【一月号】巻頭言 真と善と美【キ刊TechnoBreakマガジン】

不思議な経験を何度かした。

おそらく二度ほどか。

恐る恐る進んでいたのだが、さて、次の道をどう行くかという段になって、ふと、手元に地図が届けられるという風な。

「ほら」とは誰も言わないのだが、さりとて、私が其処へ行き着いたとも思えないような、不思議な経験なのだ。

「ほら」と言われる代わりに、すっとそちらへ指がさされるような。

答えを出しておきたくて、この一年真善美を問い続けてきた。

割と早い段階で真=善=美、というシンプルなものでは無さそうだという事は直観した。

領域の重複として=に相当する部分はあるだろうが、弁図よりも相関図として→で表した方が良いかもしれないと思った。

行ったり来たりをしていたためか、相関図に対する信頼が増したとも言える。

西田幾多郎は『善の研究』において、「善を学問的に説明すれば色々の説明はできるが、実地上真の善とはただ一つあるのみである、即ち真の自己を知るというに尽きて居る。」と述べつつ、自己と宇宙との主客合一を主張している。

小林秀雄が『美を求める心』で、「言葉は眼の邪魔になるものです。」と言った事は、『善の研究』が叙述する純粋経験と同義だ。

別個に当たった論が、後になってから相互に絡みついていたのに気付いたこの感覚は、私としては不思議としか言い得ない。

分かっている人は当たり前のように言うだろうか、それでも、いやだからこそ真=善=美なのだと。

高校の行事で狂言教室があったのを思い出した。

能は難しいが、狂言ならばまだ当たれるのではあるまいか。

そこで、野村萬斎氏の映像を調べていると、NHKのプロフェッショナルが見つかった。

タイトルは「果てなき芸道、真の花を」。

どうしてここで「真」の字に突き当たるのか、私は愕然とした。

もしや、この中で狂言の世界の真とは何かが語られているのではないかと、直ぐに手にした。

結局名言はされていなかったが、かえってそれが良かった。

真似ているだけでは駄目で、創意工夫が果てしない、それは守破離に言えることだ。

中高でボランティア同好会に五年間在籍していたので、善を考えるにあたり、ボランティアを切り離すわけにはいかなかった。

NHKのプロジェクトX「よみがえれ日本海」をたまたま見る機会があり直観した事がある。

重油流出事故で汚れた福井県の海岸を再生するため、全国から集まった三十万人のボランティアの中から、数名に焦点を当てて紹介した回である。

専門学校を卒業後フリーターだった女性と、定年退職後に役立たずになったと感じていた男性。

女性は、冬場の長期にわたるボランティア参加者の健康管理のため、血圧測定を開始した。

彼女はボランティアを終え、看護師を志したという。

男性は、培った在庫管理の技術情報を活かし、支援物資の整理を買って出た。

彼は、また会おうね、と言ってボランティアの地を離れるという。

私は、そう思わざるを得なかったし、その想いは今も変わらない。

善の果てに真があるのでは無いかと。

善を重ね続けることだけが、真の自分に出会う方法なのでは無いかと。

その積み上げられた善から、真の成果が完成するのでは無いかと。

きっと、そうする人の姿勢や、成し得た物が美なのだ。

小林秀雄の言った「美とは信用であるか、そうである」とは物質的な美よりも、人が営む精神的な信用を我々が美と感じると看破したものだったのか。

この取り組みで、共に考えてくれた友ができた。

彼は「真とは信だ」と喝破した。

ベクトルは違うかもしれないが、大きく伸びた彼を頼もしく思う。

今年もできるところまで問い続けたい。

辿った軌跡は以下の順

善1、『小学生と退職後のボランティア』

美1、『へうげもの』

真1、『褒めて伝える』

善2、『よみがえれ、日本海』

美2、『利休にたずねよ』

真2、『果てなき芸道、真の花を』

善3、『善の研究』

美3、『美を求める心』

真3、『本当のありがとう』