CHAPTER:03 畜生どもは饒舌じゃない
国道14号は江戸川区松江一丁目の東小松川交差点で一つに交わり、今ここ江東区亀戸一丁目の駅前交差点にセダンを導いた。車の色に引けを取らない漆黒の軍装に身を包んだ出で立ちの男が降車する。サファリジャケットの胴をベルトで締め、タイも同じく黒を締め、手袋も黒革。腰の横にはコルト・ガバメントを入れた吊り鞘を下げている。習志野軍属が採用している軍装は古典的な意匠だが、その分、実に威圧感を感じさせ得るものだ。胸元に輝く階級章は大尉。
「じゃあ、帰るときにはまた連絡を入れる。」真っ黒のセダンから降りたWは、運転席のスゥに伝え、軍帽を目深に被った。この車は、彼らごときでは触れる事すら許されない、高級将校の為にある。行田駐屯地においてそれは、専属運転手に小林少佐を擁する、永井大佐専用車ということだ。そんなことをWは内心で、単なる優先座席程度にしか認識していない。だから一種の”可愛がり”感覚で、部下に運転を命じることがたまにある。若気の至り、ここに極まれりというやつだ。
『俺が大佐で、お前が少佐な。』先ほども、そんな台詞でスゥから時間を買っている。
『万年大尉は、まず准佐になってから言ってくださいよ。』スゥはスゥで満更でもない様子でドライブを楽しんだ。『あ、二階級特進が先か』とは言わずにおいた。
通りの向こう、和菓子屋の軒先から、緋色の軍装に身を包んだ人物がこちらへ向かって颯爽とやって来る。痩せ型ながらも筋肉質なWに比して、その人物は長身でしなやかな物腰が感じ取れる。墨東軍属のR、アルファベット一文字のコードネームは、特務代行者のみが名乗れる肩書だ。彼らの主な任務は、浅草からの大麻が隅田川以東へ渡らないように警戒に当たること。無論、これは表面上の建前であるが。ちなみに、浅草が大麻の一大生産地であることは、その名が“麻草”であることからも、誰もが知るところである。彼ら墨東軍属の働きあればこそ、船橋の麻薬汚染は外的要因に気を散らされる事無く対処できるというものなのだ。
「禁酒町へようこそ、ここは最後の楽天地。」暗黒街ではお定まりの挨拶をRが述べ、寸志とばかりに輝く銀色の缶を差し入れる。それは飲み頃、温度ゼロ。
「急で悪かった。どうしても伝えといた方が良い件だと思ってな。」横断歩道を西へと促し、二人は量販店の前を通過する。「今夜はワニの肉でも食いたいんだが。」
「ダービー通りのその店は今、休業中だ。あいにくだが。」
Rは申し訳なさげに言ったが、休業しているのは何もRのせいではない。禁酒町純正の高濃度チューハイを飲み飲み、ただ真っ直ぐ歩いて横十間川の橋を渡る。道すがら、Wは行田駐屯地での自分の与太話などしながら道化ていた。部下には見せない表情だ。無論、上官にも。
さて、目当ての店が閉まっているならば、錦糸町で亀戸餃子も乙なもの。カウンターばかりのその店で、今夜の会談の露払いと洒落込んだ。おいおい、と言いたげなRを、何処にでもある賀々屋に入るよりマシだとWが笑いながら瓶ビールを注文してしまう。おしぼりよりも先に餃子の皿が二枚。二人とも趣味が飲み喰いだからか、互いに気が合うのだ。
以前Wが、コードネームの由来は人の倍食うからだと嘯くと、Rは続けて自分は白飯党だと合いの手を入れた。これにはWも一本取られる思いがして、大いに笑ったものだった。フォネティックコードでRが指すのは色男という意味だから。以来二人は、一食一飯の交わりである。
Rが懇意にしている肉屋から調達した素材を、そのまま家で調理した写真などを見ると、いつもWは肉欲を掻き立てられている。つい先日もその影響で、Wはフラッとステーキ屋に入ったものだ。それだけに、高級レストランでの一皿を写真に収めたものなどを見させられると、Wは唾棄せしめる程の憎悪も込み上げてくるし、制御不能のその感情の発生源である自分自身が嫌にもなったりするのだが。彼らの心中には、シドと呼ばれる、肉好き達の理想郷が共有されている。無論、京成海神駅前の食肉工房アンドレは、彼らにとって馴染みである。
餃子をサッと済ませて店を出た二人は、三丁目の区画の真逆へと折れ、麻香厨に落ち着いた。狭い店内に広い卓が並んだ、安くて美味いよくあるタイプの中華料理屋だ。地元の中華店でチンピラを追い払ったあの日以来、Wはこういう店で飲みたいという気持ちが大きくなっていた。Rは、賀々屋なんかよりも何処にでもあるだろうにと、大笑いしている。錦糸町まで歩いたのがそもそもの間違いだったのかもしれない。
「山色空濛として雨も亦奇なり。」裏目々々でも良いものは良いのだという、小林少佐の受け売りだ。
「この顔は西施に比べても、存外悪く無い筈だ。執刀医はシティのドクトル・ヴェルトだからな。」薄化粧のRがここでも合いの手を入れる。
ラムの串焼きや干鍋などを注文し、互いに紹興酒を酌み交わしたWは、先日に南船橋で見かけた三名について早速説明した。それは、かつてRが、ロバート・マクマキャヴィティ率いる組織に囮捜査を仕掛けたことがあったからだ。作戦は功を奏し、秋葉原昭和通りで睨み合いを続けていたジョン・バーキンの組織との殲滅戦が勃発。結果として、マクマキャヴィティは秋葉原昭和通りからの撤退を余儀なくされた。作戦後、Rは大尉に昇進し、時を同じくして顔を変えた。今や千葉はシティと呼ばれ、美容整形産業のメッカとして名を馳せている。WとRの出会いはそれ以降である。
Rたち墨東軍属も決して血を流さずに済んだわけではない。両組織に潜入した囮捜査官で生き残ったのはRのみ。炎上したステルスマーケティングが幼稚園の出来事と思えるほどにかけがえのない仲間達を失ったが、それがなければ状況はさらに悪化していた。夜毎、寝酒を呷っては、彼らを思い出さずにはいられない。だから、Wからの報告に耳を傾けながら、Rの心にはあの頃の日々が去来していた。鴉の鳴き声、下水の臭い、目くるめく電飾と露出の際どい娼婦たち。後先考えずに破壊活動を好むロバートと、陰で暗躍するタイプのジョンとの対立は、さながら船橋駅前の東西冷戦のようにも見えた。新しい部下たちを死なせてはならない。
マッドネスパーカーが両者の講和に動いているらしいと聞いて、Rは決意めいたものを眼差しに宿した。I.K.E.A.の本部すぐ近くだったことから、“連合”を標的にしているのか、傘下に入るのかはまだ不明だ。いずれにせよ時計の針が進むであろうことは疑いの余地がない。その時は、また囮捜査に乗り出さねばならなくなるだろうから、しばらくWには他人の振りを通してもらう事になる。荒川、江戸川を越えてもなお、二人は遠くにいるのだ。
ウシガエルの四川風煮込みにRは興味津々だったが、ワニが無ければネズミかモグラでもと思っていたWでもカエルだけは固辞して店を出た。向かいからの涼風を受けて、熱気が夜闇に拡散していく。
「昇進したらまた顔も変えて、いよいよ特務代行のお役は御免だろ。」
「顔を変えるのは生き残れればだ。将校になれば、当然コードネームも捨てる。」
「そしたら、名乗るのは…。」何故か分からないが、ふと、Wの頭の中にぼんやりと浮かんだ名。“囮”捜査で部下“想い”の“将”校…。
「何でハンドルネームみたくなるんだ。」一際甲高い声を上げて、Rは笑った。
冗談を言った気はなかったのだが、一頻り笑って会談を終えられるのは良い気分だった。一方で、WはRの本名を知らない。のみならず、Wは自分自身の名も、本当の親が誰なのかも知らない。“団地”生まれはそういうのが多い。
迎えのセダンのヘッドライトが遠くに見える。砂埃を上げてやってくるその光景に、捲土重来という言葉が連想される。意気軒昂でありさえすれば、あの後部座席に乗る資格はあるのだ。階級や肩書、生まれなぞ関係ない。今や、ここに立つ二人は気炎万丈。特務は完遂されるためにある、これからも。故に、二人が名乗るのは、アルファベットただ一文字。どうやら酔っている。
「じゃ、お互い無事なら、いずれシドの地で。写真も良いが、早くご自慢のホルモンを味わせてもらいたいもんだな。アンタといると、こっちの肉欲がそそられてたまらねえ。」
「欲ね?」Rが言うや否や、静寂の夜闇を切り裂く蝙蝠の鳴き声、いや突然の急ブレーキがタイヤから狂喜の叫びを上げさせる。Rは身を翻して跳び退り、それを襲撃と認識して備える。
小林少佐の駆るセダンが待ってましたとばかりに、横滑りのリアバンパーで突進。100日後に死ぬWの下半身に、カー=カタ炸裂。立て続けに、小林が蹴破るようにして開けたドアの直撃を後頭部に受けたため、Wはか弱いヒヨコのようなRを庇った夢すら見ることが叶わなかった。刈根流現代殺法、崩し車=型、饕餮。
後部座席から二人の士官が伏し目がちに出てくる。そのうち一人は、何発も殴られた痕が痛々しい。これはスゥだ。左右から重々しい挙動でWの両肩を支え、小林からの指示通りトランクに収容した。足元の邪魔が無くなったところで、運転席から小林少佐が降り立つ。
「身内の不始末の落とし前に、野暮な真似を演じ失礼した、大尉。」鉄風雷車の暴力を見せつけたその男は、威厳を保ちながらも穏やかな面持ちで言った。
対して、冷ややかな眼差しと無言の最敬礼でRが応じる。こういう上官の下で、Wは何を思って任にあたっていたんだろうか。何も知らないのはお互い様なのだ。
「あの莫迦者は、墨東の諸官を巻き込もうとしたが、引き続き隅田川の衛に粉骨願いたい。船橋の火種は船橋で絶やす。」
「少佐殿が莫迦呼ばわりした大尉の様子からは、習志野軍属が縄張り意識の強い犬だったようには思われませんでしたが。」挑発的な物言いで強い拒絶の意志を示す。
「身体髪膚、之を父母に受く。敢て毀傷せざるは、孝の始めなり。貴官はこれ以上、顔を変える必要も無いのではないかね。」小林少佐は、親の顔すら知らないW達の親代わりだった。そんな親心が、Wと交流を持ったRに対しても芽生えるのも不思議ではない。問答無用で手が出る時以外、小林は対話的で説教臭くならない人物なのだ。
「それに、例の食欲に訴える数々の写真、更新が無くなったら寂しくなるじゃないか。では、シドで必ず。」言うや否や真っ黒のセダンに乗り込み、悠々と車は発進した。赤いテールライトを揺らめかせて。
全て筒抜けなのも無理はない。習志野軍属行田駐屯地、通称“団地”は、かつて海軍無線電信所船橋送信所があり、真珠湾攻撃艦船にニイタカヤマノボレ一二◯八を送信した。密会、密談、秘密の盗み聞きは朝飯前の茶事である。
こんな地獄も悪くない、とRは思った。Wが事あるごとに言っていた、掃き溜めに鶴という言葉の真意が分かった気がしたから。ならばこちらは、美味しいとこどりをさせてもらうばかりだ。