船橋ノワール 第一章

 夜空を急旋回する蝙蝠の叫び声が聴こえた。すれ違いざまに感じた殺気を、包み込むように受けつつその向きを変える。順手に握られた冷たい凶器はその持ち主の胸元へ飛び込んで沈んだ。高分子強化樹脂編み込みと思わしき上着だが、鋭利な刃物に対する強度は著しく低い。しかし、刺突の手応えに代わって鈍痛を鷲掴みさせられたにもかかわらず、その凶手はうめき声ひとつ漏らさない。違和感。受けの一手から続く致死の一手へと移るその一瞬間に違和感が差し挟まれ、相手はぐにゃりと体をよじらせた。反転離脱の体勢を取られたと直観する。しかし、この違和感は何か。畏敬か畏怖か、熱気か寒気か、はたまた驚喜か絶望か。専業兼業を問わず職業凶手は数あれど、職人気質の凶手はそう居ない。ここまでが相手の読み通りだったとすれば、迎撃の手応えに代わって俺はいったいこの後何を鷲掴みさせられることになるだろう。

 西船橋駅を北口から出て東へ向かうとすぐ、三件のホテルを望む高架下。去来する郷愁の念すら追い抜き去って、この暗闇で不意の襲撃をかけてきた男が先を取った。しかし、後の先は瞬きする間もなく俺が制した。しかし、しかしだ。このナイフの暗殺者が取りつつある回避行動を、敢えて後の後の先と呼ぶならば、俺が何千何百と繰り返し鍛錬した受けの一手は、後の後だったことになる。弧を描く腕を取ってバネのように操り、運動エネルギーをそのまま元の位置に返す。だが、一周期分の衝撃は満帆に受け止めた追い風となって、腕の単振動は彼が全身を使う円運動へと昇華しつつある。俺は、ギラついた生気を目に宿しながら円舞する亡霊忍者から、後の先と見せた後の後を取らされた。この窮地の突破口はどこにあるか。だが、俺は後の先と見せた後の後を取らされた事を自覚している。突破口はそこにこそあるはずだ。

 さて、まずこの恐るべき黒衣のナイフ使いは、胸元につきたてられた自分のナイフを右手で握りながら左回りにのけぞっている。捉えた右腕は振り解かれてしまうだろう。直観としては、このまま後方に向き直り、踵を返して距離を取ろうとしているように思われるのだが。あまり先読みしすぎてこちらが駈け出すのを早まれば、その出鼻に合わせた反撃に対処するのが困難になる。ここは自制、とともに近接格闘継続の線を探る。体勢の維持に使われている脚は無いとみて警戒程度に留めておこう。背を向けざまに左肘か手刀による打撃、これは悪手だ。もう一度握掴んでしまえばよい。刺さったナイフが大きな不利となるため、向き直っての格闘は却下だろう。結論、この襲撃は陽動、というか真打登場がこの先に待ち受けていると考えられる。だからこそこの場で決着をつけられるかどうかが俺の生死を分かつ。案の定、と言うより悪いことに、離脱の大きな一歩を踏み出した亡霊忍者が目指す先にあるのは線路沿い並び一件目のホテル。あそこまで逃げ切られたら為す術がない。

 亡霊帰着を合図にした総攻撃か、俺がのこのこ入ってきてから挟撃か、近づいた途端に入り口ごと爆破されることにでもなるのか。あの悪霊がまさかこれ以上自分の寿命を縮める行動は取れないだろう。最後の力で走り切り、建物に入りさえすればそこが勝利の終着点。俺が勝つ見込みは限りなく暗くなる。いや、しかし、総攻撃ならなぜ初めからせずに手練れの凶手を使い捨てる真似をするか。どんなに些細な鉄砲玉であれ高くつくこのご時世に。どちらが先に抜くか、探り合う前から飛び道具を手にしているような腰抜けのチンピラが、何人束になろうとも殲滅させてきた俺相手に。建物の外か内かは関係ない、何人でも来い。爆弾仕掛けも考え過ぎだ、このごろ聞いたことも無い。あってせいぜい手榴弾、それなら対処は度胸で決まる。つまり、恐いのはあの悪霊だけだ。お化け屋敷は恐くない。しかし、それでも、それならどうしてあの男はあの建物を目指しているのか。

 直観から分析まで、与えられた時間は十分ではなかった。だが、死線の際における綿摘恭一にとって、二秒に満たないこの時間は熱せられた飴のように引き延ばされている。捨て身の博打に踏み切るには十分な時間。赤黒どちらに張るかと言えば、導く答えはいつもの通り。迷った時の破天荒、困った時の機関銃。左肩から下げたロールトップバッグに右手を突っ込み、MP5の引き金に指をかける。この街で、そう多くない自動小銃と、その所持を許可された者が名乗りを上げたようだった。奴が本物の霊体でもなければ、まさか弾丸透過の技術を心得ているわけでもあるまい。だとすればもう、それは亡霊を超えて忍者ですらある。所詮、相手も人間だ。俺と同じ。呑気なことを考えていられるのは、命のキャッチボールを全身全霊でやり終えた安堵から。痺れてゆく指先と爪先。熱い背中。頭の中に響く鼓動。一服の煙草で得られるものとは比較にならないこの感覚は、喜怒哀楽そのどれでもない。亡霊の背部から頭部にかけて銃口を制御しながら、夜の西船橋に谺する乾いた銃声を聞き終える。全弾命中の手応え。冴えた意識。

 耐弾素材の衣類への着弾は致命傷には至らないが、生身の頸部ないし頭部に命中すれば人生が終わる。オブラディ・オブラダは大嫌いだ。背を向けた満身に銃弾を浴びながら、予定通りというべきか、敵はホテルの外壁沿いから転げるように目的地内に侵入を果たした。これ以上の無駄弾は威嚇にすらならない、こちらもすぐに追撃に出る。命を狙われることには慣れているが、いつまでも狙わせ続けてやるほどお人好しではない。ここから先は殲滅戦だ。自分に言い聞かせる。外壁から中の様子を用心して伺うと、人の気配は無い。その時、建物内部一階が消灯した。外部の照明や電飾の類は点灯し続けているため、連中が一階を制圧してこちらの進攻を妨げようとしているのだろうか。

 センサーを横切り、自動扉を開く。内側からは、流石に素人染みた反応は無い。真っ暗なフロントしか見えないが、逆からならば外の明かりに映された俺がよく見えるだろう。静かに踏み入ると、狭いフロアのすぐ奥にエレベーターが見える。左手には衝立で目隠しされた待合。静かすぎる。まさか、この建物が忍者屋敷で、先程の手練れが何人も潜んでいるなどということは考えたく無い。それほどの規模ともなると省庁閣僚級組織での運用を噂程度にしか聞いたことは無い。歩を進めても自分の呼吸音しか聞こえない、そんな錯覚に陥りそうになりながら辺りを見渡す。

 在ったのは亡霊では無い。柳の木。前傾姿勢で項垂れて、身じろぎもせずに立っていた。長身痩躯の男が一人。鴉の様なライダースーツ。そのヘルメットは闇夜の髑髏。視線はこちらをじっと見つめて、俺との間合いを測っていた。壁を背にして左肩を前、両手に掴んだ得物は背後。刀身を相手の視野から遮る構え。忍者の次に、侍が居た。うっかり気付かずその間合いにまで入っていたら死んでいただろう。俺が気付いたことに、相手も気付いた。MP5の連射。それを物ともせずに踏み込んで来る。声にならない雄叫びを上げて、左に薙ぎ払われた一の太刀。後ろに飛べば、上半身と下半身の依存関係が解消してしまう。俊敏とは決して言えない直線的な技を、前方へ滑り込んで躱す。頸と胴が繋がったままである万感の想いを弾丸に込めて、奴の背部にMP5を放つ。振り抜いた勢いのまま骸骨柳は猛然と突進する。目もくれずに突っ走って、自動扉をガラスもろともに破って退場。

 誰が一体、そんな大周章を予想できるだろうか。短距離走者がまだ号砲もならないうちに駆け出して、決勝線を切ってもなお走り続けている様な。こちらの得物が、自動小銃であることは建物の中にいても分かったはずだ。いくら耐弾性素材で編まれたライダースーツとは言え、日本刀で対峙するには分が悪い。その上での行動か。しかし、解せないのが二の太刀、三の太刀が繰り出されなかったこと。積み上げた技が術へと昇華する、その流れが必殺の一手となりうるのだ。この狭い空間で切出し続けることが相手にとって有利なはず。それを放棄して、奴は距離を取る。あのまま尻尾を巻いてこのまま退散するというわけでもあるまい。一方で、俺はこの建物に釘付け、内部と外部からの挟み撃ちという形にもなったわけだ。エレベーターホールに背を向けて、死角からの不意討ちを警戒しながら外へ三発。

 その呼びかけに応じるかの様に動きがあった。すぐ外から繰り返された、機械仕掛けの鶏でも絞めるかの様な音。あぁ、これは。立て続けに、内燃機関の喧ましい駆動音。奴の得物はチェーンソー。出口の外側で、信じられないほどの爆音を上げながら、こちらを煽っている。こんな凶手は講談世界限定の固定観念、暗殺者として有ってはならない流行、それが実際目の前にいるこの威容。鎖鋸対機関銃、誰が一体この一騎討ちを目の当たりにしたか。誰も居ない。今後も無い。そしてこの場に我々二人。生きて残るはどちらか一人。騒々し過ぎる排気音に聴覚が悲鳴をあげそうだ。これだけに釘付けにして、他者の気配を遮蔽するという効果を狙っているのか。

 この闘いの孤独を思い知らされずにいられない。そもそも俺は今何故ここで対峙しているかの謂われも知らない。この世界の、それが性情だと言う以外他にない。諦めがついて頭も切り替わる、現状を切り抜けるためにはどうするべきなのか。チェーンソーの短所を最大限に翻弄したいところだが、幽霊侍もそれは十二分に熟知している。それゆえの構え、それゆえの行動だったのだ。射撃による武器の破壊というのは身体に阻まれて叶わない。距離を取ることもできない。この場に足止めされて居たら、いつ誰に背後を取られるか分からない。外に出なければならない。

 残弾を外に向けて撃ち尽くし、再装填。弾薬だって只じゃない。もう弾倉は残り一つ、それをベルトにねじ込む。引き金を絞って一斉射撃。狙うは頭部のヘルメット。強化性樹脂でできたそれを、変形ないし摩耗させられれば視界は奪える。距離を詰め、脱出の機を伺う。狭いエントランスに阻まれて、相手が得物を振り回すのも鈍い。無闇な動きがあればその手元を押さえ、チェーンソーで外壁でも切りつけて刃を使い物にならなくしてやる。相手もそのことを知ってか、暴れまわっては来ない。突き出されたチェーンソーの軌道を躱すのに、手持ちの自動小銃で逸らす。その瞬間、猛然たる力を漲らせて人鋸一体の突進。鉄の火花が飛び、銃身が深々と傷付けられた。とは言え、鎖鋸も傷んでいるはず。このまま相手の全力を逸らして受け、その勢いのまま外壁へぶち当てる。砂利の粉末が奔流となって噴きかかる。この暗い夜には余りに不釣り合いな怒号が鳴り止まない。最後の喘ぎと共に機能停止するはずの刃は着実に迫ってきている。

 二秒先の自分が観取した絶望、後悔、放心。つまり、死の囁きを聴いた俺は、押さえ付ける手を離し文字通り転がりながら逃げ出した。すぐさま外壁から得物を引き抜いて飛びかかる全身黒の骸骨。後先を考えることなく、大上段からそのまま振り切る高度まで掲げられた凶器が、地獄生まれの赤子の喚き声を上げ続けている。それをなんとか躱し、アスファルトに肩代わりさせる。一向に刃こぼれしないチェーンソーを持つ腕を押さえるが、相手の豪腕はアスファルトごと俺の身体まで裂こうと、少しずつ少しずつ迫ってきている。機能停止を期待している神頼みの自分。真っ黒な粉塵とその不快な匂い。いつまでも止むことがないこの排気音が最期の断末魔に変わるのはいつなのだろう。今はもう、ホルスターのコルトガバメントをゼロ距離で接触させて連射するしかこの男に致命傷を与え得る術がない。

 だめだ、ここで手を緩めると、このまま押し斬られてしまう。この生地を打ち破れるほどの威力が、手持ちの拳銃にあるという保証もない。俺の身体が千切れるか、相手の鎖鋸が砕けるかの我慢比べの様相を呈している。形勢不利、劣勢、敗色濃厚なのは明らかに俺。正攻法でも奇策でも、現状を打開するためにどうすべきかが見えない。あのホテルに踏み入ったことか、不用意に機関銃を斬り付けさせてしまったことか、それとも京成西船駅方向から帰るべきだったのか。つくづく俺という奴は、こんな走馬燈は嫌だ。天地が逆さまになる。とうとう首と胴体が切断されたのか。下半身の痛みを感じるのは何故だろう。忌々しい柳の木も離れた所にうずくまっている。ヘッドライトも点けずに、猛スピードで突っ込んできた黒のセダンが俺たち二人を跳ね飛ばしたのだった。座席の開閉音。よく通る甲高い声。

「誰に許   て、こん  中に騒が   似し   !おい  、俺のシマで何し腐     !!失   !!」

怒 声 が 投げ か け られ てい る が よ く 聞 き 取れ な い 。先  程  と  は  別  の  内  燃  機関  の  駆  動    音。  こ  れ  は  バ  イ  ク  か  、    や  れ  や  れ   。

 

第一章    疾風怒濤    了

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です