船橋ノワール 第六章

十畳の和室、瀟洒な山水の軸を掛けた床の間を背に、綿摘壮一、永井日出夫の両名が並んで座り、酒を飲んでいる。届いたばかりの天婦羅は四人分だが、対面の客たちは鰈の焼物にも碌に手を付けず帰ってしまっていた。永井老は早速タラの芽を一つまみ噛み締め、酒で流す。特別本醸造の八海山が春の香りを引き立てる。もうこれで十分。あとは、健啖家の壮一が楽しそうに飲み食いするのを眺めていれば良い。ここ、船橋市湊町にある割烹旅館玉川は、創業大正十年。『ダス・ゲマイネ』を含む太宰治前期三作品が書かれた所縁ある旅館だ。この界隈では最早入手困難になっている美味珍味が秘めやかに集まる、今となっては誰も知らない場所である。

「アサシンメイカーの永井先生が、他人様に先生付けですか。」

「先生も沢山いるからね。教師、弁護士、医師、代議士。作家先生も然り。しかし、そのピラミッドの頂点にいるのはヤクザ者の用心棒ですよ、綿摘センセ。」

「揶揄わないでくださいよ、其奴だけ人様の役に立って無いじゃないですか。」

「ははは、それは裏を返せば、ある程度なら世間様の役に立っているってことかい。」永井大佐が笑いながら言い、壮一は照れ隠しか何か解らぬが手元の猪口をグッと飲み干した。

先刻までこの部屋には、千葉県議会議員くろす太一、並びにその秘書赤木光が同席していた。船橋東武が麻薬取引でせっせと金力を貯えて来た一方で、船橋西武が誇った武力はそのほとんどを失ってしまった。今、地元に必要な正義の士を、くろす議員に担ってもらうべく、先生には県政から国政へと飛翔し、ゆくゆくは閣僚になって頂きます、という永井老からの打診だった。その晩も一体どんな無理難題を吹っ掛けれらるか、くろすは終始冷や汗だったが、その進言を聞いた時には上の空。警護の赤木は酒を飲まなかったので、対照的に涼しい顔をしていたが。

代議士くろすは、永井の切り札というよりは財布だった、少なくとも当人はその様に受け止めていた。用命はと言えば、行田駐屯地に予算をいくら配分せよだとか、行田士官学校に船橋市教育課長の視察を寄越せだとか、施設の改修や設備の導入に便宜を計れだとか、その手の事ばかり。今夜の急な会合も断るわけにいかず、一体何かと出向いてみれば、いつになく丁寧な口ぶりの永井から労いの言葉を受け、今までの働きぶりに報いるべく入閣の手立てを打たんと言うではないか。

くろす議員にしてみれば、黙って酌を受けていれば、莫大な政治資金が只で転がり込んでくるのだ。こんなに楽な事は無いように思われるが、勧められるがままに飲めば飲むほど、何が正気で何が罠やら見えなくなる。向付の鰹からして、薬味が何かも感じない、粘土を食っているようだった。それを看過しながら、特務の大佐はこんな調子で語りかけていた。

「相思相愛という言葉がありますな。肴と酒、肉には葡萄酒、酒に對しては當に歌うべし。これを先生の事に当てはめてみれば、それは政治とカネ。ま、そんなところです。」

これまでの付き合いでは、一度たりとも聞かされたことの無い、暗示的な命令がされている。洒落とも冗談ともつかないような口調で、だ。隣にいる綿摘壮一は、惚けたような表情で悠々肴と酒を楽しんでいるのだが、首から下は満身に殺気を帯びているというのが、こちらの混乱に拍車をかける。

「人生、幾何ぞ。」そんな様子を察したか知らずか、壮一が合いの手を入れた。曹操、短歌行。

彼は石川の鶴乃里で火蓋を切っていた。スーツもタイも真っ黒、これは死んだ大典に対しての弔いを意味していたのだが、政治屋のくろすでもそんな事は知る由もない。兎も角、断れば殺す、と遠回しに言われているとしかくろすには思えなかった。『人生、幾何ぞ。』とはそう言う意味であるとしか読み取れないのだ。無論、壮一にそんな気などさらさら無かったのではあるが。

秘書の赤木は運転も務めるため酒を飲まないが、壮一の殺気を何とか跳ね除けようとするのに必死だった。本題も終えこれからが宴という頃、兵庫県から送られてきたという鰈を残し、二人は早々に部屋を辞したのだった。

一通りの献立を平らげ、最後の水菓子が運ばれて来てから永井が告げた。船橋東武がいよいよ今度は、我々の排除に乗り出す気でいることを。筆頭第一位、郷田環が行田駐屯地の回線に割り込むようにして連絡を寄越してきたという。

「金塊を、そろそろお譲り願いたいとさ。」

「いくらでです。」

永井老人は静かに手を開いて見せる。指を五本立てている。

「五千兆円ならば、妥当じゃありませんか。」そう言って壮一は盃を飲み干した。

「五億と告げてきたよ。」冗談では無いといった感じで、永井は憮然と吐き捨てる。

「ほう、連中さざんかとつつじの見分けもつかんとは。」壮一は思わず陶器の盃を手の内で割ってしまった。豹変した顔付きには、先程までと打って変わって怒りが漲っている。

習志野軍閥の士官養成学校兼集合住宅、通称“団地”は、軍閥の基幹通信基地として重要な役割を果たしてはいるが、それらはあくまで建前だ。薬園台にある習志野軍閥本部駐屯地、通称“塔”とは一線を画した任務を永井部隊とまで呼ばれる彼らが担っている事は公然の秘密だった。彼らが擁するそれは、血溜まりの中から引き上げられた金色に輝く闇の文化財である。

なんと無残な平城京。七百四十年から僅か五年間で現在の京都府にあった恭仁京、滋賀県紫香楽宮、大阪府難波京と三度の遷都を経て、七百四十五年に五年ぶりで再び平城京へと遷都した。この背景には疫病の流行、旱魃、飢饉、大地震や乱といった社会不安があり、聖武天皇が世の平和を願って遷都を繰り返したという理由がある。度重なる遷都によっても世の乱れは治らず、聖武天皇は自身が信ずる御仏に救いを求めた。そして遂に七百四十五年から十二年の歳月と、のべ二百六十万人ともいわれる人手をかけ、奈良の大仏こと東大寺盧舎那仏像が完成した。鋳型の中に銅を流し込む一般的な製法が採られたが、工程の最後の五年間は鍍金に費やされた。

当時、鍍金の主流は水銀アマルガム法である。青銅やジュラルミンに代表される様々な合金があることからも分かる様に、金属同士は混ざりやすい。この性質を利用し、液体金属に固体金属を溶かすというのが、水銀アマルガム法の理念だ。口の中で「融けた」チョコレートと共にガムを噛んでいると、ガムが「溶けて」しまうというのと理屈の上では似ている。水銀5に対して金1を溶かし合わせたアマルガムを、鋳造した大仏に塗り付け表面を松明で焼き水銀を蒸発させ、残った金の面を磨き上げる。引き起こされた日本史上他に類を見ない水銀蒸気による公害により、当時の左官をはじめ奈良の人々は斃れた。表面を覆う呪われた金塊は50kgとも60kgとも言われる。

完成から百年後の地震により、仏像の頭部が落下。五年ほどで修理落成供養があったが、その三百年後と七百年後にそれぞれ戦火に包まれる。なので、金などは早々に散逸するのだが、その主たる理由は夜盗による窃取である。当時の聖武太上天皇、孝謙天皇もこれらに早急な対応を示し、以降は下手人の捕縛と金箔の奪還を専門とする集団が検非違使別当直々に組織され、回収された金塊は密かに正倉院入りして供養されるのだった。それらが何故、船橋の一軍閥に秘蔵されているか、その話はまたの機会に回す。

時に、七十年代の金価格は一万五千円/g、50kgで七億五千万円である。船橋東武はこれを値切って五億円と申し渡して来たのであるが、壮一の言葉を借りるに、この奈良大仏を覆った金は五千兆円が妥当であると言う。果たして、何が一体そんな馬鹿げた金額が妥当であると言うのか、その話もまたの機会に回そう。

かように話がずれ込んでいる間に、綿摘壮一は膳を平らげ、鶴乃里の四合瓶を空け、手付かずの料理は包ませて運転手の若い准尉への差し入れに持った。今夜永井大佐の運転手を勤めているのは、専属の小林少佐ではなかった。壮一は残り物の手土産を准尉に渡してから、座席で永井老人に理由を尋ねた。

「いや、何、コイツさ、こないだおイタでこの車乗り回したのよ。そこにWを乗せてね。」口ぶりには愉快さが滲み出ている。Wというのは軍閥でも選りすぐりの代行者に授けられるコードネームである。

「私もね、永井先生、大親友の乗り物を無断で拝借して駆け抜けた日がありましたよ。」

「盗んだバイクかね。」

「盗んだのは馬ですよ、馬。」

「ねったい。」と言って永井は吹き出し、あとは二人とも大いに笑った。

 

石窯パン工房パァントムの修理鈴音は、店員として職場で日々感じている充足感以外の幸せを、この日久しぶりに感じていた。店で販売しているこくうまカレーパンが、カレーパングランプリの東日本揚げカレーパン部門の最高金賞を獲得したためだ。これには誰もが、お客さんももちろん驚いた。だから、父から、今夜なるべく早く帰ってみんなでカレーにしようと言われて、鈴音は嬉しかった。彼女の我が家ではカレーが自慢のご馳走だったのだ。お店のものとの違いは具の大きさだけ、けれどもウチでしか食べられないカレー。それと同じ味の商品が受賞したというのは、なんだか自分の家族が褒められたみたいで、とても誇らしかった。

父はビールを飲み終え、家族のために赤ワインを開けた。鈴音は、家のカレーがパンやご飯以外にワインにも合うということを知って、少し大人になった気がしていた。ワインなんか自分で飲むことなど全く無いから、却ってこんな日が特別幸せなものに感じられる。大きくてほろほろに煮込んだ牛スネ肉をナイフとフォークで頂くと、もうこれはただのカレーではないように感じる。これがウチのご馳走。お店で焼いたフランスパンにつけて食べる。小さい頃、ご飯で食べていたのと違ってこれも美味しい。ワインの程よい酔いに任せて、一家全員が幸せなため息をついているようだった。

「お客さんが勝手に応募して、みんなの協力のお陰で審査員さんが勝手に一番にしてくれた。父さん喜ぶだけ、楽でいいね。」戯けた様子で父が言う。毎日仕込みから何まで行っているから、一番苦労しているのは父であることに間違いはないし、それに加えてお店の誰一人楽はしていないのだが、今夜の父はいつもにまして上機嫌で何よりだ。

「それじゃあ、鈴音ちゃん、少し早いけどお誕生日おめでとう。」父がテーブルの下に置いておいた黒い紙袋を差し出した。銀文字でdunhillと書かれた黒い厚手の紙袋だ。その中にはやはりまた黒い箱が入っている。

「お父さんこれ高いやつ!」鈴音は吃驚して声を上げてしまった。

「鈴音ちゃん、いつも慎ましく生きてるからたまにはね。」父は慣れない様子でウィンクをした。

溢れ出そうな期待感を抑えるのに苦労しながら、恐る恐るその蓋を持ち上げる。せっかくの高級品をこんなめでたい日に贈られたのに、もしも的外れな品物だったとして落胆した表情を父に見せられるはずがないからだ。だから必然的に恐る恐る中を確認することになる。期待した表情では駄目なのだ。落差の大きな失望感が顔に出てしまう。彼女の強さの源は、そういった心がけにあると言って良い。

蓋を取り上げると、真っ黒の天鵞絨でそれは包まれていた。

その生地に触れた時、鈴音は不思議と心が安らいで、今までの精神的な動揺が落ち着いていくのを感じた。

『きっと大丈夫。』——彼女がこの直感を外したことは今までにない。

黒い革の表紙、これはノートだ。

「嬉しい!」一目見るなり彼女は言った。

「派手じゃないのが好きだと思ったから、これ選んで正解だったわね。」母の英理子が父に言った。

箱から取り出すと、ノートの小口には銀があしらわれている。きらりと光るその様に、鈴音は感動を覚えた。黒の中の黒、それでも輝きがある。心強い気持ちになったのを実感する。この感情は、まるで隣に姉が寄り添ってくれている時を彷彿とさせるものだったからだ。いつも姉の背中を追いかけていた、目の前を姉が歩いている、すぐ目の前を、だから一歩を踏み出し続ける事ができた。そして、その安心感に鈴音は幸福を感じていた。

「お姉ちゃん、今どうしてるだろ。」普段、努めて話題にしないようにしている事がふと口から出てしまった。家族みんな、姉のことが好きだから、家に居ないことを寂しく思っている。

「そりゃ、お姉ちゃんは父さん以上に頑張っているよ。」

姉は都内に部屋を借りて、丸の内に勤務している。見習いのような安月給から始めて、正規雇用になったのが勤務開始から五年目のことだった。

「そうね、笑っていられないくらい忙しいかもしれないけど、頑張り屋さんのお姉ちゃんはそれを幸せに感じてるって、お母さん思うけど。」

出来ることを探し、居場所を作り、求められる存在になるまでにどれくらいの苦労があったか想像もつかない。そんな姉のことを、鈴音は誇らしく思うのだ。大学を卒業して以来、都内で暮らすようになってから姉は帰ってきていない。連絡はあっても、姉自身の話題が出ることはそうそう無かった。鈴音は姉からの弱音を聞いたことが無かった、もちろん強がっている素振りも見なかったが。

「このノート、なんだかお姉ちゃんみたい。気取らない凛としたカッコ良さがあって、でもここみたいに目立たないところがすごく綺麗なの。」両親は顔を見合わせて笑った。プレゼントするのに二人はそこまで考えていなかったからだ。

遠く離れていても縁がある、絆がある。頑張っている人を、想っている人が居る。そんな人たちが在る。

 

強い風が吹いている。向かい風。その夜も鈴音の姉、修理美櫛は西船橋駅北口に立っていた。

駆け出しの頃は、職場に住み込む気構えで日々格闘していた。良い給料で働きたい、社会的な安定が欲しいという気持ちよりも、大好きな同僚のみんなから褒められたいという気持ちの方が強かった。物心ついた頃から何となくなりたかった職業だったが、そんな彼女に原体験がある。大学四年の頃に学科の飲み会で、どうしてそんな仕事に就きたいのかと聞かれたときの事だ。

『私くらい優秀な人間が現場にいれば、日本がほんの少しでもマシになるから。』と返答したのだという。

飲み会での放言はもう覚えていなかったが、卒業後の同窓会でその時の事を聞かされて驚いた。当時、向こう見ずだった頃の自分らしい答えだと思うが、そんな風に言ったんだという事を聞かされても肯ける点がある。以来、自分がこの仕事で働いているのは、これからの日本を担って行く若い魂のために命をかけているのだという自覚が生まれた。大胆で不敵かもしれないが、彼女にはそんな気がしていた。

幸か不幸か、そんな無謀な感傷に浸って働いていたせいで、正規雇用となり職場での存在感も増して行ったのは確かだ。新人の頃に比べて蓄積された経験から、まだ悩むことはあっても、もう迷うことはない。悩むよりも前に、まず考えているからだ。考えて悩むことはあるが、その先に決断がある。決断してからはもう迷わないし、失敗したら非を認めて謝ればいい。失敗する前に修正がきくから、大抵の事は成功に漕ぎ着かせることが出来る。物事は成るようになるのではない。人間には辛うじて、いや、人間には命からがら何事かを成し遂げる力が具わっている。これは彼女が業務における経験を通じて培った信念の一つである。

しかし、どこで歯車が狂ったか、今の美櫛の夜の顔は商売女だ。

朝七時にはオフィスを開け、誰よりも早くから仕事をはじめる。やっと二十一時過ぎになってから退社して何処かで食事を摂り、東西線で大手町から西船橋へ向かう。一晩に一人客を取り、そう安く無い料金で相手をし、何処かの安宿で寝てしまう。住処に帰る事は殆ど無いからキャリーバッグを引いて移動する。出勤前に駅のロッカーにそれは預ける。棺桶の中で生きているような気がするが、死んだ方がマシだとは彼女には思えない。彼女が死んでしまっては、長い目で見た時に国の損失につながると、そんな風に思っているからだ。彼女の代わりは勿論居るだろうが、そうは居ない。居るだろうけれども、探し出すのは難しいだろう。

夜に仕事では首を絞められる事もあるし、首を絞めてやる事もある。相手が望む事はなんだってしてやるし、されてやりもする。物の様に扱われる自己と、それとは別に物の様に他者を扱う自己とが混ぜ合わさって来ると、一つの身体に二つの命を生きている気がして来る。自分が客か、客が自分か分からなくなって来て、それはきっと同じで一つの事なんだと思えて来る。自分の仕事は昼と夜、一体どちらが本当なんだろうか、きっとどちらも自分の仕事であるには違いないが。それで、もう今の自分は、仕事と勉強と遊びの区別がつかない。

仕事の量は増えた。部下後輩の指導が必要になったが、一向に改善されないその連中に対する憎悪が募るばかりだ。奴らは悪意があって、自分の指示に従わないのではなかろうか。お前たちの能力が低いと私の評価が下がるではないか。職場から私が必要とされなくなるのはこのクズどものせいだ。折角、叩き上げでここまで来たのに、居場所を作ったのに、頼られる人材になったのに、こいつらときたら寄生虫だ。そして、苦しんでいる私のことも顧みずに仕事を割り振る糞上司、他部署の無能な課長、職場に火をつけてやりたい。残業なんかこれ以上するもんか、残業は給料泥棒がやることだ、一分一秒も無駄に出来ない。私には見通しがある、段取りをつけられる、計画通りいかない時のための計画を毎朝立てている。そんな優秀な私の時間を、誰も彼もがくすねようとしている。時間泥棒は自覚がないからたちが悪い、だから平気で盗めるのだ。悔しい、私の優秀な頭脳は、お前たちに奉仕するためにあるのではない。コンビニのレジ待ちの客が多いと、其奴らからも時間を盗まれていると感じる。そういう時は、商品を万引きしたくなる、盗んでいるのはお互い様なのだ、盗まれたくなければ私の時間を盗むな。今、私のこの黒い革のノートを盗み読んでいるお前。

コンビニで買うのは専ら酒だった。休日は朝九時過ぎに起き、ロング缶のビールを二本飲み、すぐに眠る。昼過ぎに目覚めたら、赤ワインを開けて半分ほど飲み、また眠る。それを夜にもう一度行い、次の一週間が始まる。よく聞く笊だの枠だのと言うのに、自分が当てはまらなくて良かったと思う。酔えなければ地獄だ、眠れないから。眠れなければ仕事にならない、それではプロとは言えない。この夜の顔を拵えたのは、昼の仕事を続けるためなのに、就寝と起床の時間を固定できないようでは仕事する資格を欠いている様なものだ。熱狂のうちに仕事を続け、その最果てにある未だ何か判らない何かを垣間見る。その為に、僅か一時だけ物の様に扱われる、物の様に寝てしまう。その時だけは全てを忘れられる。その時があるから、再生を毎朝感じられる。毎晩死んでいる女が、これ以上死にたいなぞと望む必要は無いのだ。おまけに再生までもが付いてくる。

これは形を変えた自傷行為。このシステムから外れてしまうと、最早自我を保つ事が出来無い。誰か遠くの人たちの幸せと自分の生活費のために出社すると、その日のストレスを帳消しにする方法が他に見当たら無い。そして彼女は、こんな自分を愛しいと思っている。身を粉にするとか、寿命を削るとか、そういう生き方では無いのだ。自分が死んで誰かを救う日を繰り返す生き方だからだ。たまたま彼女は、今朝も目を開いて起き上がることができたというだけである。

強い風が吹いている。向かい風。駅から拡散して行く方へ向かう男達に色目を使う。何人かと目が合う。彼女は交番の先にある方の、小さなバスロータリーに立つことが多い。まぁ、今夜も小一時間で客が付くだろう。そう思って過ごしていると、ふと周囲に人の気配が途切れた瞬間があった。電車の発着によって人の波に疎密があるから当然なのだが。

声も出ないような大きい衝撃を背部に受けて、彼女は跳ね飛ばされた。その身体を抱え上げて、男が真っ黒なミニバンの後部座席へ押し込んだ。十秒もかからず、車はその場から消えた。

 

「エッ!万葉集の原本!?冗談でしょう?」子桜殉が素っ頓狂な声を挙げた。

習志野軍閥行田駐屯地、通称“団地”。船橋東武第十二位綿摘班の四名は、綿摘壮一からの招きを受け、この士官学校の校門を通過しようとした。応対に出たのは、三十過ぎに見受けられる横柄な軍人だった。黒衣の軍装に、大尉の階級章。大尉は、彼らの事を如何にも軽蔑しているという視線を隠そうともしない。口数の少ないボスでは不味そうだと子桜は気を遣い、事情を説明すると、取次の通信がかかりすぐに上官らしき男がやって来た。階級章は少佐。

案内されたのは行田士官学校の大講堂、その舞台の下手裏にある細長い物置の様な部屋の中。綿摘班の面々と少佐と大尉を含む数人の軍人が座っている。恭一は父から、腹を空かせて来いと言われていた。この夜少し面白い事があるからだという。士官学校通用門でその旨述べると、無愛想な大尉なぞ何故か地面に唾を吐きかけたものだ。一際丁寧で紳士的な少佐がその後の対応に現れた時、子桜は捨てる神あれば拾う神ありの心持ちとなった。

大講堂まで歩きながら、三名の班員はめいめい、この施設に関する他愛無い観念論を戦わせた。鈴井瞬は、通信機器全般とそれらの運用システムに興味津々だったが、こればかりは“団地”の最高機密と言ったところで、少佐は返答の代わりに笑顔を見せるだけだった。だが、鈴井にとってはその笑顔だけで十分当たりは付くのだ。彼は全てを悟ってしまった。瓜生昇は、男社会の縮図のような歪さを指摘し、その不自然な有り様に唾棄せんばかりの悪態を捲し立てた。鉄槍に貫かれた傷は不思議とすぐに快復し、今こそ好調絶頂にありといった様子である。秩序有る暴力と、秩序無き暴力、我々は前者を尊んでいるだけですよ、と言った風な言葉で少佐は物腰柔らかく応じた。挑発に易々と乗らない男の態度に感心したらしく、瓜生はすぐに大人しくなり、冗談めいた言葉を口にするほどになった。子桜は、行田駐屯地の表向きの任務ではなく、まことしやかに噂されている裏の任務に関して探りを入れたりしたのだが、流石に正倉院宝物堂御親封レベルの機密事項である“金塊”について馬鹿正直に情報開示がなされるはずは無い。しかし、鈴井に対して返答しなかった事を気にしてか、それとも瓜生との冗談で気が緩んだか、つい子桜の話に関しては冗談めかして万葉集の原本なぞと口を滑らせた所で案内先である例の物置部屋に到着したというわけだ。

「田子の浦ゆうち出でてみれば、だなぁ。」鈴井は静岡県富士市での思い出へ遡行する。あれは、もう十年近く前、三人でガタガタのオンボロ車で下道をせっせと運転して旅行した日のことだ。

「それは百人一首だろうが!俺は断然あしびきだな、あぁ鴨鍋が喰いてえ!」富士市吉原での郷愁は瓜生の一声で煩わしい現実へと呼び戻された。地獄とは所詮教養人の想像力の範疇にしかない、と鈴井は思った。ビジネスホテルおくむらよ、生しらすの思い出たちよ、さらばである。

「万葉集の原本は、現存しないんです!現存しないと、されているんですよ!いや、まて、それは裏を返せば、あってはならないという…。」子桜は隣に座った綿摘恭一に興奮気味で話す。

「私も知らないのですが、金塊なぞという一人歩きした噂より、私が知る内輪の噂話がそれなんですよ。」少佐は和やかに話題を否定する。

しかし、恭一は百人一首にも万葉集にも興味がないとみえ、というよりもさらに興味を持っている子桜の銚子からの土産話を披露してくれと言った。

「え?えぇ、良いですよ。ご存知かと思いますが、銚子では地元の喧嘩っ早い銚子漁師会と、新興の商工協同組合が対立しています。」そんな事は誰も知らない、軍閥の佐官がようやく風の噂で聞いたことがある程度なのだが。「漁師会というのは表向きで、会頭の船頭一擲は山サ会のトップ。この組織はまあ組織って感じじゃなくて皆んなが皆んなで穴を塞ぐって言うような、前時代的というか拡大家族的な集団です。で、商工協同組合ってのも実のところは、組長の本膳醸太郎が入山田組ってのを仕切っているんです。この連中はまあ企業的で、反社会行為をビジネスみたく扱います。で、報道はされていませんが、入山田組は、山サ会の会長である船頭の娘を誘拐しようと企てたんですよ。ただ、やはりちょっとこれは、I.K.E.A.と比べれば連中は素人の寄せ集めなわけですから、上手くいきませんでした。まるっきり別人を、しかも一度に三人も拐っちまったそうで。」

軍閥の少佐は目を瞑って黙っているが、大尉の階級章をつけた不遜な態度の男は、顔全体に広げた冷笑を隠そうともしない。拐われた三人はどうなったかと恭一が問うと、

「そりゃ、遠洋漁船に乗せて、太平洋でバラまかれて終わりですよ。ただ、明らかに三人いなくなってるわけですからね、同じ学校の同学年の生徒が。で、漁師会は地元にずっと居ますからね、その遺族達に泣き付かれて、さぁ喧嘩だと、こう言う事でドンパチを始めたわけです。商工協同組合の言い分としちゃ、したかどうかわからない誘拐は棚上げで、先にカチコミをかけてきたのはそっちだろうと言う口実で堂々と応戦してるんですよ。泥沼ですよ。こういう話の類は、ここいら船橋にいる我々極道も、一つの事例として学ぶところは多いかと思います。」

「兄さん、随分と詳しいんだね。」直立不動の姿勢を崩さず、しかし侮蔑的な感情を隠そうとせず、大尉が発言した。

「へ、へ、へ、軍人さんコイツはですね、そういうネタを嗅ぎ回るときは姉さんになるんですよ。ねぇ、処女の兄さん。」瓜生が調子良く応じた。「つまり、コイツの趣味は女装って事でしてね、キャバクラみたいなところに巧みに忍び込んじゃ、悲しい男の良心につけ込んでベラベラ喋らせるのが上手いんですよ。先輩方も、そんな盛り場じゃ気を付けて下さいね。あぁ、でも、そんな所に行くのは皆さんご法度ですかね。」

「どちらかと言えば声優ごっこが趣味なんだけどなあ。」観念したような苦笑をしながら子桜が言い返す。「ちょっと、君の趣味を知ってる俺からすれば、押し倒されて処女を奪われるんじゃないかと気が気じゃないよ。」

「だったらだ、ならそれは瞬に護って貰いなさいよお嬢さん。」さも眼中に無いと言われたかのような事に不満げな口調で瓜生が言う。

「殉君、大丈夫だよ、昇にそんな気ないよ。」鈴井瞬が笑って合いの手を入れる。

「へぇ、洒落たスーツの兄さんはどんなご趣味で。」またしても大尉が、侮蔑的に言った。

「女ですよ。」俯き加減に低い声で瓜生が唸る。「私は女の美しさ、神聖さにひれ伏してるんです。愛の奴隷というヤツですな。足元に跪いて、お願いします、貴女の外在化した美の深奥にある内的感情の美に、私めもぜひに交感させて下さい。と言って現金を渡すんです。だから私はソイツみたいな男には全く興味ありませんとも。商売女限定です、彼女らの中にはそれこそとびきりの天使達が、心優しい女神達が混じっているもんなんですよ、神秘ですよ。なぜって、私のようなクズにだって彼女らは尽くすんですから、全く理由が分からない自己犠牲じゃないですか。あの子たちの殆どが、この社会からの犠牲者なのに、まだそれでも己を捧げるんです。」目を輝かせながら男が言った。

「流石は第三のゴーゴリだよ。ここらで一つ、最近あった心温まる話を頼む。」子桜が話を少し進める。

「あのね、殉君、こう伸ばした人差し指をね、クイと曲げる。」と言って瓜生は人差し指だけでこちらへ来いとでも言うような手振りを交えながら話す。「このスムーズさなんだな。ね、こう人差し指をクイと曲げるようなスムーズさでね、四つん這いになった僕が尻を舐めさせている女にクソをひり出すわけだ!」万感の思いを込めて言い放つ。

子桜殉は、そういうのじゃねえんだけどなと言った表情で目を瞑り笑いを堪えながら俯いた。直ぐ何処かからか「ぺん!」とかそう言うような堪えきれなくなった笑い声が発せられた。直立不動の姿勢をとっていた大尉が、宙に向かって吹き出してしまったのである。自分の笑い声に対する照れ隠しがあるのか、吹っ切れたかのような饒舌さで大尉が主張を始める。

「狂ってるよ、あんた。あんたのような輩が、この街を狂わせる。あんたのそのクソの尻拭いを、俺たちがしてるってわけだよ。」

聞き終えるや否や、直ぐ脇の椅子に腰掛けていた少佐が立ち上がりざまに大尉を殴りつけ、彼は一回転弱宙を舞った。受け身を取って直ぐに立ち上がり、今度は憎悪を目に宿らせて直立不動で瓜生を見据える。その脇に少佐が立ち直り、同様にぐっと顎を引いて瓜生たちを見遣る。もう一人控えていた若い准尉もそれに倣った。

「あらぁ〜、これは修道士染みた生活を心掛けてらっしゃる軍閥の皆さんには、少々刺激が強すぎましたかな?」全く事態が飲み込めず、瓜生は軽口を叩く。

「おい、フョードル!こちらはお前さんの話がな、お気に召さねえとよ!」子桜は言うなり立ち上がって、少佐の目を睨み付ける。それで瓜生も気が付いて、立ち上がって大尉を鋭く睨む。

鈴井は、どうなろうが知った事なしという表情をして座ったままだ。馬鹿が勝手に馬鹿をやるというわけにはいかない、飼い犬の責任は飼い主の責任というのは極道の世界の常識でもある。恭一は両名に落ち着いて座るように言った。

「我々は顔潰されたら生きていかれませんから。」東武では滅多に聞かれない、西武譲りの発言を子桜が返した。

「だって今のはねぇ、ボス、全く秩序もクソもねえ暴力だったじゃないですか、え?」

行田団地の軍閥に綿摘壮一が着いているのは、近接戦闘指導顧問として刈根流現代殺法の伝授に務めているのだという事を彼らは知らない。といって恭一は今そこまで伝えてやるのも、余計なお世話になりそうで口をつぐんだ。

「若先生、コイツはおっ始まりそうな状況ですが、単なる喧嘩ですんでね。手前どもの二人がやりまさあ。」少佐が若先生こと恭一に向かって言い、扉の傍まで下がった。師匠筋の壮一の息子に対して、単なる義理で言っているだけだが。

その時扉が開き、まさに今夜の会の主催者である団地の老人永井日出夫大佐と、その影の侍従綿摘壮一が這入ってきた。彼らは、割烹旅館玉川から乗り付けたのだ。

「おう、何しとる。」永井が片手を振って、三人の軍人達にこやかに言った。

彼らは、揃って軍靴の踵を打ち鳴らして敬礼した。小学生が悪さをしている現場を担任に押さえられたかのような印象を受ける。彼らの間を縫って、綿摘壮一が恭一の元まで来て肩を叩く。

「おぉ、恭ちゃん。若い衆、はじめまして。」

恭一は壮一に目礼。殺し屋稼業の父が、葬式へでも行くような格好をしていると言うのは、この頃の記憶にない出で立ちで、なにやら不思議の感があった。それは自己への問いでもあった。自分自身も殺しはする、だが弔った事などない、いつか野垂れ死ぬのが終着点だからだ。父親のように長生きしている極道はそうそういない。円満に足を洗うなぞあり得ない。表舞台から去った者は楽屋で静かに殺されるものだ。父親は憎らしいが上手くやった。暗殺者が暗殺される確率というのは若干低下するし、表舞台から去ったとはいえ楽屋に引き上げたという訳でもない、彼は早々に裏方に徹したのだった。親父は老衰で死ぬのだろう、と恭一は思った。では、自分自身はどんな風に死ぬだろう。目の前で死闘を演じていた男、親父の兄貴分、だから自分にとっての大パパ、狙撃で殺されてしまった。親父のあの装いは、大パパの弔いなのだと今になって気付いた。凶手として生まれるとは、凶手として生きるとは、まず最初に殺したのは自分自身の心だったのではなかろうか。だから、誰の死に対しても動じない、淡々と仕事をする、結果として己が死のうがそれは構わない。こう考えているというのは、何か大切なものが欠落しているからではなかろうか。親父が憎らしい。大切なものを大切だと思える感情が生きていて、大切に扱おうとする行動が伴っている。一方で自分は空洞、虚、無。

しかし、綿摘恭一が人の生き死にを考え始めると、必ずあるところで思考の糸が途切れてしまうのだった。彼自身、掛け替えのない命の喪失を経験しているから。熱せられた飴のように引き延ばされた時間もまたその瞬間に途切れ、彼は我に返った。

永井が何やら指示を出していた。三人の軍閥は出て行った。この後の召集の確認に走らせたのである。永井老人も簡単な挨拶を済ませて、別の扉から舞台袖へと出て行った。

部屋に残ったのは綿摘父子と、第十二位付きの三名だ。壮一が手近の椅子に腰掛け、他の面々にも着席を勧めて話し出す。

「大病患っても煙草をやめない奴。医者にあと一本吸ったら死にますよ、と言われてから吸う煙草の味はどんなだろうね。美味いはずがないだろう、ただ漫然と吸っている中毒者なんてもんは。」話は唐突に、何やら趣旨の読めない話題から始まった。「それが、ボクシング世界タイトルマッチ直前、前日計量ならどうだろう。それも、計量前に、だよ。フライドチキン、唐揚げと言った方がいいか。どうかね。自分の人生を台無しにする食事だよ。食いながら、何をやっているんだ自分はと思いながら、やめられない、止まらない、分かっちゃいるけどやめられない。そういう食事だよ。いったい自分は何のために生きて、死ぬ気で生きて来たのか、あと一歩なのに、ゴール直前にもうどうしようもなく転落していく感覚。」彼が言うのはもちろん、思考実験というか小学生の雑談で話される程度の、もしも、に過ぎない。「これがシャブで何遍も捕まっちまう有名人達はよ、夜ごとその感覚を味わってるんだぜ。いやこれは芸能人に限らない、唯一そういった哀れな芸能人連中と一般人連中が持てる接点ってのは、覚醒剤の快感なんだよ。それは美味いなんて言葉じゃ言い表せねえよな。気が狂っちまうんだよ。実際、気が狂っちまってるに違いないんだ。あれでまだ正気でいられるのは、俺の知る限りじゃたった一人よ。俺が何を言いたいか分かるか?」

綿摘恭一だけは澄ました顔をしていたが、他三名はぽかんとした顔をしていた。子桜殉だけは、そんな顔ではあるものの、首を左右にぶんぶんと振る反応を示した。

「人生を台無しにする快感は、漫然と毎日やるもんじゃねえのよ。死ぬ気で必死に生きている、そんな風な、生活のために生活しているような人間こそ、絶対に手を出しちゃならない。そういう、命の灯火を燃え上がらせるのと引き換えに、足下照らして、一歩一歩進んでいるような人間に、勧めるような事なんてあっちゃならねえんだよ。一発でパタっと人生と引き換えにできないような代物は、あってはならねえのよ。俺が西武の綿摘と呼ばれた所以は、そういうところにあるんだな。」

出て行った三人の軍閥は、会場入りの確認へ行き、当番の人員以外はすでに整列している事を、小林少佐が舞台袖の永井大佐に伝えた。恭一達が控えている部屋に、永井老人の声が聞こえてきた。丁度壮一の話も終わったので、彼らはそれに耳を傾けた。

「僕はね、僕はまだ生きてますよ。余程の事がなければまだ死にません。天命ってものが、僕らにはある、違うかね?」そう言って、永井は少しだけ押し黙った。

講堂に集まった行田駐屯地のほとんど七百人くらいの軍閥構成員達は、息を呑むようにして話を聞いている。まさか、永井大佐がこの基地を離れるとでも言うのではないかと、気が気でない様子である。

「僕は死にませんよ、まだね。でも、殺されちまったのが居るんですよ、軍閥じゃないのに殺されちゃった。」ここで睨むように会場全体を見据えて「狙撃で死んじまったんだ。極道だけどね、俺達が嫌いなね。極道が何人死のうが、関係無いやね、そうだろう?だけど、その人は、君らの先生の大切な人だったんだよ、綿摘師範のね。綿摘師範は、君らの小林師範代の師匠に当たるわけで、この街のために非常な苦労をなすった事を、君ら知らんとは言うまいな。」

舞台を見上げる全員の顔がハッとした。外部指導顧問の綿摘師範と、彼らのほとんど親代わりのような小林師範代との、潔よくも美しい友情のような師弟関係を誰もが目の当たりにしていたからである。無論、綿摘師範が彼らに対して、厳しくも愛情に満ちた指導をしていたことは言うまでもない。綿摘壮一は良く笑顔を見せたし、問いを発して彼らの答えを促そうとしていた。なればこそ、小林少佐は鉄拳制裁という嫌われ仕事を買って出ていたのだという理解を誰もが出来た。

壇上の永井大佐は、後を小林少佐に引き継いだ。小林少佐から説明がなされる。

「おめえらには言ってたな。殺し、殺される時は雨模様のように予想がつかないと。今夜は師範先生に代わって俺たちが、大きな弔いをする日だ。」

綿摘壮一は、舞台からの声を聞きながら、部屋の中にいる我が子とその部下たちに話を続けている。

「そんな事を思いながら、結局は自分の人生台無しになんかそうそう出来やしないんだ。食わせてかなきゃいけない人間を抱えるようになれば猶更、な。だもんだから、こうして、こういった鶏を卵の時から手塩にかけて育てて、自分の半身ほどって感情が生まれてきた所を、絞めるのよ。自分の代わりに、自分も同様って思える存在を台無しにして、これを食うんだ。格別だぜ、これは。はじめて食う時には、涙が流れるもんなんだ。これをやらされて泣かない奴はガキ以下だ。ガキだって泣くよ。泣きながら、美味い美味いって食うんだ。こんなもん毎日は食えねえよ。六年だ。小学生が中学生になるくらいの期間。中高一貫校通いの我が子に下の毛が生えて、受験戦争で殺し合いを終えるくらいの期間だ。その間、みんなで百羽位飼うんだよ。一年もすれば顔の区別がついてよ、性格まで見えてくるようになる。そしたら名前を付けてやるんだな。一羽一羽を特別扱いしてやりたくなるのよ。」他所で飲んできている壮一は、軽薄な距離感を取ろうとはせず、さらに随分と饒舌だった。ここで声の調子を低くして「大典の弔いに、今日は四年物を食わしてやる。俺だって、猶更つれえよ、あと二年は一緒にやれたはずなのに。大典を失った気持ちと全くおんなじだ。」

話が終わってからは、会場騒然のばたつきがあり、状況は怒涛のように進行した。大きなうねりのようになって動く軍閥構成員たちのきびきびとした様子。ソファに腰掛けて、ただじっと光を見つめているかのような父、壮一。話が終わって、永井大佐は彼のもとに戻って来た。長椅子に腰掛けて、大きな書籍を黙って読んでいる。綿摘恭一とその第十二位付きの三人、誰も口を開こうとしなかった。瓜生なぞはもう疲れてしまったかのように見える。鈴井はこの後の御馳走を楽しみにしている様子だったが、元より口数が少ない。子桜は、生きる伝説の壮一を前に緊張して声も出ない。

「恭ちゃんは覚えてるかな。」遠くの光を眺めるような目をして壮一が言った。「狙撃手に狙われたらどうしたら良いか。」

恭一の表情は、あの時と全く変わっていないように、父の目に映った。今度は、何のこと?とでも言っているかのような表情だが。眩しい笑顔のこの子に先立たれたく無い、その一心で掟を作り上げたのだ。

それからしばらく、また誰一人、話をする者はなかった。大典の献杯に出された唐揚げは、涙が出るほどとは言わないまでも、それは美味だった。瓜生は大いに舌鼓を打ち、子桜よりも鈴井の方が熱心に相槌を打った。すでに鈴井は、似たような料理を自分の手で拵えたいという思いを心に宿していた。恭一は遠くに、一際大きく肩を震わせて、涙を必死になって拭いながら箸を動かす大尉の姿を認めた。

 

明くる日。

市内在住のスロッター五十嵐義阿は、この地に住む人間として唯一、大禍の予兆に苛まれ続けている。それが一体何なのかは知る由も無かったのだが、スロットでビッグボーナスが引けない日々は、依然として続いている。この日もジーンズに白のTシャツ、サンダルというシンプルな装いをして、何日続いたか数えるのもやめたが、レギュラーボーナスの百枚程度のメダルを換金し、ブラブラと帰路についていた。店内滞在時間は五分に満たないが、日給二千円は厳しい。無論、不調前の稼ぎが蓄えてあるし、贅沢な生活をしているわけではないから、まだまだ暮らして行かれるわけだが。それでも、先の見えないトンネルの中にいて、周りが霧に包まれて、自分がトンネルの中に居るのかすら分からない、前進とも後退とも判然とせず身動きが取れない、いつになったら晴れるやら助けが来るやら分からない、そんな精神状態が一番やり切れなかったのである。

「おむすびさん!」

遠く背後から声を掛けられた五十嵐は、ギクリとしてその場に立ち止まり、ゆっくりと振り返って言った。

「五十嵐ですよ、やめてください、そう言うのは。探してたんですか。」

「や、失礼しました。いえいえ!見かけましたんでね、つい、ね。」愛想の良い笑顔とともに五十嵐の元へ駆け寄り、そう言ったのは子桜殉である。「もう今日の稼働は終わりですか?時間あれば、ちょうど昼過ぎですし、大神宮下のサンサーラでカレーでもどうですか?」

五十嵐は探し回ってたくせにと言い返してやりたい気持ちだったがどうせ、会いたいなと思った時に会えるのがおむすびさんじゃありませんかとか何とかまた言われて、憂鬱な気分になるのは自分の方だろうと思い直し、ただ頷いた。道すがら、取り留めも無いような話ばかり聞かされたが、熱っぽく喋るこの男の話を聞き流すのは嫌いではなかった。自分の知らない世界を垣間見れるというのは、少しだけ生きた心地がする。一日の余った時間を図書館で過ごすだけ、と言うのに比べれば本当にたまにだが、こう言う時間は悪くなかった。この日子桜が話したのは、アンデルセン公園で見た一部始終だった。特に、目を奪われた少女、ともすると心まで捧げるに等しいような印象を抱いた少女について詳しく話した。海老川を越え、二人がカレー屋に着くまで長いと感じることはなかった。

仄暗い店内は落ち着いた内装で広く、二人は窓際のテーブル席に向かい合って座った。子桜は五十嵐にソファ側を勧め、自分は椅子に腰掛けた。

サンサーラにはクラフトビールが置いてあり、それを飲まされたが、昼間のビールはやはり格別だと思った。しかし、五十嵐はこの店で、少々驚かされる光景を目の当たりにした。子桜からは大ジョッキを勧められたが、味が濃過ぎて飽きてしまうので、中ジョッキで種類を変えて二杯飲むことに決めた。子桜もそれに倣うことに変えたが、一杯目は大ジョッキで注文した。運ばれてきたビールを、子桜はなんと一口でほとんど飲んでしまった。これには五十嵐も、内心驚いた。味わって飲むようなクラフトビールを一気で飲んでしまうなどと、ちょっと考えられないことだった。似たような光景はこのしばらく後にも起こった。

五十嵐が中ジョッキ一杯目を飲んでいる、まだ中程度。飲み干した大ジョッキに付着した泡が落ち着くのを待ちながら、子桜が何とはなしに言った。

「もう、十年くらい前の女友達、栃木に住んでいたんですがね、実際に会ったことはないんですがよく話したりして、顔もあまりよくは知らないんですけど、とっても良い子で、独り身だった自分としては千葉と栃木との距離が恨めしかったくらいなんですけど、そこはまあやはりここは三番瀬ですから諦めてたんですけど、その子がある時こんな話をしたんですよ。」

五十嵐はジョッキに口をつけたままで、子桜の問わず語りを目で促した。いつもの陽気な語り口とは一線を画す、どこか暗い様子がした。子桜は店主に二杯目をやはり大ジョッキで注文してから、話を続けた。

「その子、当時はもうすでに母親と二人暮らしだったんですが、小さい頃父親に連れられてパチンコ屋で遊んでたそうなんです。まだ小学校に入る前だったんだそうで、なかなかヒドい話じゃないですか。遊んでたのはその子じゃなくて、父親の方なのに、それもそれなりの金銭をはたいて。父親がパチンコ台に向かっている間、その子は店の中をウロウロしたり、漫画を読んでみたり、お年寄りと話をしてみたり。で、似たような境遇の、同い年くらいの女の子と仲良くなったんですって。休日に連れられていくと、たまにパチンコ屋で顔を合わせて、どちらかが帰るまで一緒に過ごしたそうなんです。で、ある日、その子が来なくなったんですって。成長して振り返ってみれば、その子は当時誘拐されてしまったんだなって、報道されているのを見て感じ取ったんだそうですよ。これは有名な事件なんで、駅や交番に張り紙をよく見かけるやつです。五年おきに県境の河を跨いで交互に女児誘拐を繰り返していたから、関連性の特定がずいぶん遅れた、連続誘拐事件ですよ。彼女からその話を聞いた時、私の人生は決定的に変わりました。」暗くなった子桜の表情がより一層の悲しみを帯びた。

店主が子桜に二杯目の大ジョッキを持って来た。受け取るなり彼は、それをぐっと半分以上飲み、息をついた。彼は酔いたいわけでも、酔っているわけでもない。早飯早糞芸の内というのが教義なのだ。

「顔なんてろくに知らない、だけど友達以上恋人未満。大切な人がこの世から理不尽に去ってしまう、残された人間の気持ちがほんの少し分かったんです。幸運ですよ、擬似体験なのにこれほどの危機感と使命感を得られたんですから。以来私は、こんな風に探偵家業に勤しんでいるんです。」そして声の調子を一段と落とし、やや身を乗り出して言った。「五十嵐さん、この船橋で、妙な失踪事件が連続して発生している。決まって商売女が、無断欠勤して、住んでいる部屋の様子は全く今までのまま姿を消すんです。こんなやり口だったとしても、プロじゃないですよ。いくら商売女であったとしても、堅気相手にこんな手当たり次第ってのは。一体、何人消されたのか。船橋犯罪史上最大の汚点です。被害者が被害者だけに、捜査もろくにされていないから、誰も気付いていないかもしれない。今日、せっかくお会いしたから、こんな話をしておきたくて。まだ誰にも話していないんですが、じきにウチの連中で暴こうと思っているんですよ。それを知っておいてもらいたかったんでしょうか。」

五十嵐が一杯目のジョッキをようやく飲み終える頃、子桜が注文したポークカレー大盛りと、五十嵐のビーフカレーがやって来た。小皿に福神漬けと、アチャールという玉葱の酢漬けが付く。玉葱の辛味が残っていて、刺激的な薬味である。

子桜は大盛りのポークカレーを、親の仇のように食い始めた。さっきまで自分が体験した事を饒舌に話していたのに、食事が来るなりいただきますと言ってから猛烈に食している。順手にスプーンを持った手と、咀嚼している口とがずっと動き続けている。三日三晩食わなかった人だってこんな風にはなるまい。それに何だ、このスプーンの持ち方は。隠された宝の地図の秘された印を読み取って、何が埋められているのか日が暮れるまでに拝みたいという夢追い人の歓喜で食っているのか。あるいは、夜明けまでに死体を埋めなければならないと、スコップで穴を掘っている人夫の腕力で食っているのか。はたまた、これは鳥が空を馳け、魚が水に踊るような至極自然な食い方なのだろうか。いやいや、彼は見栄で食っているのだ。一杯目のビールジョッキも飲み干すし、一皿のカレーライスは誰よりも早く食いたいという質だった。

五十嵐は、目を伏せていた。子桜の食いっぷりが、何か見てはならないもののように思えたからだ。あんな好印象の、人当たりの良い、嫌味なところの無い人物、危機感と使命感で突き動かされているのだと言っていた彼に、何故こうも浅ましいような面が剥き出しになるのだろうか、何か暗い後ろめたいような気持ちにさせられたのだ。五十嵐は口数の少ない男だ。だから、思うところは多い。子桜の話を聞くのは好きで、心の落ち着く時間を、ごくたまにだが過ごした気がしていた。

五十嵐は思った。何故、今日なんだろう。どうして、カレーなのだろう。この男の本心は、一体何を思っているのだろう。今日、自分と彼とを巡り合わせたのは何なのだろう。違う、自分が彼に巡り合わせなければならないのは誰なのだろう。そして、この街にこれから何が起こるのだろう。口数の少ない男が、自分自身との対話を始める。対話を進行するかのように、無意識にスプーンひと匙のカレーを口へと運んだ。もう、その時には、目の前の男の皿の上はきれいになくなっていた。口数の少ない男の心から、叢雲が晴れる。その晴れ間に、形作られた言葉の姿が見え、ぽつ、と口からもれた。

「あなた、そのお嬢さんに、近々会えるんじゃないですか。」

「ん、え、何です?」子桜は没頭させていた意識をカレーから逸らした。

「お嬢さんと会いたいですか?」それはアンデルセン公園に居た少女だ。

「あんな小さな子が、あんな所でどうするのか、気になってはいますが。」

「待っていれば、きっと来ますよ。きっと来ますよ。」

「待つだなんて、ねぇ。あ、ビールください。」子桜は三杯目のビールを注文した。

だが歯車には噛み合う機構が必要だ。

 

当事者を除き、この街に実際に起きている異変に気付いたのはI.K.E.A.が最も早かった。そのはずだ。誘拐ビジネスのプロ集団のお膝元であるこの船橋で、連続失踪事件など“起こり得ない”ことだからだ。それに、国際誘拐企業連合の日本における本拠地が船橋に置かれている理由は、各国の要人を亡命させるための中継地だからである。密かに海路からやってくる顧客を、千葉シティが世界に誇る整形技術で別人に仕立て上げ、目的地へ送り届ける。届け方は海路もあれば空路もあり、顧客の懐具合で決められるが、別人として生きる彼らが選択するのは専ら成田発である。したがって、連合が船橋で行っているような誘拐ビジネスなぞ一種の狂言であり、本業をこそ見咎められないようにするための偽装である。難民や移民を大規模に船に載せて労働や性的搾取に利用しているのは、黒海沿岸や地中海南岸の支部で行われているから、こんな極東の湾内でわざわざ細々とやる必要はない。要人一名あたり五百万ドル前後の商売というのは、日本支部総帥のクロエ・ド・リュミエールにとって退屈そのものといったところではあるが、その倦怠感もまた組織の維持と意義のためには必要なものであり、つまりクロエにとって仕事とは退屈する事であるというわけだ。なればこそ、退屈凌ぎに命を賭けてやろうという気にもなっているらしい。

船橋市内での多発が推測される失踪事件は、今やクロエの趣味の一つとなった害虫駆除、これを日課のようにしているI.K.E.A.がいち早く察知したものだ。職業柄、彼らにしか知り得ない情報に、妙なノイズが混ざっていた事に気が付いたとでも言うべきか。しかし、動きの目立つ同業組織を暴力で説得あるいは退場させるのならばまだ出来ようものだが、各地で目立たないように凶行を重ねるローンウルフ型の犯人を割り出すのは連合の得意とするところではない。国際誘拐企業連合の威信にかけて探し出さねばならないのだがその解決の糸口が見えず、クロエの側近オーギュストが報告する口ぶりも明らかに歯切れが悪い。

クロエは、白磁のように澄んだ素肌に暗い表情だけを纏って、オーギュストからの切れ切れの報告を聞いている。クロエはオーギュストに目を合わせながらも、さらにその遠くを眺めているようだった。この眼差しが、いつもオーギュストを苦しめる。オーギュストには解るのだ、彼女が自分の中に別人を見ているという事を。彼女が身体を許すのは何人も居たとしても、心を決めているのはたった一人で、それが自分では無いのだという事を。船橋界隈での連続失踪事件の解決に向けて何の進捗も無いという失態に加えて、触れれば壊れてしまいそうなクロエを決して抱きしめることは出来まいという劣情が、瞳から溢れてしまいそうになる。クロエはその様子を見ているのか、見ていないのか、どちらかも解らず混乱に拍車がかかる。

広い執務室の大きな机から離れて、壁際に正座をしている大柄な男が一人。黒い革で出来た拘束着が、彼を後ろ手の前傾姿勢に背伸びさせながら地面に戒めていた。情事の一部始終を見せつけられ、猿轡を噛まされた素顔に大粒の汗を垂らしながら、この男もまた泣き出してしまいそうなほど心を踏みにじられていた。しかも、その状況に悦びを感じながら。長時間の見せ物を与え終えたクロエが、床に降り立って素足で歩み寄ってくる。

彼女の虚の視線を向けられながら、安藤玲は全身でてこの原理を再現するようにして、ただ一箇所の作用点に起こり続ける痛みに耐えていた。その痛みを和らげるように、クロエの細長く伸びた脚が鎌首をもたげる。内腿がきらりと光を反射する。爪先を押し当てられて、安藤はくぐもった吐息を発する。鞭のようにしなやかな足蹴りが其処を一閃。安藤は絶叫した。いやこれは咆哮だ。

『誘拐犯探しには探偵が要る、それも人探しのプロが。』軍閥に解決を委ねるなぞ実際問題不可能であるから、クロエは苦味走った表情で考えている。『今ここでのたうっている暴力装置に何の価値があるだろうか、協力者が増えるほど離反の可能性も増えるなぞという理屈も、後付けの気紛れだ。ならば、こちらの意向に気付くことなく、藪の中をただひたすらに嗅ぎ回るだけの追跡者が必要だ。』

足元に転がるあわれな男。先ほどまでは胸を張っていたのに、今はその頭部を彼女の脚の方に向け、後ろ手になった土下座のような恰好をしている。逆位置のタロット、という印象がクロエの暗い心に強烈な影響を与えた。タロット、大アルカナの像が眼前に殺到する。愚者、魔術師、女教皇、女帝、教皇、恋人、戦車、正義、隠者、運命の輪、力、吊るされた男。吊るされた男、今は愚者ではなくこの像を掴む。死神、これは自分の印象だ、掴んでいる、既に。節制、悪魔、塔、星、月、太陽、審判、世界。煩わしい。吊るされた男はあの公園にいた、その像が鮮明になる。だが、男は吊るされただけではない。狙撃、そして自ら吊るされた。槍の一擲。アンデルセン公園、デンマーク、オーデンセ市、自律稼働の追尾型投擲器。自律稼働、支配権は今誰にある。追尾型。

『引金であり用心金であり照準でもある、そういう機構なのだとすれば。』引き攣った笑みが目に焼き付いて、オーギュストの男性自身はたちまち委縮した。『我々はInternational Kidnapping Enterprise Associationだ。児童略取は飴で釣ると相場が決まっている。』

歯車と歯車は噛み合い、終焉に向けてまた一つ別の車輪が軋みながら動き出す。

 

第六章   緊求追急   了