ウルトラネガティブとハイパーポジティブを併せ持つ、エクストリームニュートラル。
私の意匠はこれである。
換言すれば、右も左も均しく斬り捨て、我が身も捨てる、そんな意匠だ。
孔子はこれを中庸と呼んだに違いないのだが、私のような小人には実践できぬと明言している。
「国を平和にすることも、無給で労働することも、白刃の上を歩いて渡ることもできる。それでも中庸だけはなかなか出来ない」と言う風な事を、孔子先生は言っているから。
確かに頷ける、なぜなら私が注文するラーメンは必ずこってりで、均しくあっさりを注文することはなかなか出来ないから。
千葉で見初めて、津田沼に通い、飲んだ〆には池袋、はたまた駅前錦糸町、いつか行きたいパリ支店。
こってりらーめんなりたけさんだ(あんまり好きだから以下、敬称略)。
あの福岡西新にも支店があり、営業を続けていると言うのだから驚きである、一寸信じられない。
コンビニのカップ麺にも進出したようで、ご存知の方も多いのではあるまいか。
私はこのお店で十代の身体に焼ごてで刻印を受けた。
はたまた、刺青代わりの刺白と言うべきか、そのくらいに背脂こってりなのである。
なりたけのカップ麺は、蓋の上で後入れ背脂を温めておくのだが、仕上げに容器へ入れる際、一寸引いてしまうくらいの量が出る。
これが不思議なことに、お店で食べる際には抵抗がなくなる。
即席とはいえ、この料理—そう信ずる—は自分で作るものでは無いのだと確信する。
自分で作れないから外で食べる、これが外食の醍醐味であろう。
船橋から幕張の中高へ通っていた私が初めて食べたのは、同級生のゲーセン仲間に千葉店へ連れて行ってもらった時だ。
当時、貯めた小遣いのほとんど(と言っても昼食代五百円で百円の大きなプリンを一つだけ買った残金)をアーケードゲームの仕合に費やしていたから、電車賃のかかる千葉まで出る機会なぞ滅多に無かった。
また、それまで通っていたラーメン屋さんも一軒決め打ち、魚介だしの醤油ラーメン屋さんだけだった。
だから、都会にはとんでもない食べ物があると、味覚中枢の根幹に衝撃を受けた。
右脳と左脳との裂け目にめり込んだ背脂ツルハシは、私の人格をこってり極右へと大転向させたのだ。
以来、世間一般では背脂ちゃっちゃ系と言うのだろうが、なりたけはなりたけである。
普通のらーめんで十二分にこってりなので、騙し討ちを食らう羽目になるかもしれぬが、店名にはっきりとこってりと書かれている。
あっさり志向の方ならば「背脂なし」とか、少なめの「あっさり」を頼むと良い。
背脂の紫色した甘みに脳を焼かれた諸氏ならば、「ギタギタ」で。
私の場合はこれを「超ギタ」にして、大盛り、バター(酔狂で付ける)、もやし抜き(茹でてあるのは水っぽくなるため)、薬味(輪切りの葱の事)多めが基本だ。
気分でチャーシューとライスをつけて定食風にする事もある。
「超ギタ」とは、スープが無い代わりに其処にあるはずのものが全て背脂になっている代物である。
半ばこちらの我が儘を聞いて貰って作って頂いているようなものだから、これは飲み干さねばならぬ。
他店さんの張り紙だが、油そばのカロリーはラーメンのほぼ三分の二、塩分は約半分という説があるようだ。
あとはなりたけさんの超ギタを油そばと呼ぶかどうかだけなのだが、それは我々の胸三寸で決まる。
何、背脂の量は自分で選べるではないか、それだって我々の胸三寸だ。
「月(にくづき)に旨(うまい)と書いて脂となります。」
と書き出された、良く出来た嘘のような貼り紙がされている。
超訳すれば背脂サイコー程度の意味だろう、それには同感である。
しかしながら、説明の程度としては「土の下に羊を埋めて幸せ」のレベルなのだが、この説は真実だろうか。
旨いとは何か。
もう、普通のなりたけなぞ思い出せぬ、一度も注文した事は無かったのかも知れぬ。
近所にお店があって、気軽に行けるなら、普通を頂く機会もあろう。
しかし、私がなりたけに行くのは心が渇いているときだから、飲み歩いた〆に「超ギタが食いてえ!」と吠えるのだ。
普通のなりたけが食べたい、でもなりたけに来たら超ギタが食べたい。
そんなわけで今回も超ギタを注文させていただいた。
運ばれてきたお碗は、一面を蓮の花のように広がったチャーシューが覆い隠しており、とても良い。
この下に、お釈迦様がその蓮が咲いた池から見下ろした、地獄のような超ギタ背脂が溜まっているのだ。
蜘蛛の糸は必要あるまい、中には中太麺がとぐろを巻いて、引き上げられるのを待ち受けている。
卓上のにんにくをたっぷり入れるのを忘れずに。
啜り込んだその麺はもちもちとしていて、何より甘い。
ひ、ひ、ひ、思わず下卑た笑いが心の中で巻き起こる。
突き抜けている、全てが脂であるならば、これは全てがスープという事だ。
突き抜けている、普段ならば身体が拒絶するような塩辛さが気にならない。
比較の対象がないから脂も塩分も知らぬ、それほどまでにこってりしている。
人はパンでは生きられない。
イエス様だって息を吹き返し、輪になって踊るだろう。
狂気と狂喜が入り混じった食事を終えてからふと気付いた。
食券を何枚渡したのだったか。
チャーシューめん、バター、ライスの三枚、三枚だ。
しまった大盛りを押し忘れていた。
大盛りは百円で麺が二玉になる。
道理で食後の満足感を、切なさが上回ってしまうわけだ。
私は錦糸町駅改札に入った後で、何とも言えぬ切なさを感じていたのだった。
そうか、総武線で船橋の手前、本八幡で降りてそこのなりたけへ這入ろう。
どうせなら今度は人生初の普通を食べてみよう。
らーめん、普通、もやし抜き、薬味多め。
私が一番頻繁に通うラーメン屋さんでも「超こってりで。」と注文するが(もう先方で先に確認を取ってくれる)、なりたけの普通には遠く及ばない。
本来あるはずだったスープは熱く、とても美味しかった。
普通が一番美味しい、一食一飯の締め括りに相応しい気付きだった。
せっかく八幡へ来たので京成駅前のDue Italianで白いらぁ麺を食べて帰った。