトップが引退した反動は、潤沢な資金力を武器にした東武を勢い付けた。戸井田が無能なのではなく、その先代があまりにも偉大過ぎた、それだけの事だ。

船橋西武構成員達は例外なく、彼を特別視していた。何処と無く異国じみたその風貌と、余生を過ごす根城としてアンデルセン公園を選んだことから、引退後の彼は幹部達から親しみを込めて大パパと呼ばれていた。男の名は大典而丹。現役時にはトレンチコートを身に着け、中折れ帽と眼帯がトレードマークの男だった。結婚して姓が綿摘に変わる前、刈根壮一が二十代の頃から兄弟と呼んだ、その倍ほども歳の離れた兄貴分。親父格に付けられた時は、幹部筆頭の叔父貴格に壮一を抜擢する事を条件に、渋々引き受けた。今では、彼を慕って集った義兄弟らと共に、ネオ・ウエスタン再興に想いを馳せているのだろうか。音に聞くかつての伝説も今は昔。その年齢は八十をゆうに過ぎ、九十に差し掛かると数えられた。

「おじいちゃん子だったから、気乗りしねぇ・・・。」あくまで悪評を気にする子桜。

「じゃんじゃん殺るぞー、殺し合いに歳は関係ねえ。」知名度を上げる気満々の瓜生。

「それ鳴らしてくれたら迎えに行くから頑張ってねー。」ドンパチには我関せずの鈴井。

第十二位一同を乗せたSUVが、荒れ果てたアンデルセン公園北ゲート正面の駐車場に乗り入れた。鈴井は回収係として、この後付近に車を移動させて待機。瓜生は助手席のドアを開けるなり足元へ吸い殻の山を捨ててから降車した。後部座席から子桜と恭一がそれぞれ出る。

人の出入り絶えて久しいチケット売り場、幽明境を異にする。入場料は九百円、かろうじて読み取れる。綿摘恭一は、今日初めての煙草に火をつけた。

 

第四章    前途憂々    了

船橋ノワール 第三章

かつて、イギリスに大層な博打好きで知られた貴族がいた。彼の好みは賭けトランプ。公務も疎かに、寝食も惜しまず、鉄火場での賭けに興じる日々。

流れは誰のもとにある。今落ち目なのは本当に自分か。利益の総量が保存されない均衡の破綻はいつ起こる。向かいの男が仕掛けた賭け金の引き上げは虚勢か。沈黙した表情の下に激情を抑えた者だけが唯一この場の有金を攫うことができる。鉄の意志が錆び付いて知性と感性の軋轢がわずかな所作に顕在する。目元、喉元、胸元、手元、卓の下では足元にそれが顕れる。何が、甦る昨日までの絶望が。何が、今日一日の期待が。何が、明日からの生活への希望が。

Carpe diem.ーその日を摘めーそう言って、彼は刈り取るのだ。最後のマッチ棒で見た灯りのように華奢な何かを。麦畑用の両手鎌のように避けることの出来ない何かで。敗北者たちは思い知らされる。望みは希だったのだと思い知らされる。そうして真の絶望が、滅望がやって来るのだ。絶望、希望、滅望。授業料は高くつくが、一連の人生訓を教授するのに彼を超える大先生なぞそうそう見つかるものでは無い。皮肉な事に、彼は大ペテン師と呼ばれることはあっても、大先生と呼ばれることは生涯無かった。それもそのはずだ。巣立った教え子たちは例外無く学び舎へ戻って来るのだから。彼は天使の翼を捥いで、子羊さながらの四つ足に仕立てて飼い殺す術に長けている。分かっちゃいるけど辞められないと言う、人間の性の様なものまで教えないためである。彼は貴族だが、四つん這いになった納税者たちの上に胡座をかいて搾取するよりも、もっと上等な趣味を持っている。Carpe diem.

彼の名はサンドウィッチ伯モンタギュー。全六感の一分一秒を卓上の動向に集中するため、口にするのは二枚のパンにハムの切れ端を挟んだ物。彼の人となりや職務に対する姿勢の真偽については諸説あるが、しかしその食事様式には彼の名が現代にまで刻み込まれている。同様に、江戸時代の鉄火場で、博徒たちから好まれていたのが鉄火巻き。どちらも手を汚さず、片手で摂ることができ、当時の賭場で食されていたという共通点を見出せるのが面白い。これらは説の一つに過ぎないのではあるが。

毎月六がつく日の船橋駅前では異様な光景が見られる。駅前にその店を構えるメガ・アマテラス。この店先に朝七時頃から人々が並び始め、九時になる頃には長蛇の列が東武拠点ビルの裏、さらに駅前バスロータリーの上まで延々と続くのだ。彼らの目当ては回胴式遊技機。五百六十七台を誇る遊技機からその日メダルを吹き出しそうだと見当つけた台に座るための抽選待ちの列である。

月に三度の六がつく日、その男はこの列に並ぶ。抽選番号の如何に関わらず、着席した台では千円でCZを捉え、そのゾーン中の三択は悉く正解させ、突入させたATでは子役の波から特化ゾーンへ、ラッシュ中は上乗せの嵐。流石の強運も陰りを見せたかというAT終盤、左リールに刺さる中段チェリー…。約束されたかのようなその豪運を信じてはいないのか、ボーナス中の演出では常に完全告知を選び、確定演出を拝んでは安堵している光景は不思議だとしか言いようがない。

有り得ないことが起こっているのだ。いや、限りなく有り得ないことが起こっているのだった。昼の月でも見ているような。レバーを叩くそれは魔拳だった。

十時過ぎから打ち始め、二時に差し掛かるかという頃にコンビニ袋から取り出した握り飯を頬張る。休む事なく台と相対しながら、その台がメダルを切らした時、店員を呼びメダル補充をしてもらう時だけが一息つける瞬間だからだ。いやいや、それに加えて、この男が水分補給できる瞬間もある。ベットボタンを押下し、レバーを叩き、三つのストップボタンを停止する。淀む事なきその一連の動作を妨害する唯一の瞬間。すなわちロングフリーズ。この時、男は台から離れて自販機へ向かう。買って来た缶コーヒーの栓を開け、一口飲んで溜息をつくのだった。期待値たかだか二千枚とは、地獄の閻魔も一目置くようなこの男にとっては誤差の範疇なのかもしれないが。八時ごろのメダル補充でまた握り飯を頬張り、他店より少し早い十時半にこの店の営業が終わる。一枚二十円のメダル三万枚ほどを換金し、その日も男はいつもと変わらぬ帰路につく。

コンビニで買う握り飯は決まってツナマヨネーズ、その男はこれを好んでいる。二百年後、サンドウィッチや鉄火巻き同様にその名が冠されているか誰も知らない。おにぎり、おむすび、男の名は五十嵐。

博徒と呼ばれるには少々気が弱い彼は、その証拠に月三度の大勝を手付かずのまま貯金している。確定申告もしている。いわゆるパチプロとして生計を立てている五十嵐だが、月のほとんどは、船橋に九つほどある店舗でAタイプを回すだけにしている。千円でランプを光らせ、7を揃え、ボーナスゲームを消化し、三百枚のメダルを換金し、その日は帰る。一日を五千円で過ごす日々は、裕福だ。しかし、そんな彼に長らく不調が続いている。

日替わりで九店舗を訪れる彼が、いつものように両替した千円分のメダルをAタイプに入れ、いつものようにランプを光らせる。ここまではいつも通りだ。しかし、揃うのは77バー。あり得ないレギュラーボーナス。初めは、自分にとってのこれはむしろプレミア演出だなどと思っていたくらいだが、それが二日三日、二週三週と続いているのだ。もちろん六のつく日にメガ・アマテラスでAT機を打てば大勝する。しかし、月々のほとんどがAタイプ一発勝負の五十嵐にとって、レギュラーボーナスだけに偏ってしまったこの運気は何か底知れない異変が起きている事を示唆しているに他ならない。それはベルもスイカもチェリーも全く落ちないスロットと同じ様に、明らかな異変だった。何かが起きている。そのことに気付いているのは彼だけだった。だが、何が。そのことまでは思いもよらない。一体何が起こっているのか。

この小説を読む諸兄は、くれぐれも賭博者とならないことだ。いかなる仕事にも感謝し、自分の趣味の時間を大切に、本当に必要な人たちとだけ過ごす。賭博はこの三つ全てをふいにする。

日々の仕事に感謝しているかどうか意識下にはないものの、それなりに真摯に取り組んでいる男たちはここにもいる。彼らは趣味を仕事にしているようなもので、互いに互いを必要と認め合った人間である。話は船橋本町四丁目の事務所に移る。

濃いカーキのワークキャップを被った鈴井が、ご自慢のモニターを持ち上げて移動している。瓜生はまだ退院して間もなく、ダブルブレストのジャケットを着たままソファで寝ている。子桜の姿は部屋に無い代わりに、ドライバー7mgボックスの紫煙が漂っている。

「ほい。」

横になった瓜生の前にモニターを設置した鈴井は、続いて接続をPCに切り替える。養生中の瓜生の復帰はまだ先のようだが、彼は事務所に体を置くようにはしていた。この事務所でのドンパチ担当は、綿摘恭一を別にすれば彼自身なのだという自負があるためだ。スーツの袖の下に隠したS&W M60は、瓜生が誇る『暗中必殺のエフェクター』である電動アームに抱かれて、目覚めのために眠っている。とはいえ、開店休業中の店番のような気楽さも持っていたので、横になりながら映画なり動画なりでも見ながら時間を潰すつもりでいる。特に今日は、注目の動画の新作が配信される日でもあったから、鈴井がモニターを設置してくれたのは非常に有り難かった。こういう時、不思議と鈴井は察しが良い。。

「いやぁ、すまんね。」

「ういー。」

鈴井の厚意に感謝して、動画サイトYouSATURNから登録してあるチャンネルにアクセスし、トップに更新されている新着動画を映し出した。

閑やかながら泰然たるチェロの響きでオープニングBGMが流れ出す。

画面自体はまだ何も映されておらず黒いままだ。

だから、目を閉じて、その音楽にだけ耳を傾けられる。

いつまでも聴いていたいと思う旋律。

『世界の処刑から』

戦慄のタイトルが、低く落ち着いた声の男性により発せられる。

「今日は、415年ローマ帝国からお届けします・・・ッッッフィィィィィ!!」

これは、YouSATURN登録者数1800万人を誇り、総再生回数50億回突破の人気動画。船橋暗黒街非公認堕天使を自称する、スナッフィーが務める五分間の短い動画である。船橋市内で非合法薬物の売人たちを不定期に拉致し、彼らを血祭りに上げる様子を収めることを信条としているものだ。

真っ白な部屋に置かれたソファに深く腰掛けて足を組んだ、茶色いトレンチコートの男が画面に映る。顔も茶色のストッキングでできたような覆面を被り、頭の上に小さな耳のついたベレー帽を載せている。手元のテーブルには、大きな皿。その上に、あらかじめ殻を開けられた生牡蠣がいくつも並べられている。おもむろに覆面をずらして口元までまくり上げ、生牡蠣を食らい始めたスナッフィー。

「牡蠣食えば・・・。」

一つ食べ、口元を濡らして咀嚼している。

「牡蠣食えば・・・。」

二つ目を食べ終えて飲み込む。

「牡蠣食えば・・・。」

三つ目を頬張りながら、おもむろに立ち上がり、ふらふらとカメラに近付いてくる。その口元は、もう彼の涎か牡蠣汁なのか区別がつかない。カメラ前に到達しその向きを右に少しずらすと、彼が座っていた椅子のすぐ横には、天井から吊るされた縄を首にかけられ、粘着テープで口を封じられ、後ろ手に両腕を縛られてその場に立たされた、全裸の男が居た。

「殺してしまえホトトギスーーーーー!!!」

スナッフィーは手に持った牡蠣殻を大きく振りかぶり、男の露わになった男性器目掛けて思い切り振り下ろした。皮一枚残って切断された男性器はドクドクと血を滴らせながら、無残にもぶら下がった。男は激痛に目を見開き、自分の陰茎がもう二度とその機能を失ってしまったであろうことを悟り、声にならない絶叫を猿轡の中で上げた。千切れた精嚢からピンク色をした何かが見え隠れしている。何を隠そう、この過激なスナッフが国内外を問わずその手のファンたちを熱狂に駆り立てる原動力となっている。彼は世界で最も成功した動画配信者の一人だ。全てが無修正である。

「泣かせてみせようホトトギスァァァァァァァァ!!!!!!」

今度は二つの牡蠣殻を両手にそれぞれ持ち、吊るされた男の目元に向けて渾身の力で振り下ろした。目蓋が削げ落ち、血で真っ赤になった片目。もう一方の眼球は眼窩に蠣殻が突き刺さったために飛び出している。目蓋を削いだ方の殻はその勢いで鼻まで深く切り抜け、そのまま口を塞いだ粘着テープを破いてしまった。男の絶叫がこだまする。

スナッフィーは違法薬物の売人を心底憎んでおり、彼らのこういった叫びが呪詛の言葉に変わり、命乞いになるまでは聞き飽きていた。そして、口を塞いでいた粘着テープが剥がれて、売人に言論の自由を与えてしまった以上は、さっさとブチ殺してしまうのが彼の精神衛生上、最も効果的な解決策なのだ。すぐさま、一枚の牡蠣殻を逆手に持ち、熟練大工の鉋がけよろしく猛然と男の体からその肉を削ぎ落とし始めた。全てが無修正である。

「死ぬまでッ!待とうッ!!ホトトギスッッ!!!」

燃えるような痛みに直ぐ男は気絶し、その体重で自分自身の首を吊っている事になっているのだが、スナッフィーはその手を緩めることがなかった。動画の下部にテロップが流れ出す。415年にローマ帝国の哲学者である女性、ヒュパティアがキリスト教に対して異議を唱えた事により、キリスト教徒たちから同様の虐殺にあったことを解説している。この番組は、配信後すぐさま各国のファンたちにより外国語訳され世界中に転載される、血の教養番組だ。全てが無修正である。

しかしながら、『世界の処刑から』はこの回をもって最終回となる。

動画は、鉋がけの様子を延々映して、五分丁度で唐突に終了した。肩から腹までの皮を削ぎ落とされ、肋骨が覗ける程にまで男は変わり果てていた。神をも恐れぬ仕打ちだが、同様のことが1700年程前に神の信奉者によって為されたらしいということは皮肉な話だ。話し合いに応じなければ力比べで解決を図る、それは今も昔も変わらない。そういう業界で彼らは飯を食っている。動画冒頭で瓜生は、牡蠣といえばフライが一番美味いのになどと思っていたのだが、すぐさま彼の男性自身が縮まる思いをした。こうなる事が解っていながら、まだ船橋界隈にヤクの売人が後を絶たないのはどういったわけか不思議でならない。売人連中の中には、犯罪組織の末端としてでなく、そこらのゴロツキが個人で販売しているような者まで居る。それは取りも直さず、実入りの良さが他のシノギとは比べ物にならないほど良いからだ。言い方を変えれば、スナッフィーの脅威が目に見える形で存在したとしても、違法薬物ビジネスというものは断りきれない条件ということだ。

瓜生は、ローマ帝国では同様の手段で、女性が殺されたという事に思いを馳せる。幸福のために存在する宗教に対して、哲学を持ち出して挑戦するとは上等だと思った。自分の中に在る、女を愛するという感情が徐々に肥大し、憎悪の種子が芽吹き始めているのを自覚した。哲学とは所詮、問題解決のための一手段に過ぎないのに、如何ともしがたい問題に対して救いを与えるという宗教を貶めようと試みた者に対する報いとしては当然だと彼は直感的に結論付けた。

瓜生はキリスト教徒では勿論ないが、キリスト教的救済や信仰心の高潔さに対する敬意を持っていた。彼が今までに犯した罪など些細な物だから罰など恐れてはいないのだが、しかし今の生活に対する悩みや迷いは確実にある。さらに、先日西船橋のキャバクラで、正当防衛とはいえ堅気の人間を殺してしまった事が、精神的な動揺を増幅させていた。こういう時、彼は浴びるほど酒を飲んで、金を掴ませた女を思う存分犯すことで心身のバランスをかろうじて保つようにしている。この界隈には、そんな哀れな男から金を受け取り、合意の上で犯されてやるような(犯される事に合意なぞあり得るのだろうか)聖母マリアも三つ子を生んでしまいそうなほどの自己犠牲の精神で生きている女性が何人かいる。宗教に対する哲学の横柄に憤慨した瓜生であったが、ふと、それならそれで哲学が宿命的に背負わされている悲哀の像が自分自身と重なった。その瞬間、全てを赦してやれそうな優しい気持ちが胸いっぱいに広がって、心臓を覆い茂った憎悪をあっという間に包み込んでしまった。瓜生はこの、今まで出来なかった事が出来るようになるという瞬間に、非常に大きな意義を見出している。まるで、今度は自分が聖母マリアにでもなったような気がして、純粋に心の底から嬉しかった。

部屋を見渡すと鈴井の姿がない。おそらく、気分転換に焙軒へでも珈琲を飲みに行ったのだろう。アイツが戻ったら、今度は俺も焙軒に入って人生の幸福について想いを巡らせよう、と瓜生は思った。寝てばかりじゃなく、日差しを浴びて散歩がしたい。退院後、久しぶりに前向きな感情になったのは良いことだ。そこへ綿摘恭一がドアを開けて入ってきた。挨拶と労いの言葉を瓜生にかけ、子桜はどうしているか尋ねる。

「あぁ、兄貴、どうも。生憎とアイツは今、舞浜にいるようなんです。こないだの銚子に次いで。どっから掴んだ情報やら、ソドミーランドとゴモリーシーの間の動きが不穏なんですって。ネズミが大勢死にそうだって、随分興奮した口ぶりで電話かけてきましたよ。」

行動的な子桜に対して妙に感心するとともに、綿摘恭一は少々落胆した。たった今、鈴井と落ち合って連絡を受けた内容が、オカルト好きと言われている子桜にこれ以上ないほど向いているように思えたため連れ出そうと思っていたからだ。彼の力を測る意味でも、適切な難度の調査であるとも思えた。

「今朝、上から連絡があって、達磨神社って所を調べに行けって事です。ドンパチは無いでしょう、ただの雑用ですね。」鈴井はこれだけ伝え、過剰なほど背筋を伸ばした敬礼をし「じゃっ!」と言って裏通りへと消えていった。

鈴井は、東武の連絡員としてこの事務所に在籍している。それは、彼が優れたシステムエンジニアであるからだけでなく、合理的な判断に基いてチームを運用する能力が認められているからだ。この事務所と彼ら一同を管理しながら、どの任には誰が適しているかを判断し、上層部と連絡を取りながら仕事を持って来るのが任務の中で重要な部分を占めている。必要な通信機器一式は事務所にあり、原則的にチーム内の指示は口頭でなされる。上席付きの連絡員が徒で接触してくる事もままあるほどだ。

ともかく、道連れに誘い甲斐のありそうな子桜が捕まらない以上は仕方がない、単独調査に乗り出すしかない。瓜生に大事を告げて、事務所を後にする。

「兄貴、近所に美味い珈琲を出す店があるんです。今度一杯ご馳走しますよ。」

実現するかしないか不明な言葉でもって、瓜生から送り出された。

単独調査とは言え、しかし、そこへ行くまでに足が要る。達磨神社こと白幡神社のある大神保町は、すぐ北に白井市との境があり、南には八千代市が位置する。生まれてこのかた乗車したことのない北総線白井駅が最寄りという、そこへ行くまでがちょっとした冒険と言えるような場所にある。さらに、単独調査は気が進まないというそれなりの理由もある。この二つの問題を解消する単純な答えは、金で解決する事だ。綿摘恭一はその業者に電話をかけた。

発信後しばらくして、食肉工房アンドレに繋がった。業者というからには、後始末以外にも運び屋としての営業もしているはずだ。俺自身を運んでほしい。

「言っとくが恭一、生きてる人間とバイクでタンデムするのは交際相手だけと決めてるんだ。」

その発想はプロフェッショナルじゃない。

「だから、車で行く。どこで拾えばいい。」

助手席に乗せる乗せないで同じやり取りがあったとしても、呼び出してしまえばこちらのものだろう。船橋駅前北口バスロータリーを指定する。三十分程して、白のBMWが到着した。不思議な事に、助手席に乗り込んだ際、アンドレが何か言ってくることはなかった。

県道288号夏見小室線を北上。船橋の揺かご夏見ー夏見台を抜け、道なりのカーブで北東方面へ。マンションばかりだった夏見とは打って変わって、金杉で通りに面しているのは戸建ての住宅のみと言っても過言では無い。だから、八千代方面へ向けて、錆びた鏡のようになった空が一面に続いているのが見渡せた。左手の御滝公園を振り返ると、向こうにあるのは雲の目立たない青空。

それぞれの庭の敷地が広がり、住宅同士の間隔も空いてきた。商店の類は目に見えて減っている。駅前からずっと一車線が続いていたから、白のBMWは吼えることもままならず不憫だった。アンドレは黙ってハンドルに手を置いている。口数の少ない俺のことを、隣の運転手はどう思っているだろうか。仕事の間柄という悲哀。

それにしても、アンドレは二言目には交際相手と言うが、この男に女の一人や二人いるのだろうか。業者なんて言えば聞こえはいいが、堅気と極道という二つの畳の縁の上に立つ、陰とも陽ともつかない幽明境の亡者の様な存在だ。つまり、看板では堅気に向けた肉屋を営みながら、その裏で極道から死体処理や密輸の下請けという綱渡りの典型といった日常を送っている。そんな男と交際するのは、同じ綱渡りの曲芸師めいたやくざな女で無ければ、文字通りバランスが取れないでは無いか。にもかかわらず、女などと呼ばずに、よりにもよって交際相手などと呼ぶのが可笑しい。もしかすると、アンドレと付き合っているのは本当に純朴な素人女性だからなのかも知れない。ならば、相手に裏の顔は見せていないのだろう。工房への立ち入りも禁止しているに違いない。どう見たって人間用である処理場を見られれば言い逃れはできないし、伏せていた分知られた瞬間の衝撃は計り知れない。最悪、その場で口封じなんていう、笑えない悲恋で終わる可能性だってある。仕事が仕事だけに、身体にこびりついた臭いを念入りに落としてからでなければ、こんな密室同様の車内に乗せることすらままならないだろう。現に今のように。

アンドレの言う、いわゆる交際相手が彼岸のものか此岸のものか、そもそもあるのかないのか興味は尽きないが、同時に彼の異色の生き方も興味深い。チェーンソーが工房でも愛用の工具なのだということはまず間違い無い。あの日、西船橋の大日本プラザで持っていた得物は、アスファルトをまるでベニヤ板のように易々と引き裂いていた。闇夜の西船橋でひときわ目立つオレンジ色をしたあのチェーンソー。同様に、アンドレのバイクも車も、エギゾーストノートが特徴的で、彼の嗜好が現れているのだということは想像に難くない。さらに、あの夜に身につけていたあの真っ黒な革張りのライダージャケットもその現れとして関連付けられる。今思えば、改めて長身痩躯の彼の体型をギリギリと締め上げるように誂えた、身に纏うための鴉の羽根。死体解体、鎖鋸、排気音、二輪車と四輪車、黒革の拘束衣これらが瞬間的に一列に整列するのが見えた。ふふん、お前ってものは、大した変態さんだよアンドレ!こういった手合いと交際するなんて、その生活には苦労が絶えないことだろう・・・。

いや、待てよ、『交際相手』と言う限り性別は限定されない!熱せられた飴のように引き延ばされた時間の中で考えを巡らしていることに気づき、綿摘恭一はそうするのをやめた。これをしていると、到着までがさらに長く感じられる。それに、仕事前だというのに、考えれば考えるほど疲れる性質の内容になっている。運転席のこの男の本性がどういうものか、この仕事の間柄を保っている限り、いずれ垣間見えてくることだろう。

三咲で新京成線の踏切を越えさらに北東へ。流石に駅前には商店の数が増えたがそれもすぐに終わり、見晴らしの良い県道57号線との三叉路をそのまま直進。トーダイ整骨院のプロポリスという看板が胡散臭い。神社、霊園、畑が多く、良く言えば静かな、悪く言えば田舎な景観が広がる。船橋県民の森直前で左折。そのまま、人気の全く無くなった薄暗い林道をぐるりと半周すると、この先キャンプ場の看板。そのキャンプ場の手前、左脇に達磨神社へと続く小路があった。鈍行でゆらゆらと40分がかりの行程だった。

自然を守り続けようという心。その自然に親しみ、共に歩まんとする意志。船橋にこれほど鬱蒼たる森林があるとは、市街での暮らしからは想像もつかないことだ。郷土に自然が必要なことは、街に書店が必要なことと同じくらい自然なことだ。そんな一面の林の中で、背筋に空恐ろしい何かを感じるこの小路。ここをまっすぐ進めば、目的の達磨神社こと白幡神社がある。

達磨神社とは、船橋唯一と言っても良い、知る人ぞ知る心霊スポットである。曰く、2000年代に大学生が三人の少年から金品目当ての暴行を受けて死亡し、その死体が遺棄されたという場所。曰く、船橋市内に居を構えるオカルト研究家が度々メディアで取り上げ、霊能力者たちの霊視により女の霊が共通して確認されているという場所。曰く、帰宅途中の女性を狙った暴行事件が後を絶たないという場所。ネット上の情報はありきたりなものだった。事件の波紋に尾ひれがついて拡散し、周囲の人々を巻き込んでいく。暗く、冷え冷えとした、この地ならではの条件が揃ってしまった結果だろう。おまけに、神社の本殿には呪われた達磨が安置されているという。

車を降りた安藤玲は目を細めた。あまりにしんとして、冷ややかな空気を感じたためだ。人である無しに関わらず、彼は多くの命を処理してきた。そして、人の魂や霊などというものは存在しないと結論づけている。しかし、食肉工房という自分自身の結界を離れた今、感じているのはこの土地自体が持つ結界だ。それが、我々の訪れを拒んでいるのを感じる。この不思議な感覚に対する気付き。安藤玲は、今までに処理してきた数多の命に感謝した。

林道脇の小径から、すぐ先にある二つの灯篭と同じく石造りの鳥居が見える。そこをくぐり、さらに松林に囲まれた参道を直進すると、およそ百歩ほどで社務所にたどり着いた。そこまで行くと、社務所の裏手に隠れて随分と小ぶりな本殿がある。横幅四歩、縦幅三歩だ。鴉の鳴き声が煩わしい。

今回の任務、一体ここで何をしろというのか。鈴井からの伝達ではただの雑用。そのことが却って俺の興味を引き立てたのだが、このまま何も無かったで帰っていいものか。そもそも、本殿の扉が開いてはいるものの、その異名の由来とも言える達磨なぞ安置されてはいない。一体何なのだ・・・。呆然としていると、道連れのアンドレがふと言った。

「なぁ、こっちの社務所か。こっちじゃないのか。」

ふむ、なるほど、俺が囚われていない視点だ。単独でもいずれ気付いただろうが、やはり意見は多くあったほうが良い。社務所はそれなりに大きい。しかし、扉には当然鍵がかかっている。

「ちょっとどいて。」

言うなりアンドレは扉を蹴り破った。簡単に鍵は壊れ、その扉から中に踏み込む。目の前には、狭い廊下。直進して突き当たりの収納庫の前を右折すると、広い居間だった。いや、左手には調理場もある。ここは『キッチン』兼ダイニングのようだ。壊れた家具やゴミで雑然としている。部屋の中央にある大きなテーブル上には、散乱した食器と分厚い鉄で出来た大ぶりな鍋。開いてみると、これはグラタンだろうか。見て戦慄する。なんと言うことだ、出来上がってから腐敗した様子が無い。ここは、おそらくまだ生きている。それくらい新鮮な調理だった。半分ほど食べられて無くなっている。流しの水道をひねると、水が出た。生きている。こんなオカルトじみた場所に住んでいる人間が居るということだ。

そして、俺はしばらく我を忘れてしまった。強烈な既視感。だが一体、どこで見たのだろう。こんな場所を訪れたことはない。おっと、何か汚物らしきものを踏みつけてしまった。ああ、クソ!いい靴を履いてくるんじゃなかった。とは言え、このスーツも靴も、バッグの中の機関銃も含めて俺自身を形成しているのだ。初めから納得づくでこの場に来ている。とは言え、何かただならぬ不気味な感触が背筋を伝わる。やはりこんな所に一人で来なくてよかった。アンドレに謝意を込めながら独りごちる。返事は無い。アンドレの名を呼ぶ。やはり返事は無い。アンドレの名を叫ぶ。最早、彼の気配すら感じられない。急いで部屋を抜けると、廊下の続きと上階への階段。駆け上がってアンドレの姿を探すが、そこには居ない。不気味なマネキンたちがあるばかりだ。単独調査ならこうはならなかったと自分自身を呪った。今ははっきりと、自分が取り残されてしまった不安感が加速しはじめている。来た階段を駈け下り、右手の廊下を先に進む。突き当たり正面とその右に扉がそれぞれあった。何処か離れた場所で、ガタンと大きな音がした。そちらのはずであろう右の扉を開く。アンドレの名をもう一度呼ぶ。一体全体どこに居るんだ。ここは居間だ。中央にテーブルとそれを挟むように一人がけのソファが左右からそれぞれ二つずつ向かい合っている。アンドレ・・・どこにいるんだ。既視感がさらに強まっていく。一体、どこで見たのだろうか。何か、何らかのVTRで見た気がする。左手奥にある暖炉。たしか、ここの中にレバーが・・・果たしてそれはあった。それを引き下ろすと、部屋の一部の壁が開いた。隠し扉だ。しゃがみこんでその奥へ進む。まったく、勘弁してくれよ。その先は、非常に狭い通路だ。すぐ先に、階下へ向かう梯子がある。先へ進む。一つ、二つ、十八ほどその梯子を降りて階下へたどり着く。今までの廃墟然とした屋内と打って変わって、驚くほど白い部屋。ここでようやく気が付いた。この既視感は確かに動画で見たそのままだと、ようやく思い出した。梯子から足をつき、そして振り返った先に、アンドレの後ろ姿を見た。彼は呆然と向こうを眺めているようだった。彼の肩に手をかける。ぐるんと首をこちらに回した彼の目からは血が流れていた。いや、血潮のように熱い涙を流していた。

「こんな、ここは、本物だ。恐ろしい。こんな場所に、これほどの設備があるなんて。」

アンドレは錯乱していた、明らかに。部屋を見回すと、そこは整理整頓された真っ白な地獄だった。排水溝とシャワー、流血を洗い流すためのものだ。天井から吊り下がるロープとそれを支えるウィンチ、何のために使うか明らかだ。部屋の反対側に檻がある、人が寝るには十分な二畳ほどの広さだ。三脚とビデオカメラ。チェーンソー、ハンマー、鶴橋、ショットガン。

明らかだった。『世界の処刑から』その撮影現場そのままの光景が眼前に広がっていた。一隅に置かれた一斗缶の中に大量の牡蠣殻。どうりで鴉が啼くわけだ。この場で何人もの惨たらしい処刑が行われていたのだから。このことを突きとめろという依頼だったとでも言うのか。はっきりとした収穫はあった。あのスナッフィーの根城を明らかにしたのだから。東武側からすれば、早急に手を打たなければならない商売上の敵の居処を突き止めることができたわけだ。しかしながら、俺自身も非合法薬物売買は決して看過できない。そこだけは、その一線だけはスナッフィーと無言の共感が出来ている。無名の俺のそんな感傷を、先方が知っているはずもないのだが。

突然、大音量が鳴った。全身の神経が総毛立ち、予測される危機に備える。

Sail away.

自分自身の緊張感にそぐわない、妙に癒される旋律が響く。流れ出した音は、殺気とは対極にある波動。この曲が選ばれているその意図は一体何なのだ。

Sail away.

冷静さを取り戻して思うことは、間違いなくこの家の主人が帰還したという事だ。タイミングが悪すぎる。アンドレはまだ正気を取り戻していないような目をしている。

Sail away.

ドサッ、と梯子を一息に飛び降りた気配を背後に感じて、俺はバッグから機関銃を掴み出した。

何てこった、このタイミングで一番会いたく無い相手と対面してしまった。決して無防備では無い俺達だが、不意を打たれたのも確実に俺達であった。

「ん〜、二代目と業者だフィー。こんなとこで何してるっフィー。」

はっきり言って、一切の敵意を感じない。不法侵入相応の事をしているのはこちらであるにも関わらず、だ。何だ、何なんだ一体。このまま射殺されても辞さないというわけでも無かろう。フラフラとした足取りでこちらに歩み寄るスナッフィー。頭での考えが追いつかない。意表を突かれ過ぎているのだ。一体、このノーガード戦法は何なのだ。これ以上の接近を許すのは、すなわち自身の生命の存続を脅かす境界に達してしまう。その瞬間、この時間は熱せられた飴のように引き延ばされた。

打開策その一、すぐさま銃弾を浴びせて、この男を蜂の巣にしてしまう。だが、このトレンチコートには当然対弾繊維を編み込んでいるはずだ。そして、ここはスナッフィーのテリトリーであって、思いも寄らない罠を作動させてしまう恐れがあった。それこそ、下手をすれば、彼のポケットの中にあるスイッチ1つでこの部屋に毒ガスとは言わないまでも、我々の神経を麻痺させるだけのガスを放出することさえ可能だ。この男が頭から被っているストッキングめいたマスクには、そのガスを遮断するに十分な高分子機能を持たせた繊維を使っているはずだ。打開策その二、非合法麻薬の売人を殺すこの男に敬意を払ってこちらから停戦を申し込み、穏便に事を済ませる。だが、スナッフィー自身、俺が麻薬売買撲滅のために組織に身を置いている等と知る術がないので、信用される可能性はゼロだ。その場で話を合わせて、背中から撃ってくる可能性大、これは兵法の基本のキだ。打開策その三、奴が行動を起こすまで引きつけて、それに対する応答を返す。これは最も難しい対応なのだ。この狭い空間で後の後は取れない。ということは、後の先は後の後に如かず、後の後は先に如かず、先は先の先に如かずという大原則を放棄した下の下のさらに下という選択肢となる。もう、答えを、結論を出す必要がある。果たして先を取ったのはスナッフィーだった、およそ理解し得ないやり方で。

「綿摘の、いや十二位。何をしに来たッフィー。俺はこないだ食った牡蠣に当たってもうどうしょうもなく病み上がりなんだッフィー。分かったら、こないだの火炎瓶は水に流して、さっさと帰ってここで見たことは無かったことにして欲しいんだフィー。お前が違法薬物に対して興味がないらしいことは知ってるんだフィー。」

停戦という事なのか、向こうからの提案か。

「本当に、さっさと行くんだフィー。別に、この場でお前ら二人を殺そうなんて思ってないフィー。お前はお前の流儀で違法薬物除去に精を出したらいいんだフィー。」

この男は、いったいどこまで知っているのか。しかし、ここまで自己開示された以上は、その藁にすがるしか無い。未だに呆けたアンドレを引き連れ、梯子を登る事を急かす。

去りゆく二人の後ろ姿を見届けながら、スナッフィーは考えた。あの男が、仕組みから何から何まで、この船橋の荒廃を変えるのであれば、いよいよ自分に課した使命は幕を下ろすのだと。我ながら珍しく、妙な期待をしている。

我が妻を薬漬けにした、あの忌まわしきアムステルダムからの流れ者、ブルーナファミリーを南船橋のラ・ラ・モールで皆殺しにしたあの日から、自身がそれまでの心血を注いだ西武構成員としての人生は終わった。そして、新たにスナッフィーとしての人生がはじまったのだ。麻薬販売人を一人一人血祭りに上げ、麻薬を奪い、新たな売人に横流しして収益を上げ、その売人を次の標的とする一連の流れが出来上がって、自分なりの正義を執行してきたつもりだった。その過程で、自分自身も薬物を利用し、自分には効果を最大限に利用できる適性があることにも気付いた。覚醒剤やコカインを使用した自分自身は、痛みも死も恐れず、ただひたすらに文字通り鉄槌や鶴橋を振るう執行者としての地位を確立した。こと自分においては、頻度にさえ気を遣えば、依存症になる恐れは限りなく低いと思われた。組織の後ろ盾もなく、一個人でここまでの地位を築き上げたのだ。潤沢な資金を投資して『世界の処刑から』を配信し始めて、さらなる収益を得たころから目的が曖昧になってきた。

殺すためには獲物が要る。獲物たちは麻薬を捌く。彼らに、もともと彼らだった者達から奪った麻薬を売り付ける。そして、次の獲物として彼らを狩る。動画配信の収益は鰻登りに増えていく。だか、果たして自分が求めていたのは、金では無かったのだ。亡き妻の無念を晴らすべく、この街で、ひいてはこの世界で違法薬物の売買が無くなる事を望んだのだ。それが、そんな自分が今では、ドラッグによる無敵に近い力を得て、やっている事といえば負の連鎖への加担となっていた。悪い冗談だと、薄々気付いてはいたのだが。しかし、自分がしている違法薬物の『リサイクル』と違い、東武が組み上げているのは生産、精製、流通、販売という錬金術だ。その秘密を暴かない限りは、こちらも手の打ちようが無い。いつか、この船橋にあるはずのドラッグ工場を突き止めて、全ての大麻を燃やしてパーティーを開くその日まではこの戦いを続けるつもりだった。

つい先日、浮浪者同然の素顔で西船橋の歓楽街に赴いた時、聞こえてきた綿摘恭一の評判は、俺の二の舞になるような後進を作り出さない事を強く意識させた。あの、親父以上の威厳を持った叔父貴、綿摘壮一の秘蔵っ子なのだから。彼なら託せる、そう思う。その出会いに心から、万感の思いを持って感謝し、この住処に火を放つ。ガソリンと灯油を四対一の体積比で混ぜ、溶かせるだけ砂糖を溶かし込み、仕上げに触媒としてアルミニウム粉末を少量加えた燃料をウィスキーボトルに入れる。さらに、口を閉じたガラス管に濃硫酸を封じたアンプルも入れて作り上げた火炎瓶。梯子の上から階下にこれを投げ落とす。

ぼうぼうと燃え盛る屋敷に背を向けながら、スナッフィーこと飯島誠は、今後の身の振り方について思いを巡らせていた。金はあるのだ。無いのは理想だ。強い心で全てをゼロにし、今度は、いや今度こそ大切なものから順に箱の中へ仕舞っていこう。お気に入りの鶴橋一本肩に担ぎ、悠々と松林を立ち去った。

社務所から出ようというまさにその時、背後から不意を突かれて殴られるということも無いまま、二人は幸運にもBMWに乗り込むことができた。そのまま車を走らせ、道なりにさらに半周、県道288号夏見小室線へと戻る。右手にラーメンショップが見えるが、遅すぎる昼食どころでは無い。一目散に船橋方面へ向かった。時間帯の関係だろうか、その頃には一車線の道路を快適に進むことができたのだ。三枚のお札なぞ無くとも、無事に帰れそうだった。快速で排気音を鳴らす白のBMW。その運転手も、何か興奮交じりについさっきまでの出来事を口走っていたようだが、同じく興奮冷めやらない自分としては、その言葉の全てを記憶することは出来なかった。幸か不幸か、お互いの目的地は京成海神駅。さらに二人とも昼食をとっておらず、もう日も沈んでしまったから、そこで一緒に食事をしようという事になった。

食事らしい食事を地元で摂るならば、間違いなくここ海神軒だ。店の前で降ろしてもらい、アンドレもすぐ先の工房駐車場に車を駐めてすぐに入店した。俺は餃子を一皿と瓶ビール、アンドレは唐揚げとチャーハンを注文した。年老いた店主が、快活に受け答えて調理に入る。その時、扉がガラリと開き、二人の男が這入ってきた。

「おう、ジジイ、いつものな!」

「汚えんだよ、よくこれで潰れねえな!」

こいつらは地元の人間じゃ無い。ここ海神は町内会の横のつながりが強い。こういった横柄は、決まって東武の成り上がりなのだ。今や西武が撤退して、我が物顔で辺りを跋扈している。さて、こいつらを機関銃掃射で皆殺しにすることはできるが、その代償に一ヶ月近くこの店を営業停止にしてしまっては、俺は一体何処で回鍋肉にありつけるだろうか。熱せられた飴のように引き伸ばされようとしているこの時間を引き裂いて、ガラガラと引き戸が開け放たれた。真っ黒な軍服に身を包んだ将校たち三、四人が押し入って、二人のチンピラを有無をも言わさず引き立てていく。

「おい若造ども、この店は今夜俺たちの貸切だ。宴会の続きはあの世でやるんだな。」

永井老人が入れ替わりに言い放つ。続いて綿摘壮一が入店する。俺の隣に老人が、アンドレの隣に親父が座った。

「餃子一皿と老酒。」

「レバニラ炒めを、それと瓶ビール。」

店主の声が活気付く。タイミングが良すぎる、出来過ぎだ。

「なぜ、あんた達のような、影の住人が姿を見せる?」安藤玲は、息を飲みながら、かろうじて言葉にすることができた。

「あぁ、なんせ、恭一の初仕事だったわけだからな、祝い酒に、さ。」

あり得ない、その情報は知り得ないはずなのに。親父と、まさか東武が通じていようはずがない。しかも、このタイミングで俺たちがここにいる事を知りようはずもないのだ。

それを察して永井老人がボソボソと耳打ちした。俺は天を仰いだ。彼ら習志野軍閥の拠点としている行田団地は、旧海軍無線電信所船橋送信所として「ニイタカヤマノボレ一二◯八」の電文を送信している。通信傍受なぞ、朝飯前だと言うのだ。

「恭、今夜は動物園の忘年会だな。」

遠い記憶だ。どんな話だったか、全く思い出せない。永井大佐は、興味津々で耳を傾けようとしている。

「おサルさんは、いつもの木の上に居ません。代わりに、会の参加者の膝の上に代わる代わる寝転びに行きました。みんなが彼の頭を撫でてくれて、森にいる以上に居心地が良いと感じました。」

喉を鳴らして永井が笑う。この老人、親父が話すときはいつも愉しそうだ。

「チーターさんは、一気飲みが好きです。誰も彼に追いつけません。だけど、みんなが無理なく盃を傾けてくれるその姿を見ているだけで、嬉しいと思いました。」

安藤玲はぽかんとしている。船橋の伝説が隣に座っている現実に追い付けない。

「ゾウさんは、この年末に少し悔しいことがあって、涙を流す代わりに浴びるように、まさに浴びるように酒を浴びました。だから、その目に光る涙に気付いた者は誰も居ませんでした。」

綿摘恭一はこの寓話の背景を突き止めようと思いを巡らした。そして、その事自体が上滑りしていくのも同時に感じた。

「今年の幹事はオオカミさん。例年参加していなかったけれども、幹事の番になって嫌でも参加せざるを得なくなりました。会の最中、普段一匹狼だった彼は、今までに無い一体感を得ていました。」

綿摘壮一が一人語りを続けていく。店主が一人に一皿、焼き餃子を出す。さらに、唐揚げにレバニラ炒めが二皿ずつ供される。すぐさま瓶ビール四本と紹興酒一瓶を、店の倅が差し入れた。店側の気持ち、という事だ。酒を頼まなかったアンドレは苦笑しているが、運転も終えたので真っ先に老人達のグラスに酒を注ぐ。その返しに、永井が恭一に、壮一が安藤に酌をしてやる。

「改めて恭、お前の初仕事に乾杯だ!」

西船橋輪舞鈴に勤めている片柳美穂は、少し早く店を退勤して家路に向かおうとしていた。あれから彼女は、非合法組織の欺瞞を受け入れ、この船橋がどういう状況であるか理解に努めた。詰まる所それは、自分自身を見つめる事でもあったから、今は活き活きと日々の業務に励めていた。馴染みのお客さんも何人か出来た。前まで話すら出来なかった姉さん達と、先日のあの出来事から分け隔てなく話せるようになった。舞衣さんからは「望愛ちゃん、お客の品定めはよくよくしなきゃダメよ。」といつも声をかけてもらっている。というのも、あの日死んでしまったお客さんからの視線を、ただ一人、薄気味悪く感じていたからという理由かららしい。あの時、冷静さを失って刺してしまった、名前も知らないあの人が、また来てくれることがあるだろうか。しっかり謝りたい。私たち水商売の女は、皆が皆、私みたいな人間でない事を知ってほしい、そのために謝りたい。私は

真っ黒なミニバンが彼女を跳ね飛ばして、西船橋輪舞鈴の望愛こと片柳美穂はそれから気を失った。すぐに運転席のドアが開き、男が女の身体を引きずって、後部座席へ押し込む。一分もかからず、車はその場から消えた。

五十嵐義阿は今夜もAタイプのスロットを打っている。いつもと同じく、千円で甲高いガコッという告知音。レギュラーボーナス。明らかな異変だった。何かが起きている。そのことに気付いているのは彼だけだった。だが、何が。そのことまでは思いもよらない。一体何が起こっているのか。

 

第三章    隣人邪悪    

船橋ノワール 第二章

「ねぇねぇ、舞衣ちゃん。あなたの苗字は田野さんって言うんでしょ?」

蝙蝠はもう叫ばない。薄暗い店の中、今は人間の言葉が行き交うだけ。非人間的な、あまりに非人間的な。人間たちは何処へ。

抗争は終わった。船橋東武と西武の四十年間に渡る抗争は、西武側の一方的な終戦協定により終わらせられてしまった。地元愛が資本の波に押し流されてしまったのか。だが、組織が失われてもそこに人間は残される。流され、変化し、歩みを続けていく。彼らはそこから取り残されてしまっていたのか。淀みの中で、変化を忘れ、組織に胡座をかいていた結果がこの協定なのだろうか。しかし、彼らは組織以外の何物も失ってはいない。今こそ、彼らは自分と向き合えるだろうか、地元と向き合えるだろうか。そして、自己を通して他者と向き合えるだろうか。この変化は急だが、ここで変化できなければ待つのは滅びだけだ。変化と進歩は別として。

混乱に次ぐ混乱だったが、不本意ながら大体の指針が立った。俺を東武に推薦した老人達は流石と言うか、事前にこの事態を把握していた。西武の暴力部門で頂点に立っていただけに、会頭の顧問として協定約定の期日まで相談を受けていたらしい。親父に言わせれば、

「もう身体が痛いから、そろそろ恭やってくれ。」

ということらしい。何をか。うすうす勘付いてはいたが、壮一に代わって敵陣の東武に乗り込み内部から瓦解させるという事。それが無理なら、せめてこれ以上地元が荒廃しないようにする事。何てこった、望むところだ。

十二位として充てがわれた事務所に着く。朝十時前、殺し屋の朝としては健康的すぎる時間を指定されていた。船橋東武幹部の皮を被りながら、会頭の寝首を掻く下克上を果たす。その第一歩がこの本町4−40−1にある雑居ビル、小さい事務所から始まる。

ノックして返事も待たず扉を開ける。真新しいダンボール箱の山が、ここの住人がまだ越してきたばかりであることを物語っていた。そして、散見される空き缶、いつ冷めたか分からない出前のピザ、バニラ香がする煙草の煙は常に漂っているのだろうか。ソファから男が跳び起きて、目を丸くしてこちらを見る。その気配に気付いて、デスクでPCをいじっていた男もヘッドホンを外し立ち上がる。

「あっ、随分早く来たんスね。十時過ぎって聞いてましたが。」

ソファの男が慌てた様子で口を開く。金属質な細身の眼鏡を掛け、トラッドなダブルブレストのブレザーをタイトに着た、上品で知的なチンピラと言った体だ。しかし、このスタイルでは拳銃を懐にも腰にも携行していない事が明らかで、余程の威勢がなければ鉄火場で一斉に撃ち倒される。かと言って、ナイフ使い特有の殺気は一切感じられない。むしろ、表情から伺えるのはお人好しな兄ちゃんの印象だ。

「新しい十二位のボスと働けってことで、我々もつい最近ここを充てがわれたばかりでして。瓜生です。そいつが鈴井。」

「どーも!」

極端に大げさな敬礼と、それに自分で耐えきれなくなった笑い声をわははと上げて、鈴井はすぐにPC画面との睨めっこを再開した。濃いカーキのワークキャップ、革のライダースジャケットにデニムというミリタリーな出で立ちに、長く伸ばした口髭が印象的である。彼も眼鏡をかけているが、PC画面の見過ぎなのだろうか。さっきの瓜生といい、銃の照準器の先を見つめる方は大丈夫か、少々不安ではある。

「俺たち変なやつかもですが、敵意や悪意は無いんで。そこらへんは安心してください。うちら下っ端は幹部の名前なんか畏れ多くて聞けませんから、せめてボスって呼ばせてもらいますね。」

東武の伝統か何かだろうか。まあ、いずれ知られることにもなろう。距離感は少しずつ縮めていくのが良い。

「あと、俺たちの他にもう一人、子桜ってのが居るんですが、アイツ今週は銚子の方へ行ってまして午後には帰ってきます。」

何が彼を銚子へと駆り立てているのか不思議だったが、目下の所この散らかった荷物をどうにかするのが先だ。昼過ぎまで事務所の整理を鈴井を除いた二人で行い、それから各自で食事とした。朝も食わず、軽く動いて空腹だ。事務所は路地に面しているのだが、すぐ傍に野郎共が大好きな極太麺に野菜を載せてニンニクと脂を利かせるラーメン店を見つけた。極大値と板で出来た大きな看板に書かれている。胃袋に対する挑戦状めいた店名だが、あいにくこの系統は主食では無いから今の気分と違う。大通りに出て向こうを見遣るとラーメンののぼり旗が見える。全国チェーンの店舗たちと居並ぶようにしてその店はあった。

「こってりらーめん もいらい」ギリシャ神話で運命を司る三姉妹の女神。長女クロトが糸巻棒から運命の糸を紡ぎ出し、次女ラケシスはその長さを測る。そして、末娘のアトロポスがこの糸を切った。切り取られた運命の糸は人々に割り当てられ、彼らの寿命が決められたという。まさか、三人の女性で切り盛りしているのではないだろうが、こってりらーめんの響きに食欲が励起される。千葉でこってりらーめんの名を冠するのは、成田家の流れを汲んでいる事を意味する。この成田家は横浜家系とは違い、背脂をふんだんに使ったこってりスープに太麺を合わせたものだ。店舗は都内に二軒、本八幡、津田沼、千葉に一軒ずつ、そしてパリに一軒。船橋で成田家が食えるのは信じられないのだが、果たして表に張り出された写真は成田家のそれであった。木造りの店構えは落ち着いた雰囲気。その引き戸を開ける。

テーブルがいくつかと、カウンターが六席。そのカウンターに先客二名が麺を啜っている。

「どうぞ!」

と促され、カウンターの真ん中に座った。すぐにチャーシュー醤油らーめん大盛りもやし抜きを超ギタで注文する。厨房には女性店員が一人だった。無料ご飯を炊飯器から自分で装えるのが嬉しい。太麺を茹でるのは時間がかかるから、どんな店でもあるなら細麺で注文する。逆に言えば太麺を食うのは成田家くらいなもんだ。今までは、北区からたまたま池袋の近くを通る用事があったときくらいしか味わえなかったのだが、目の前に出された碗の中には見紛う事なき成田家の超ギタが盛られていた。思い切り啜り、至福の味わいに脳を溶かす。その様子を見て、女性店員が

「成田家よく行くんですか?」

と尋ねてきた。千葉で知り、池袋に通っていた経緯を答える。

「私たち三人、成田家辞めてこの店作ったんです。夜の居酒屋がメインで、らーめんは昼だけなんですよ。最近、成田家の味変わりませんでした?」

何と答えれば良いか判らないまま麺を口に運んだ。味は変わったのかもしれないが、俺にとってはまだこの脂の旨味は変わらない。

午後二時から事務所の整理を再開した。こちらでは鈴井も参加し、各自黙々と作業を進める。日が落ちたくらいの所で急にドアが開く。

「や、どうもどうも、子桜です!ボス、遅くなりましてすみませんでした!」

薄いワインレッドの上に白のピンストライプを走らせた生地のスーツを着、紫地の小さな小悪魔柄のタイを締め、細身で黒縁のウェリントン眼鏡をした馴れ馴れしい男が近付いて来た。間近で一礼し、顔を上げ、俺の顔をジロジロと見て

「ボス、目元まで前髪を下ろしてはいますが、どうにも背格好から鼻筋口元どれを取っても綿摘壮一に良く似てるんですよねえ・・・。まさかとは思いますけど、ボスは西武の綿摘じゃないですか?ラーメンを食いに行ったついでに戦争を終わらせたって伝説の。」

それは俺の親父だ。最後の話は不明だから同一人物なのか知らんが。

「えぇ⁈二代目!だったら尚更あの伝説を知らないなんてオカシイ!ブラックループ事件は、都市伝説、ゴシップ、オカルトどの類でもなく紛れもない伝説です!環七ラーメン戦争は三十年前確実に勃発していた、それを一人でたった一晩で終わらせたんですよ!あなたのお父さんは!息子なら何遍でも聞かされているはずだ!さあ、本当なら聞かせてください、まだどこにも語られていないような、貴方だけが知っている物語!」

「おい馬鹿、その手の話は今することじゃねえだろ!すみませんボス、こいつはこういった話が大好きでして。銚子やら何処へやらに行くのも、ゴシップ、オカルト収集みたいなもんなんです。」

「何を言うんだチミは!他所の事例を通して、この街の未来を予測する。今この国で起きている抗争を正しく分析することが、今後取り残されないために絶対必要なんだって!ボス、綿摘の家系ってことはこれくらい知ってますよね?ここ船橋で起きていた冷戦は、池袋の代理戦争だったって事。それが急にこないだの協定じゃないですか・・・。何が始まるんです?大体、綿摘は西武の側なのに二代目の貴方が何故こんなところに居るんです⁇」

鈴井が笑顔で子桜の肩を抱き、奥の部屋へ連れて行った。

片付け以上に疲れる時間だった。ソファで休憩をとる。子桜が口走った話、確かに池袋でも同様に東武と西武の抗争が繰り広げられている。しかし、船橋の状況との因果関係までは不明だし、誰もそんな話をしていない。ただ、銚子駅前では地元の漁業組合と、新興の商工会とが不穏な睨み合いの状態にあるなんて話も聞いたことがないわけではない。それと、俺の父親が西武の大幹部になって久しいのに、なぜ子桜は顔を知っているんだ。表舞台に立つ看板凶手からは早々に手を引いて、西武の影として生きていたあの父親の顔を知っているというのはどういうことだろうか。それこそ、ブラックループの三十年前くらいから公式な顔写真は抹消される地位にいたのに、なぜそれを知っているんだ。思考の堂々巡りから導かれる結論、それは本人に聞いてみるまで解らない。

奥の部屋から子桜が出てきた。照れ臭そうに

「や、先ほどはすみませんでした。いかんせん、あの手の話が好きなもんですから、ちょっと興奮しちゃいまして。で、その、この後に全員でボスの歓迎会をしたいんです。時間よろしいですか?」

仕事終わり間際に急に入る飲み会は大好物だ。どこか良い店はあるのかと聞く。

「じゃあ、この時間ですから、西船橋に移動してキャバクラで飲みながらお近づきになるってのはどうでしょ?締めに良いラーメン屋を紹介しますんで。」

同業他社がやっているようなキャバクラというのはどうかと思うが、西船橋で通えるようなラーメン屋は押さえておきたい。総武線で一駅隣の西船橋に移動する。電車の中で、部下になった三人とも弱視ということに違和感を確信しつつ。

「駅前ロータリーの目の前に奇妙なビルがあるの分かります?一階は飲食店ですが、その上から三フロアは水商売で、下からフィリピン、ロシア、日本人とランクアップしていくんですよ、笑っちゃいますよね。此処を下から上まで、大人のスタンプラリーです。」

何にでも大人をつければ良い訳ではないが、その趣向は気に入った。だが、二階の店は、どう考えても俺たちが歓迎会に使うというのには向いていなかった。大人のスタンプラリーとは言ったが、大人の線引きが五十代を境にしている感がある。太ったフィリピン人の肉弾接待、これでは落ち着いて話どころでは無い。ウ〜ララ〜!甲高い悲鳴に似た笑い声が飛び交う。酒はせがまれる、キスはせがまれる、ゲストとホステスという盤面が引っ繰り返った革命がフランスではなくフィリピンで起きていた。ロベスピエールが全力でドロップキックをかますレベルの代物だ。ウ〜ララ〜!そういうのが好きな奴がスタジオ見学気分で行ったら良い。俺はもう御免だ。

「伏魔殿でしたねえ。上のガールズバーでカウンター席ってんじゃ何しにきたか分かりませんから、もう最上階行きましょう。このビルのトップなんでしょうから。」

げんなりした様子で一同、五階にある輪舞鈴へ。最上階の六階は雀荘らしい。

黒服に通されソファに座る。店内は暗いが、広さはある。俺から見て右回りに瓜生、子桜、鈴井の順で円座。四人それぞれの隣にドレスの女が着席する。こちらも同様に舞衣、真希、茜、雫。顔は、美人な方だろう、あまりじろじろ見たく無い。さっきのアレを早く忘れたい、忘れさせてくれ。先ずはビールで乾杯し直し、船橋を離れていた子桜が銚子で何をしていたか土産話でも聞こうとした矢先、瓜生が俺の担当になった舞衣に話を振る。

「ねぇねぇ、舞衣ちゃん。あなたの苗字は田野さんって言うんでしょ?」

「えー、ちがいますよぉ。佐藤とか鈴木とかじゃなくて、田野ってずいぶん珍しい苗字ですね。」

女一同、瓜生の真意がどこにあるのか好奇の眼差しで見遣る。それはすぐに失望と軽蔑に変質し、男達からの畏怖の念へと昇華することになるが。

「そりゃそうよ!アンタら、たのまいたのまいって、こんだけ着飾っててその性根は飛び抜けてズバ抜けた物乞い精神してるからよ!二言目にはドンペリたのまい、ドンペリたのまいって!キャバ嬢なんてものは着飾った物乞いだろうが!」

ほんの三秒前、穏やかに口を開いた彼は、沸点らしきものを微塵も観察させることなく、説得力を持たせた偏見を昇華させた。職に貴賎なし、自分の職業意識を高く持ったプロフェッショナルも居るはずのところで、こんな吠え方では誰もが瓜生を狂犬と思わずにいられないだろう。しかし、その大胆な問いかけは、もしかすると嬢たちが無意識下へと仕舞い込んだ自己同一性をはっきりと意識付けさせた可能性もある。知っているという事を知る、それは大切な事だ。

「ねえ、新しいボス。もしもこの舞衣ちゃんが、自分の名前がそうであるのと同じように、物乞い同然にドンペリたのまいって叫びでもしたら、入れてあげますかね?」

勿論だ、歓迎会は盛大であるに越したことはない。その言質を取るや否や瓜生が吠える。

「お前が親譲りの乞食気質で子供の頃から特ばかりしてるんだったら叫んでみろおおおお!!」

「ドンペリたのまーーーーーい!!!!」

舞衣は自分を乞食と認めた、はっきりと。これは、彼女が今後プロとして生きて行くためにはっきり自覚すべきこと、そうあれかしと思う。理性が人に平等に与えられているのであれば。

若さだけが取り柄といったような黒服が、自分だけ熱気を帯びてボトルを持って来る。続いてグラスが人数分。

「兄貴、この値段の割に詐欺じみた小さいボトルじゃ、俺たちの取り分がそれこそスズメの涙。いや、カラスの涙。カー、カー、こんだけカーって具合ですよ。どうでしょう、席についている残り三人の舞衣ちゃん達からも、おんなじようにその家柄を聞いてみるってのは。」

一人につきドンペリが一瓶、豪気で結構だ。この三人には、今夜から身体を張って下働きしてもらうわけだから、ここまで場を盛り上げさせておきながら無下に断るのはぞっとしない。だが、瓜生ここで一度引いてみせる。

「しかし、どうでしょうね。こいつらやらせてみるまでもなく、兄貴の財布からまるで行きがけの駄賃代わりって気軽さで、そんな二束三文のために自分の心を豚にでも食わせちまいそうですが。結果は目に見えてませんかね?本当に良いんで?」

喉よりも、渇いた心を潤わせるためには、グラス一杯だけでは満足できそうもない。さっさとやるように促した。子桜は満足そうにニタニタ笑いながら様子を見ている。ルーレット賭博にでも勝ったかのような、いや自分の中で赤黒どちらに賭けるか腹を決めて結果を見守っているようかのような表情だ。ガラス張りのテーブルを踏み抜きそうなくらい、片足をどんと乗せて瓜生がまた吠える。

「だったらオイ!吹けば飛ぶ程度の札が欲しくて豚に成り下がる奴居るんだったら叫んでみろおおおおおお!!」

結果は当然、と言うべきか。4人連続ノワール。この場には一人の殺し屋、三人のチンピラ、四匹の雌豚それと同数の瓶が在るだけになった。店内の異様な熱気とともに。

瓜生は運ばれてきた酒を女たちに酌させる。そしてそのおこぼれを、豚に真珠と分かってはいるがご相伴に預からせてやっても良いかと訪ねてきた。頷く。

「このお大尽さまが今夜一晩だけ、お前ら雌豚を人間扱いしてくださるとよ!人間だって滅多に味わえないシロモノだ、見てるこっちが恥ずかしくならないようにお上がりよ!!」

乾杯の音頭と呼ぶには常軌を逸した叫びとともに、皆が口々にグラスを味わう。ある者は呷るように、ある者は舐めるように、多くはひと息に、他残りは心を曇らせて。その様子を見咎めたように瓜生の追撃は止まない。

「まさかアンタら、これだけ俺に言われ放題言われて、傷ついているなんて言いやしないだろうね。言葉のナイフは諸刃だよ!!そんなことすら知らないときたか。一体全体、あんたらのどデカいご自慢のブランドバッグの中に、これっぱかりの詩集やら小説やらが存在しているかなんて、量子力学を持ち出しても説明不能だろうよ。なんなら試しにここへ持ってきてみろよ。やっぱり持ってこれやしねえもんな。それとも、あんたらも何かい、自分がそのバッグの中の化粧品でもって男どもを騙していながらに、自分自身の心まで欺いている事に傷付きでもしていた刹那があったとでも?」

がぶりがぶりと喉を鳴らしながら酒を呷る瓜生。迷言、禁言のヒットパレードが続く。

「あんたら、こんな店で働いているくらいだからご自身の容姿にさぞや自信がおありでしょうがね。美人なんて言葉に満足しているようじゃ、せいぜい信頼度四割ってところですよ。ホントなら上から、佳人麗人美人の順なんだから!ヒト並にチヤホヤ扱ってもらえる最下層なんだから!要は心の持ちようで上にも下にもなるってわけですよ。さらに下には並上、並中、並下。ここまでは良いでしょうがね、その下がブス!こんな風に言われてショックを受けた女性に対して、私は言いたいんですよ。声を大にして!ブスなんて言われて落ち込むことはないんです、その下にはもっともっとあるからですよ。ツバ、タン、吐き気、ゲロ、卒倒、疾病って言う風に。だからブスって言われて落ち込むことはないんだ。だがな、女ども、美人なんて言われて有頂天キマってるような連中ども!上にはまだあるし、実際のところは並みたいなもんなんだろうよ!勘違いするなよな、くれぐれも。」

ここで子桜がようやく口を挟む。

「それはそれとして、お前はもっと女性を敬う必要があるんじゃないか?始まりって漢字には女が偏に含まれているから、女あっての人類なんじゃないか?人類全員の幸福を願って、改めてこのグラスで乾杯の音頭をやり直してくれないか。」

こいつらの中にも常識人がいるらしい事に女達も安心した様子だ。俺も。無論、その念は吹き飛ぶ。

「何を気障ったらしい事をほざきやがる!根本から違う。いいか、聞けよ、女なんてもんは始めっから台なんだよ!男が上に乗るんだ!男は上!キサマら下だ‼︎ 」

これを期待していたのか、子桜は瓜生にウインクして一杯呷った。ダメだ、ソドムとゴモラ出身かこいつらは。鈴井の方を見ると、なんと顔を赤くしてもう寝ている。

誰が瓜生の暴走を止められるんだとシャンデリアを見上げたその時、男が躍り出て発砲。瓶が一本割れる。密閉系の店内での発砲は鼓膜が痛い。いかにも護身用と言った拳銃だが、しっかりと両手で握り、身体の中心で構えている。仕事帰りの会社員か、どこぞの組織の殺し屋か。いや、殺し屋が狙う時は今頃殺し終えてなければ。一応の心得はあるようだが冷静では無い、全身がブルブルと震えている。武者震いと言うよりは極度の緊張であろう。女性用電気振動自慰器具-バイブ-のようだ、と瓜生は思った。バイブマンがどのキャバ嬢の股間に埋まりたいと思っているのかも思案した。冷ややかな笑みを浮かべながら女達が今どんな表情になっているのか見ている。思った事そのまま口に出そうと話し始めた瞬間、空に浮かんだ青鯖のように瓜生の身体が横殴りに吹っ飛んだ。

「殺した・・・殺った・・・。僕、みんなが言葉の暴力に耐えてるのが見ていられなくて・・・!」

乱入者はこの店の常連で、三十過ぎの気弱な男。四人のうち誰か、おそらく舞衣の馴染みで、もう我慢の限界を迎えたらしい。言葉の暴力、言葉のナイフは諸刃か、違いない。心の中で頷いた時、キチキチという地獄の蜘蛛の嗤い声を聞いたのは俺だけだった。倒れた瓜生が着るジャケットの袖の下で電動アームが作動し、小型のリボルバーがその手に届けられる。身じろぎもせず、誰からも気づかれる事なく男の頭を撃ち抜く。

「死んだふりだよ、馬鹿野郎。いや、それとも地獄から生き返ったんだったかな?」

ムカついた表情で瓜生が吐き捨てる。正当防衛とはいえ、カタギを殺した後味の悪さだろう。さっきまで吠えていた酔いがめっきり冷めたようだった。

「客の品定めは必要だぜ、アンタら。用心に越したことはねえよ。」

それは自分のことか、死んだこの男のことか。両方か。だが、女達は口々に死んだ男を偲んで、涙を流している。驚きもあるだろう、悔しさも込み上げてきたのだろう、常連の死は悲しかったのだろう。唯一、舞衣だけが冷めていた。

「でも、この人、変にしつこかった・・・。確かに良い人だったのかもしれないけど、私には。こんなことして死んじゃうなんて。」

「女ども、騒がせて悪かったな。俺たちゃ引き上げるよ。金はこのボスが払う。」

面倒事から引き上げようと男達が座席から腰を上げた時

「うぎゃあぁぁぁぁぁぁ!!」

瓜生が叫び、散った桃の花のように倒れる。

「東武のヤクザども、死ね!!」

真っ赤なドレスの女が、狂乱状態でナイフを振りかざす。無防備な寝顔を見せている鈴井が次の狙いのようだ。手荒だが足払いで、華奢な体を跳ね飛ばす。子桜がナイフを取り上げ、優しく組み伏せた。心得はあるようだが、甘い、大甘だ。当然まだ女には余裕があり、叫び続ける。

「私のお父さんは、十年前お前ら東武に殺された、西武の片柳!それに、この人だって、西武が潰れて水商売しなきゃいけなくなった私の話をいつも聞いてくれていた!」

「ボス、この女黙らせますか?」

「やめなさい!」

舞衣、真希、茜、雫それぞれが立ち上がり、ポーチから護身用の小型拳銃を取り出して構える。俺と子桜それぞれに二丁ずつが狙いをつけている。この至近距離では対弾繊維であっても痛い。

「確かに乞食まがいの生活に甘んじてるわよ、それはいい。だけど、あたしたち女を男が守らないから、女は女で護り合う!それがあたしたちの流儀!」

瓜生の喚き声、駆けつけた黒服の叫び声、女どもの啖呵と今にも火を噴きそうな銃口の数々。俺はトートバッグから財布ではなくM9を取り出した。本当の鉄火場なら、今の俺の動きで俺たちが三回ずつ死んでいてもおかしく無いくらいだが、こいつで店の中に居る人間を三回ずつは殺せる。その前に俺の流儀を聞かせる。

俺の下では麻薬取引を行わせない。俺が主席に就いた時が、この街から麻薬が消えて無くなる時だ。その時、精神的弱者や金銭的弱者、お前達のような他に生き場のない男女が搾取される事なくこの船橋で暮らせるようになる。逆に言えば、それを望まない東武の構成員は今が下克上の好機だ。

「西武の綿摘がどうして東武に来たか解りました。俺たち三人は、こないだの協定まで西武に居たんです。貴方がウィスキーの瓶を掴み取った瞬間も見てました。組織が潰れて、でも食ってくためにこっちに流れたんです。今夜から兄貴と呼ばせてください。」

事の顛末を眺めていた老紳士、この店の支配人の男が。歩み寄って、語る。

「西船橋はまだ西武のシマだよ。西武のシマの半分は綿摘のシマって言っても過言じゃ無い。なるほど、そっくりだ。若頭、この街のことくれぐれも頼みます。」

荒れた店内、散らかった酒器、死人一人、怪我人一人、鈴井はまだ寝ているようだ。お荷物だらけだったが、輪舞鈴が全て請け負った。只より高いものは無い。騒乱豪華の舞踏会が幕を閉じた。ラーメンは次の機会にお預けだ。女を守ったカタギの男と、カタギを殺したヤクザの男。今は亡き船橋西武という巨大組織の不在の存在感。俺たちは、これから誰と戦っていくのか。

十二位の面々と入れ違いに、安藤がバイクで乗り付ける。今夜の事を穏便に運ぶために、業者を入れて荷物の回収をさせたのだ。こういう時に寡黙な安藤は、何があったのか興味も示さない。淡々と袋に荷物を詰め込み、担ぎ、バイクに縛り付けて帰った。床にこびり付いた血糊を黙々とモップで拭き取りながら、舞衣は考えていた。

『源氏名、田野って苗字もつけて新しい名刺作ろう。』

後日談はこうだ。新規の客達は一人だけ苗字が付いたこの嬢にその由来を聞く、今夜の一幕が再現される。彼女もこの店も、それから大いに潤うのだった。

後日談はもう一つある。瓜生が運ばれたのは、船橋と西船橋の中間地点にある船橋中央病院。翌日昼前にそこへ見舞いに行った。瓜生はベッドで横になっていたが、昨晩の事は全く覚えていないらしい。何でも、酒も女も強いそうだが、酒と女の二つが絡むと途端に性格が変わるんだとか。

「かあぁ、そんな事があったんですか・・・。じゃあもう気狂いに刃物ってやめて、キャバ嬢にナイフですね。」

口の減らない男だった。

 

第二章    死亡遊郭    了

船橋ノワール 第一章

蝙蝠の叫び声が聞こえる。あいつら月明かりに照らされて、夜闇の中で踊っている。踊らされていることも知らずに。恥知らずで、煩瑣い。朝日に目を焼かれたのか、それとも放たれた輝きから目を背けたいのか、そんな我が身を不遇と思ってはいないらしい。今では、誰も聞こえないくらいの大声で、誰も気付かないほどに堂々と、夜の往来でお喋りに興じる事が出来るらしい。仰向けになってそれを聞いている。頭が痛い。

ソファの上で目が覚めた。痛み、いや生の感覚が身体にある。応接室だ、自宅の。此処で眠ったことは無いが、即座に判る。時計が指すのは深夜二時。二人の男が話している。痛みを堪えて起き上がると、四つの目がきらりと光った。還暦を過ぎた俺の親父、それと昵懇の初老の男性。俺に殺しを教えた男、その男の殺しに資金を提供する男。色あせた伝説と、今もその伝説を夢に見る男。この場に湧き上がった雰囲気は、言わば歓迎。だが、何を。なぜ我々が此処に。俺の頭にようやく混乱が追いついたらしい。始まる問わず語り。

近々、船橋の勢力図が大きく塗り替わる動きがあると言う。その後手に回らないように、予め俺を呼び戻したのだという。数年前に一線を退いたこの壮年の語り手に代わって、俺が東武に所属する。ようやく居心地が馴染んできた王子−十条−赤羽、北区ダークラインに舞い戻ることはもう無いだろう。三度唾棄しても胸糞悪い、あの街を愛しく思う頃が来るだろうか。ともあれ、この界隈で代々凶手の高みに居た綿摘の代替わり、気忙しいことだ。

「イギリスかどっかの話にfrom the cradle to the graveってあるだろ。かつての船橋は、公営ギャンブルからストリップまで何でもあった。ゴロツキから堅気の人間まで、どんな奴の面倒もよく見る街だった。今じゃ、残っているのは競馬くらい。代わりに池袋崩れのチンピラが表で小松菜、裏ではマリファナ。混ぜ物だらけの劣悪品で、俺たち船っこは依存者だらけだ。金を生み出す仕組みとしては、これから益々成長していく。」

船橋を大きく二分する公認非合法組織、西武と東武。しかし、西武勤めだったこの仕事人間が俺を東武側に推したというのは解せない。礼智足らずの仁義信、率直で偽り無い人物ばかりの西武の評判は、誰あろう綿摘壮一その人から口伝てで聞かされ続けて居た。麻薬売買で荒稼ぎする池袋崩れの人で無ししか居ない東武は、地元の癌であるとは何度も言われていた。勿論、西武で父の背中を追いかけて二世アサシン呼ばわりというのは癪だ。しかしそれ以上に、この老獪な年寄りが東武に分岐させた線路の上をこれからも走らされ続けるのは御免だ。

「まぁ、単に推薦があって幹部の席次に着けるほど、東武は甘くないんだ。連中は、地域密着系都市型任侠団体を標榜する西武のやり方と比べるまでもなく…」

壮一の視線がシャンデリアの方へと逸れる。見ているのはその装飾ではない。スロー再生された光の粒子を目で追っている。ツイードを好んで着るようになったが、耐弾繊維仕立てのスーツスタイルは変わらない。派手な裏地も。舞浜で仕立てたのだろうか。

「その、何と言うかな、堅いんだ。何もかもが。氷でできた監獄の地下八階。他者に幸福を与えるための近道は、仕事に苦痛を感じないこと。苦痛の対価に支払われた給料で真の幸福が買えるとは思わんね。」

そこまで言うなら、どうして東武に推薦したんだ?コイツの選択が自分の災厄として飛び火するのはいつものことだが、耄碌している。先の襲撃もその火の粉らしい。東武は幹部に与えられる座を十二に限定している。ゆえに、現幹部と相応の幹部候補との間で移動を行う。最も穏便なものは話し合い、事と次第では件の命の奪い合い。力を得るには力を以って、腐敗を正すには瀉血を以って、規模はさて置き組織の体質を維持している。

俺を襲ったのは幹部末席の十二位、呉。ナイフの使い手だという。東武で始末者を請け負ってから随分長く、西武の綿摘とは温暖な冷戦状態を保っていたそうだ。

「持ってるナイフ以上に彼奴の方が堅物だからな。十二位に就いて以来二十年近くになるが、席次の昇格は一切固辞していたらしい。寿命やら何やらで席は上から空いていくのが常なのに。そのまま行ってりゃ今頃は四−五位、麻薬取引の醍醐味が楽しめる役職にどっぷり溺れられる頃なんだがね。言っとくが、十二位なんてゴミ処理幹部を気取った言い回しにしただけだぞ。」

つまり、それに代わって俺が無事ゴミ処理幹部の座に迎え入れられると言うことか。謙虚に行こう。その仕事くらいしか向いていないという自覚はある。

「何、彼奴の胸を受け流しで刺した?よしよし、彼奴の胸元の芯、つまり心までは硬直し切っていなかったって訳か。」

息子の生還や技の冴えよりも、自分の仮説に意外な結論付けが出来た事に満足した様子で頷く。

「しかし、今夜の話が解せねえんだよ壮ちゃん。席次の移動は闇討ち不意打ち何でも有りだが、一騎討ちの掟だけは破っちゃならねえんだから。」

行田団地の長老と呼ばれている男、永井が口を開いた。環状の車道にぐるりと囲まれた団地とは表向き。そこは、習志野軍属の将校が仕切っている要塞だ。かつては海軍無線電信所船橋送信所があり、真珠湾攻撃艦船にニイタカヤマノボレ一二◯八を送信した。彼らは、第三次世界大戦の暁には降り注ぐ炎の槍から身を呈して市民を自衛すると、本気で考えているらしい節がある。船橋でその頂点に君臨する老人は、もう傘寿を間近に控えたといった貫禄だ。この場の三者はそれぞれスーツスタイルだが、彼の生地は表も裏も黒でより細身。暗い部屋の中でも存在感を放つ螺鈿様のボタンは、よく見ると袖口に五つ並んでいる。

「そうですよ。本当に彼奴を見たってんですか?自営業とは言え”連合”の下請けでしょう。だいたい、工房を出て凶手まがいの大立ち回りってのも聞いたことがないし。」

「そうだね。東武の席次には何の関わりもないもんな。」

官僚的な東武のシステムの中で異色なのが幹部の移動だ。分かりやすく言えば、東武は下克上を認めている。ただし、秩序の大きな乱れが無いように、一対一で行えというルール付きで。極端な話、大規模なテロに巻き込むついでにちゃっかり昇進というのでは、巻き込まれる方はたまったものでは無いからだ。麻薬売買の利鞘を得られるような役職となると、下克上と言う名の暗殺を恐れて表には滅多に出てこないようになるし、カウンターアサシンとして俺のような凶手を用心棒代わりに傭う事だってある。

知っている事はそれだけで、他は何も知らない。話を整理しよう。つまり、俺の命は箱の中にあって、ついでに借りてきた猫みたいになっている俺もその箱の中。船橋と言う名の箱の中でこれから先どんなことが起こるか想像もできないが、蓋を開けて見るまで俺が生きているか死んでいるか俺にも分からないと言うことらしい。安否不明、と言うより生死不確定の棺桶の中。一対一という笑えるほど古風な人事異動に、第三の男が存在した理由を知る者も居ない。

「大日本プラザな。あのフロント裏に彼奴居たから、一緒に連れて帰って来たよ。」

呉と言う名の男。物言わぬ姿になっての同道だった。短めの髪が血塗られて、首筋まで赤く染まっている。相方の凶手に仕事を託して、先に逝った。俺さえ来なければ死ななかったプロフェッショナル。俺の倍以上キャリアがあった、第一線の仕事人。ずっと座って居た十二位の席から離れて、何故その仕事を買って出た。無益だ、率直にそう思う。

「お前さんはそういう事を言う人だね。」

口数の少ない永井から発せられた鋭い一言。究極の他者批判。それが言えるこの人物に戦慄する。そうだ、俺はそう言う人間だ。しかし、そんなことは自己紹介で丁寧に説明しなければ看破され得ない筈だった。行田の長老と呼ばれている男。習志野軍閥を影で操る男。旧日本海軍の遺産を受け継いでいるとも、ナチスドイツの財宝を譲り受けているとも噂されている男。彼が静かに続ける。

「あんまり自分を買い被りなさんな。十二位の仕事がそれなんだから。淡々と人を殺す生活だ、同業者から女子供まで。」

初老の男は、今夜呉に動きありという情報を掴み、その仔細を見届けに来て居たという。俺の修羅場を、車で片付けたのも彼だ。呉との対決だけならば、東武の流儀に任せるところだったようだが、さらにもう一人のチェーンソー男が現れた時には前代未聞の状況に大変混乱したらしい。この時点で俺の親父達が事前にしていた予想の見通しが無くなった。さらに悪いことに、俺は歯こぼれしないチェーンソーを返り討ちにする術を知らなかった。

「恭、休んだら呉の死体の始末だ。使うのは初めてだろうが、この町にも業者があるのは知っているな。肉屋のアンドレに持って行け。」

と言って、壮一は永井に目配せしてお互い悪戯っぽく笑った。悪い予感はしなかった。疲労と眠気でもう俺の行く末も呉の死体の処理もどうでもよくなっていた。

「しかし、二人とも死んじまってたら、東武の末席に着いてたのは壮ちゃんって事になったのか。狭くて因果な世界だね、ははは。もちろんそうはならない様に加減して撥ねたよ。」

朦朧とした意識の中で、老人たちの戯言を聞いた気がする。その晩は夢も見ずに深い眠りについた気がする。

応接室のソファで一晩明かしていた。身体が痛い。あれだけ派手に撥ねられて医者いらずなことはむしろ忌々しいくらいか。放置された死体袋を背負って歩き出す。案の定、軽くて重い。誰に依頼された訳でもない殺し。地元で初めての殺し。対価の発生しない殺し。椅子取りゲームですらない、単なる席替え。順番待ちの列が一つ動いた。俺はそこに招かれたのだろうか。殺した相手の死体の始末までするのは珍しい。それだけに、この背中の男をもっと知りたい気持ちがした。打ち身を痛ませているのは、彼の怨念だろう。当然のことだ。

目的地は自宅から五分もしない、京成海神駅の踏切向こうにある食肉工房アンドレ。その前に、昨晩オシャカになった仕事道具を調達したい。幸い、その中間に銃匠が居る。築四十年くらいの年季ある建物にさかもとの暖簾が下りている。お好み焼き屋は表の顔。ここのマスターは坂本龍馬が好きで、我が子には竜の字を与えているほどだ。そいつとは西海神小学校で同学年だった。ビートルズが好きで、小さい頃に親父と食べに来た時、気分がいいとギターを弾いてくれた。まさか、こんな形で店に寄ることになるとは。少し緊張しながらカラカラと音を立てて引き戸を開ける。

「よぉ、恭ちゃん!聞いたぜ、実包なんだってな。」

短髪で痩せ身、六十過ぎの笑顔が控えていた。話が早いというか、以前来た時とは表情が違う。昔はもっと寡黙で気難しくて怖かった気がするが。挨拶とともに、昨晩の顛末と注文を告げる。

「あいよ。特注品となると納期が先になるが、それまでのつなぎにこれでも登録しに持って行きな。」

M9だった。習志野のお下がりだろうか。片手では扱い辛いが無いよりはマシだ。連射性能は良いと聞いている。別誂えされた三十発装填の弾倉を四つも出してくれたのは流石の職人気質と感心する。装弾数は多いに越したことはない。頭金の五十万円は後で届けることを約束した。

「恭ちゃん、帰って来て早々かい。なんつうか、血は争えないって言うか。」

担いでいる死体袋を察したマスターに大笑いされながら店を後にした。東京都北区で凌いでいた頃は全く気にならなかったが、地元の居心地の悪さと来たら馘と胴体が繋がっていない気分だ。凶手の個人情報が筒抜けとは厄介な呪いだ。

それから目的地にはすぐについた。食肉工房アンドレ。他の業者とは違って、綺麗に陳列された肉屋の内装。初対面で早速だが仕事を申し込む。

「俺は安藤玲だ。アンドレでいい。」

背の高い男から差し出された右手を握る。肉屋さながらの良い名だと思う、出来過ぎだ。こちらも名乗り、趣味は読書と付け足した。安藤、俺の顔をまじまじと見つめる。少し間を設けて、

「綿摘、俺はアンタを知ってる。」

だが俺は知らない。家柄が有名だからってこんな言い方は無いだろう。地元の小学校には居なかったし、幼稚園の頃のことはお互い覚えて居ないはずだが、少なくとも俺は。だが、この男は耳を疑うような台詞を言った。

「昨晩、俺は戦闘服を着込んでアンタを襲撃した。」

言い終わるのも待たずに、掴んだ右手に力が入る。ここから人差し指だけを掴んで思い切り逆向きに捻じ曲げても良い。殺気立った俺の様子をすぐに察した安藤が続けた。

「ま、待て。見ての通り俺は肉屋だ。業者であって凶手じゃない。東武にも西武にも肩入れしてはいない。精々、連合からの仕事が多いくらいだが、俺は独立営業だ。昨日も連合からの指示で俺はそこにいた。」

International Kidnapping Enterprise Association 国際誘拐企業連合、連合あるいはIKEAといえばこのスウェーデンに本部を置く世界的組織のことを指す。東武の動きに連合が介入したとはどういうことか、聞いても安藤は話さない。この男の真意が知りたい。まだ俺の命が欲しいなら、たしかに今こんな話をせずに不意打ちすればいい。

「こんな業者が連合の真意まで知るはずがないだろ。とにかく俺の仕事は昨日の一晩限りで終わった。で、今日はアンタの仕事を引き受ける。」

契約が成されたことを示すように、握手は解かれた。安藤は俺が担いでいた死体袋の中身を確認し、まるで俺と同じような表情をした。昨晩顔を合わせていた三人が、この場所でまた引き寄せられた。一人はもう何も言わなくなったが、俺たちは本当に敵同士だったのか。それならなぜ今この場で商談が成立したのか。俺は今生きているのか、生かされているのか。そしてその理由は何故か。それが知りたい。

「次来る時には、ウチの肉を試してみてくれ。」

人肉食は趣味じゃない。結局は昨日の修羅場をもう一度演じることはなく、俺は肉屋の建物を後にした。その足で京成線に乗車し、一駅隣の船橋駅へ。京成船橋駅北口と船橋駅南口とを繋ぐようにそびえるFateビルは、地上14階・地下3階。階ごとに商業ゾーン、公共公益ゾーン、オフィスゾーンと区分されている。5階の総合窓口センターで戸籍謄本を取得し、スピード写真機で証明写真を撮り、7階中央銃器登録出張所へ。さかもとから譲り受けた9mm機関拳銃について、特殊銃籍登録申請書に記載し証明写真も貼り付ける。この時間は他に誰もいないので、そのまま窓口に免許証と併せてファイルに仕舞い、提出。

受付の男は引ったくるようにファイルを受け取り、俺の顔を眺めて横柄に言った。

「アンタ、こういうの初めて?」

海堂と名札にはある。その名に恥じぬ肥った男だが、少なくとも地方公務員としてそれなりの資格を持ってその椅子に半日近く座っているのだ。船橋には最近来たのだが、以前は北区で登録したことがある旨伝える。関心無さそうに応じてから書類と免許証を確認して、海堂は目を見開きすぐに起立した。

「失礼しました。」

男が受け取った書類は一般銃籍登録申請書では無かった。特殊の二文字が赤で印字された免許証も添えられていた。一般人がのこのこやってきたと思ったら、実は実包だった。アンタ、こういうの初めて?自分の非を認めることができる点は優秀だが、役所の人間は権威への服従以上に人間性を大事にするべきだろう。この手のタイプは閣僚の指示のもとにミサイルの発射スイッチを押すことに驚くべき才能を発揮することもある。アイヒマンめ。命令があれば、何度でも繰り返しスイッチを押下する。押しては離し、離しては押し。船橋Fateビルのアイヒマンは、将来その予行練習とも呼べるような流暢さで登録手続きの作業を終えた。仕事に対する自信が態度に出ていた、その典型の様に見えた。

「今後も色々とご入用になりましたら、どうぞお越し下さい。」

海堂の深々とした一礼を受けながらその場を背にする。そうだな、次はM9の代わりが仕上がった時、その日が益々楽しみになった。

 

この日の用事が全て済み、大分遅めの昼食いや少し早い晩酌でもしようと本町通りを南下した所で、東武の連絡員を名乗る男から接触を受けた。昨日の今日で整理がつかず、十二位の迎え入れはあと二、三日先になるので待機せよ。さらに明日の夜、東西の臨時総会が設けられる事になっているのでそれに出席せよとのことだった。総会とは定期的な各組織間での調整の場だ。今回の開催は西武側からの緊急の召集によるもので、市内各組織の担当者は可能な限り出席するように連絡されているらしい。東武の方からは、たまたま機会が重なった十二位の動きを伝達する程度なので、その場つなぎに居ろと言うことか。一方的な指令だけを受けて、俺は大人しく翌日の晩を待った。

総会の場は、シャトー船橋。隣合う東武と西武の庁舎に丁度挟みこまれるような位置にある複合商業施設。その名の通り、城塞の様な外見と宮殿の様な内装を併せ持っている。国内の政令指定都市や船橋の様な中核市などではよくある非武装中立施設として指定され、市内ではこの一箇所のみである。南館三階を貸し切って行われる今夜の会場は経営母体がMOTHER牧場で、アイスミルク飲み放題だった。早くから会場入りした俺は、アイスミルクの二つ名を辞退すると共に東武十二位の席に案内される。それからしばらく経って二、三人が連れ立って来たが席は用意されて無いらしい、離れた所で話し込んでいる。すると、一つ上の席へ男がやって来て座り、俺に手を差し出した。

「俺は義竹仁、東武十一位だ。噂は聞いてるよ。お互い歳が近い同士仲良くやろう、機関銃の。」

流石一つ上の男、言葉尻に嫌味を感じない屈託の無い笑顔。集団の中心から少し外れた所で、しかし気付けば人が周りに集まってくるような魅力がある。お仲間が多そうで羨ましい。お互い歳が近いと言うのは推測だろうが、自分なんか新入生転校生の部類だ。腕に覚えがある分、不登校になる事は無いだろうが。この義竹と言う名の好青年が、この組織で初めての友達、仲間より上等な表現としての友達になり得るだろうか。俺は勿論、こういう手合いが大嫌いだ。俺が起こした焚き火を隣で眺めながら、次第に人を集めて俺だけの焚き火を矮小化するような男を。しかしながら、親切にも彼からこの会場の顔ぶれをご教授頂ける事になったのは助かった。彼らを知ることから百戦の始めとしよう。

「まず、俺たちに一番近い隣の席、派手な服の太ったオッサンが十位の桃井。お分かりかもだが、東武のシマの風俗を仕切ってる。」

こういう手合いの方がお近づきになりたいね。互いの利益が保障されている間は頼もしそうな風体をしている。

「次に九位の円月、地元飲食街の顔役で東武側。八位の戒備、駅前の飲食と娯楽を牛耳ってる。七位以上はいつもの通りお越しでないようだね。」

さらに、西武の席であろう一角はまばらな着席だ。西武の場合は厳密な序列のようなものは無い、いわゆる家父長制を年功序列で定めたような疑似血縁関係を以て統率している。それゆえ、一家総出でこの場に乗り込んでいても良いのだ。見得切る顔で生きている西武らしからぬ事態が目の前で起きているらしいことはぞっとしない。

「おっと、あれ見な。奥の部屋に入ったの、あの大神宮だ。」

大神宮秀作。意富比神社、関東のお伊勢様こと通称船橋大神宮の宮司。なんとも目立つ白尽くめのスーツでお出ましだったが、すぐ奥の別室に移動した。今夜の招集は業界を問わず声がかけられているのだろうか。いよいよ総会の開始時間に差し掛かる頃、

「お、今夜はお出ましだ。ほら。」

小柄ながら凛とした佇まいの外国人女性が会場に入る。この会場であれほど女性として悪目立ちしているというのも珍しい。さらにもっと珍しいのは、アイスミルクのグラスを持っているのも彼女一人だけだという事。目を疑うのは、その女性をエスコートしているのが安藤。あの食肉工房アンドレの安藤玲が、ブラックのタキシードを着込んで同行しているのだ。

「目が釘づけって感じだが、まあ無理もないよな。彼女、連合の船橋支部長だぜ。」

義竹が笑う。連合が拠点にしているのは東京湾内、つまり船橋支部長とは日本支部総帥を意味している。生で見てみると思う所が多いが、随分大胆な女だ。俯いた安藤とは対照的に一座を睥睨するかのような視線と、俺の視線が交差した。ような気がした。時間だ。

「本日は臨時総会のお招きにお越しくださいましたこと、誠に恐縮の極みであります。」

船橋西武会頭、戸井田が深々と頭を下げ、言った。次の言葉に、会場の誰もが言葉を失った。

「このたび、我々西武は地元船橋五十年の歴史に幕を下ろし、東西抗争四十年の歴史に終止符を打たせて頂く協定を約定いたします。」

放心する者、笑みを浮べる者、崩れ落ちる者、いずれにせよ誰もが落ち着かない者たちだった。俺はその中の誰でもない、誰にもならないように努めた。しかし、放つ言葉は誰に向ければ良いのだろうか。俺は自分自身に何と言う言葉をかけるべきなのか。続く。

「本日の臨時総会に西武から参りましたのは私と、最後まで共に歩むことを誓った同志たちであります。すでに庁舎にいる者どもはそこを引き払ってありますので、少数でこの場に顔を出す運びとなりましたこと何卒ご容赦ください。」

「ちょっと待つんだッフィィィィィィィィィ!!!!」

渾身の勢いで蹴り破られた扉。甲高い笑い声と共に異形の男が乱入して来た。座した全ての人間の視線がその男に釘付けにされる。身体は磔にされたように、誰も身動きを取れずにいる。今や国内どころか世界のアサシン界隈でその存在を知らぬ者はいない。エンジェル・ダスト、船橋シティのジョーカー、売人殺し、世界の処刑から、ご当地キラー、様々な通り名が一人歩きしている存在。ここ数年でローカルな都市伝説を世界に向けて配信している、メディアが作った報道の中だけの存在が今、誰の目の前にも居ることに全員が青ざめている。茶のストッキングで顔を丸々覆い、猫、いや犬の耳のついた緑のベレー帽を被ったトレンチコートの男。船橋市全域で東武末端の麻薬小売人達を次々に拉致し、薄暗い部屋で私刑に処してはその様子を動画共有サイトに投稿し続けている男。売人達の生命の価格が、麻薬末端価格に追いつくその日まで処刑をやめないと宣言し続ける狂った男。スナッフィー。

「突然でっすが、クイズです。呼ばれてないのに来ちゃうのは①参上②推参③水酸化ナトリウム④硫酸入り水鉄砲、どーれだ?」

②だ。しかし、誰もが固唾を飲んで答えられない。いつの間にか、コートの懐から水鉄砲を取り出して左手に高く掲げている。

「不正解でも正解でも、無し汁ぶっかけて顔面やらなにやら焼いちまおうって気は無いよ。それくらいのモラル?ルール?は弁えているから、ご安心ご安心。」

辺りを見渡して不遜に言い放つ。視線はこちらに移されて、どうやら義竹に向かって

「ん?なんでアンタそこに座ってるの?」

と言って水鉄砲を懐に仕舞う。アシッドアタックの警戒を解くことなく、いつでも防衛できるように会場の全員が身構える。重大な挑発行為。事と次第によっては、永田町からミサイルが飛んでくると言っても過言では無い。ソドムとゴモラに比べれば、この街に善人はいるのだ。船橋市民は、その全てが犯罪者ではない。地下世界の住人はほんの一握りだ。そこに、問答無用の裁定が下る。絶対安全の連絡会で起こった混乱の一切を厚生労働省は許さない。掌の上で踊る存在でなくなれば、国がハルマゲドンによるリセットをかけてしまうことは容易なのだ。

「表で小松菜売って裏でマリファナ売ってる東武はのさばって、西武のあんたらが一足先におさらばとはどういった了見だッフィィィ!」

意外だったが、この喧しい闖入者はこの場の全員が思っていることを代弁したようだった。しかし、そうそう彼の立ち居振る舞いを冷静に見ていられる人間も少なかったため、会場には怒声が響く。

「まぁまぁ、落ち着いて。俺はアンタらからすれば連続殺人鬼かもしれないが、乱射魔だったことは今までもこれからも無い。今日はそこにいる東武の新人さんにプレゼントを持って来たのさ。」

懐からサッと抜き出されたのは、ウィスキーボトルか。いや、バカルディとある。その瓶を振り上げて俺に向かって放り投げた。

「食らうナッフィ。」

そこは召し上がれとか飲めとかだろう。ボトルがきらきらと光っている。ガラスの表面に反射した光がきらめく。違う。この無数の光の煌めきは何だ。直観から分析までのほんの僅かな時間は、今、熱せられた飴のように引き延ばされている。きらきら光っているのは瓶の中。これは蛇の鱗。その煌めきを俺は知っている。アルミニウム粉末だ。この瓶が落下するのはもっと先の机。頭が指示を出すより早く身体が動いた。二歩踏み込んで机の上に飛び出す。両手で受け止めた瓶の中には溶接されたガラス管が見える。瓶の中身はおそらくガソリン、ガラス管には濃硫酸。裏が出て瓶が割れていたらと思うと危険なコイントスだった。舌打ちが聞こえたが、覆面の男の表情はニタニタと笑っているのが分かる。

「喉乾いた?」

殺意は殺意で返す主義だ。すぐに拳銃を抜いて発砲。非武装中立施設のため右手で作った手振りだが、必ず殺してやる。応じたスナッフィーは胸元を押さえて苦しんだ振りをして、楽しそうに笑いながら退場した。茶番だ。実弾であれば必ず頭部に当てる。連絡会会場から一歩出れば、直ぐに東武の構成員から烈火の如き報復攻撃が始まりそうなものだ。しかし、万に一の生存確率が、奴の余裕ぶりで十倍にも百倍にも高まっていくのが目に見える。

結局、この騒動と、西武側の通達が判明したこともあり、総会は三々五々解散した。当然だろう、スナッフィーが今度は爆発物を満載したトラックで突っ込んで来ないという保証は無い。今、この会場に集まった人間は、スナッフィーという共通の脅威を目の当たりにして、奇妙な連帯感が生まれているようだった。

一人、本町通を南下しながら考える。この数日、急なことがあり過ぎたように思う。二回も死にかけたが、それでもしぶとく生きている。飲んでいる時は、過去の悪いことを忘れられる。どこかで、先代十二位の弔い酒でも飲めないだろうか。東武の中では古参のナイフ使い。上席を拒み続けていた職人気質。あの男は、果たして死地に赴くつもりであの夜やって来たのであろうか。あんな終わり方を予期していたのだろうか。黙々と彷徨い歩く夜の船橋。今夜は酔って、何もかも忘れたい気持ちだった。俺の人生の半分は悪かった。残り半分は、酒を飲んでいるからもっと悪い。

本町通り中ほどを左に折れると、大きな構えの大衆酒場が見つかった。賀々屋。そうか、船橋にも賀々屋があるのか。東十条では、駅前のニュー賀々屋にたまに行っていた。地元なのに不慣れで不安だったのか、馴染の店に出くわして急に嬉しくなる。迷わず店内に入って、カウンターに座る。先ずは生ビールと、モツ煮込み。厚化粧の淑女に注文すると、まず真っ先にモツ煮込みが運ばれてくる。この速さは他の追随を許さない。

味噌汁に味噌を入れるのは出来上がる直前なのに、味噌煮込みはそんなことはない。新鮮な味噌の活き活きとした舌に刺さる味わいは美味いと感じる。しかし、味噌が死に絶えたかのような、残滓となってしまったかのような味わいには勝てない。主張の強さとしては、死者と共通しているではないか。死んだ人間があれほどまでに人間らしさを帯びるのと同じように、煮込まれた味噌たちがこの一杯のように紡ぎ出す物語の雄弁さ。今夜の俺が呉に対して思う感情に、この一杯は驚くほど同じだ。生ビールを一気に飲み干し、次はホッピーセット。ダラダラと飲んでいたい。外が無くなるのと同じタイミングでモツ煮込みを食べ終わる。ここから楽しくなってくるところだ。さらにモツ煮込みとホッピーセットを追加する。

ふと視線を上げると、隣の席に食肉工房アンドレの安藤が座ろうとしているのと目が合った。お互いなぜここにという表情だったに違いない。だが今は、歌おう。謳歌しよう。安藤はもうタキシードを着ていないが、今夜のことを問い質す。

「連合の総帥、リュミエールはフランス人なんだが。俺の出すモツ料理がフランスのモツ料理と並ぶほどお気に入りなんだそうで。市内で近いこともあって、ウチは連合からの仕事をよく頼まれるようになったんだ。今夜みたいに、防弾代わりのエスコートを任されることもある。」

なるほど、食肉工房というだけのことはある。では安藤の視点から、近所の肉屋で注目している所はどこだろうか。

「ウチで仕入れていく所では、京成西船の鵤かな。わざわざ自分から行こうって気はしないけど、商品を大事に扱ってくれているのを感じるよ。俺自身はここ賀々屋のモツ煮込みと雰囲気が好きなんだ。バイクで来るから、飲むのは烏龍茶だが。」

全く、ジャック・ルピック氏に、だ。

「焼肉食いたい時には、京成の高架下にある熱々って店。そこは内臓専門店で、仕入れも芝浦まで行ってるそうで食ってて幸せになるよ。」

お互い好きな料理が同じこともあり、俺は嬉しかったし、したたか酔った。気付けば自宅で目覚めた。どうやら安藤がバイクに乗せてここまで運んだらしい。水を飲んで二度寝する。今日ならまだ十二位の整理は終わらないはずだ。昼過ぎに起き上がって、昨晩のことを詫びに食肉工房アンドレへ赴く。安藤に簡単に挨拶をし、昨晩の顛末を聞けば、自分一人にだけ飲ませている安藤に散々管をまいていたそうだ。改めて詫びた。

そして、最終的にこちらは勝手に意気投合した気になって、安藤にしきりに下の名前で呼ぶようにせがんでいたらしい。そのことを報告してから、

「下の名で呼ぶのは交際相手だけと決めていたんだが・・・。恭一、俺は安藤玲だ。アンドレでいい。」

背の高い男から差し出された右手を握る。

 

第一章    協定約定    了

 

船橋ノワール 序章

 夜空を急旋回する蝙蝠の叫び声が聴こえた。すれ違いざまに感じた殺気を、包み込むように受けつつその向きを変える。順手に握られた冷たい凶器はその持ち主の胸元へ飛び込んで沈んだ。高分子強化樹脂編み込みと思わしき上着だが、鋭利な刃物に対する強度は著しく低い。しかし、刺突の手応えに代わって鈍痛を鷲掴みさせられたにもかかわらず、その凶手はうめき声ひとつ漏らさない。違和感。受けの一手から続く致死の一手へと移るその一瞬間に違和感が差し挟まれ、相手はぐにゃりと体をよじらせた。反転離脱の体勢を取られたと直観する。しかし、この違和感は何か。畏敬か畏怖か、熱気か寒気か、はたまた驚喜か絶望か。専業兼業を問わず職業凶手は数あれど、職人気質の凶手はそう居ない。ここまでが相手の読み通りだったとすれば、迎撃の手応えに代わって俺はいったいこの後何を鷲掴みさせられることになるだろう。

 西船橋駅を北口から出て東へ向かうとすぐ、三件のホテルを望む高架下。去来する郷愁の念すら追い抜き去って、この暗闇で不意の襲撃をかけてきた男が先を取った。しかし、後の先は瞬きする間もなく俺が制した。しかし、しかしだ。このナイフの暗殺者が取りつつある回避行動を、敢えて後の後の先と呼ぶならば、俺が何千何百と繰り返し鍛錬した受けの一手は、後の後だったことになる。弧を描く腕を取ってバネのように操り、運動エネルギーをそのまま元の位置に返す。だが、一周期分の衝撃は満帆に受け止めた追い風となって、腕の単振動は彼が全身を使う円運動へと昇華しつつある。俺は、ギラついた生気を目に宿しながら円舞する亡霊忍者から、後の先と見せた後の後を取らされた。この窮地の突破口はどこにあるか。だが、俺は後の先と見せた後の後を取らされた事を自覚している。突破口はそこにこそあるはずだ。

 さて、まずこの恐るべき黒衣のナイフ使いは、胸元につきたてられた自分のナイフを右手で握りながら左回りにのけぞっている。捉えた右腕は振り解かれてしまうだろう。直観としては、このまま後方に向き直り、踵を返して距離を取ろうとしているように思われるのだが。あまり先読みしすぎてこちらが駈け出すのを早まれば、その出鼻に合わせた反撃に対処するのが困難になる。ここは自制、とともに近接格闘継続の線を探る。体勢の維持に使われている脚は無いとみて警戒程度に留めておこう。背を向けざまに左肘か手刀による打撃、これは悪手だ。もう一度握掴んでしまえばよい。刺さったナイフが大きな不利となるため、向き直っての格闘は却下だろう。結論、この襲撃は陽動、というか真打登場がこの先に待ち受けていると考えられる。だからこそこの場で決着をつけられるかどうかが俺の生死を分かつ。案の定、と言うより悪いことに、離脱の大きな一歩を踏み出した亡霊忍者が目指す先にあるのは線路沿い並び一件目のホテル。あそこまで逃げ切られたら為す術がない。

 亡霊帰着を合図にした総攻撃か、俺がのこのこ入ってきてから挟撃か、近づいた途端に入り口ごと爆破されることにでもなるのか。あの悪霊がまさかこれ以上自分の寿命を縮める行動は取れないだろう。最後の力で走り切り、建物に入りさえすればそこが勝利の終着点。俺が勝つ見込みは限りなく暗くなる。いや、しかし、総攻撃ならなぜ初めからせずに手練れの凶手を使い捨てる真似をするか。どんなに些細な鉄砲玉であれ高くつくこのご時世に。どちらが先に抜くか、探り合う前から飛び道具を手にしているような腰抜けのチンピラが、何人束になろうとも殲滅させてきた俺相手に。建物の外か内かは関係ない、何人でも来い。爆弾仕掛けも考え過ぎだ、このごろ聞いたことも無い。あってせいぜい手榴弾、それなら対処は度胸で決まる。つまり、恐いのはあの悪霊だけだ。お化け屋敷は恐くない。しかし、それでも、それならどうしてあの男はあの建物を目指しているのか。

 直観から分析まで、与えられた時間は十分ではなかった。だが、死線の際における綿摘恭一にとって、二秒に満たないこの時間は熱せられた飴のように引き延ばされている。捨て身の博打に踏み切るには十分な時間。赤黒どちらに張るかと言えば、導く答えはいつもの通り。迷った時の破天荒、困った時の機関銃。左肩から下げたロールトップバッグに右手を突っ込み、MP5の引き金に指をかける。この街で、そう多くない自動小銃と、その所持を許可された者が名乗りを上げたようだった。奴が本物の霊体でもなければ、まさか弾丸透過の技術を心得ているわけでもあるまい。だとすればもう、それは亡霊を超えて忍者ですらある。所詮、相手も人間だ。俺と同じ。呑気なことを考えていられるのは、命のキャッチボールを全身全霊でやり終えた安堵から。痺れてゆく指先と爪先。熱い背中。頭の中に響く鼓動。一服の煙草で得られるものとは比較にならないこの感覚は、喜怒哀楽そのどれでもない。亡霊の背部から頭部にかけて銃口を制御しながら、夜の西船橋に谺する乾いた銃声を聞き終える。全弾命中の手応え。冴えた意識。

 耐弾素材の衣類への着弾は致命傷には至らないが、生身の頸部ないし頭部に命中すれば人生が終わる。オブラディ・オブラダは大嫌いだ。背を向けた満身に銃弾を浴びながら、予定通りというべきか、敵はホテルの外壁沿いから転げるように目的地内に侵入を果たした。これ以上の無駄弾は威嚇にすらならない、こちらもすぐに追撃に出る。命を狙われることには慣れているが、いつまでも狙わせ続けてやるほどお人好しではない。ここから先は殲滅戦だ。自分に言い聞かせる。外壁から中の様子を用心して伺うと、人の気配は無い。その時、建物内部一階が消灯した。外部の照明や電飾の類は点灯し続けているため、連中が一階を制圧してこちらの進攻を妨げようとしているのだろうか。

 センサーを横切り、自動扉を開く。内側からは、流石に素人染みた反応は無い。真っ暗なフロントしか見えないが、逆からならば外の明かりに映された俺がよく見えるだろう。静かに踏み入ると、狭いフロアのすぐ奥にエレベーターが見える。左手には衝立で目隠しされた待合。静かすぎる。まさか、この建物が忍者屋敷で、先程の手練れが何人も潜んでいるなどということは考えたく無い。それほどの規模ともなると省庁閣僚級組織での運用を噂程度にしか聞いたことは無い。歩を進めても自分の呼吸音しか聞こえない、そんな錯覚に陥りそうになりながら辺りを見渡す。

 在ったのは亡霊では無い。柳の木。前傾姿勢で項垂れて、身じろぎもせずに立っていた。長身痩躯の男が一人。鴉の様なライダースーツ。そのヘルメットは闇夜の髑髏。視線はこちらをじっと見つめて、俺との間合いを測っていた。壁を背にして左肩を前、両手に掴んだ得物は背後。刀身を相手の視野から遮る構え。忍者の次に、侍が居た。うっかり気付かずその間合いにまで入っていたら死んでいただろう。俺が気付いたことに、相手も気付いた。MP5の連射。それを物ともせずに踏み込んで来る。声にならない雄叫びを上げて、左に薙ぎ払われた一の太刀。後ろに飛べば、上半身と下半身の依存関係が解消してしまう。俊敏とは決して言えない直線的な技を、前方へ滑り込んで躱す。頸と胴が繋がったままである万感の想いを弾丸に込めて、奴の背部にMP5を放つ。振り抜いた勢いのまま骸骨柳は猛然と突進する。目もくれずに突っ走って、自動扉をガラスもろともに破って退場。

 誰が一体、そんな大周章を予想できるだろうか。短距離走者がまだ号砲もならないうちに駆け出して、決勝線を切ってもなお走り続けている様な。こちらの得物が、自動小銃であることは建物の中にいても分かったはずだ。いくら耐弾性素材で編まれたライダースーツとは言え、日本刀で対峙するには分が悪い。その上での行動か。しかし、解せないのが二の太刀、三の太刀が繰り出されなかったこと。積み上げた技が術へと昇華する、その流れが必殺の一手となりうるのだ。この狭い空間で切出し続けることが相手にとって有利なはず。それを放棄して、奴は距離を取る。あのまま尻尾を巻いてこのまま退散するというわけでもあるまい。一方で、俺はこの建物に釘付け、内部と外部からの挟み撃ちという形にもなったわけだ。エレベーターホールに背を向けて、死角からの不意討ちを警戒しながら外へ三発。

 その呼びかけに応じるかの様に動きがあった。すぐ外から繰り返された、機械仕掛けの鶏でも絞めるかの様な音。あぁ、これは。立て続けに、内燃機関の喧ましい駆動音。奴の得物はチェーンソー。出口の外側で、信じられないほどの爆音を上げながら、こちらを煽っている。こんな凶手は講談世界限定の固定観念、暗殺者として有ってはならない流行、それが実際目の前にいるこの威容。鎖鋸対機関銃、誰が一体この一騎討ちを目の当たりにしたか。誰も居ない。今後も無い。そしてこの場に我々二人。生きて残るはどちらか一人。騒々し過ぎる排気音に聴覚が悲鳴をあげそうだ。これだけに釘付けにして、他者の気配を遮蔽するという効果を狙っているのか。

 この闘いの孤独を思い知らされずにいられない。そもそも俺は今何故ここで対峙しているかの謂われも知らない。この世界の、それが性情だと言う以外他にない。諦めがついて頭も切り替わる、現状を切り抜けるためにはどうするべきなのか。チェーンソーの短所を最大限に翻弄したいところだが、幽霊侍もそれは十二分に熟知している。それゆえの構え、それゆえの行動だったのだ。射撃による武器の破壊というのは身体に阻まれて叶わない。距離を取ることもできない。この場に足止めされて居たら、いつ誰に背後を取られるか分からない。外に出なければならない。

 残弾を外に向けて撃ち尽くし、再装填。弾薬だって只じゃない。もう弾倉は残り一つ、それをベルトにねじ込む。引き金を絞って一斉射撃。狙うは頭部のヘルメット。強化性樹脂でできたそれを、変形ないし摩耗させられれば視界は奪える。距離を詰め、脱出の機を伺う。狭いエントランスに阻まれて、相手が得物を振り回すのも鈍い。無闇な動きがあればその手元を押さえ、チェーンソーで外壁でも切りつけて刃を使い物にならなくしてやる。相手もそのことを知ってか、暴れまわっては来ない。突き出されたチェーンソーの軌道を躱すのに、手持ちの自動小銃で逸らす。その瞬間、猛然たる力を漲らせて人鋸一体の突進。鉄の火花が飛び、銃身が深々と傷付けられた。とは言え、鎖鋸も傷んでいるはず。このまま相手の全力を逸らして受け、その勢いのまま外壁へぶち当てる。砂利の粉末が奔流となって噴きかかる。この暗い夜には余りに不釣り合いな怒号が鳴り止まない。最後の喘ぎと共に機能停止するはずの刃は着実に迫ってきている。

 二秒先の自分が観取した絶望、後悔、放心。つまり、死の囁きを聴いた俺は、押さえ付ける手を離し文字通り転がりながら逃げ出した。すぐさま外壁から得物を引き抜いて飛びかかる全身黒の骸骨。後先を考えることなく、大上段からそのまま振り切る高度まで掲げられた凶器が、地獄生まれの赤子の喚き声を上げ続けている。それをなんとか躱し、アスファルトに肩代わりさせる。一向に刃こぼれしないチェーンソーを持つ腕を押さえるが、相手の豪腕はアスファルトごと俺の身体まで裂こうと、少しずつ少しずつ迫ってきている。機能停止を期待している神頼みの自分。真っ黒な粉塵とその不快な匂い。いつまでも止むことがないこの排気音が最期の断末魔に変わるのはいつなのだろう。今はもう、ホルスターのコルトガバメントをゼロ距離で接触させて連射するしかこの男に致命傷を与え得る術がない。

 だめだ、ここで手を緩めると、このまま押し斬られてしまう。この生地を打ち破れるほどの威力が、手持ちの拳銃にあるという保証もない。俺の身体が千切れるか、相手の鎖鋸が砕けるかの我慢比べの様相を呈している。形勢不利、劣勢、敗色濃厚なのは明らかに俺。正攻法でも奇策でも、現状を打開するためにどうすべきかが見えない。あのホテルに踏み入ったことか、不用意に機関銃を斬り付けさせてしまったことか、それとも京成西船駅方向から帰るべきだったのか。つくづく俺という奴は、こんな走馬燈は嫌だ。天地が逆さまになる。とうとう首と胴体が切断されたのか。下半身の痛みを感じるのは何故だろう。忌々しい柳の木も離れた所にうずくまっている。ヘッドライトも点けずに、猛スピードで突っ込んできた黒のセダンが俺たち二人を跳ね飛ばしたのだった。座席の開閉音。よく通る甲高い声。

「誰に許   て、こん  中に騒が   似し   !おい  、俺のシマで何し腐     !!失   !!」

怒 声 が 投げ か け られ てい る が よ く 聞 き 取れ な い 。先  程  と  は  別  の  内  燃  機関  の  駆  動    音。  こ  れ  は  バ  イ  ク  か  、    や  れ  や  れ   。

 

序章    疾風怒濤    了