「俺は、お前が切っ掛けになって、俺達三人の友情が終わるんじゃないかと思ってる。」
先日、こう言われた。
ことの発端は、今から遡ること一三八億年前、いや、宇宙の起源にまで遡る必要はあるまい。
我々の問題解決にカントの助力を得ようと欲するならば話は別だが、彼もまた第一アンチノミーに突き当たって因果律が破綻してしまうことになる。
そう、ことの発端はごく私的な問題で、今流行の歌手の歌を流すのを止めてくれと要請したのを、冒頭の発言の主が聞き咎めたのだ。
その男にはこう弁明した、大きな失恋から立ち直れないでいて、その女性がよく聴いていたんだ、と。
二十年来の付き合いの友人は、すぐに私の“ある種の例え話”を察したらしく発言を撤回してくれた。
以上の話から二つの議論がなされる。
一つは、これからラーメンを食べるのにカントを持ち出す馬鹿があるか、という判り切った、つまり議論の余地のない議論(それを洒落とか冗談とか与太とかいう)。
もう一つは、大切なものを失ってから嘆く馬鹿があるか、という我々が繰り返し陥る、つまり繰り返された議論(それを友情の決裂とか失恋とか喪失とかいう)。
後者に関して、我々は先にも述べた通り、カントの助力を得ずとも我々自身で解決に至った。
友情のように壊れやすいものは、大切に扱いさえすればいっそう壊れなくなるという、誰もが知るであろう事実の再共有だけで、我々の友情はより強固になったと信ずる。
ただ、逆上せていた私が、恋だの愛だのも喪失しやすいものであると知るのが後になったまでのことだ。
今日探し求めるラーメンドラゴンボウルは、すでに喪失してしまったお店である。
先ほど、ラーメンを食べるのにカントを持ち出す馬鹿があるか、などと口走ったがそれに似たような粗忽者を知っている。
我々三人がシェアハウスをしていた頃、その家の空き部屋にもう一人入居してきたのがその男だ。
何せ、引っ越しするのに行き先も聞かず、車に荷物を詰め込んだのだから。
で、後部座席でこんな話をしたらしい。
「どこら辺に行くの?」
「イナギ(東京都多摩地域南部)だよ。」
行き先も聞き、道中二人は運転手を尻目に与太話、車が向かう方角が西ではなく東だったと気付くはずも無い。
ついた先は、稲毛(千葉市北部)だったから、二十三区外とはいえ都内に住めると思った男は大いに動転し、行き先を伝えたKもそんな聞き違いに腹を抱えて笑ったという。
まるで落語の枕のような話だったが、そこ稲毛に伝説の店舗があった。
駅から徒歩十分強のシェアハウスから最も近いラーメン屋さんが三件。
行列のできる家系、地域密着型のタンメン、そしてそのお店、炭よし。
行列に並ばず、タンメンは食べずの私が選ぶのは当然、炭よしさんだ。
私は部屋に週一度しか顔を出さないので、ある日提案されて這入った。
座右に拝してあるのは、平凡な「醤油トンコツ」の中華そばだったが。
「何だ、このメニュー。」ロマンチストのKが惹かれたようだ。
「面白いね、それ頼も。」本文冒頭の発言をした男も話に乗る。
「じゃ中華そばにする。」私のこんな所が癪に障るのだろうか。
端麗なイメージの中華そばからは遠い、トンコツ醬油の深い味わいに間違いはなかった。
いや、間違いだった、両名とも眼を剝いて彼らが注文した一杯を激賞している。
私も蓮華で一口頂くと、そこにあったのは鶏ポタージュとしか言い様の無い、濃厚かつ鮮烈な味わいのスープだった。
どろどろの粘性スープは口の中一杯にへばりつき、鶏そのものの香りが鼻へと抜ける。
これは、加熱した鶏がその形状を保てなくなって、どぷんとゲル化した生命の一杯だ。
他店ならば嬉しい肉感の豚チャーシューですら、この碗の中で存在感に疑問が生じる。
海苔めんまホウレン草にさながら家系を連想、花弁の様な白ネギはしゃなりと優しい。
全世界の鶏白湯が単なる白湯に帰してしまうほどに空前だった。
鶏白湯として提供された訳では決してないのだから当然なのだが。
惚れ込んでから何度も食べようとしたが、店主の体調不良とやらで不定休。
もともと稲毛を拠点とした活動に私が参加していたのは週に一度きり。
そして僅か数ヶ月後に突然の閉店を迎える。
鶏ポタージュとして文字通り絶後の一杯は、伝説となった。
伝説には噂が付きまとうのが常である。
曰く、マスターは千葉の錚々たる名店を渡り歩き修行していた。
曰く、茹でたてのうどん、揚げたての天ぷらを出すお店だった。
うどんは三百円、天ぷら五十円だったというのだから、店舗周辺での需要と受容があったかどうか疑問なのだが、それにしても安い。
曰く、うどんに加えて、長州ラーメンを提供するようになった。
曰く、二〇一二年末(およそ十年前になるとは!)の再オープンを機に、ラーメンのみを提供するお店となった。
にもかかわらず、お客からの要望でうどんの限定提供を再開した。
我々が越して来たのが二〇一四年五月、再オープンから一年半後のこととなる。
曰く、以前はカレー屋さんの経験もあるらしい。
曰く、カレーにチーズを溶かして炭の香りをつけていた。
ちょっと何を言っているのか分からない。
そしてその技術をラーメンに転用したメニューも作っているらしい。
以来私は、ほんものの鶏ポタージュを食べていないし、目にすることもない。
面影を探して注文した鶏白湯ラーメンに、落胆することなら繰り返している。
今回、この記事を書くにあたって、その美味を伝えきることが出来なかった。
数度だけ食べた感動よりも、喪失した感傷に浸ってしまうのだ、どうしても。
もう朧げなあの味の影を追いかけて、私は関連するウェブサイトを渉猟する。
私はどうして、死んだ我が子の年齢を数える様な真似をしているのだろうか。
そんな風に考えて涙が出そうになり、ラーメンドラゴンボウルを取り落とす。
「我々は国宝を永遠に失ってしまったのだ。」
冒頭の発言者、TechnoBreak Shunメンバーが、昨日私を慰めた。
【参考一覧】
食べログ 炭善(掲載保留)(4件の口コミ、2012/03再オープン前にうどんを出していた情報が唯一見られる、2012/08再オープン前に長州ラーメンも出していた情報もあり)
https://tabelog.com/chiba/A1201/A120104/12028267/dtlrvwlst/
ラーメンデータベース 醤油トンコツらーめん 炭よし(6件のレビュー、2014/01/11鶏塩に「命のラーメン」と記載有、感動の92点)
https://ramendb.supleks.jp/s/66252.html
Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E- 炭よし(炭善)@稲毛 千葉の名店を渡り歩いた店主さんが満を持して開業!(2013/03/19お店の背景が詳細に記載されており、資料としての価値が第一級、gooblogの更新頻度も非常に高く今回好きになりました)
https://blog.goo.ne.jp/sehensucht/e/a8041291c24c6dd5447290c58f29bc40
Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E- めん屋いとうけ@稲毛 炭よし跡地に家系LIKEな濃厚ラーメンのお店が登場!(2014/11/03炭よしさんが短命でかつ、塩チーズが美味という事を裏付ける内容)
https://blog.goo.ne.jp/sehensucht/e/daaef556f9e0bf37d0a9a4b1bf4b5f71
お水をどうぞ 炭よし@稲毛の『中華そば』(2013/03/23鶏塩がリリース時はライトで女性向けだったというのが面白い)
http://blog.livedoor.jp/mostly_benten/archives/1765245.html
お水をどうぞ 炭よし@稲毛の『鶏塩ラーメン』(2013/03/23上記記事の直後に注文の連食、コクのある鶏白湯だったという)
http://blog.livedoor.jp/mostly_benten/archives/1765256.html
続おもしろラーメンブログ 炭善@稲毛(塩チーズ)(2013/02/16塩チーズの秘術と未知なるカレーの存在に震える)
https://ameblo.jp/yokozunayokozuna777/entry-12476052903.html
どんとこいや 炭よし(2013/12/01夏前に来店した記事だというが、鶏塩に“鶏ポタージュ”の記載がある唯一のもの)
https://minkara.carview.co.jp/userid/602368/spot/709923/
cafefreak 失敗しない稲毛でのラーメン屋さん探し!食べたくなったら急げ!(2016/01/08稲毛のラーメン事情を俯瞰できる)