山岡士郎に自己投影するとは馬鹿も休み休み言えと叱責されそうなものだが。
今回は敢えてそれを放言したい。
第一話、豆腐と水。
山岡士郎(27)、とすれば大学を卒業後、入社五年目だ。
それは私が四年間の非正規雇用を抜けた年齢に一致している。
作中、彼は馬小屋ではなく、オフィスのソファに産み落とされる。
私にもその寝心地は骨身に染みて分かるのだが、そんな所で寝ざるを得ない者の心境たるやどうだろうか。
この左右非対称の、寝るためではなく座るために造られたベッドが、自分の揺り篭にもなれば棺桶にもなるのだという漠たる予感。
毎晩飲み歩かなければ生きた心地がしないという倒錯した自足感。
金なんて有るから不安になるのだから、有り金は全て競馬に注ぎ込むという歪んだ自傷。
その背景にあるのは山岡士郎自身の仕事中毒とも呼ぶべきものだろう。
作中そのようなことは一切描かれていないが。
彼は雁屋哲も花咲アキラも欺いて、ただ独り、自己の血の宿命と格闘していた。
我々読者は、追々そのことを突きつけられる。
「自分が自分でなければよかった、だが俺はどうしても俺以外ではいられない」
彼の嘆きが、まだ未熟な果実がもぎ取られたような絶望が、叫びとなって聞こえるようだ。
山岡士郎に、ある重大な感情的欠落、いや彼自身が希望の代わりに匣の最奥に秘匿した何かがあることを、東西新聞社の社員一同とうに察してはいるのだ。
だが、彼らは決して山岡士郎その人ではないから、それが何かを見抜くことはできないし、その心に寄り添って当人の感情を慮ることもしない。
山岡士郎は右足だけで立っている。
食事は左手で箸を持ち、右目は夜の街を彷徨うために、昼の喧騒は左耳で聞き取りさえできればそれで良いとでも思っているかのようである。
彼は誰も傷つけたくないからと、自らに足枷を噛ませているのだ。
手の施しようもなくバラバラにひしゃげてしまった男には、何も知らない女が支えになれば良い。
二人は決定的に出遭ってしまった。
栗田ゆう子(22)、守衛の次に出社する配属三日目の新入社員。
東西新聞は女性社員に対する差別意識が強く、雑務ばかりで自分の仕事が進まない。
仕事をこなすことが、今の彼女を成長させる。
成長とは、出来なかったことが、出来るようになることだからだ。
だから彼女は時間の捻出を発明した。
仕事することが勉強なのだということを自覚している。
ーー街角を行く人波が途切れると、月明りさえまぶしいね、こんな日はーー
境界線ギリギリの所に彼女はいるのだという。
山岡士郎と出遭わなかったなら、彼女も数年で、どうしようもなく内でも外でもない、此岸でも彼岸でもない、遊びでも仕事でもない、そういう場所に行ってしまっていたのだろう。
栗田ゆう子に胎動した仕事中毒の魔の種は、表面的にはグータラと評される山岡士郎によってその芽を摘まれることになる。
私たちは皆、その後の彼女を知っている。
東西新聞社創立百周年記念事業が明かされる。
物語の大きな車輪が、重い音を立ててゆっくりと動き出す。
三つの豆腐、イとロとハ。
三つの水、AからC。
味覚の試験を突破したのは二人だけだった。
「ワインと豆腐には旅させちゃいけない」
山岡士郎は御覧の通りと言いたかったのであって、決して言葉の上で戯れているわけではない。
彼は味覚の本質を手掴みしたそのままの視力で深淵を眺めている。
眼前に広がる光景を言葉で表そうとするならば
あ・は・れ
とか言う、不具な言葉の切れぎれになったような断片だったかもしれない、そうでないかもしれない、どちらでも良い。
だから彼も深淵からのこだまのような言葉を吐露せざるを得ないのだ。
饒舌さを自分自身に赦してやるのは、唯一怒りに身を委ねているときくらいだ。
究極のメニューへの挑戦は難航する。
さらに、海原雄山と帝都新聞の横槍で究極対至高の構図が出来上がる。
その記念すべき第一回が十五巻だそうだ。
以降、おおむね一巻に一回のペースで対決が繰り返される。
その頃の作品にはもう興味はない。
美味しんぼを我々読者に面白く紹介する、日本一のサイトがある。
その連載は五回までで未完のままなのだが、その筆者はこう言っている。
「アア!あの頃の美味しんぼはギラギラしていた!」
私も同意見である。
だから、手垢がつきすぎたというより最早、手垢でできた握り飯のような美味しんぼ評論に私は乗り出す。
ではお待ちかね、今週のクリ子のコーナーです。
日本刀は平安時代にその完成を迎えて以降は、衰退の一途をと辿っているというのが通説らしいが、どうやらクリ子に対しても同じことは言えるようである。
「時よ止まれ、汝は美しい。」