【四月号】酒客笑売 #001【キ刊TechnoBreakマガジン】

私のお酒は四合が分水嶺だ。

ここで掌が赤く熱を帯びてくる。

七合で前後不覚、一升飲んだという記憶も記録も無い。

こう言うと、大抵の人からはお酒が強い人だと見做されるのだが、そんなことは下戸の言うことで、私は酒豪でも酒聖でもない。

せいぜい酒客が関の山である。

だが、酒好きの飲助であることには変わりない。

人並みに、お酒にまつわる喜怒哀楽を享受している。

これまでの経験から、好きだが飲まないとか、飲み放題でセーブしながら飲むという様な人たちは、どうやらかつてお酒で大きな失敗をした反省があるらしい。

後悔しても反省しないが第一原理の私である。

大きな失敗を繰り返して来たし、またそんな失敗の記憶を忘失して来た。

繰り返す宿酔の不快感と高揚感が、眼の前に拡がる実生活という小さな世界を駆動させる。

この頃、愉快な事には事欠かないが、不愉快なことが殖えて来た。

だから、毎晩の深酒で朦朧とした脳髄から、不愉快の観念を打ち払うために書く。

読者は、他人の愉快は自分の不愉快という真理に照らして読むことに留意されたし。

さて、職場では「会長」の尊称で呼ばれているが、そこに至るまでの損傷は数えきれない。

勤め始めて二年目くらいか、部署で慰労会が設けられた。

池袋の百貨店屋上で開催されたビアガーデンである。

ジンギスカン染みたバーベキューのようなものでも食べながら飲んだ。

無論飲み放題、注ぎ放題だ。

ビアサーバーなぞ、飲む側の人間がおいそれと操作出来るようなものでも無いので、そこから注ぎ放題というのは気持ちが浮かれるものである。

私の気持ちが浮かれているのは、まだ良い。

毎晩飲むと言ってもその頃は、麦とホップのロング缶二本程度だ。

仕事なら向こうから来ると高を括っていたから非正規雇用に甘んじており、毎晩飲み歩くなんて必要性を発明するだけの懐事情ではなかった。

当時は過度の減量に励んでいたから、四十分のランニング後に飲む発泡酒はたまらない。

過度というのは、今と違って食事制限もしていたためで、肴は決まって豆腐である。

その状況下で、食べ放題、飲み放題、慰労会。

私の気持ちが浮かれないわけがない。

部署の中から八名の飲み会だった。

四、五歳離れた先輩二人、私の同期が一人、十五上の課長二人、大御所格が男女二人。

この中でもとりわけ、先輩の一人は私を会長と呼び始めた張本人だし、課長の一人は後に同じプロジェクトで反目する羽目になるので、別の機会に書くことにもなろう。

宴も闌の頃になって、前に座った先輩が二人ひそひそやっている。

私はまだ、右も左も判らぬひよっこ、二人は気鋭の有望株だ。

すると、副島先輩が席を立ち、しばらくしてから戻って来た。

「禍原(まがはら)さん、飲み過ぎたんじゃない」

「これはどうも」

先輩から受け取ったジョッキにはウーロン茶が入っていたのでグッと飲んだ。

一口で判った。

これはウィスキーだ。

注ぎ放題だとこれがある。

試されるのが嫌いで、挑発には乗るタイプの私だ。

すぐにその中味をウーロン茶でも飲み干すように一気に空けようとして止められた。

副島先輩は、悪戯好きだが優しい方で、職場内で非常に慕われている。

全部飲み切る前に止めてくれたから、私も慕っている。

この一件があったから、彼は私を「会長」と呼ぶようになった。

広域指定暴飲暴食団 禍原会 会長 禍原屰一

以来十年弱、これが私の肩書だ。

さて、愉快な話の裏には不愉快な話がある。

その日の帰り、当然私は酩酊した。

学生時代から帰巣本能だけは破綻したことが無かったため、タクシーに乗せられ家まで送り届けられた。

池袋から船橋までの料金は、当時赤貧の暮しだった私には大きな痛手である。

だが、それはまだ良い。

金曜夜の宴の翌日は、職場で外部のイベントに駆り出されていた。

集合時間に大きく遅刻し、出番には辛うじて間に合った。

イベントも終えて、慌ただしく搬出を行っていると、階段の踊り場で例の課長に呼び止められた。

この男を仮に、残念な方の福沢とでも呼ぶ事にする。

福沢は先ず、至近距離で右手を差し出した。

その仕草を「私から貴方へ、伝えることがある」という意味に捉えられなかった私は、失礼に当たらぬようすぐさましっかりと握手した。

固い握手のまましばらく小言が続いたのだが、昨夜の酒がまだたっぷりと残っていたからまともに聞ける筈もない。

代わりに、どこまでがおでこでどこからが頭か判然としない、眼の前にあるぴかぴかに禿げ上がった頭部に、呆けたような冷笑を備えた自分の顔を写し見するようであった。

私は笑えない酒が嫌いだ。