【九月号】巻頭言 虚飾性無完全飯罪CHAPTER05【キ刊TechnoBreakマガジン】

CHAPTER05: 誰も彼もが復活しない

本町一丁目交差点のコンビニエンスストアから出てきた男の表情は、なんとも言えない悲しみをたたえていた。往来へ出るなり、パック入りのめかぶを開封し、ぐいと飲み込む。喘息用の吸入器でも使用するかのような所作だった。彼の表情は、少々明るさを取り戻したか、ふと赤みを帯びたような生気が見られた。

スクランブル交差点の斜向かいには、何やらキナ臭い事務所が新規に営業開始しているらしい。地元界隈の治安というか地政学というか、そういった類につい目が向いてしまうのは、この男のそう悪くない癖である、習志野軍閥行田駐屯地に在籍していた頃からの。そんな彼も、現在は自称ライター稼業で糊口を凌いでいる、というか美味い飯にありつけているというか。その日のいで立ちは、黒いポリエステル製の涼しげな半袖シャツに、暗い藍色のジーンズ。

本町通りを少し入ってから向こうへ渡り、そのまま路地へ。すぐそこのワインバル、BAN-ZAIを待ち合わせの店に指定していた。七人がけのカウンターとテーブル席が二、三ある程度の小さな店だが、地元で好んでいる。と言っても、彼自身訪れるのは四、五年ぶりくらいになるのだけれども。入店すると、小柄ながら浅黒い顔色をした精悍な印象の店長が、明るい笑顔をさせながら迎え入れた。テーブル席はどちらも先客が陣取っており、その日の店内は賑やかな印象だ。好きなお店の客入りが良いのは嬉しい、これから先もずっとこの場にあって欲しいと、彼は心底思っている。

カウンターに腰掛けると、早速店長が話しかけた。

「若松さん、お久しぶりです」

若松と呼ばれた男は照れ臭そうに挨拶を返した。しばらく地元を離れていたことや、今後は元の職場に復帰することになりそうだということなどを話した。

「じゃあ、井上さんとは、もう会っていませんか?」

ワインバルBAN-ZAIは、随分と若かった頃に、その頃の友人と見つけた開店したばかりのお店だった。ころっと太った井上の、冗談の絶えない愛嬌ある表情が思い出され、懐かしいと同時に少し寂しくも思った。

「だいぶ前に一度だけ、そちらの席に女性とお越しの時があったんですがね、それ以来は見ていませんね」

そんな話を聞かされて、旧友の幸せを祈る。その女性と結婚でもしたのだろうか。恋多き男だった。

テーブル客たちに給仕していたおかみさんが、注文を取りに来た。相変わらず美しく、気立てが良く、笑顔が素敵だ。この夫婦が切り盛りしているこのお店は、船橋が誇るある種の奇跡の一つと言って良い。二、三挨拶を交わし、リストから『幻覚』を意味する名のビールを選んだ。それと、レバーのテリーヌ。こういうお店は、どこにでもあるようなものではない。今夜はこれから、このお店の名物料理を親友と二人で堪能したい。

鶏もも肉のコンフィ、豚スペアリブの香草パン粉焼き、マグロ頬肉のステーキ。冬場になると、ブイヤベース風の鍋も提供される。いつものスタンダードメニューだけじゃなく、この日のおすすめとして、マグロとネギのオイル煮、牛すじとマッシュポテトのチーズ焼き、さらに自家製ローストビーフも仕込まれているというのは幸運だった。これから来る男は、若松にひけをとらない大食漢だ。もしかすると、全食制覇もあるかもしれない。

と思った矢先の出来事である。けたたましい音がばりばりとガラスの雪崩を店内に降らせたのだ。往来から店内を見渡せる大窓のうち一枚が、捩じ切られるような不自然な力で粉砕された。なんと、足を掴まれた人間の頭部が、ガラス窓を打ち破る道具にされたらしい。頭から血を流した男が、うめき声を発しながら俯せになっている。

「よ、一食一飯の」足を掴んだまま漆黒の軍装の男が会釈した。

「え、知ってるの?」実は新しい連載の構想が、もう二つも見込まれているのだが。

「当たり前だろ、毎週読んでたよ。こないだ、ラーメン・ドラゴンボウルも区切りが付いてたな」彼は店内をさっと見やり「マスター、こいつは後で軍閥が弁償するよ。それと、」目敏く女性店員へ目配せしながら「赤ワインのボトルとスパゲッティ、それとピザ、どれも一番安いやつ」人の倍食うから、いつもこう注文してるんだ、と彼は僕の目を見て笑った。漆黒の軍装に身を包んだ彼の暗く澄んだ瞳が、軍帽の奥からちらりと覗いて悪戯っぽく輝いた。

「伏せてな」

テーブル席を陣取っていた客たちが一斉に拳銃を構え、一瞥で敵対関係と判明した突然の乱入客に向けて発砲を開始した。男はそのことが嬉しくて嬉しくてたまらないかのようだった。

「吾妹子が植ゑし梅の木見るごとに心むせつつ涙し流る」

JG-02起動の祝詞は、男の両手に装着された黒革の手袋を励起した。両腕でささ、と空に字でも書くように交差する挙動だけで、彼は七人の凶漢が撃ち尽くした弾丸をことごとく掌中に収めていたのだった。やはり此奴らも小松菜販売の仲間だったかと、その男、習志野軍閥行田駐屯地のエージェント、Wは合点した。こういった手合いを釣り上げるには、生き餌で釣り堀に乗り込むのが一番だな、とも。小松菜とは、船橋界隈で言うマリファナの隠語である。

弾切れに蒼然と立ち尽くしている売人たちがいる奥へずかずかと近付き、渾身の鉄拳を打ち込んだWは物足りなさを感じていた。腕を振り上げれば二、三人が壁に叩きつけられる。派手にやったが、手応えはなかった。改めて旧友との再会に祝杯をあげて、その日は陽気に酒盛りでもしようとその場を振り返る。

だが、カウンターにいたはずの伴は、胸を押さえて仰向けにひっくり返っている。yが撃たれてしまった。名前を呼ぶ、建前の苗字である若松ではなく、軍閥でのコードネームyを呼び続ける。呼び続けなければ、yは向こうへ行ってしまいそうだから。行くな、行くな、行かないでくれ。涙が溢れそうになりながら、Wは必死になって、為すすべもないままに呼び続ける。

「その優しさも」少しだけ目を開けたyが、切れ切れの言葉をつなげる。「弱さも、僕に見せてくれたこと」

その言葉は、彼が士官学校を去る時に伝えてくれた言葉だった。yの意識が戻ったことも嬉しくて、Wは傷口をかたく押さえた。また一緒にやろう、帰ってくるんだろう、団地へ。だから行くな。

yは力なく首を振った。他にたくさん伝えなければならないことがあるのだというのが、彼の燃えるような瞳を見れば分かる。だが、その意思とは裏腹に、残されていた最後の力はもうほんの僅かだった。

「先にシドで待ってる。士官学校のみんなに、よろしく」

吠えるようなWの慟哭が、熱い涙を絞り出す。聖杯を聖水が満たすように、yの穏やかな顔に注がれる。

団地で一番優しい男が帰ってきた。これがその顛末、顛末。

【五月号】酒客笑売 #002【キ刊TechnoBreakマガジン】

「酒の席での迷惑は掛けたもの勝ち」

小林秀雄にお酒の飲み方を教わって以来、私の意匠は変わっていないらしい。

経験主義者の我々としては、迷惑の掛らない飲み方は無作法であるとすら感じられる。

すると、私の方はお酒が好きだが、お酒の方から嫌われている。

なんていう厄介な勘違いを持ち出して、また人様に迷惑を掛ける。

これは甚だ無益な次第であり、無作法は私の側にあること明白だし、心得た飲助から叱責か説諭かどちらかを頂戴することになる。

だが、彼らが一体何を心得ているというのか、覚束ない気もする。

家庭か、持病か、懐具合か。

まあそんな心得に過ぎまい。

生老病死の経験主義者たちに、いわゆる経験病の末期症状を垣間見ること通じて、何らかの尊敬や羨望の念がゆくゆくは生まれることを期待していたい。

さりとて、今この一杯の幸福感が、二十年後の幸福に関りがあれば上々なのだが。

さて、小林秀雄に「失敗」という短文がある。

そこに倣って、私と全く関わりない誰かとの一座建立を書こうと思う。

見ず知らずの人とお酒の席で会話が始まるというのは、先方によほどの余裕がある時か、双方が十分に酔っている時くらいだ。

前者では面白く無いので、後者を思い出す。

私は自分のペースで飲むということが出来ない成人した子供である。

初めのうちは見栄でグイグイ飲む。

酔いが回ってきてからは、お酒に呑まれてまたグイグイ飲む。

だいたい、今夜飲もうかと思い立つ動機といえば、飲まねばという半分は強制的で半分は強迫的な観念からだ。

これから脱しきれないうちは子供だと思う、達人の域には到底立てぬ。

酒体的ではなく客体的、言い方を変えれば他人事で飲んでいる。

そして、その場に安住しているのだから始末に負えない。

その日は九時過ぎに合流ということで、八時ぐらいから亀戸で飲んでいた。

テーブルが立ち並んだ広々としたホールにお客はまばらだった。

大衆居酒屋とダイニングの悪い所を併せたようなお店だ。

自分の引きの悪さとこれから来る友人の間の悪さ。

腹の虫を鎮めるように飲んでいた。

あまりビールを飲みすぎても、後に飲めなくなってしまう。

矮小な馬刺しをつまみながら、黙々と日本酒を続けた。

時間通りにKが来る、予定通り私は酒に狂う。

Kというのは彼死のKであり、幸福のKであり、また、仮名のKである。

予定通りとはいえ、七合飲んでいたとしても、別段普段と見分けが付かないそうなので、四合未満に飲んでいた私は楽しくおしゃべりを始めた。

Kの乾杯に合わせて私もビールからやり直す。

「韓国人が食べるクサい飯のことです」

「何ですか?」

「監獄料理」

「南仏料理にニンニクは厳禁です」

「その心は?」

「南無阿弥陀仏と言うためです」

「あんま巧くないぞ」

「イライラしてるから、イラマしてくれよ」

とまぁ、そんな下らない、いつものオゲレツ大百科で酒場をゲスのどん底に陥れていると、だいぶ酔いが回ってきた。

当然だ。

何食わぬ顔で二周目攻略スタートしたからである。

気が大きくなって気前良く注文した貧相な馬刺しの二皿目をKに勧めて、じゃあそろそろもっと良い店へ腰を落ち着けようという運びになった。

根が張るばかりで満足度の低い肴にイライラしてきていたのは事実だった。

「イラマしてくれよ」

「うるせえよ!イラマはするもんであって頼むもんじゃねえ!」

異常な放言に対し、真っ当らしい狂気の主張をしたKと店を出た。

今はもう閉業してしまったが、国道十四号線の裏路地にふくわうちという料理屋があって、景気の良い夜は都度利用していた。

本場物とまではいかないが、信頼のおける馬刺しを出してくれるお店だった。

当時すでにご禁制だったレバ刺しも、馬のものならば提供可能だったようで、高価だったがありがたがって食べていた。

酩酊寸前、いや、一線を踏み越えた私がそのお店へ這入った。

三席程度のテーブル席は全て埋まっていたが、五人掛けのカウンターは誰も居らず通された。

適当に瓶ビールと言わず、馬刺しに合わせる日本酒を注文。

徳利二つ、盃二つ、男二人、ご機嫌である。

人にこれを飲もうと言っているときは気が大きくなっている証拠だ。

どうやら、真後ろのテーブルに着いている女性四人の気配を感じ取って、粋がっているらしい。

当時まだまだ赤貧だったKはイマイチ懐具合が落ち着かなさそうだ。

「これ美味そうだ、食おう、出すから」

「いやぁ、悪ぃな」

「イラマしてくれよ」

カクン!

ありえない角度で私の背中が仰け反ったと後日談。

私は不覚にもカウンター席に腰掛けながら居眠りを漕いてしまいそうになったらしい。

確かに会話をしているようなのだが、突然眠りに落ちるらしい。

入眠の衝撃ですぐに目が覚めるので、眠気が払拭されると言うこともない。

グリン!

身体を捩りながら仰け反ったので、今度は動作が大きかった。

いよいよこの異常事態に見ず知らずの女性四人は騒然となる。

その様子を鋭敏に察したKは振り向いて

「失敬」

とだけ言ってカウンターに向き直る。

この一言で、尋常ならざるサーカスの幕が上がった。

観客の女性たちは無念無想ピエロに声をかける。

「何してるんですか〜?」

「私は会長です」

何してる違い、私を除く一同爆笑。

グリン!

「失敬」

「もぉ、会長大丈夫ですか〜?」

「もう大丈夫です」

カクン!

「失敬」

女性たち爆笑。

延々とこれを繰り返して夜は更けたらしい。

サーカスの主人はピエロを出汁にして、女性たちと大いに盛り上がったという。

私が無事家に帰り着けたわけがない。

帰れない話は次回にでも書く。

我が酒客笑売の殆どが、私が伝聞した後日談である。

#002 小林秀雄のエピゴーネン 了

【04】虚飾性無完全飯罪

CHAPTER:04 そんなら命は頂けない

これは走馬灯だろうか。

懐で暖めたあの卵が小さかったこと。ひび割れてから手出し無用だった、自分が役立たずの傍観者になったこと。殻から顔を出した雛鳥には、真っ先に自分の顔を見せたくて、殴り合いの喧嘩をしたこと。触れただけでも潰れてしまいそうな小さな体から、片時も目を離せなかったこと。鳥篭から離れての仕事に身が入らず、持ちうる時間は徹底的に費やす方法から効率重視路線になったこと。無垢な瞳をこちらに向けて、手のひらから一心不乱に餌をついばんでくれたこと。

いつの間にか頑丈そうな両脚になっているのに気付いたこと。それらしい羽根から翼へと生え揃って来たこと。躍動的な跳躍で重力に逆らおうとしていたこと。もう目を離していても活発な様子が頼もしく思えたこと。夏の青葉が秋色に染まったかのような毛色に変わったこと。部屋の篭から鶏小屋に移した日でも鳴き声はぴいぴいしていたこと。小石を飲み込み、餌をつつく勢いも強くなったこと。それからすぐに鳴き声が変わったこと。それでも手ずから餌やりがしたくて、黒革の手袋越しにしていたのを見つかって殴られたこと。初めて産んでくれた卵のこと。これ以上多く育てるのは自信がないなと苦笑いしたこと。

鶏小屋の掃除は部下任せにしたこと。小石をついばんでいるのを遠くから眺めたこと。地獄のような日々がまた舞い戻ったこと。小屋の掃除の件で部下を殴りつけたこと。その掃除をしながら煙草を吸ったこと。ピイちゃんに割く時間が減ったこと。それに気付かないふりをしていたこと。

瞳から零れた涙に反射して、思い出がキラキラと輝きだす。乱反射する光線の一つ一つから、かけがえのないあの日々が甦る。すぐ目の前にある。手を伸ばせばそこにある。涙が溢れて見えなくなる。だが瞼を閉じても眼に映る。切ない感情が込み上げる。怒涛となって声を出す。

 

Wにはどうしても受け入れられなかった。あれほど大切に育ててきたピイちゃんを、ただ食うために殺すという事を。

「家族を殺せるか!殺させるもんか!ピイちゃんは家族だろ、そうだろ!出来るわけがないだろ、家族だ、家族なんだ!」漆黒の軍装に抱きしめられた鶏は、Wの激した様子も感知せず、ただ大人しく抱かれたままでいた。

「卵をあっためたんだ!こんなにちいちゃかった雛から!あ、あ、あ、悪趣味だ、悪趣味じゃねえか!この、子殺しィ!」迸る激怒が外から内へと聚斂していく。

「食うんなら卵までにしておけよ!ピイちゃんはな、弱って死ぬんだよ!歩けなくなって、横になって、それでしばらくしてから死ぬんだ!そんなのは今日じゃないだろ!ピイちゃんの小屋掃除するから、殺さないでくれよ!そんなにピイちゃんが憎いのかよ!ピイちゃん、ピイちゃん、嫌だ、死なないでピイちゃん…。」別れは唐突に訪れたが、見送ることは出来る、それが幸か不幸かの判断は時間の解決に任せるにしても。

「何もかも体験する必要があるなら、本なんて無意味じゃねえかよ!こんな事させるんじゃねえよ、子殺し!」追いかけて来た部下の准尉二人をはじめとする軍閥構成員たちに向けて、Wは文字通り食い下がっているようだった。

『易々と歯車にはならんというわけか。流石はWAR GEAR筆頭といったところかな。』その様子を監視カメラで見ているのは、ここ習志野軍閥行田駐屯地、通称“団地”の長である永井日出男大佐である。彼の視線は代行者Wの姿から、喪服のようなスーツを着た別の男性へと移った。

「名人、やろうか。」綿摘壮一だった。なぜか分からないが、兵卒達の騒ぎの様子を見にきていたのだ。隣には小林少佐が控えている。壮一は、腕っぷしに驕りの見えるWの事を、よく名人と呼んでいた。

『此奴は掴んで投げ墜とす。』Wは思った。物を考えるということは、物を掴んだら離さないということだ。

Wは差し伸ばした両腕を、肩から一瞬で切断された。かと思うほどの衝撃を受けた。前方にいた綿摘壮一は、今や後方遠くで背を向けている。

「手前、何を背中向けてやがる!残心!」Wは両肩を押さえながらありったけの怒りに任せて吼えた。

頭が在った場所に両脚が飛び上がるほどの掌底がWを見舞った。真っ逆さまに地面へ落ちるその刹那に、彼は走馬灯を見た。

「見事です。」息を飲んで小林少佐が洩らす。

「氷嚢を当てて、食堂で寝かしといてやってくれ。献杯には目を覚ませるように。」

綿摘壮一は、我が子の恭一には雄弁だった。しかし、徒弟達に優しく接することはあっても、あまり多くを語らなかった。刈根流の最奥をあまり覗き込まれるのをよしとしなかったためだろう。だから、結局最後はこれだった。つまり、喧嘩するほど仲が良い。

雨がぽつりぽつりと降ってきた。仰向けになったWの顔を濡らした。

「師範先生!でもやっぱり、あんまりなんじゃないでしょうか!」Wの部下であるソゥ准尉が言った。

「鶏はまだ良いです。だから、大尉や我々にもっと優しい言葉をかけてくれませんか!」同じくスゥ准尉が言った。

「Wだけじゃないですよ。俺たちだって歯車じゃないんです!」

自棄になったか、無謀になったか。Wが見せた、雲一つない青空に落ちた稲妻のような在り方に絆されて、集まった十数人の男達が訴えた。土砂降りの雨が降り出した。

「兵卒達が意地を通す、か。あっち向いててくれ。」綿摘壮一は小林少佐にそう頼んだ。間髪入れずに、喪服が闇夜を舞った。

一撃の中に千撃を込めた本気の壮一を見るのは、小林少佐にとってこれが二度目である。言われた通り背を向けようとする前に、状況は決した。一対十三の戦いではない。十三対十三の戦いだった。皆が一撃のもと、同時に倒れた。これを見せつけられると、小林は堪らない気持ちになる。自分が百代がかりでもこの域には行けないと思い知らされるからだ。

そして小林は、ふと、何か異様な観念に囚われた。なぜ彼は、死戦を潜り抜ける時のような全力を、今この場にいる我々に演じて見せたのだろうか、と。彼にとって、二度目なのだ。一度目は、相手全員が銃口を壮一に向けている状況だったのだ。以来、今まで一度も見たことが無い光景だった。

不吉な予感めいたものを感じた小林は、壮一の顔を見ようとした。しかし、彼の顔は倒れた男達に向けられており、その表情を伺うことはできなかった。天候は、既に小雨に変わっていた。雨模様のように予想がつかない状況だとするならば、一体この予感は何なのだろうか。

壮一は向こうの人員に向けて手を振り、大きな声で応援を呼んだ。すぐに数名が駆けつけて、辺りを見るなり彼らは呆れたような笑顔になった。師範先生の技を直伝されたというのは非常に名誉な事だからである。倒れた男達に向けて、口々に羨みの混じった文句を言い、抱き起こして帰って行った。壮一はその後ろについて歩いた。談笑しているように見える。

小林少佐は、足元に転がって誰からも忘れられたようなW大尉を見遣った。Wはそれにいびきで応じた。良い表情だ、と思った。船橋は地獄だ。起きればすぐに地獄巡りの再開だ。せめて今くらいは、良い夢を見ると良い。小林の親心は、柄にもなくそんな感傷的な事を思った。Wの事を肩に担ぎ、士官学校校舎に向けて歩いて行く。其方には明かりがある。

奇しくも流血の無い夜。だが深い破滅を内包した夜。啜り泣くように静かな夜。

 

【03】虚飾性無完全飯罪

CHAPTER:03 畜生どもは饒舌じゃない

国道14号は江戸川区松江一丁目の東小松川交差点で一つに交わり、今ここ江東区亀戸一丁目の駅前交差点にセダンを導いた。車の色に引けを取らない漆黒の軍装に身を包んだ出で立ちの男が降車する。サファリジャケットの胴をベルトで締め、タイも同じく黒を締め、手袋も黒革。腰の横にはコルト・ガバメントを入れた吊り鞘を下げている。習志野軍属が採用している軍装は古典的な意匠だが、その分、実に威圧感を感じさせ得るものだ。胸元に輝く階級章は大尉。

「じゃあ、帰るときにはまた連絡を入れる。」真っ黒のセダンから降りたWは、運転席のスゥに伝え、軍帽を目深に被った。この車は、彼らごときでは触れる事すら許されない、高級将校の為にある。行田駐屯地においてそれは、専属運転手に小林少佐を擁する、永井大佐専用車ということだ。そんなことをWは内心で、単なる優先座席程度にしか認識していない。だから一種の”可愛がり”感覚で、部下に運転を命じることがたまにある。若気の至り、ここに極まれりというやつだ。

『俺が大佐で、お前が少佐な。』先ほども、そんな台詞でスゥから時間を買っている。

『万年大尉は、まず准佐になってから言ってくださいよ。』スゥはスゥで満更でもない様子でドライブを楽しんだ。『あ、二階級特進が先か』とは言わずにおいた。

通りの向こう、和菓子屋の軒先から、緋色の軍装に身を包んだ人物がこちらへ向かって颯爽とやって来る。痩せ型ながらも筋肉質なWに比して、その人物は長身でしなやかな物腰が感じ取れる。墨東軍属のR、アルファベット一文字のコードネームは、特務代行者のみが名乗れる肩書だ。彼らの主な任務は、浅草からの大麻が隅田川以東へ渡らないように警戒に当たること。無論、これは表面上の建前であるが。ちなみに、浅草が大麻の一大生産地であることは、その名が“麻草”であることからも、誰もが知るところである。彼ら墨東軍属の働きあればこそ、船橋の麻薬汚染は外的要因に気を散らされる事無く対処できるというものなのだ。

「禁酒町へようこそ、ここは最後の楽天地。」暗黒街ではお定まりの挨拶をRが述べ、寸志とばかりに輝く銀色の缶を差し入れる。それは飲み頃、温度ゼロ。

「急で悪かった。どうしても伝えといた方が良い件だと思ってな。」横断歩道を西へと促し、二人は量販店の前を通過する。「今夜はワニの肉でも食いたいんだが。」

「ダービー通りのその店は今、休業中だ。あいにくだが。」

Rは申し訳なさげに言ったが、休業しているのは何もRのせいではない。禁酒町純正の高濃度チューハイを飲み飲み、ただ真っ直ぐ歩いて横十間川の橋を渡る。道すがら、Wは行田駐屯地での自分の与太話などしながら道化ていた。部下には見せない表情だ。無論、上官にも。

さて、目当ての店が閉まっているならば、錦糸町で亀戸餃子も乙なもの。カウンターばかりのその店で、今夜の会談の露払いと洒落込んだ。おいおい、と言いたげなRを、何処にでもある賀々屋に入るよりマシだとWが笑いながら瓶ビールを注文してしまう。おしぼりよりも先に餃子の皿が二枚。二人とも趣味が飲み喰いだからか、互いに気が合うのだ。

以前Wが、コードネームの由来は人の倍食うからだと嘯くと、Rは続けて自分は白飯党だと合いの手を入れた。これにはWも一本取られる思いがして、大いに笑ったものだった。フォネティックコードでRが指すのは色男という意味だから。以来二人は、一食一飯の交わりである。

Rが懇意にしている肉屋から調達した素材を、そのまま家で調理した写真などを見ると、いつもWは肉欲を掻き立てられている。つい先日もその影響で、Wはフラッとステーキ屋に入ったものだ。それだけに、高級レストランでの一皿を写真に収めたものなどを見させられると、Wは唾棄せしめる程の憎悪も込み上げてくるし、制御不能のその感情の発生源である自分自身が嫌にもなったりするのだが。彼らの心中には、シドと呼ばれる、肉好き達の理想郷が共有されている。無論、京成海神駅前の食肉工房アンドレは、彼らにとって馴染みである。

餃子をサッと済ませて店を出た二人は、三丁目の区画の真逆へと折れ、麻香厨に落ち着いた。狭い店内に広い卓が並んだ、安くて美味いよくあるタイプの中華料理屋だ。地元の中華店でチンピラを追い払ったあの日以来、Wはこういう店で飲みたいという気持ちが大きくなっていた。Rは、賀々屋なんかよりも何処にでもあるだろうにと、大笑いしている。錦糸町まで歩いたのがそもそもの間違いだったのかもしれない。

山色空濛として雨も亦奇なり。」裏目々々でも良いものは良いのだという、小林少佐の受け売りだ。

「この顔は西施に比べても、存外悪く無い筈だ。執刀医はシティのドクトル・ヴェルトだからな。」薄化粧のRがここでも合いの手を入れる。

ラムの串焼きや干鍋などを注文し、互いに紹興酒を酌み交わしたWは、先日に南船橋で見かけた三名について早速説明した。それは、かつてRが、ロバート・マクマキャヴィティ率いる組織に囮捜査を仕掛けたことがあったからだ。作戦は功を奏し、秋葉原昭和通りで睨み合いを続けていたジョン・バーキンの組織との殲滅戦が勃発。結果として、マクマキャヴィティは秋葉原昭和通りからの撤退を余儀なくされた。作戦後、Rは大尉に昇進し、時を同じくして顔を変えた。今や千葉はシティと呼ばれ、美容整形産業のメッカとして名を馳せている。WとRの出会いはそれ以降である。

Rたち墨東軍属も決して血を流さずに済んだわけではない。両組織に潜入した囮捜査官で生き残ったのはRのみ。炎上したステルスマーケティングが幼稚園の出来事と思えるほどにかけがえのない仲間達を失ったが、それがなければ状況はさらに悪化していた。夜毎、寝酒を呷っては、彼らを思い出さずにはいられない。だから、Wからの報告に耳を傾けながら、Rの心にはあの頃の日々が去来していた。鴉の鳴き声、下水の臭い、目くるめく電飾と露出の際どい娼婦たち。後先考えずに破壊活動を好むロバートと、陰で暗躍するタイプのジョンとの対立は、さながら船橋駅前の東西冷戦のようにも見えた。新しい部下たちを死なせてはならない。

マッドネスパーカーが両者の講和に動いているらしいと聞いて、Rは決意めいたものを眼差しに宿した。I.K.E.A.の本部すぐ近くだったことから、“連合”を標的にしているのか、傘下に入るのかはまだ不明だ。いずれにせよ時計の針が進むであろうことは疑いの余地がない。その時は、また囮捜査に乗り出さねばならなくなるだろうから、しばらくWには他人の振りを通してもらう事になる。荒川、江戸川を越えてもなお、二人は遠くにいるのだ。

ウシガエルの四川風煮込みにRは興味津々だったが、ワニが無ければネズミかモグラでもと思っていたWでもカエルだけは固辞して店を出た。向かいからの涼風を受けて、熱気が夜闇に拡散していく。

「昇進したらまた顔も変えて、いよいよ特務代行のお役は御免だろ。」

「顔を変えるのは生き残れればだ。将校になれば、当然コードネームも捨てる。」

「そしたら、名乗るのは…。」何故か分からないが、ふと、Wの頭の中にぼんやりと浮かんだ名。“囮”捜査で部下“想い”の“将”校…。

「何でハンドルネームみたくなるんだ。」一際甲高い声を上げて、Rは笑った。

冗談を言った気はなかったのだが、一頻り笑って会談を終えられるのは良い気分だった。一方で、WはRの本名を知らない。のみならず、Wは自分自身の名も、本当の親が誰なのかも知らない。“団地”生まれはそういうのが多い。

迎えのセダンのヘッドライトが遠くに見える。砂埃を上げてやってくるその光景に、捲土重来という言葉が連想される。意気軒昂でありさえすれば、あの後部座席に乗る資格はあるのだ。階級や肩書、生まれなぞ関係ない。今や、ここに立つ二人は気炎万丈。特務は完遂されるためにある、これからも。故に、二人が名乗るのは、アルファベットただ一文字。どうやら酔っている。

「じゃ、お互い無事なら、いずれシドの地で。写真も良いが、早くご自慢のホルモンを味わせてもらいたいもんだな。アンタといると、こっちの肉欲がそそられてたまらねえ。」

「欲ね?」Rが言うや否や、静寂の夜闇を切り裂く蝙蝠の鳴き声、いや突然の急ブレーキがタイヤから狂喜の叫びを上げさせる。Rは身を翻して跳び退り、それを襲撃と認識して備える。

小林少佐の駆るセダンが待ってましたとばかりに、横滑りのリアバンパーで突進。100日後に死ぬWの下半身に、カー=カタ炸裂。立て続けに、小林が蹴破るようにして開けたドアの直撃を後頭部に受けたため、Wはか弱いヒヨコのようなRを庇った夢すら見ることが叶わなかった。刈根流現代殺法、崩し車=型、饕餮。

後部座席から二人の士官が伏し目がちに出てくる。そのうち一人は、何発も殴られた痕が痛々しい。これはスゥだ。左右から重々しい挙動でWの両肩を支え、小林からの指示通りトランクに収容した。足元の邪魔が無くなったところで、運転席から小林少佐が降り立つ。

「身内の不始末の落とし前に、野暮な真似を演じ失礼した、大尉。」鉄風雷車の暴力を見せつけたその男は、威厳を保ちながらも穏やかな面持ちで言った。

対して、冷ややかな眼差しと無言の最敬礼でRが応じる。こういう上官の下で、Wは何を思って任にあたっていたんだろうか。何も知らないのはお互い様なのだ。

「あの莫迦者は、墨東の諸官を巻き込もうとしたが、引き続き隅田川の衛に粉骨願いたい。船橋の火種は船橋で絶やす。」

「少佐殿が莫迦呼ばわりした大尉の様子からは、習志野軍属が縄張り意識の強い犬だったようには思われませんでしたが。」挑発的な物言いで強い拒絶の意志を示す。

「身体髪膚、之を父母に受く。敢て毀傷せざるは、孝の始めなり。貴官はこれ以上、顔を変える必要も無いのではないかね。」小林少佐は、親の顔すら知らないW達の親代わりだった。そんな親心が、Wと交流を持ったRに対しても芽生えるのも不思議ではない。問答無用で手が出る時以外、小林は対話的で説教臭くならない人物なのだ。

「それに、例の食欲に訴える数々の写真、更新が無くなったら寂しくなるじゃないか。では、シドで必ず。」言うや否や真っ黒のセダンに乗り込み、悠々と車は発進した。赤いテールライトを揺らめかせて。

全て筒抜けなのも無理はない。習志野軍属行田駐屯地、通称“団地”は、かつて海軍無線電信所船橋送信所があり、真珠湾攻撃艦船にニイタカヤマノボレ一二◯八を送信した。密会、密談、秘密の盗み聞きは朝飯前の茶事である。

こんな地獄も悪くない、とRは思った。Wが事あるごとに言っていた、掃き溜めに鶴という言葉の真意が分かった気がしたから。ならばこちらは、美味しいとこどりをさせてもらうばかりだ。

【02】虚飾性無完全飯罪

CHAPTER:02 そこは男二人で行く場所じゃない

「スゥ空いてるな。ウィーゴーだ。」

唐突に付き合わされるのには慣れているが、We go.とは、あまりに赤裸々な誘い文句じゃないか。今日のWさんは、何かある。そう思ってスゥは、二つ返事を一つに統合し、小気味良く応じた。

午後四時過ぎ、二人は“団地”を出て一キロ強の道のりを足早に南下。当然、軍装ではなく私服である。Wは赤地に黒チェックのフランネルに、黒に近いインディゴのタイトなデニム。スゥは白いTシャツにシングルのライダースジャケットを羽織り、若干ダメージの入ったやはり黒っぽい紺のデニムを履き、メタルフレームでスクエアのサングラスをかけている。西船橋駅から武蔵野線で一駅、南船橋へ。電車は待たずにやって来た。

南船橋を拠点としている組織は大きく二つ。“連合”ことInternational Kidnapping Enterprise Association。そして、今日の偵察先、死神集団との呼び声高かりしLaLaMORTである。とはいえ数年前に第三勢力による壊滅的な打撃を受けて以来は鳴りを潜めており、その様子見として定期的に訪れる事が、彼ら習志野軍属の任務となっているだけなのだが。

浜町界隈は広い野原の上に線路、駅、集合住宅と量販店をただ乗せたかのような様相である。これでも、五十年前の活気を取り戻しつつあるとは言えるのだが。特に、LaLaMORTが沈黙してからは、浮浪者たちが暮らす区画と商業施設の区画とが明確になり、上辺だけならば華やかさすら間々見られる。その割に今日薄暗く感じられるのは、重く浮かんだ雲のせいだ。雨になるかもしれないが、彼ら二人が傘をさすことはない。

駅から陸橋を渡って、施設二階に足を踏み入れる。道中は制服姿の中高生や、どこの馬の骨とも知れない大学生の男女連れが目立った。LaLaMORT現役の時代には考えられない光景である。そういう手合いや、彼らに無縁の衣料品店を黙殺し、南区ハーバー通りへ出る。初めて訪れるならここは広大で入り組んだ施設だが、彼らからすれば庭のようなものだ。

「二時の方向。」Wが厳しい口調で発した。

ガラス張りの建物の中に座っていたのは、マッドネスパーカーことジョージ・パーカー。向かいには自称下町の犯罪王、ロバート・マクマキャヴィティ。“マイアミの職員”ジョン・バーキンまでもが居る。三役揃い踏みどころか、大三元役満レベルの共演だ。

「これは我々の手に負えませんよ。」盗聴班、追跡班、警戒班、偵察班、小隊レベルの動員が必要なのは明らかだった。

「ああ、覚えとくだけでいいだろう。」Wは前を向いてずんずん進んでいく。

「え?」三匹のローンウルフ達に背を向け、どんどん離れていく事に混乱した。

「あいつらがここに居たのはたまたまだ。そう考えるより仕方あるまい。」と言って、Wはある店の前で足を止めた。「報告は後。ここだ。」

スゥが外観を確認する暇もなく店内に入った。空席はわずか、賑わった店内だ。アロハシャツを着た店員に二名と告げると、小さなテーブルに案内された。木造りの内装で、真珠湾を意識しているのは明白のようだった。

「で、ここが、何です?」声を潜めてスゥが訊ねた。周りには女性客たちしか居ない。

「俺はパンケーキを食う。お前は何にする、おごりだ。」Wは至って真面目に言う。

スゥの頭の中で百機の空中攻撃機が舞い踊った。編隊は一斉に急降下し、彼の大脳皮質へ爆弾投下。桃色の爆炎と黄色い煙が立ち込める。前が見えない。airraid on pearlharbor x this is not drill真珠湾空襲、これは演習にあらず。

「トラ・トラ・トラって気は全然してないぞ。早く選べ。」Wはハワイアンサンプラーという、ホイップクリームにバナナ、マンゴー、ブルーベリー、イチゴ4種類のトッピングがそれぞれ乗った、ディナー限定のパンケーキを選んだ。

この店、Eggs’n Thingsのコンセプトは“All Day Breakfast”だと言う。朝ラーメン、昼にカレー、夜はハンバーグの典型と言った生活をしているWが、こんな店に興味を持つなんてどうかしているんじゃないかと思いながら、そのメニューに目を通す。パンケーキ、ワッフル、クレープ。屋台で出される粉モノばかりが、一桁余計な値段で提供されている。女性客ばかりの理由が分かった。時間は五時過ぎ、少し早い夕食というのにこれでは何が何やら分からない。だが、流し見ていたメニューの中に、猛烈に惹かれるエッグベネディクトの写真があった。これだ、と思った。ホウレン草とベーコン、スパム、BLTなど色々な種類があるが、スモークサーモンとアボカドが特に良い。還元性の糖を検出するベネジクト液とは何の関りもないだろう。

Wが女性店員を呼び、注文を伝える。ビッグウェーブと言う名のエールも頼んでいる。こんな小さなサイズの瓶ビールが八百円もすることに動揺したので、スゥは水で良いと言った。真珠湾価格ここに極まれりの感がある。そんなスゥの気を知ってか知らずか、すぐ運ばれて来たビールをコップに注ぎ、Wは気ままに飲りはじめた。目的の無い潜入調査染みたこの展開に、素面のスゥは気が気でない。

先ず、ビールが来てから十分後にスゥのエッグベネディクトが提供された。勿論、食べるのは初めてで、この店にこの料理があることを心の中で感謝したほどである。

「一口くれ。」届くや否や、Wが満面の笑みで言った。もう右手にはスプーンを握っている。

だが、Wが一口欲しくなるのも無理はない。それくらいに美味そうに見えるのだ。かけられているオランデーズソースの味も想像がつかないくらい美味そうだ。これを注文した自分が褒められているみたいで、スゥは嬉しくなって一口勧めた。

Wは右手に『二枚重ね』で握ったスプーンとフォークをサッと開いて持ち直し、西洋式サーバーの使い方でエッグベネディクトを掴むと、一口にそれを頬張った。あっと言う間の出来事だった。口いっぱいにおいしいを詰め込んだWは至福の表情で格闘している。残っているのは、あと一つのエッグベネディクトと付け合わせのジャガイモ。

「あっ!」遅れてスゥが発した。

「刈根流大衆活法、ジャックナイフ。」口中のおいしいをビールで洗い流し終えたWが、満足げに言った。

刈根流大衆活法とは、行田駐屯地で修める武術を彼がふざけて文字ったものだ。教官の小林少佐に聞かせてやりたい。拳骨十発は食らう羽目になるだろう。スゥは呆れて物も言えなかった。

「ま、ナイフは使ってないんだけどな。」何とも思っていないWは続ける。

「早く中佐になっちゃえばいいのに。この万年大尉。」憮然としてスゥは言った。

准尉から始まり、一年ごとに順調に昇任し、四年目に大尉という前代未聞の出世を為して以来、もう七年間もその階級で留まっていることから、Wは畏敬や軽蔑の念が入り混じった『万年大尉』の名で陰口を言われることもある。公然の秘密として、無い事になっている特務部隊の昇任は遅いものの、四十台で少佐というのが一つの目安だ。スゥの言を聞いて、Wはにやにやしている。

そうこうしているうちに、Wの注文が届く。ただし、隣のテーブルに、だった。そこには女性客二人組が座っていたが、その場で注文していないと言って、店員が間違いに気付いた。その不手際にWは不承々々で皿を受け取った。男が注文するはずが無いと店員から思われているのだ、という思い込みがWの頭を支配しつつあるようだ。

「ともあれ、PKでKPだ。」気を取り直してWが言った。

「何ですそれ?」

「パンケーキで乾杯っていう。」

「遊星からの物体エッグスじゃないですか!」脳かという程に盛られたホイップクリームに驚いたスゥが発した。

「原題はThe Thingだしな。」Wはマンゴーが乗ったパンケーキをナイフで切り、クリームをたっぷりとつけて頬張った。口を動かしながらナイフを指し示し、残り三種類のうちから一つ選んで良いぞという手振り。クリームの甘さはかなり抑えられているので、脂肪分の嫌な味が分かってしまう。卓上にあるメープルシロップ、濃厚なココナッツミルク、クランベリーソースのいずれかをかけなければならないのだろう。これらはどれも強い甘さだ。自分も有り付けるのだと分かったスゥは少しばかり機嫌が良くなって、付け合わせのジャガイモを一粒ずつつまんでいる。無論、エッグベネディクトも最高だった。オランデーズソース作りに挑戦したいと思うほどに。

しかし、幸せだったはずの時間は急に終わりを告げた。店内のシャッター音をWの耳が捕らえてしまったのだ。そちらを睨み付けると、案の定、女性客がカメラを使っていた。後はいつもと同じ。盗撮されたと喚き散らしながら、銃を抜いて客を恫喝するW。確認した画像に写っていたのは当然Wであるはずもなく、その女性が注文した料理だった。

「こんなモンの写真が何になるんだ!ネットに上げるんじゃねえ、この承認欲求の亡者め!この一皿はお前では無い、決して!受けたサービス自慢をしているお前は、何者でも無い!只の消費者風情が、傷の舐め合いを見せつけるんじゃねえ!自炊した調理なり創り出した作品なら良いんだ、紛らわしいシャッター音を聞かせるんじゃねえ!」振り上げた拳を、その女性の有り様に向けて殴りつけたW。

泣き出す女と、店員の叫び声。それ以外は客たちの沈黙。高い金で非日常の体験を買っているはずの店内の雰囲気は、一気に現実世界の中にあるはずの危機に直面したようだ。そして遂には、二人の男たちは店から追い立てられ、雨脚が強くなった外へと出された。

目立ち過ぎも良い所なのですぐに彼らは二手に別れて帰路へ着いた。Wは徒歩で船橋競馬場駅方面へ。もうずぶ濡れになったネルシャツ。軍装のコートと軍帽が恋しい。稼業の軍属と、趣味の飲み食い。本当の自分はどちらなのだろう。そう思いつつも、気の合う仲間がネットに上げた新しい写真は相変わらず、買ってきた肉を豪快に調理したものだったから、自分が拳を振り上げたことには後悔も反省も無いのだった。触発されたWは、駅前のフォルクスでスペシャルロインセットを平らげてから帰った。

 

【01】虚飾性無完全飯罪

CHAPTER:01 かっこいいスキヤキは要らない

「あ、俺にも頂戴。そんな多くなくていいから。」

向かいのスゥの大盛りの丼に、ひとつまみの紅生姜がのせられる。そうしてからソゥは、つゆだくにした並盛りの牛肉、その最後の一片までも紅生姜で覆い隠した。

俺はつゆぬきにしたアタマの大盛りを掻っ込んでから、牛皿の肉をさらにひと箸頬張る。

コの字のカウンターに横並びでなく、テーブル席で食うなんて昔じゃ考えられなかった。時代は変わる。飲むのも出された番茶でなく、ビールだなんてその頃には考えもしなかった。歳も食った。しかし、味覚の好みには、不易と流行がある。

「勇ましいな。」

俺は隣のソゥに素直に打ち明けた。牛丼に紅生姜を山盛りにした光景は、たまに見かけてうんざりするが、気心の知れた仲間がそれをやるのは少し魅力的に見える。彼は、内面にあるそれとは裏腹な上品さで、ひと山つついて味わった。頼りになるんだかそうでないのか、今一つ判然としない所作だ。

「うん、美味え。Wさん、それは刺激の多い人生に惹かれるからですよ。サナトリウム、と言えば分かるでしょうか?」

ソゥは食事にも人生にも退屈しているらしい。こんな生き方をしている男が、と思うと少し可笑しい。

「ああ、宜しい。しかし、塩分の少ない食生活は控えるからだよ。ナトリウム、と言えば分かるかな?」

「それでつゆぬき、ですか。」

炊きたての丼飯より白けたような視線を寄越してスゥが言う。カウンター向かいに整列したスーツの四人組からの視線が刺さるようだ。注文する口元をニヤニヤ歪めている様子まで聞こえて来る。

「いや、つゆぬきと紅生姜との因果関係は無いんだ。」

分かりにくいはぐらかし方をしてから、思い直して続ける。

「俺は、紅生姜の使い所が分からないんだ。」

言うや否や、カウンターに陣取った集団が、一斉に笑い声を上げた。

「使い所って!あっははははは!」

「分かる分からないじゃはははは!」

「あっははは!つゆぬきあはははは!」

「問い詰めたい!小一時間あはははは!」

彼らは、この牛丼チェーン店内における俺のレゾンデートルを、一斉に否定した。先ほど彼らが着席して注文したのは一様に「大盛りねぎだくギョク」だったのを覚えている、はっきりと。彼らもまた、その丼に一際大きな紅い山を積み上げていた。

つゆぬきは、白いご飯を愛しているが故だ。いつもなら牛皿定食肉二倍ご飯大盛りなのに、自分でも何を血迷ってアタマの大盛りつゆ抜きと牛皿にしたんだろう。牛皿定食だったらつゆは多くしたっていいし、卵も味噌汁も付いたというのに。だが今夜は、身内で長居しないが為の注文なんだ。そう、これで足りなければ、さらに追っかけて並でも注文すれば良いからだ。一人牛丼では無く、身内との関係性を優先に、柔軟性を持たせた注文にしたのが仇になっていたのか!だがどうして!紅生姜をたんまり使った、この隣のソゥでは無く!!“使わなかった”俺が嘲笑の対象になる!!俺は彼に対し、心の中でも敬意を払っていたのに!!!

ひとしきり笑い終えたかのような顔つきになって、カウンターの一同が見計らったかのように、卵を丼に入れてかき混ぜてから掻っ込む。然るのち、めいめいが食事の終わりを迎えるべく丼の紅生姜も一つに混ぜ合わせて、また掻っ込む。そんな彼らの心の声が聞こえてくるようだ。

「これぞ王道。」

「誰も知らない魔法。」

「残り四割の丼に混ぜる卵。」

「そして紅生姜、黄金律極まれり。」

そうでも言いたげな満足感を表情に出して、流し目で此方を見遣りながら、スーツの男たちは最後の一口を終えようとしていた。そんな彼らに、俺は立ち上がり、懐から抜いたコルト・ガバメントを突きつけて声を張り上げる。

「俺の味覚が子供みたいだからって、子供でも同じ一人の人間のはずだ!あんたらのその狂った味覚を馬鹿にしていない俺を、にも関わらずどうしてせせら笑う!あざ笑う!」

丼飯の最後の一粒まで平らげた男たちが、示し合わせでもしたかの様に箸を置き、そしてこちらを見遣る。その丼の底のように黄色く濁った視線と共に。それが俺の怒りの炎にさらに油を注ぐ。

「また始まった!おい、ソゥ!」

二人に羽交い締めにされても尚、俺は店内で吠える。

「なぜ、そこにある紅生姜を無尽蔵に使おうとするんだ!お前たちにとって、それは石油と同じか!結局、個人的な問題に帰結した瞬間、持続可能な開発目標はゼロになるのか!」

張り裂けそうだった。なりふり構わなかった。仮にここが紳士淑女の社交場であるならば、あるまじき発言。しかし、誰かが声を上げねば。誰が。俺が。

男たちは何も見ていなかったかのように冷めた表情で、何も言わず、代金をカウンターに置いてぞろぞろと立ち去った。

「その言い分も、最もだと思いますが。」

押さえ付けていた腕を離したスゥが言い、テーブルに三人分の料金を多めに置く。

「そんな無作法は、なか卯でもやったらダメですよ、大尉!愛用のコルトを泣かせるような真似しないで下さい!」

俺を押さえる腕を緩めながらソゥが説得する。その腕を振り解きざまに殴りつける。一発まともに受けてソゥはスッ転ぶ。

気付けば、俺は独り夜道を歩いていた。その夜は、雨がしとしと降っていた。漆黒の軍装が、夜風に揺れて、それでも気は紛れない。傘もささずに“団地”への帰路を急いだ。蓋のない𠮷野家の丼と同じだった。こんな夜は顔が濡れる。

 

【00】虚飾性無完全飯罪

Chapter:00 たとえそこに行くのが最初で最後であったとしても、今の自分に悔いは無い

胸がすくような思いとは正反対の感覚が続いていた。後楽園辺りで乗り換え案内を確認すると1時間以上かかることに気がついた。次の飯田橋で降りなければ、帰路からは逸れる一方になる。分水嶺は此処だ。行くのは負担の上塗りになるだけだと本能が告げている。一度行かねばならないと理性が叫んでいる。実を言うと、ねばならないでの行動を、今は回避したい。

目を閉じて「ヤクザ偏差値75」に代わるフレーズを1時間かけて考えようと思った。案の定、快眠は間も無くやってきた。一度目を覚ますと、車内は既に満員で、扉を閉めてはまた開きを四度も繰り返すような有様である。南北線で目黒に来るのは、帰りの電車で昏睡状態になっている時に通過する程度の経験しかないから、それを経験と呼んで良いかは別として、この混雑はほとんど初めての経験だった。新橋へ向かうのに溜池山王で降りるときは流石にこれ程ではないから。むしろ、銀座線の新橋行きへ乗ったときに感じるような状況だ。

泥酔状態で日吉や武蔵小杉の改札を出るときの記憶はほとんどないが、武蔵小杉駅のファサードは太巻きの様な絢爛さとそれを丸呑みする喉元の様な禍々しさを想起させ、ここを抜けるのが初めてでは無いと言うことを思い知らされた。

JRへ移動し、南武線に乗る。これから南部へ行くんだと思った。クレオール料理を食うんだ、と。乗り込んだ列車の短い乗車時間の間にこの記事をメモし始める。「ヤクザ偏差値75」に代わるフレーズを思いつくことはついぞなかった。

川崎駅。此処から先はイヤホンをして音楽を聴いていこう。ボーカルが女性である以外は我々のバンドと変わらないようなのを選曲し、流す。川崎駅改札口の構造は品川駅に似ていると思うが、通り抜ける人達が違う。そんなつまらない想像しか出来ないのは、此処を通るのが何度目かになったからだろうか。十代終わりの頃に来た、此処の深夜のゲームセンターが懐かしい。川崎の土地勘は新宿くらいにはある。つまり、どちらの土地勘も無いに等しい。

この日の前日は、実は、何らかの粗悪なヤクでもやったかのような頭痛と胸の苦しみがあった。その夜、インド料理屋で三杯目の生ビールを飲み終える頃にようやく気分が落ち着いたものだ。

ところがどうだ。迂路を辿った通りの向こうに、高々と赤く光るウェアハウスの文字。横断歩道を渡った先では、二人組の女性がこれから俺がするのと同じようにカメラを向けている。それを見て、さっきまでの不安感は一気に引き、胸がすいた。此処から先は、みんな同じ目的地。観光地に来た。何が違うかといえば、観光後に行く飲み屋がどこになるかくらいだろう。

駐車場へ誘う大きな虚のすぐ脇に、堅く閉ざされた小さい門。同時に通過できるのはせいぜい二人がいいところだ。その正面玄関の前には人だかり。自動扉の前に立つのを怯む者。それを好機とばかりにカメラを構える者。ぽかんと空きの出来た人垣に入り込み、そこを写真に収める。都度、歓迎降臨の四字が書かれた扉が二つに別れて開く。

その間、入店の作法を見て取ることができたから、直ぐに前進する。第一の扉の先に第二の扉。どちらも自動だが、第二の扉が開く時、直ぐ後ろで排気音が鳴る仕組みになっている。初見殺しの粋な計らいと言える。分かっていても、内心それには驚いた。

第二の扉の先は、上階へ向かうエスカレーターまでの廊下が続くが、他の客たちが一列縦隊でゆっくり進んでいた。内装が凝っており、素通りは出来ないのだ。前方には内部の様子を動画で撮影する女性たち。後ろからは常連と思しきスーツの男。廊下の突き当たりにあるのは、真っ赤に光る電脳九龍城塞の電飾を掲げたエレベーターホール。エスカレーターに乗れば、如何にもなビラが貼られてリフレインしている。

エレベーターを登った二階正面は、九龍城砦さながらの意匠を凝らした外壁。いや、内壁。下着にもしないような汚れた服が干され、栄養があるだけ幾分マシな獣肉が干され、空いた壁にはまたビラが干されている。

二階から見上げたその施設の様子は、三階からは眼前に観察することができる。その分、上階の方が撮影者が数多く居座っていたが。四階にある二十四時間営業のスペースは、流石に聖域の感がして行くのはやめにした。二階にあった対戦アーケードゲーム群からは、もはや自分の時代の斜陽の先を感じたりもして、異邦人の心境は清々しいまでに重くなってきていたから。エスカレーターで下階へ行き、案内に沿って店を出る。

あらかじめ決めていたのは、この後に行く飲み屋だ。ウェアハウスに居た幸せそうなみんなに訊ねたい。ここ川崎に来て、この店以上の満足感を得られる店を他に知るか。川崎駅から放射状に延びる道は、なぜかアムステルダム駅前を思い出させる。旧東海道を北東へ。通りの向こう、セブンイレブンの真横に、明かり一つ見えない路地がある。その店の存在感を増すための演出だ。平日火曜の夜八時、客入りは半分ほど。これが翌朝九時まで営業するのだから驚きだ。難なくカウンターに通された。

生ビールを注文し、メニューを見遣る。何も考えていなかったことを思い出した。この店でまず注文するのは三つ。煮込み、ずるずる、とりユッケマヨネーズあえ。生を飲み終えたころに注文が届く。代わりに赤星を頼む。焼き物は頼まずに、一年ぶりの信頼感を楽しんだ。同じのをもう一つずつでも頼めるが、帰るのが億劫になるし、宿代の持ち合わせはないし、何より好い一日の締めくくりにしたかった。

帰りは京浜東北線に揺られて、ゆっくりと感傷に浸っていた。もうイヤホンから音楽を流さなくなって久しい。思いのほか早く告げられた下車駅に出る。ソクラテスは自らのダイモンの声に耳を傾け、何をしないべきかに従ったが、その最期の時ダイモンは死ぬべきで無いとは言わなかったと言う。結局の所、俺のダイモンは当てにならない。この事を知る友人くらいが真の友人なのだろうか。ダイモンは何も言わない。