年末の職場閉鎖期間、私は研修で大阪へ行く。
都内での研修は十二月中旬にあるのだが、通常業務を優先させるために申し込む事はしない。
止む無く、家で怠惰を謳歌する時間を、自身の鍛錬に昇華させる。
ちょっとした旅行感覚を味わうためにも。
期間は二十九、三十の二日間、これを二十八日に前入りする。
行きも帰りも深夜バス、泊まりはネカフェの貧乏旅行である。
休日が湧くと朝七時に起きてロング缶のビールを二本飲んでから寝直し、昼に起きたらワインをボトル半分飲んでから三度寝、活動開始は十六時頃。
大抵はこんな風にして、文化的な活動は無いままに一日を無駄に過ごす。
だったら、無給で働いている方が良いのだ。
中庸は能くす可からざるものなれど、爵祿くらいは辞する事が可能だ、週に一日くらいなら。
そんな透かした理屈で誤魔化しているが、真実はきっと違う。
過労だとか過度の飲酒だとか異常食欲や変態食欲とか、碌でもないこれもそれも形を変えた自傷なのだろう。
アクラシア問題、これは哲学上の大議論だという。
曰く、ソクラテスはそれを単なる無知と断じた。
曰く、アリストテレスは欲望や感情による葛藤を生じていると諫めた。
だからその頃は恐ろしく金がなかった。
金なんかあるから不安になるのだと信じていたから。
果たして不安はなかった。
だが、金もなかった。
それでも生きていく事は出来たのだった。
深夜バスに乗って朝七時前に梅田へ着く。
夜明かしした酔客は駅へと向かっている、あれは夜勤明けの勤め人か。
すれ違うように朝日の射す方へと歩く。
バスのオプションで付けた大東洋の朝湯を浴びる。
一度だけ、その前にウェスティンホテル一階のアマデウスで朝食のビュッフェも付けた事があった。
あのオプションはそれ以来目にしないが、貧乏旅行のクライマックスがいきなり来た感じがして、良かった。
だいたい十時頃には拠点である難波へ到着する。
それから夜まで、凡そ碌でもない事をして過ごす。
だから一体何をしていたか覚えていない。
もしかすると、前乗りなぞしていなかったのかもしれない。
研修は十時から十七時までだったから。
もう地図に頼らずに難波を歩く事はできるが、周辺に一体どんな名所があるのか、私はとんと知らぬ。
空白の一日なぞ存在していなかった。
存在しない空白の一日を作った心理はなぞだ。
壊されるより先に狂ってしまえ、壊れた事を気付かぬために。
研修を終えてから、ネカフェのチェックインまで五時間以上ある。
御堂筋と千日前通が交差するすぐそばに、フラットタイプの完全個室をナイトパックで予約してある。
それまで碌でもない事をして過ごすのだ。
貧乏旅行はこれだからたまらぬ。
年末の大阪で雪に降られた記憶はない。
寒さが身に染みると思ったこともあまりない。
懐具合が唯一の欠点だったのだが、制限のある中で自由を求める事なら出来た。
いや、それを彷徨と言うのかもしれない。
自由を求めて彷徨っているのであるならば。
なぜならば自由なんて無いのだから。
この皮膚の外に、物質的自由というものなぞ存在するまい。
自己の中にのみ、精神的自由がきっと在るのだ。
否、在った。
物質的自由が、其処に、目の前に、頑として。
御堂筋をぶらついていれば、その一角は厭でも目に入る。
金龍ラーメンが其処に在る。
迫り出したカウンターというより、これは台と呼びたい。
その内部から立ち上る朦々たる湯気がこの店の放つ熱気を物語る。
そこへと群がる客たちで、台の周りがひしめきあっている。
椅子は無く、立ち食いだから混沌が秩序立っていて面白い。
強烈な何かに束縛されてお店へ突入、何が自由なものか。
食券は二種類、ラーメン六百円とチャーシューメン九百円。
対峙する券売機に見据えられ、強烈な制限を受けた私の全身が強張る。
震えるほどに痺れる、このお店は大盛りなど用意していない。
つまり、チャーシューメンを食べて、次にラーメンを食べてそれが大盛りという事になるのだ。
大盛りラーメン、千五百円、ここに爆誕である。
台の上には、ラーメンボウルに白菜キムチ、ニラの辛子和え、きざみにんにくがそれぞれ盛られて割り箸が突っ込まれている。
勝手に取って、勝手に味を調整する事が無言で示されている。
これは啓示か、屋根から突き出た龍の啓示か。
しかし、未だ七つ集めきらないラーメンドラゴンボウル。
降臨するのは一体何。
そのラーメンはすぐに出てくる。
チャーシューは薄いが、冬場のこの寒い季節感と精神的疲労感による感謝の念が勝る。
生存本能がチャーシューを味わう事を禁じ、麺と一緒にさっと手繰ってしまう。
その麺を一口食べると、なんともスタンダード未満のとんこつ醤油様の味がする。
換言するならば、懐の広いラーメンの味という事だ。
清濁併せ呑むかのような、個性を主張しない事で却って個性に目が向くような、そんなラーメンだ。
すかさず台の碗から全ての具材を、これでもかというほどに、どかどか投下する。
何を食べているのか分からなくなるほどに入れてしまう。
熱いつゆにキムチをひたしたもの、その脇に麺が沈んでいるような料理だ。
これには火傷を防ぐという効果もある。
つゆが辛いのはニラのせいではない、にんにくを入れすぎたからである。
これが私の、にんにくジェノサイ道。
臭くなるのは生姜無い。
関東者が往く、年の瀬の立ち食いラーメンは、普通とは一体何か私に問うている。
二十四時間営業だから、なんなら翌朝も食べてしまう。
金龍ラーメンさんは、ミナミに五店舗あり、残り四つは小上がりの座敷で食べる。
さらに、そこは大釜からご飯を自由に取る事ができる。
なあんだ、金のない貧乏旅行者にも優しい面をちゃんと見せてくれるではないか。
休日返上労働者の諧謔と哀愁、肉体と精神双方の再生。