【人生5.0】Junのヨモツへグリ #002 西船橋 串屋横町【ONLIFE】

約束の地、シドはどこにある。

僕たちはいったいどこで再会を果たす。

山林など消え失せてしまったこの地上で。

まばゆい電光掲示板を見上げ、下水の汚臭に気付かない。

張り巡らされた下水道のような道を行き交いながら。

その日初めて出会った僕たちは、まる福で軽くひっかけて店を出た。

向かいの女性の髪型や化粧、仕草など特に気にすることは無かった。

それは僕の習性なのだろうか、わからない。

もう一つ分からないことがあった。

女性というものがどれくらいの量を適量として食べるかだ。

店の前の通りを向こうへ渡って、そのまま前進。

他に店も無いような裏町の四つ角に次の店。

移動にわずか一分、目と鼻の先だった。

冷えたビールとサワーがもたらす冴えた外気から逃れるように、足早に移動した。

勝手の知らない女性を引き回す羽目にならなくて良かった。

この梯子は個人的に一人飲みの際に使おうと思った。

次の店はさらに空席が多かった。

串屋長屋は県内と都内に、やはり五十店舗ほどを展開している。

賀々屋と規模は全く変わらないが、一九六五年創業に対して二◯◯三年創業だ。

意外なことに、一号店と二つのセントラルキッチンが存在するのは茂原市だ。

もつ焼きが食べたいと客が思った時に、真っ先に思い出されるお店でありたいという理念があるらしい。

まさに賀々屋の牙城を崩さんといった意気込みだろう。

だから今夜、ここへもつ焼きで飲みに来た。

四人がけの席に二人で着く。

混雑が始まった賀々屋の風情とは違う、明るく清潔感のある店内だ。

僕はたまに亀戸店に行くので、プラスチック製のドリンクパスポートを所持している。

カードにシールを三枚集めると、特典として最初の一杯を無料にしてくれる。

次年度はブラックカードへのランクアップが待っているようだ。

今夜これは出さないでおくことにした。

お通しのキャベツが運ばれる、これはおかわり自由。

レモンサワーをピッチャーで注文。

いつものバラ軟骨1号。

これは、とろとろに煮込んだもの。

ちなみに2号は薄切りのを焼いたもの。

目に付いた馬肉のタタキ、お得サイズで。

同じ1号でもレバー1号というのもある。

角切りの豚レバーをザッと焼いたやつで、安くて美味い。

不思議なことに2号は存在しないのだが、レバーフライも安くて美味い。

モツ野ニコ美と名乗った女性は、レバーがあまり得意では無いそうなので見送った。

お酒に関しては、杏酒や梅酒のような甘いのをソーダ割りにしたのが好みだという。

残念ながら、そういうのはここには無い。

止むなく彼女はピッチャーからレモンサワーをジョッキに受ける。

僕もどういう心境の変化か、ビールをやめてレモンサワーに移行。

乾杯して飲み始める。

僕はビールを飲んでいる姿を、他の女性に見せたく無いとでも内心思っているのだろうか。

今はがぶがぶとビールを飲み干せなさそうだから、こういう酸っぱいのが丁度良かった。

たいして待たされることなく注文が届いた。

時間のかかる串物をこのタイミングで頼む。

「熱いぞ」

「ありがとう」微笑しながら彼女が言う。「けどすごく美味しい」

ほろほろに煮崩れた肉と、どろっとして原型を止めていないゼリー状の軟骨。

鼻に付く臭みには目を瞑って、練り辛子の痛みに耐えることにしよう。

不味く無いはずがない。

禁忌の食材を時間が解決する。

いや、圧力鍋が何とかしたか。

邪推を口にするのは無粋だ、相手に失礼になる。

馬肉のタタキは赤身の淡白さがはっきりしている。

脇にあるおろしニンニクを遠慮なくつけて食べる。

「お通しのキャベツに付いてきた辛味噌の方が合うかもしれない」

「馬肉に味噌って、信州スタイルって感じね」

そんなことを言われて、ずいぶん前に飯田駅前の箕輪へ食べに行った記憶が蘇った。

信州飯田名物、馬のおたぐりだ。

馬の内臓を手繰り寄せて捌き、煮込み、無駄なく食べられるように工夫したものと考えて差し支えあるまい。

首都圏では絶対にお目にかかれない、安くて美味くて新鮮で量の多い現地の馬刺しに思いを馳せる。

「素材が無いから文化で飲むんだ」

「飲み屋の流儀?」

「僕らはその文化を生きているだろ、今まさに」

「客が店を作るってことね。次は人でごった返した平日の夜中が良いわね」

笑って頷き、ジョッキを空けた。

向かいの女性の酒量は控えめだ、ピッチャーの残りは僕が明けることになるだろう。

串が届いた。

一本目は赤モツMIX。

ここはいちいち塩かタレか聞くような野暮なことはされない。

タン、ハラミ、ハツが二つずつ交互に刺さっている。

この方が五本盛りを冷ましてしまうより良い。

味わっていてもまだ冷めるような時間じゃ無い。

二本目はスーパーホルモンロール。

ぷるぷるしたやつがいくつも刺さっている。

僕はこういう、一寸冷めてもとろとろなのが好きだ。

白もつをパリッと炙った串なども確かに良いが。

飲み食いして、満足して会計して帰った。

他にどんな会話をしたか、覚えていない。

いや、ろくに会話しなかったのだろう。

色っぽいことには期待していない。

ただ、次の仕事を楽しみに待っている。

【人生5.0】Junのヨモツへグリ #001 西船橋 まる福(加賀屋船橋店支店)【ONLIFE】

約束の地、シド。

僕たちはそこで再会を果たす。

桃の木には瑞々しい肝臓が。

薫風には七輪で焼く味噌の風情が漂う。

さらさらと音もなく川を流れる大腸は澄んでいる。


「コードナンバー0253」深緑のコートを羽織った女が駆け寄って言った。

「今はyだ」僕は僕なりの礼装のつもりで、黒のウールで仕立てた風変わりなトレンチコートを羽織っている。深紫のマフラーはもう毛玉だらけで、手放す頃合いだ。

「ワイ?それは大文字じゃ無いんでしょう」肩ほどの髪が茶色く揺れている。

「当たり前だろ、だから好きに名乗っている」

「モツ野ニコ美よ、よろしく」

僕は吹き出した。

なるほど、彼女は彼女で好きに名乗っているらしい。

僕の名前も先に言われてしまった。


はるばる裏芝浦までやって来たが、収穫なしの空振りに終わった。

今回はただの顔合わせだった、気楽なのは良いことだ。

駅までのバスに乗って、下らない話をする。

僕は西船橋まで、彼女は隣街だという、結構なことだ。

習志野と墨東とのゆるやかな協調路線に加えて、半東京と呼べそうな地区とのつながりがもてるのは良い。

都内からの渡葉を三番瀬渡りとも言う。

三番瀬渡りの経路は二つ。

上野から京成を使うか、大手町から東西線を使うか。

三田から大手町へ出ることにした。

大手町では本数の少ない列車がちょうどやって来た。

混雑した車内で丁度座席が二つ空いている。

お互い腰掛けて僕は一息ついた。

何も言わずに目を閉じて座にもたれた。

気付いた時には車内で独りきりになっているだろう。

なっていなかった。

席は相変わらず冷え冷えとしていた。

仰向けにでもなるかのような無防備さで惰眠を貪っていたのだが。

外の景色は原木を過ぎている。

「お客さん終点ですよ」僕は真顔で言った。

「そうね、西船橋に着くわね」

「何だ、どうした?」

「コレがまだじゃない」と言って手首をクイと上へ持ち上げた。「仕事の後は仕事って、昔から言うでしょ?」

そんな言葉は聞いたことがないが、僕は首肯した。

趣向を凝らした酒肴が良いと思った。

棄てられるはずの物。

食感も味わいも不適な物。

禁忌の食事。

解決の糸口は時間にある。

棄てられる前に目を瞑って口にするか、三日ほど釜で炊いてしまうか。

「じゃあ、麗しきコードネームの姫君には、お似合いの物を」

「城下町の大衆店に行くの、嫌いじゃないわよ」

車掌と改札員に通行証を見せて北口へ降りた。

賀々屋は都内に五十店舗は下らない一大勢力である。

どの店で食べても同じ味をさせている。

僕は、そこの煮込みが一番好きなのだ。

千葉にある賀々屋はわずか数店、どれも船橋界隈に偏っている。

船橋店、船橋店支店まる福(西船橋に存在する)、まる福の裏手に西船橋店。

西船橋店の真上に、なんとも大胆不敵なのだが、タツ屋という店舗があり、そこのもつ煮も同じ味がする。

タツ屋は船橋店も存在している。

今回は西船橋に所在する「船橋支店」のまる福へ。

駅を出て徒歩一分と言うのは、船橋支店も西船橋店も同じなのだが、こちらは大通り沿いなので威勢が良くて好きだ。

大暖簾を手繰り、引き戸を開ける。

戸には黄色い貼り紙で「桃サワー」と書かれていたのが印象深い。

僕は麦茶のように麦酒を飲むのだが、はてさて姫君はどうか。

奥の広間に案内された。

がらんとしているのは十七時過ぎだからか。

若いアジア人女性が早速飲み物の注文を取りに来た。

決めかねているようなので、少し待って貰う。

二人はコートを脱いで席についた。

飲み物のメニューを眺めて、やはり桃サワーにすると言う。

店員さんを呼び、瓶ビールとサワーをお願いする。

アサヒかキリンか、キリンにした。

そのまま煮込みと、ホワイトボードに書かれた鶏マヨが気になったのでそれ。

「この店の煮込みが好きなんだ」

「良いじゃない」

「平らげたら店を変えよう」

「別に、いいけど」僕の真意を測りかねると言った顔をしている。

賀々屋は大好きだ、煮込みが一番美味い。

もつ焼き、刺身、揚げ物と提供される商品も充実している。

だが、煮込みを食べ終えたら、近所に美味いもつ焼きを出すお店があるのだ。

飲み物と同時に煮込みがすぐに来た。

大鍋から即提供、この速さが良い。

瓶ビールは大瓶、サワーのジョッキも大きい。

何の変哲もない液面しか見えないが、味噌仕立ての薄口つゆは大腸の脂でこってりと濃厚だ。

散っている輪ネギ以外に野菜はなし、大根人参一切なし。

散り蓮華ですくい上げると、とろっとろになって、干からびてしまったかのようなシロもつ。

さらに、まだ脂を身に纏ったような、コクのあるやつが半々で這入っている。

碗底にはかさ増しのための豆腐が大きく一つ、なのだがこれは美味い豆腐。

取り皿に分けて勧めた、僕は碗から頂いてしまう。

乾杯してビールを飲み干す。

心地よい。

もつ煮は相変わらず美味い。

男と来ていれば一人で二杯食べてしまう。

後を引く旨さなのだ。

目の前の女性も頷いている。

鶏マヨが来た。

ははぁ、これは海老マヨの鶏版か。

鳥の唐揚げを赤味のあるマヨネーズソースで和えている。

一口かじると、驚くほどにプルプルしている。

こんな調理法があるのだろうか、全く予想がつかない。

モツ野女史も同意見である。

猫舌なのか、食べる際には慎重だ。

もしかすると化粧を気にしていたのかもしれないが、男の僕には分からない。

「鶏マヨといえば、川崎に良い店がある」

「鶏マヨの?こういうの?」

「いや、これとは違う」僕はニンマリして言った。「そこの煮込みが二番目に好きなんだ」

「あら」

「次はそこへ行こう、仕事の後の仕事へ」

僕たちは笑った。

一杯ずつの酒と、二品のつまみ。

平らげるのにそう時間は掛からない。

だが、空席が次第に埋まってくる。

ちょうど頃合いで会計へ行った。

丁度一人千円。

すぐそばの店では、バラ軟骨の煮込みに、もつ焼きを数本と算段しながら店を出た。

【人生5.0】ラ・マンチャの男を観て【ONLIFE】

自分は自分が嫌いだ。

あるいは、自分は自分で良かった。

ほとんど全ての人間がこのどちらかを選ぶ。

幸運な者はそれすら意識しない。

だが、百人に一人か、千人に一人は思うものだ。

自分は自分では無いかもしれないと。


セルバンテスはそんな人物を創作した。

自分は自分では無い。

本当の自分はアロンソ・キハーナでは無い。

遍歴の騎士、ドン・キホーテであると。

男は目覚めた。

だが、取り巻く人々の目には狂気の眠りに就いたと映る。


舞台の幕が上がる。

いや、初めから幕などない。

代わりに階段が、中央に降下する。

幾つかの人が舞台を這いずり回っている。

兵士の隊列が階段を降りてくると、その先は牢屋だった。

劇作家のセルバンテスが投獄される。


獄中で囚人たちから取り上げられた脚本の返還を訴え、セルバンテスはその場の全員を配役した即興劇による釈明を試みる。

主人公ドン・キホーテは脚本家のセルバンテスが演じ、従者サンチョ・パンサ役は作家の助手がそのまま務める。

もう三百年前に姿を消したという遍歴の騎士は、その旅を始めて早々に風車への突撃で槍をひしゃげさせてしまう。

その先にそびえる城、実際は酒場を併設した宿屋が、本作の劇中劇の舞台となる。

宿の亭主は牢名主が演じ、酒場の荒くれ者は囚人たちが演じる。


城へ到着するなり、ドン・キホーテは叫ぶ。

「ドルネシア姫、お慕い申し上げておりました!」

「なに言ってんだいアンタ、アタシはアルドンザさ」

彼女は酒場の給仕をしながら、娼婦もしていた。

生活者としてのアルドンザは、場面々々が痛ましい。

その言葉には諦めの悲しみが、その表情には若々しい怒りが同居している。

自分は自分が嫌いだと、満身から発せられている。


幾度となく否定しても、ドン・キホーテの情熱は止まない。

主人からの恋文を渡すために、サンチョがアルドンザの元へ推参する。

二人とも字が読めない。

サンチョは主人に言われた通りの暗唱しかできない。

その一挙手一投足にドン・キホーテの情熱が重なって見える。

どうして従者を続けているのかとアルドンザが訊く。

好きでやっているのだと、声の限りに叫べば済むのが面白い。


ドン・キホーテことアロンソ・キハーナには、姪が居る。

その婚約者、精神科医のサンソン・カラスコ博士は身内のこれ以上の不祥事を隠すべく、アロンソを連れて帰らねばならないと思っている。

博士は司祭と連れ立って宿屋まで追いついたのだが、そこで異様な光景を目にする。

外の世界から来た二人はそれぞれ、別々の視点で目撃した。

ここで我々観客は大きな問いを突きつけられる。


眠っている者は、眠らせておくのが良いのか?

換言すれば、狂っているのはいったい誰なのか?

そんな言葉は一言も発せられてはいないのだが。


最後の戦いでその答えが開示される。

ドン・キホーテの宿敵の魔術師が、騎士の姿に化身して決闘する。

なす術が無いドン・キホーテ。

彼はスペイン中部の田舎、ラ・マンチャの狂った老人に過ぎないのだ。

対手は声高に主人公を罵り、嘲る。

彼自身に思い知らせようとする。

己の限界を、狂気を、夢は夢に過ぎぬという事を。


遍歴の騎士は応じて答える。

「最も憎むべき狂気は、ありのままの人生に折り合いをつけて、あるべき姿のために戦わぬことです!」

これはドン・キホーテの言葉では無い。

作中で演じているセルバンテスの言葉でも無い。

脚本はデイル・ワッサーマン、1965年にブロードウェイで初演されたものなのだ。


たった一度観たきりの舞台を、私は記憶の中で再現することしかできない。

するとどうしてもこの言葉が、最後の戦いの中での激しい奔流のような激情と共に発せられているようにしか思い出されない。

半世紀以上の時を超え、その言葉を松本白鸚が届け続けていることにどのような意味があるのか、私は呆然とする。

舞台ではドン・キホーテが斃れ、セルバンテスから劇はこれで仕舞いだと告げられる。


それでは囚人たちは納得がいかぬ。

もう彼らはセルバンテスではなく、ドン・キホーテの味方だ。

そして、革の鞄に入れられた脚本は完成する。

牢獄の即興劇は真の終幕を迎える。


病床で目を覚ましたアロンソ・キハーナ。

もう、夢は打ち破られて、朦朧としている。

眠っている者を、眠らせておかなかった悲劇。

彼は死の淵にいて、遺言をしたためようとしている。

そこへアルドンザが駆けつける。

ドン・キホーテを正気へ還すべく、声をかけ続ける。

彼女は高らかに宣言する。

「私の名前はドルネシア!」

彼女は彼女に成っていたのだった。


劇中劇は大団円を迎えた。

また舞台中央に階段が降下してくる。

兵士の隊列が階段を降りてくる。

この舞台の主役は、遂に本当の困難へ連れ去られてしまうのだ。

その背中へ向けて、牢名主が問いかける。

「ドン・キホーテはアンタの兄弟か?!」

いよいよ、標題『ラ・マンチャの男』が台詞となる。

セルバンテスはこう言ったのだ。

私たち、誰の心にも、あるべき姿のための闘志が宿っていると。


階段を登っていくセルバンテスに向けて、囚人たちが歌い出す。

我は勇みて征かん。

『見果てぬ夢』この劇の主題歌だ。

セルバンテスの姿が消える。

囚人たちは彼の背中ではなく、観客へ向かって合唱する。

ただ一人、カラスコ博士を演じた囚人だけが背をそむける。

男の背中が、自分だってこう生きたかったと泣いているようだった。





きっと、折り合いをつけて生きている、自分自身。

そんな私に対して

「もっと格好つけて生きろ」

と言われたようだった。

こういうのを叛逆というんだろう。

【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(Z) #001 津田沼 魚骨らーめん鈴木さん【ONLIFE】

ラーメンドラゴンボウルが完結したその日の夜、私は喜びのあまり、ついラーメンを食べに行ってしまった。

揃った七つのラーメンドラゴンボウルから呼び出された龍神との契約やら経緯やらは、他所に書くことにする(おそらく虚飾性無完全犯罪から船橋ノワールへと移行するだろう)。

ともかく、その日の夜、その日三食目となるラーメンを食べに、隣町の津田沼へと赴いた。

前から行きたい行きたいと思っていたお店があったのだ。


およそ二十年前、中高生だった頃の私は家庭用ゲーム機を所有していなかった。

アーケードゲーマーとして、船橋のゲームフジさんを拠点にしていた。

朝七時から開店という神様のようなお店だったので、ビートマニアやらギルティギアやらは新作が出てから朝イチで練習ができた。

一番やり込んだのは連邦VSジオンDXで、グフの操縦に関しては当時日本一を自負している。

それらの背景は、一食一飯の初回にも記した。


さて、土曜の放課後に実は食べていたのは何も、てんやさんばかりではなかった。

ラーメンも食べていた。

週に一度のラーメンを、決め打ちで通っていたお店だ。

ゲームセンターのすぐそばにあったので、そこしか行かなかった。

中高生の私が、外食で冒険をするということは無かったし、その必要も無かった。

今日はここに行こう、ではなくて今日もここに行こうと思わせてくれるお店だったのだ。

大学に進学してから行かなくなり、しばらくで閉業してしまった。

ゲームセンターも店仕舞いしてしまった。


『醤油ラーメンなんか全然食べないな』

背脂ギタギタ、カレーラーメン、お二郎、滅多に食べないタンメン、とんこつ醤油、鶏ポタージュ。

房総(半)島ド真ん中にあるアリランラーメンを食べてみて平凡だと感じたのは、醤油ラーメンを全然食べていなかった所為だろう。

『あのラーメンスープが失われたって、世界的にみてちょっとした不運だよな』

私自身、業務上の錬金術を秘匿し続け、父から譲り受けた情報などは親子代々の物として運転しているからそう思える。

私が死んでも商材が残り然るべき者が扱えば世界は回るが、一世一代のラーメンスープが失われてどうなるかを思うと胸が苦しい。


漁だし亭 船橋


検索してみれば、何という事はない。

“船橋の「漁だし亭」・・・津田沼で大胆なラーメンで復活し…”

食べログのレビューがトップにヒットして謎即答に昇華した。

二◯一◯年に船橋店が閉店し、場所と名前を変えて翌年再開していたそうだ。

そこは津田沼、「魚骨らーめん 鈴木さん」自信を感じさせる名付けである。

存命の安堵の反動から来る、急激な馴れ馴れしさに声を張り上げたくなってしまう。

さりとて、隣町の津田沼へ足を延ばすには何か理由が必要だ。


問い続けた理由の訪れを私は辛抱強く待った。

検索したのは昨年の十月だったから、一食一飯の前半を書いていた頃だ。

この次にラーメンドラゴンボウルを書く、それが終わったら行こうと。

その日がやっと来た。

休みを取って、車を出して、開店すぐからラーメン食べて、家に帰って記事にした。

あんまり嬉しかったから、その日の晩もラーメンにした。

さあ、そこで漁だし亭あらため、鈴木さんである。


地図でだいたいの場所の見当をつけて、大通りの向こうだろう、と路地から顔をヒョイと出すと目の前になりたけがあったので声が出た。

津田沼店めっきり行かなくなったけど、もっと遠くじゃ無かったっけ。

どうやら地図の見方が悪かったらしい、駅前の大通りをそのまま歩けばよかった。

そういえばツイッターもフォローしたが、昨年末に世界一近い引越しと称して、一軒隣へ移転もしていた。

引き戸全開で屋台然とした渋い内装の漁だし亭とは雰囲気を変えて、明るくカジュアルな木造りのお店となっている、清潔感があって良い。


ともあれ、ビールだ。

もう中高生じゃない。

アーケードゲームはしないが、居酒屋でビールは毎晩だ。

おつまみちゃーしゅー。

焼きもできるが、ゆで餃子五個。

秋刀魚奴、大きいサイズ。


漁だし亭から鈴木さんに化身して、躍進した点がこれ。

ぽてりと載っている秋刀魚のペーストが、31のレギュラーシングルサイズで存在する。

目を瞑って食べてみたら、あん肝のパテと混同するかもしれない。

醤油らーめんに百五十円追加で載せられているものは、さんまらーめん。

このお店の主力メニューと言えるだろう。

その秋刀魚ペーストを載せたやっこ、丁度良いではないか。


ぐいぐい飲み進めて、いよいよラーメンを注文する。

ペーストが載っていない方、醤油らーめん大盛り。

赤黒く澄んだスープに、わずかばかりの油滴がきらめいている。

大きめの海苔一枚、メンマと輪切りのネギが少し、チャーシュー。

あぁ、碗こそ違えど、あのラーメンだ、見ればわかる。

水菜も焼きネギも無いながら、このラーメンだ、見ればわかる。

細麺をすすれば涙が出そうになる、煮干しラーメンとは違う、魚介ラーメンの“あの”味がする。


『わかった。』この数ヶ月の謎が氷解する。

『何がって、俺十代で毎週尖ったラーメン食べてた。』

最初の一歩がこれならば、今歩いている道がこうなってしまうのも無理はない。

塩気に意識が向かない、魚の旨味がスープをどんどん飲ませてしまう。

ああ、これはいけない、だがこういう日のために塩分を節制して来たのだ。

ここに秋刀魚ペーストを少しずつ溶かしながら食べる一杯もたまらないだろう。


豚トロ飯。

ほぐしたお肉と輪切りのオクラ、うずらの生卵。

お肉の味が濃くなくて、ご飯と一体になっている。

オクラの青さが爽やかだ。

これをスープでグッと流す。

沁みる。

ビール飲みで良かった、ラーメン食いで良かった。


十五年だ。

十五年ぶりの邂逅、感無量だ。

さんままぜそばの大盛りを追加してお店を出る。

これが一食一飯の宜敷準一だ。

次は鯛骨塩らーめんを食べに来よう、すぐにでも。

パルコの一階でイスラエルの白ワインを買って帰った。

【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #008 千葉 アリランラーメン【ONLIFE】

平日に休みを取って、のこのこと車を転がして、というよりは車に転がされるようにして、何をしてきたかと思えばラーメンを食べに行ってきた。

へぇ、車なんて運転できるんだ、という自分の声がする。

自慢にもならないような走行距離がかつては積み重なっていたものの、ハンドルを握る必要性から手放されてもう久しい。

公道の支配者という感情なぞ一切なく、単に交通法規の真面目な遵守者として、軽自動車の中で浅い呼吸をしながら過ごした。


一車線の一般道から高速道路へ乗り上げてからしばらくすると、あったなぁ、と思わず苦笑いしてしまうようなランドマークが右手すぐに見遣れた。

『時が流れる、お城が見える』だ。

人生斫断家とも評されたアルチュール・ランボーが生きていたころには、高速道路もその脇のラブホテルも在りはしなかった。

彼のような大反逆者が眺めた景色はどのようなものだったのか、今となっては想像するのも果敢ない。

『無疵な心がどこにある』遺された詩にはこう続く。

どこにでも在ったためしなぞなかったと断じてもよいが、永遠にそこかしこに在り続けるのだとも思いたい気持ちのほうが強い。


このあとしばらく道なりです、というナビの音声に安堵する。

『僕の前に道はある、僕の後ろに車はいない』

寝床の次に広いこの棺桶の中で、性善説が前提となるこの潮流に身を委ねながら、月並み程度の感想だがこの社会と、その奥に確かにいるであろう人とのつながりを感じた。

低速運転すなわち安全運転とならないのが面白い、久しぶりだから思い出した。

変化すなわち進歩とならないのと同じか、ゆめ忘るまい。


おそらく昼前に、ラーメンドランゴンボウルは七つ目が集まる。

身体に刻まれた記憶を頼りにぽつぽつと書いてきたが、最後はまだ食べたことのないラーメンを食べる冒険がしたかった。

シーズン2があるとするならば、博多のとんこつラーメン、道後温泉の屋台、北海道の鶏ポタージュ、まだ食べたことのないラーメンドラゴンボウルを探す旅に出たい。

今日はそれに向けての必要な旅支度だ。


九州、四国、北海道へ向かって。

その第一歩として、千葉県は房総半島のど真ん中へと車を走らせている。

この土地は利根川で本州から切り離されているから房総(半)島なのである。

島が誇る三大ラーメンのうちの一つ、アリランらあめんの八平さんを訪れる。

地図を見ただけで秘境感しかないのだが、それゆえに人気店でもあるようだ。

世界で二軒しか提供しているお店がないというのだから無理もない。

今朝調べると、しばらくは十時半から営業だという。

朝食(の袋ラーメン)を済ませたのが九時、飛び出すように安全運転した。


果てしなく続くかに見える道程も、いずれは目的地に向けて折れねばならない。

一般道に戻ると、しかし、その場その場のラーメン屋さんの多いこと。

砂漠を征く旅人の孤独に星座が寄り添ったように、公道を征く運転者たちの空腹にラーメン屋さんが寄り添ってくれているのだ。

無疵な心と同じように、ラーメンドラゴンボウルはそこかしこに在るかに見えた。

往来がこうも繁盛していると、出発前に抱いていた田舎という感じも薄れてくる。

ずーっと道なりに走って、いよいよ峠に差し掛かるという処でお店があった。


山道の食堂然とした、まろやかな店構えをしている。

車から降りると雲一つない快晴に気付き、一息つけた。

先客は一組のみ、慣れないお店は開店から行くのが良い。

テーブル席に案内され、決めていた注文を告げる。

アリランチャーシュー、大盛り。

アリランというのは朝鮮にある伝説の峠らしい。

峠越えの英気を養う一杯をという想いがその名に込められている。

玉葱が茶色のくたくたになったやつがラーメンに載っている。

なるほどこんな切り方もあるのかと思わせる、ダイス状である。

碗にはさらにチャーシューが五枚載っている。

期待通りというか予想以上に柔らかいチャーシューに、にんまりである。

だが、麺自体は平凡な醤油ラーメンだ。

変だな、しまった、期待しすぎたのか。


自棄食いでもしそうな荒んだ心を、ラーメンが癒してくれた。

これが、見た目に反してくどくないのである。

この甘みは玉葱か、近所の平凡な町中華では絶対に出せない深みだ。

茹で過ぎ御免とでも言いたげな麺すら、価値あるものになってくる。

チャーシュー、玉葱、麺の食感が統一されていて優しい。

優しさか…平凡な、優しさ。


尖ったラーメンばかり食べてきた、そんな気がする。

今日だって、尖ったヤツを信じてやって来たのだった。

でもそれが期待外れなんかじゃなく、贈り物でも渡されたみたいだ。

行って、帰って、文字にして。

分からないから、書く。

それが今は楽しい。

【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #007 戸隠 奥社前なおすけ【ONLIFE】

なぜ何も無いのではなく、何かが在るのか?

違う、何もでもなければ、何かでもない。

なぜラーメンが無いのか。

ラーメンが無いならば、ラーメンドラゴンボウルも無いのか。

そこに無ければ、無いのだ。


では、何があるのか?

そこには痩せた大地があった。

だが、高く険しい山岳が連なった。

魅せられた人々が集ってきた。

やがて寺が建ち、宿坊が出来、集落が起こる。

千年以上前には歌枕として知られる名所となった。


そこは長野市戸隠。

九頭龍伝説を起源に持つとも、岩戸が高天原から投棄された先とも伝えられる。

戸隠にラーメン屋さんは無い。

お蕎麦屋さんがあるばかり。

規模や範囲は小さいながら、博多にあるのが豚骨ラーメン屋さんばかりであるのと同様か、それ以上かもしれぬ。

ラーメン屋さんの無さ加減は徹底しているからである。


戸隠山のふもとを戸隠と呼ぶが、ここ一帯に五つの社が点在しており、まとめて戸隠神社と呼ばれている。

社には、岩戸伝説に由来する神々が祭られており、修験道の霊場としても名高い。

蕎麦巡りに合わせて、五社巡りもすれば知食共々満たされるだろう。

さあ一緒に、神秘が見え隠れする、雄大な自然と文化に触れる一歩を踏み出そう。


まず、長野県道七十六号長野戸隠線、北端の坂の突き当たり、宝光社からスタート。

いきなりで恐れ入るが300段弱の石段に出鼻をくじかれそうになる。

夏場午前の木漏れ日は涼やかだったのだが、汗と息切れが吹き出す。

ここに祭られているのは天表春命(あめのうわはるのみこと)。

参拝後に杉林の中の神道を歩いていくと、近所に火之御子社。

御存知、天地開闢以来最も有名なダンサー、天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祭っており、芸能に関してはこちらに参るのが大原則。

ここの社は五社の中で最も控えめな印象で、参拝のお客もまばらなので良い。


この後、表通りの坂道を登りながら商店街を行き過ぎ「越後屋商店」で真澄を購入する。

入店して左手に冷蔵庫が三台あり、その真ん中下段にあるのが、かつて「みやさか」今は「真澄 出荷年」と銘打たれた美味しいお酒だ。

女将さんは切っ風のいいお方で

「それは美味い酒ですよ」

「酒の味、知ってるね」

なんて言って、良い機嫌にさせてくださる。


坂道を登り切れば中社正面大鳥居。

樹齢九百年と言われる天然記念物に指定されている堂々たる三本杉が脇にあり、今までとの規模の違いは一目瞭然だ。

このすぐ近所にあるしなの屋さんでお蕎麦を召し上がれ。

戸隠という土地柄、どのお店で食べたってお蕎麦は美味しい。

東京では戸隠蕎麦の名をたまに見かける程度だが、本場では「ぼっち」という小分けになってざるに盛られている。

どのお店で食べたって美味しいのだから、店舗ごとの差異はサービスの蕎麦前に出る。

おしんこやらかりんとやら種々様々なのを、しなの屋さんが出すのは蕎麦饅頭。

餡子のはいった小ぶりなやつに、甘じょっぱいタレがぺとっと塗られていて、クセになる。

手土産に買って帰ることもできるが、日持ちしないので宿で夜のつまみにする。


付近のお土産屋さんを物色したら、中社で合格祈願や商売繁盛を。

ここには岩戸伝説の参謀、天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)が祭られており、近辺の繁盛ぶりも含めて個人的に好きな場所だ。

中社から次の奥社までの距離が開いているので、県道36号を登っていき、そばの実さんのすぐ手前を鏡池に向けて折れる。

鏡池の景色は大河ドラマ真田丸のOP冒頭で使われていて、大パノラマと言って良い。

丘にあるどんぐりハウスさんでガレットというのも、お蕎麦の違った楽しみ方だ。


続く先は自然散策道の表示に従って、真っ直ぐ随神門へと進む。

大門は朱に彩られ、屋根は茅葺き。

その威容は、先にある約二キロの杉並木と好対照を為している。

暗く、静かで、日本が誇る幻想風景の中でも屈指の静謐さが身を包む。

二百段を越す石段の最上段にまず、地元で信仰されている九頭龍を祭る九頭龍社があり、少し上に奥社がある。

奥社に祭られているのは、天手力雄命(たぢからおのみこと)。

ここでは必勝祈願を行う。

当然のことながら、帰り道は下りなので助かる。

石段を降り、下り坂気味の杉並木を抜け、随神門と大鳥居の向こうには県道がある。


県道へ出てすぐのバス停からバスに飛び乗れば…。


ここで満を持してラーメンドラゴンボウル、神々しさを後光に伴い、降臨。

随神門の先、大鳥居を出てすぐあるのが、奥社前なおすけさんである。

お品書きからのおすすめは、

葱の香る熱いつけ汁に鴨のお肉や舞茸がごろごろと入った、鴨ざるそば。

山葵より強烈な刺激がクセになる、辛味大根おろしざるそば。

海老、野菜、きのこの盛られた天ざるそば。


ラーメンは無い。

なぜ何も無いのではなく、何かが在るのか?

ラーメン屋さんの無さ加減は徹底している。

そして、戸隠という土地柄、どのお店で食べたってお蕎麦は美味しい。

ならば、このお店がラーメンドラゴンボウル足り得る理由も無いのだ。


ある、理由ならば。

お蕎麦しか無いにもかかわらず、ラーメンドラゴンボウルは存在している。

それは、お品書き筆頭の対を為す、激辛鴨ざるそば。

赤い、激辛の名に恥じぬ赤いつけ汁。

辛い、激辛の名に恥じぬ、思わず唸る辛いつけ汁。

増量のために十ぼっち追加したら、全てまとまってざるに載ってきた。

これが辛い。

食べる手を休めると口の中がひりひりしてくる。

だから、辛さを抑えるためには次々に口へ運ぶ必要がある。

辛いから手を止められない、手を止めないのは美味しいから、美味しいから辛い。

破綻した理論を展開する脳髄は、もはやその思考スピードが、お蕎麦を手繰る動きに追いついていない。

そこに無ければ、他所にも無い、唯一の逸品。


パスタ、ピザなら小鳥の森さんが良い。

岩魚と高原野菜の和風パスタ、おっとこれ以上変わり種ラーメンドラゴンボウルは増やせない。

ちょうど字数も尽きた。

【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #006 稲毛 炭よし【ONLIFE】

「俺は、お前が切っ掛けになって、俺達三人の友情が終わるんじゃないかと思ってる。」

先日、こう言われた。

ことの発端は、今から遡ること一三八億年前、いや、宇宙の起源にまで遡る必要はあるまい。

我々の問題解決にカントの助力を得ようと欲するならば話は別だが、彼もまた第一アンチノミーに突き当たって因果律が破綻してしまうことになる。

そう、ことの発端はごく私的な問題で、今流行の歌手の歌を流すのを止めてくれと要請したのを、冒頭の発言の主が聞き咎めたのだ。

その男にはこう弁明した、大きな失恋から立ち直れないでいて、その女性がよく聴いていたんだ、と。

二十年来の付き合いの友人は、すぐに私の“ある種の例え話”を察したらしく発言を撤回してくれた。

 

以上の話から二つの議論がなされる。

一つは、これからラーメンを食べるのにカントを持ち出す馬鹿があるか、という判り切った、つまり議論の余地のない議論(それを洒落とか冗談とか与太とかいう)。

もう一つは、大切なものを失ってから嘆く馬鹿があるか、という我々が繰り返し陥る、つまり繰り返された議論(それを友情の決裂とか失恋とか喪失とかいう)。

後者に関して、我々は先にも述べた通り、カントの助力を得ずとも我々自身で解決に至った。

友情のように壊れやすいものは、大切に扱いさえすればいっそう壊れなくなるという、誰もが知るであろう事実の再共有だけで、我々の友情はより強固になったと信ずる。

ただ、逆上せていた私が、恋だの愛だのも喪失しやすいものであると知るのが後になったまでのことだ。

 

今日探し求めるラーメンドラゴンボウルは、すでに喪失してしまったお店である。

 

先ほど、ラーメンを食べるのにカントを持ち出す馬鹿があるか、などと口走ったがそれに似たような粗忽者を知っている。

我々三人がシェアハウスをしていた頃、その家の空き部屋にもう一人入居してきたのがその男だ。

何せ、引っ越しするのに行き先も聞かず、車に荷物を詰め込んだのだから。

で、後部座席でこんな話をしたらしい。

「どこら辺に行くの?」

「イナギ(東京都多摩地域南部)だよ。」

行き先も聞き、道中二人は運転手を尻目に与太話、車が向かう方角が西ではなく東だったと気付くはずも無い。

ついた先は、稲毛(千葉市北部)だったから、二十三区外とはいえ都内に住めると思った男は大いに動転し、行き先を伝えたKもそんな聞き違いに腹を抱えて笑ったという。

 

まるで落語の枕のような話だったが、そこ稲毛に伝説の店舗があった。

駅から徒歩十分強のシェアハウスから最も近いラーメン屋さんが三件。

行列のできる家系、地域密着型のタンメン、そしてそのお店、炭よし。

行列に並ばず、タンメンは食べずの私が選ぶのは当然、炭よしさんだ。

私は部屋に週一度しか顔を出さないので、ある日提案されて這入った。

座右に拝してあるのは、平凡な「醤油トンコツ」の中華そばだったが。

 

「何だ、このメニュー。」ロマンチストのKが惹かれたようだ。

「面白いね、それ頼も。」本文冒頭の発言をした男も話に乗る。

「じゃ中華そばにする。」私のこんな所が癪に障るのだろうか。

 

端麗なイメージの中華そばからは遠い、トンコツ醬油の深い味わいに間違いはなかった。

いや、間違いだった、両名とも眼を剝いて彼らが注文した一杯を激賞している。

私も蓮華で一口頂くと、そこにあったのは鶏ポタージュとしか言い様の無い、濃厚かつ鮮烈な味わいのスープだった。

どろどろの粘性スープは口の中一杯にへばりつき、鶏そのものの香りが鼻へと抜ける。

これは、加熱した鶏がその形状を保てなくなって、どぷんとゲル化した生命の一杯だ。

他店ならば嬉しい肉感の豚チャーシューですら、この碗の中で存在感に疑問が生じる。

海苔めんまホウレン草にさながら家系を連想、花弁の様な白ネギはしゃなりと優しい。

どんとこいや 炭よし :https://minkara.carview.co.jp/userid/602368/spot/709923/

全世界の鶏白湯が単なる白湯に帰してしまうほどに空前だった。

鶏白湯として提供された訳では決してないのだから当然なのだが。

惚れ込んでから何度も食べようとしたが、店主の体調不良とやらで不定休。

もともと稲毛を拠点とした活動に私が参加していたのは週に一度きり。

そして僅か数ヶ月後に突然の閉店を迎える。

鶏ポタージュとして文字通り絶後の一杯は、伝説となった。

 

伝説には噂が付きまとうのが常である。

曰く、マスターは千葉の錚々たる名店を渡り歩き修行していた。

曰く、茹でたてのうどん、揚げたての天ぷらを出すお店だった。

うどんは三百円、天ぷら五十円だったというのだから、店舗周辺での需要と受容があったかどうか疑問なのだが、それにしても安い。

 

曰く、うどんに加えて、長州ラーメンを提供するようになった。

曰く、二〇一二年末(およそ十年前になるとは!)の再オープンを機に、ラーメンのみを提供するお店となった。

にもかかわらず、お客からの要望でうどんの限定提供を再開した。

我々が越して来たのが二〇一四年五月、再オープンから一年半後のこととなる。

 

曰く、以前はカレー屋さんの経験もあるらしい。

曰く、カレーにチーズを溶かして炭の香りをつけていた。

ちょっと何を言っているのか分からない。

そしてその技術をラーメンに転用したメニューも作っているらしい。

 

以来私は、ほんものの鶏ポタージュを食べていないし、目にすることもない。

面影を探して注文した鶏白湯ラーメンに、落胆することなら繰り返している。

今回、この記事を書くにあたって、その美味を伝えきることが出来なかった。

数度だけ食べた感動よりも、喪失した感傷に浸ってしまうのだ、どうしても。

もう朧げなあの味の影を追いかけて、私は関連するウェブサイトを渉猟する。

私はどうして、死んだ我が子の年齢を数える様な真似をしているのだろうか。

そんな風に考えて涙が出そうになり、ラーメンドラゴンボウルを取り落とす。

 

「我々は国宝を永遠に失ってしまったのだ。」

冒頭の発言者、TechnoBreak Shunメンバーが、昨日私を慰めた。

 

【参考一覧】

食べログ 炭善(掲載保留)(4件の口コミ、2012/03再オープン前にうどんを出していた情報が唯一見られる、2012/08再オープン前に長州ラーメンも出していた情報もあり)

https://tabelog.com/chiba/A1201/A120104/12028267/dtlrvwlst/

 

ラーメンデータベース 醤油トンコツらーめん 炭よし(6件のレビュー、2014/01/11鶏塩に「命のラーメン」と記載有、感動の92点)

https://ramendb.supleks.jp/s/66252.html

 

Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E- 炭よし(炭善)@稲毛 千葉の名店を渡り歩いた店主さんが満を持して開業!(2013/03/19お店の背景が詳細に記載されており、資料としての価値が第一級、gooblogの更新頻度も非常に高く今回好きになりました)

https://blog.goo.ne.jp/sehensucht/e/a8041291c24c6dd5447290c58f29bc40

 

Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E- めん屋いとうけ@稲毛 炭よし跡地に家系LIKEな濃厚ラーメンのお店が登場!(2014/11/03炭よしさんが短命でかつ、塩チーズが美味という事を裏付ける内容)

https://blog.goo.ne.jp/sehensucht/e/daaef556f9e0bf37d0a9a4b1bf4b5f71

 

お水をどうぞ 炭よし@稲毛の『中華そば』(2013/03/23鶏塩がリリース時はライトで女性向けだったというのが面白い)

http://blog.livedoor.jp/mostly_benten/archives/1765245.html

 

お水をどうぞ 炭よし@稲毛の『鶏塩ラーメン』(2013/03/23上記記事の直後に注文の連食、コクのある鶏白湯だったという)

http://blog.livedoor.jp/mostly_benten/archives/1765256.html

 

続おもしろラーメンブログ 炭善@稲毛(塩チーズ)(2013/02/16塩チーズの秘術と未知なるカレーの存在に震える)

https://ameblo.jp/yokozunayokozuna777/entry-12476052903.html

 

どんとこいや 炭よし(2013/12/01夏前に来店した記事だというが、鶏塩に“鶏ポタージュ”の記載がある唯一のもの)

https://minkara.carview.co.jp/userid/602368/spot/709923/

 

cafefreak 失敗しない稲毛でのラーメン屋さん探し!食べたくなったら急げ!(2016/01/08稲毛のラーメン事情を俯瞰できる)

https://cafefreak.jp/6337

【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #004 木場 來々軒【ONLIFE】

ラーメンのアタマにお野菜は不要だ。

これが私の基本的視座である。

無論、嫌いなわけでも食べられないわけでもない。

不要だと思っているだけで、イデオロギーではない。

人間の主体的思考の枠組みを犯すから、イデオロギーは大嫌いだ。

だから、お野菜は必要に応じて頂く。

 

そんな私だから、担々麺を食べに出向く事はあっても、わざわざタンメンを食べに行く事はない。

ただ一軒を除いて。

そのお店は、東京都江東区にある。

ちょうど、東西線の木場駅と東陽町駅との境。

駅から歩く、秘境とまではいかないが、行列のできる一軒である。

 

來々軒さん、木場タンギョウ発祥の名店。

大通りを折れた路地に元々あったお店が、廃業を機に、木場タンギョウ文化の荒廃を憂いた気鋭の愛好者に継承した復活店なのだ。

タンギョウとは、タンメンとギョウザのセットのこと。

いつもの自分に戻ったかのように、食券を複数購入して着席。

心機一転、今回の記事に関してはご案内させて頂こう。

今、手元にある食券は六枚。

 

タンメンのアタマが盛られた小皿が、カウンター上に置かれるのでそこへ向かう。

これがアミューズ。

そう、アミューズ。

初手、餃子、瓶ビール。

アペリティフがすぐに来る、この日はハートランドにした。

ここには飲みに来ているので、アタマをおつまみにしてビールを飲み干す。

アタマには、かなり辛めの自家製ラー油をかけて頂くのが良い。

運が良ければ、女将さんからアタマのお代わりを勧めてもらえるので、それを受ける。

この辺りで餃子が運ばれる、その数五つ。

 

次手、白ワイン。

そう、白ワイン。

こちら來々軒さん、継承者の御子息が、なんとワインソムリエの資格を持っているのだ。

だから、こちらでは入荷さえあれば、かなりこだわりのその日のワインが提供される。

すなわち「木場にヌーベルシノワが存在する」のだ。

来店前にワインの有無を電話で確認しておきたい。

 

オードブルのギョウザを三つほどツマミながら白ワインを愉しもう。

だがその前に、さて、ギョウザには何を付けるか。

「蒼天航路」では劉備本人が饅頭で、諸葛亮がタレに喩えられたが、すぐに水と魚では如何かとたしなめられた。

そのタレの問題である。

 

私は、ギョウザを食べさせるのに凝ったタレは必要ないと思っている。

醤油の入った容器を眺めながら、酢だけに付けて食べれば良い、チャーチルがマティーニを飲んだ時の様に。

お店でタレが無ければ食べさせられないようなギョウザを出すというのは、すなわち堕落だ。

私は滅多に作らないが、自分で手作りしたギョウザが一番美味しい。

餡の下味次第で止まらなくなるほど美味しくなる。

時間がなくてスーパーで買ってきたのを家で焼いた場合には話は別だが(家ではポン酢に付けています)。

 

來々軒さんには鎮江香醋が置かれている。

小林秀雄の「蟹まんじゅう」ラストに出てくるあれだ。

南翔饅頭店の白磁に入ったあれだ。

流石だ、ヌーベルシノワはこうでなければ。

無論、普通のお酢やお醤油も置かれている。

 

話が逸れたが、ギョウザが冷めてしまう前にかじりつこう。

カリリ

という音がするのに驚く。

皮は透き通っているのに弾力があって、もっちりとした食感が楽しい。

しかしながら、焼き目は非常に軽快である。

餡の旨味は言うまでもない。

都内で一番美味しい餃子を出してくれるお店なのだ、とアプリオリに察知する。

鎮江香醋のコクがさらにギョウザを引き立てる。

ラー油は、マティーニグラスに添えられたオリーブ程度の量が良い。

 

決手、赤ワイン、チャーシュータンメン、大盛り。

残りのギョウザと赤ワインのマリアージュを満喫しながら、タンメンの到着を穏やかな気持ちで待とう。

果実味の爽やかな白に対し、この日の赤は渋味が軽やかで豊潤だった。

他所なら平気で一杯千円以上取られるだろう。

このギョウザの焼き手が、ソムリエでもあるのだから、これはもう頭の下がる思いだ。

そして、楽しい時間は一瞬で過ぎる事を証明するかのように、タンメンは意外に早く到着する。

ふんだんな野菜の間から、厚みある丸チャーシューが何枚も顔を覗かせている。

一口で食べてしまい、赤ワインの残りを飲み干す。

これをアントレと言うのは乱暴すぎるだろうか。

このお店でフレンチのコースが完結すると言ってしまっては。

ポワソンもソルベも無いが、それはどうでも良い事だ。

コーヒーは他所で頂こう、そうしなくたって構わない。

野暮の極みの差し出口だが、トッピングにチーズなんていかが。

 

チャーシュータンメンをタンメンに換えて仕舞って、頂きます。

中太麺がするり。

アタマのお野菜は、塩気ある茹で加減でしゃっきりとしている。

そう言えば、私は塩ラーメンを食べにいく事がない。

そんな理由からでも、こちらはラーメンドラゴンボウルなのだ。

タンメンの湯の字が、優しい塩気のつゆにとなってあたたかい。

 

酔いが回って心も軽くなっているかのようだ。

これで気の利いた事の一つも言えないようではいけない。

來々軒さんが美味しい理由は何故かって、タンメンだけに丹念に作っているから。

ギョウザほど出来が良くない冗談なだけに可笑しい。

タンギョウはタンギョーとの表記揺れもある。

それもまた可笑しい。

【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #003 ラーメン二郎 仙台店【ONLIFE】

有名観光地然としたラーメン屋さんへいく時は、一時間も待たされるのが嫌なので、開店の三十分前から待つようにしている。

その日は四十分前に着いた。

先頭が一名、これがありがたかった。

私はこのお店に這入ったことがなかったためだ。

そんなわけで、私はラーメン二郎仙台店さんの閉ざされたシャッターを見ていた。

 

物心つく前に七夕を見て以来、ここ仙台には奇妙な縁で惹かれている。

社会人になって以来、だいたい二年に一度は深夜バスで行くのだ。

文章を書くのに良い環境だと判明したため、これからもっと行く頻度が増えそうな気もしている。

この時の縁も奇妙だった。

 

「語り得ぬものについて人は沈黙せねばならない。」

で有名なヴィトゲンシュタインがその奇縁を取り持った。

あの超然とした断定と、およそ人間離れした言動にヤられて、著作なぞろくに読んでもいないのに引用したりを当時した。

そのツイートが文学界で一、二を争うほどのヴィトゲンシュタインマニアである諸隈元さんの眼に留まり、滅多につかないイイねがついた(実際には、その作家さんはヴィトゲンシュタインに関する全ツイートを可能な限りチェックしている流れなのだろうが)。

で、氏がその頃ちょうど、仙台旅行をしており色々な報告を呟いていた。

 

#どうでもよくない仙台情報

ここに、沈黙は破られた。

彼は怒涛のように吐露している。

「仙台で一番驚いたのはラーメン二郎 滅っ茶苦茶っうまかった」

「脂に頼りがちな都内の二郎に石油みたいな臭みを感じるのに対し、醤油のキレが効いてる神奈川系二郎を好む主因もそれ なのに仙台二郎では脂に蠱惑された」

「食べ物の中では世界一好きなのが関内二郎なので、その確信が揺らいだのはショックでした、、」

 

ヴィトゲンシュタイン、仙台、ラーメン二郎…点から線へ、私はそこにラーメンドラゴンボウルの存在を確信し、現地へと発った。

 

十二月の仙台である。

天候と日差しに恵まれ、日中はさほど厳しい思いをせずに済んだ。

花京院のホテルから、吉良吉影の邸宅があるとされる勾当台公園を見物。

石畳が眼に華やかで、広々とし、僅かばかりの家族連れは豊かな時間を過ごしていると分かる。

その後通りをぐっと折れ、広瀬通へ出、そこからは伊達氏代々の居城であった青葉城方面へ向けてずんずん進む。

仙台広し、三十分以上歩いて来た。

十時五十分着、お店の向かいのレンガに腰掛けて待つことができるのがありがたい。

 

前に並んでいた中年男性の後に続いて食券を買う。

初めて入る、系の付かない本物の二郎さんだ、緊張している。

今は、食欲なぞ度外視である、美味しく食べて幸せに帰るのだ。

私の食欲、この日は謙虚。

小で他店の特盛、大で他店の特盛二杯と言うこと程度の事前情報はある。

鰻重とアタマの大盛りで十分な私である、これくらいは特盛の範疇だろう。

 

では、そろそろ私も沈黙せねばならない。

対立のために食事しているわけでは無いのだ。

小ラーメン、それと気になったキムチ。

最奥から詰めて、行儀良く座っていく我々。

行列はすでに、長蛇になっていた。

 

すると常連らしき人が

「豚ないですか?」と訊いた。

店主らしき人が

「ありますよ!」と応じた。

前日の仕込みにも関わらず、食券機に反映させていなかったようである。

「えー、なら今からやろうよ!」

急ぎ、食券機は本来あるべきメニューを取り戻し、以降のお客さんたちは豚を注文できるようになった。

チャーシューが三枚増えて、五枚になる。

 

それを聞き咎めた先客が

「こっちもイイですか?」と食い下がる。

店主らしき人

「もちろんです!差額(百円)置いてください!他にいらっしゃいますか?」

ゾロゾロと手を上げていくお客たち。

当時、私は豚の差額が百円である事を知らず、幾ら払えば良いのかも分からなかったので、俯いていた。

我ながら新米の感に堪えず、流石に悄気たか。

 

さて、素人ならばせずとも良いと言われるコールと相成る。

「ヤサイヌキ、ニンニク、アブラ」

初回でヤサイヌキと言うのは、邪道と言われても仕方ないのではなかろうか。

だが私は、タンメンでも注文させていただくとき以外、九割がた野菜の類は無しにする。

挙句、にんにくジェノサイ道の求道者としてニンニクもアブラもマシマシにしなかったのは、外道である。

あぁ、全てが、感慨深い。

 

その一杯は、乳化したスープがキラキラと輝いているようだった。

キムチの赫がポール・セザンヌ然とした存在感を放っていた。

うどんのような確たる麺とだけ対峙したかったから、ヤサイヌキにして良かったのだ。

その味は、鮮烈だった。

濃い味は嫌いだ。

しかしながら、舌を刺すような快感が先走った。

このラーメンを批判する者は居るまい。

居たとすれば、それは…

さて、折角だからここで、もう一度ヴィトゲンシュタインにご登場願いたい。

「少なからぬ人々は、他人から褒められようと思っている。人から感心されたいと思っている。さらに卑しいことには、偉大な人物だとか、尊敬すべき人間だと見られたがっている。それは違うのではないか。人々から愛されるように生きるべきではないのだろうか」

私は誤りに気付いた。

褒められたい、尊敬されたいという気持ちでいたのかも知れない。

そういう姿を見せられる側は、良い気がしないだろう。

私自身も見せられているから。

 

褒められたい、尊敬されたいという姿はさながら、愛されたい、愛されたいと苦しんでいる姿に見える。

なればこそ、その姿が愛おしいと思える。

何も言わずに抱きしめたいような気持ちになる。

あなたと私は一つだけれど、あなたは私を見ていない。

 

LIFE WITHOUT LOVE IS LIKE JIRO WITHOUT GARLIC

まるで関内二郎さんのスローガンのようである。

私は近々、また仙台店さんへお邪魔して、小豚ラーメンキムチ生卵麺半分ヤサイニンニクアブラマシマシを頂くつもりだ。

【人生5.0】Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #002 カップヌードル カレー【ONLIFE】

あぁ、好きなものばかり無限に食べたい。

濃い味の食事、脂ぎった大皿を何度もお代わり。

それを、コカコーラの何倍も甘いようなビールで流し込む。

ビールに飽きてからは、蒸留酒も良いが、香り高い日本酒やワイン。

右手に盃、左手はベタついたチーズを鷲掴み。

何も我慢していないから精神衛生は至上、それ故に病気にならない。

こんな空想が私の食欲を突き動かし、しばらくの間だけ自由になれる。

 

最近は追い飯という名で市場拡大を目論んでいる、ラーメンライス。

私はあまりこれをやらない。

ラーメンのスープを完まく(家系ラーメン屋さんの符牒でスープ飲み干しの事)するのは身体への塩分負荷がかかりすぎる。

他人の倍食べ続けたいから、塩分だけは摂取量を極力気を遣う必要ありだろうとアプリオリに感じているためだ。

 

そんな私でも、必ず飲み干すカップ麺がある。

カップヌードル カレーだ。

これは名前がすごい。

カップに入った麺、だからカップヌードル。

日本人なら好きだろうどうだ、とばかりにカレー。

 

ウォルコット・O・ヒューイ氏が

「ラーメンはやっぱりカレーラーメンに限りますな。」

という風なことを言っていたのにも頷ける。

そんな啖呵が切れる日本人はそうそう居ないのではあるまいか。

トランスバールにも居やしまい。

好きなものは好き、という人が好きだ。

彼は店舗カウンターで啜っていたが、そういったカレーラーメンで勝負しているお店がなかなか無いのが残念である。

お蕎麦屋さんでカレー南蛮も悪く無いのだが。

 

しかし案ずるなかれ、我々日本人にはカップヌードル カレーがある。

いや、とうの昔に世界規模の存在になっていた。

これらシリーズは、日本で生まれた世界初のカップ麺だからだ。

歴史のifを空想することが何かを生み出すと言うことも今更あるまいが、この命名がもしもカップラーメンであったならば、今ほどの規模の売り上げがあったのであろうか。

 

最後の一滴まで飲み干すことを望むよりも、“Wish you were here”一緒にご飯が無かった時に、目蓋から流れ出る涙はカレーより熱い。

追い飯と言うより、ラーメンライスと言うより、カレーライスが出来上がる。

当たり前のことだ。

日本人なら好きだろうどうだ。

玉ねぎが微塵切りになったようなのが良い香りをさせるからたまらない。

律儀に三分待って出来たばかりのカレースープよりも、麺を食べ終えた瞬間のスープの仕上がりが一番良い。

食べている間にかき回しているから、濃度が均一になって満足である。

希薄なスープから始めて、濃厚スープへ仕上がる。

その最高潮のところにご飯を。

ア◯リカンホームダイレクト。

生のまま突っ込むご飯はDead or Alive、生死を問わず。

炊き立て、冷飯どちらも美味い。

今回は空腹だったため、入れるご飯の量を口いっぱいギリギリまで入れてみたのだが、これだとちょっと薄味になりすぎて物足りなく感じる人が多いかと思う。

量を取るか、質を取るかなのだが、麺を食べ終えた時点でのスープの水準までご飯を入れるのが一番良い塩梅になるだろう。

 

カップのフチに口付けして、箸を使ってかき込むカレーライス。

これが食べにくい、それが良い、それで良い。

私の身体に流れているインド人の血が騒ぐ。

いや、一滴も流れてはおらぬ。

にもかかわらず、血が騒ぐのだ。

国民食の一つカレーライスがそうさせる。

 

問われている、だが何をか。

これはカレーか、ライスか、ラーメンだったものなのか。

すなわち私はインド人か、日本人か、中国人だった者なのか。

私は地球人であるとは宣言できぬ、先祖はずっと日本人。

そうだ、私は人間だ。

だからこそ、何度でも言おう。

人はパンでは生きられない。

 

だからラーメンスープはここぞという時、完飲する。

なりたけの超ギタに加えて、カップヌードル カレー。

ライスを入れたにも関わらず、完飲するとは諧謔だ。

私はここに宣言しよう。

カレーは飲み物、ラーメン汁物、麻婆豆腐は離乳食。

【人生5.0】Junの一食一飯 #012 こってりらーめんなりたけ Junのラーメンドラゴンボウル(碗) #001【ONLIFE】

ウルトラネガティブとハイパーポジティブを併せ持つ、エクストリームニュートラル。

私の意匠はこれである。

換言すれば、右も左も均しく斬り捨て、我が身も捨てる、そんな意匠だ。

孔子はこれを中庸と呼んだに違いないのだが、私のような小人には実践できぬと明言している。

「国を平和にすることも、無給で労働することも、白刃の上を歩いて渡ることもできる。それでも中庸だけはなかなか出来ない」と言う風な事を、孔子先生は言っているから。

確かに頷ける、なぜなら私が注文するラーメンは必ずこってりで、均しくあっさりを注文することはなかなか出来ないから。

 

千葉で見初めて、津田沼に通い、飲んだ〆には池袋、はたまた駅前錦糸町、いつか行きたいパリ支店。

こってりらーめんなりたけさんだ(あんまり好きだから以下、敬称略)。

あの福岡西新にも支店があり、営業を続けていると言うのだから驚きである、一寸信じられない。

コンビニのカップ麺にも進出したようで、ご存知の方も多いのではあるまいか。

私はこのお店で十代の身体に焼ごてで刻印を受けた。

はたまた、刺青代わりの刺白と言うべきか、そのくらいに背脂こってりなのである。

 

なりたけのカップ麺は、蓋の上で後入れ背脂を温めておくのだが、仕上げに容器へ入れる際、一寸引いてしまうくらいの量が出る。

これが不思議なことに、お店で食べる際には抵抗がなくなる。

即席とはいえ、この料理—そう信ずる—は自分で作るものでは無いのだと確信する。

自分で作れないから外で食べる、これが外食の醍醐味であろう。

 

船橋から幕張の中高へ通っていた私が初めて食べたのは、同級生のゲーセン仲間に千葉店へ連れて行ってもらった時だ。

当時、貯めた小遣いのほとんど(と言っても昼食代五百円で百円の大きなプリンを一つだけ買った残金)をアーケードゲームの仕合に費やしていたから、電車賃のかかる千葉まで出る機会なぞ滅多に無かった。

また、それまで通っていたラーメン屋さんも一軒決め打ち、魚介だしの醤油ラーメン屋さんだけだった。

だから、都会にはとんでもない食べ物があると、味覚中枢の根幹に衝撃を受けた。

右脳と左脳との裂け目にめり込んだ背脂ツルハシは、私の人格をこってり極右へと大転向させたのだ。

以来、世間一般では背脂ちゃっちゃ系と言うのだろうが、なりたけはなりたけである。

 

普通のらーめんで十二分にこってりなので、騙し討ちを食らう羽目になるかもしれぬが、店名にはっきりとこってりと書かれている。

あっさり志向の方ならば「背脂なし」とか、少なめの「あっさり」を頼むと良い。

背脂の紫色した甘みに脳を焼かれた諸氏ならば、「ギタギタ」で。

私の場合はこれを「超ギタ」にして、大盛り、バター(酔狂で付ける)、もやし抜き(茹でてあるのは水っぽくなるため)、薬味(輪切りの葱の事)多めが基本だ。

気分でチャーシューとライスをつけて定食風にする事もある。

 

「超ギタ」とは、スープが無い代わりに其処にあるはずのものが全て背脂になっている代物である。

半ばこちらの我が儘を聞いて貰って作って頂いているようなものだから、これは飲み干さねばならぬ。

他店さんの張り紙だが、油そばのカロリーはラーメンのほぼ三分の二、塩分は約半分という説があるようだ。

あとはなりたけさんの超ギタを油そばと呼ぶかどうかだけなのだが、それは我々の胸三寸で決まる。

何、背脂の量は自分で選べるではないか、それだって我々の胸三寸だ。

 

「月(にくづき)に旨(うまい)と書いて脂となります。」

と書き出された、良く出来た嘘のような貼り紙がされている。

超訳すれば背脂サイコー程度の意味だろう、それには同感である。

しかしながら、説明の程度としては「土の下に羊を埋めて幸せ」のレベルなのだが、この説は真実だろうか。

旨いとは何か。

 

もう、普通のなりたけなぞ思い出せぬ、一度も注文した事は無かったのかも知れぬ。

近所にお店があって、気軽に行けるなら、普通を頂く機会もあろう。

しかし、私がなりたけに行くのは心が渇いているときだから、飲み歩いた〆に「超ギタが食いてえ!」と吠えるのだ。

普通のなりたけが食べたい、でもなりたけに来たら超ギタが食べたい。

そんなわけで今回も超ギタを注文させていただいた。

運ばれてきたお碗は、一面を蓮の花のように広がったチャーシューが覆い隠しており、とても良い。

この下に、お釈迦様がその蓮が咲いた池から見下ろした、地獄のような超ギタ背脂が溜まっているのだ。

蜘蛛の糸は必要あるまい、中には中太麺がとぐろを巻いて、引き上げられるのを待ち受けている。

卓上のにんにくをたっぷり入れるのを忘れずに。

 

啜り込んだその麺はもちもちとしていて、何より甘い。

ひ、ひ、ひ、思わず下卑た笑いが心の中で巻き起こる。

突き抜けている、全てが脂であるならば、これは全てがスープという事だ。

突き抜けている、普段ならば身体が拒絶するような塩辛さが気にならない。

比較の対象がないから脂も塩分も知らぬ、それほどまでにこってりしている。

人はパンでは生きられない。

イエス様だって息を吹き返し、輪になって踊るだろう。

 

狂気と狂喜が入り混じった食事を終えてからふと気付いた。

食券を何枚渡したのだったか。

チャーシューめん、バター、ライスの三枚、三枚だ。

しまった大盛りを押し忘れていた。

大盛りは百円で麺が二玉になる。

道理で食後の満足感を、切なさが上回ってしまうわけだ。

私は錦糸町駅改札に入った後で、何とも言えぬ切なさを感じていたのだった。

 

そうか、総武線で船橋の手前、本八幡で降りてそこのなりたけへ這入ろう。

どうせなら今度は人生初の普通を食べてみよう。

らーめん、普通、もやし抜き、薬味多め。

私が一番頻繁に通うラーメン屋さんでも「超こってりで。」と注文するが(もう先方で先に確認を取ってくれる)、なりたけの普通には遠く及ばない。

本来あるはずだったスープは熱く、とても美味しかった。

 

普通が一番美味しい、一食一飯の締め括りに相応しい気付きだった。

 

せっかく八幡へ来たので京成駅前のDue Italianで白いらぁ麺を食べて帰った。

【人生5.0】Junの一食一飯 #011 かつや【ONLIFE】

この頃、幸せとは何か、考えさせられる機会が多い。

その際はこんな観念がしばしばまとわりつく。

人はどうして、他者に向けて自分を良く見せようとするのだろうか、と。

見下されると、所属する集団の中で待遇が悪くなるからか。

そんな集団と決別し、一人孤独に、自足した時間を過ごすのは険しい道なのだ。

 

あるいは、良く見せようとしているつもりは無いのかも知れぬ。

にも関わらず、私の目にそれが見栄として映っているのかも知れぬ。

本人は、本当の自分をありありと開示しているのだ。

本当の自分?自分とは何か。

 

ほんの少し硬い話が挿し挟まってしまって、糸楊枝でも欲しくなるかな。

歯痒く感じさせてしまっただろうか、それならば申し訳ない。

少しばかり考え込んでしまったのだ。

と言うのも、一食一飯は次回が最終回だからである。

 

そんな折、「孤独のグルメ」漫画版第一話をたまたま再読して驚いた。

と言うのも、たかだか四ページの中に、人が孤独を享受しつつ幸せに生きる為に必要な力が点在していると気付いたからだ。

発言力、問いを立てる、洞察する姿勢、察知、関連付け、内省、自己肯定、例える力、共感などである。

詳細は別の機会に感想文でも書こうと思うが、今回の一食一飯に関わる点を一つだけ取り上げよう。

 

主人公、井之頭五郎の内言

『うーん…ぶた肉ととん汁で、ぶたがダブってしまった』

である。

これは先述の「関連付け」にあたる。

換言すれば「括る能力」であろうか。

この能力は日常生活の因数分解のみならず、その中を独自性で彩色することも出来る。

提供された料理からぶたという共通因数を括るのは、主人公ないし作家の特徴がなせる業だ。

目の前に並んだ料理という“物”が、介在する人物の心情を通過して語られる事で“物語”となる。

 

だからこそ、今日の一食一飯はとん汁を取り上げたい。

とん汁変更ではなく、はじめからとん汁で出してくれるお店がある。

そして、そこのとん汁がとても美味しい、包み込んでくれるような優しさを感じる。

かつやさんである。

 

ただしかつやさん、『とん汁とライスで十分』というわけにはいかぬ。

そのようなものは無いし、私の食欲が満足するということにもならぬ。

だが、どうしても意識せずにいられぬ。

トンカツととん汁で、ぶたがダブってしまうという事を。

 

最初から其処にあったものを、人は山などと呼ぶ。

孤独のグルメの重力場から逃れるということは難しい、非常に。

さりとて、かつやさんが期間限定で放つ

「ほら、揚げれば何でもカツにできる」

と言った体のメニューに乗っかるのは安易に過ぎる気もする。

 

こんな時は、水のように清らかな心で居れば良いのだ。

こんな時は、酒のように朗らかな身体で踊れば良いのだ。

何でも来るといい、カツなら何でも食べられる。

槍でも鉄砲でも持ってこい、揚げれば何でも食べられる。

 

大袈裟は良くも悪くも私の特徴的なところである。

来店早々メニューの表紙には、期間限定で親子カツなるものが掲載されている。

これはチキンカツを卵とじにしたものだ。

高校の部活帰りに寄った肉の田川さんを思い出す、堂々たるジャンボチキンカツだ。

ぶたがダブる懸念は早々に払拭された、注文する。

白いご飯が好きだから、親子カツ煮定食の方を。

 

しかし、同じくトンカツチェーン店の和幸さんと異なり、ご飯のお代わりが出来ない。

和幸さんでは、特ロースご飯一択だから、一食一飯になり得ない。

これほどまでに立派なチキンカツを、お茶碗一杯程度のご飯で平らげるなど、変態食欲の私には出来ない。

ただ空腹が満たされれば良いというわけでは無い。

ならば一番手ごろなカツ丼の梅を注文と洒落込みたい。

カツ煮をおかずにカツ丼を食べて仕舞え。

うん、こうしてチキンカツ煮とカツ丼を食べ比べてみると、肉々しさは鶏肉の方に軍配が上がっても良さそうなものである。

美味しくて、瑞々しくて、大きく食べ応えがある。

一切れ頬張ってから、カツ丼を掻っ込む。

で、そこへ、とん汁をすする。

とん汁は四十円追加で大きいサイズにしてある。

 

回転寿司の活美登利さんも全く同じ味のとん汁を提供する。

それが何だと言うのだ。

仙台の牛タンは大概が豪州産であるのと同じくらい私には関係がない。

私たちは先人から受け継いだ文化を食べているのだから。

思い出を食べているのだから。

小林秀雄は言ったか、上手に思い出すことは非常に難しいと。

ならば私は、せめて美味しく思い出したい、そう思う。

 

私の、俺の、僕たちの脳髄に、肺腑の中心にある何かに、きっとそれは心の根っこに、思い出が群がり湧き起こる。

あれはいつだったか。

職場内のチームで幸せとは何か議論「させられていた」時のこと。

どうしても道化を演じる気分になれず、私は黙って静観していたのだが、それに乗じて「金が全て」と強硬な主張を押し通そうとする者がいた。

その男の険しい目元が、それを演じているのではなく信じているのだという事を、疑う余地のないものにした。

私は気分が悪くなってきていた。

 

俺は

「物質を買うより、自分で作った方が幸せだと思う」と溢すと、彼は笑って

「それはちょっと分かる」と言った。

苛まれていた何かから解放されたような、あの安心したような表情をまだ覚えているから、僕は敢えて自分で作らず外で食べる。

【人生5.0】Junの一食一飯 #010 社員食堂【ONLIFE】

社員という言葉には、輝くという意味がある。

私は私の人生の舞台の傍観者ではない。

できる限りこの人生を喜劇的かつ諧謔的に主演を勤め切ってやりたいと思う。

脚光を浴びて、称賛されたい、誰かのために生き、そして死にたい。

Shineは「死ね」と書くのだと、誰かの揶揄する声が聞こえる。

そんな非難は笑い飛ばしてしまえば良い。

大学を卒業してから一途に同じ企業に勤めている。

居心地は自分に合うように多少良くする事ができた。

録でもない事が起こりでもしない限り、勤め上げたいと思う。

自分の会社のために尽くすのは、世のため人のためになると信じている。

そんな私がここの社員食堂に通うのは、週に二度ほどだろうか。

 

営業中に時間が取れず食いっぱぐれてしまう。

日替わり定食がハンバーグとか、青椒肉絲とかそういうのだとあまり食指が動かない。

単に外食へ誘われたりということもあるし、この頃は自前で弁当を持っていく機会も増えた。

それでも貴重な三食の一角、月始に張り出される今月のメニューはほとんど毎日見遣っている。

社食不精の私だが、厨房のお姉さま方からは覚えが良い。

いつもご飯大盛りで頼んでいるので、普通盛りで注文すると驚いた顔で聞き返される。

 

どこにでもあるようなチェーン店で一食一飯を書いてきた。

今回は世界に一つの社員食堂だが、どこにでもあるような社員食堂の話。

私がよく注文させていただく食事について書く。

 

まず、何よりも唐揚げだ。

おかずに物足りなさを感じたときに手軽に追加できる。

というか、これしかほとんど選択肢が無いのだ。

完全なる自由を求めると、畑の土地探しから始めねばならぬ。

これだけに制限されているということは、見方を変えれば幸福なのかも知れぬ。

 

入社したときには一つ三十円だったが、四十円の時期を経て、今は五十円になっている。

この調子で値上げが続けば、私が退職する頃には一つ百三十円ほどか。

お年を召された大先輩たちが社食を利用するときには

「ご飯半分でお願いします」

とよく言っている。

その歳になってから唐揚げ追加なぞ、もってのほかであろうか。

大盛りは五十円かかるのに、半分にしても五十円引きになるわけでは無い。

妙な工合(具合)である。

 

勝手に蕎麦定食と呼んでいるメニューがある。

日替わり定食やら焼肉丼に、追加でたぬき蕎麦を追加しただけのものだ。

二枚の食券を手渡すと『またか』という表情で苦笑いされることがよくある。

しかし、それは好意的な眼差しをたたえているいるから、私はこの社食が好きだ。

ただ、調子に乗って社食のお姉さまに

「蕎麦だけにお吸い物ですよ」

なぞと放言すると、本気で呆れられる。

ちなみに、このたぬき蕎麦には、調味料コーナーの七色唐辛子をビックリするくらいどっと入れてしまう。

これにも呆れられるが、実際美味しいし、顔も売れる。

 

先にも述べたが、いつもご飯は大盛りにしていただく。

たまに普通盛りを注文して聞き返されることがあるのだが、

「今日は他所でお蕎麦食べて来ちゃったので」

と応答し申し上げることがたまにある。

これにはこの頃『あぁ、どうりで』という優しい表情を返していただける。

お互い名も知らぬ男女である。

 

ご飯大盛りでは足りない時が必ずある。

日替わり定食が鯖の時だ。

オフィスでも上司やお姉さまから

「明日、鯖ですよ」

なぞと喚起していただけるのだが、たいがい

「もう食券買って予約してあります」

と応じている。

社食の予約をしている社員は他にいないから、笑われる。

笑われるのは道化の本懐である。

 

鯖塩焼き定食“普通盛り”の食券を出してお願いする。

案の定、お姉さまが聞き返す。

ちょっと戯けて、重ねておいた二枚目の食券を披露する。

ル・シッフルが最初の大勝負でショーダウンするときのように。

「おおっと、ははは、ブラフだと思ったかね」

両断された半身の鯖を二人前、単純に鯖一匹を食べることになる。

これだけあると、切り身を食べ終えてしまうのが惜しくなくなるから良い。

 

鯖の日はこれだけに止まらない。

その食後にテイクアウト二人前を注文する。

目を見開いて聞き返される、無理もない。

しかし、明日の朝と昼に食べる分をオフィスの冷蔵庫に入れておくのだ。

「本当に好きなんですねぇ、鯖」と口々に、呆れ半分畏敬半分のような表情になって雑談が始まる。

「あんまり好きすぎて、鯖の詩を作ったくらいですよ」

意外だったのだが、お姉さま方みなが、聞きたいと言ってくれたことだ。

諳んじたところ、たくさんの笑顔をいただけたのでこちらにも書いて仕舞いにする。

 

今日も鯖、明日も鯖、鯖鯖鯖鯖、鯖が好き

 

朝起きて、鯖食べて、回転寿司では、鯖で〆め

 

塩焼きだ、照焼きだ、手間暇かけた、鯖味噌だ

 

鯖缶は、大根煮、冷や汁にしても、イイ感じ

 

夕食は、お刺身だ、衣まとわせて、揚げ物だ

 

今日も鯖、明日も鯖、鯖鯖鯖鯖、鯖が好き

 

鯛が好き、鮪好き、それでもやっぱり、鯖が好き

【人生5.0】Junの一食一飯 #009 やよい軒【ONLIFE】

考えろ、考えろ。

俺たち人間て奴ばらにできるのはせいぜい考えることだ。

悩む前に考えろ、そしたら迷わず行動せよ。

時間が無ければ行動しながら考えたって良い。

土曜の昼食が毎週ラーメンではいけない、さりとてその隣にあるカレーというのも芸がない。

両方行くのはもう通用しない。

 

そんな中で、ちょうど思い当たったのがやよい軒さんだ。

身体はCoCo壱番屋さんとその隣にある家系ラーメン店さんの前まで来ていたのだが、考える力が、意志の力が勝利した。

流石アライアンスを代表するシステム、ピッチスペルである。

急いで身体を右へ九十度旋回し、少し先にあるそのお店へと向かった。

 

考えろ、考えろ。

相手はあのやよい軒さん、手強い定食メニューが勢揃い。

鯖か、唐揚げか、カットステーキも捨てがたい。

考えろ、考えろ。

悩む前に考えろ、そしたら迷わず行動せよ。

 

やよい軒さんはご飯おかわり自由だ。

そして、私はお腹がペコペコだ。

今日は濃い目の味付けで、ご飯をたくさん食べさせてくれる一皿にしよう。

鯖味噌か、生姜焼きか、茄子と豚肉の味噌炒めなぞはあるだろうか。

しかし、あれもこれも食べたい私の変態食欲を満たしてくれるのは、やよい御膳これも捨てがたい。

考えろ、考えろ。

今日の一食一飯、私個人対外食産業の決戦の様相を呈している。

 

そして行き着いた店頭に大きなポスター、カキフライミックス定食。

これだ!

外食産業から見舞われた強力なストレート。

季節のメニューに1ラウンドK.O.を喫した。

悔しくなったので、お茶漬け用のミニサバ小鉢を追加した。

塩焼きだ、照り焼きだ、手間暇かかったサバ味噌だ。

だから今日ならミニサバだ。

ご飯おかわり自由なのに、別定食追加なぞする必要がない。

 

食べたかった唐揚げも、ミニ唐揚げで追加しよう。

小鉢で彩りを添えるという、今までになかった選択肢に心が躍る。

大皿定食のお店はこうして私の食欲を満足させてくれるのか。

カキフライ三つと、エビフライ、アジフライ。

これらにはたっぷりタルタルソースを付けて食べたいから、も一つ追加して。

 

お味噌汁変更、貝汁か豚汁か。

いや、今回はやめておこう。

特に豚汁は、毎回変更しているとそういう人になってしまう。

変更しないという選択もアリなのだ。

いや、しかし、納豆汁にするのに納豆を買おう。

この提案は良し、群を抜いている。

 

あ、それとあと、〆にはササっと卵かけご飯にしよう。

ご飯おかわり自由を徹底的に逆手に取るのだ。

卵購入、追加はこれくらいで良いか。

食券の束が腸詰めみたいになってぞろぞろと出て来た。

こういう事ってあるのか、なんだか笑える。

結局、やよい軒さんは色々と食べる分にはイイ感じ感じ検定準一級だ。

これはかなりイイ感じ。

今回は注文しなかったが、牛肉のすき焼き小皿や、天ぷら小皿もある。

席に案内されてから改めてメニューを眺めていて吹き出してしまいそうになった。

定食メニューには「なす味噌と焼き魚の定食」という欲張りセットがあったのだ。

もちろん焼き魚はサバの塩焼きである。

あんなに考えていたんだから、総合的に判断して正解はこちらである。

 

考えていたにもかかわらずカキフライに飛びつくあたりが、人間の愚かしさ。

しかしながら、エビ&アジフライの助太刀があっては敵わなかった。

よくよく考えれば、単品でカキフライ二粒から追加できるのでそれでも良かった。

去年の雪、今いずこ。

されど、反省があるのは考えていた証拠だ。

 

さて、本日のランチがLaunch、榴弾みたいなカキフライ。

定食とミニ唐揚げについているキャベツを先ずそれぞれ食べる。

甘いお豆とか生野菜は先に食べ、メインばっかりでご飯を食べたい。

やよい軒さんのキャベツにかけられているゴマドレッシングは大好きだ。

これでご飯を食べたくなるような絶妙な味付けである。

 

解き放たれた獣のようにカキフライをタルタルソースで食べる。

もう三個全て無くなってしまった。

今やテーブルの上には、エビ&アジフライ定食が置かれているばかり。

山椒魚で有名な井伏鱒二はユーモアとペーソスの作家と言われるが、訳せば諧謔と哀愁という事になるから少し可笑しい。

エビ&アジフライ定食には諧謔と哀愁があった、確かに。

タルタルソースは予備がまだ一皿ある、これは頼もしい。

 

心を落ち着かせるために納豆でもかき混ぜようか。

お味噌汁の中に入れて、よし、これで落ち着いてご飯のおかわりに行けるな。

接触厳禁の今を生きている我々に、文明の利器が優しく微笑んでくれる。

「ごはんおかわりロボ」である。

粘っこく青々した若葉のような優しさを、このロボットは文字通り振り撒く。

これで型式番号がED-209とかだったら苦笑しかしないが。

 

並盛にした二杯目のご飯を、ミニサバで掻っ込む。

もうなくなってしまった。

ミニサバはサバの半身の五分の一程度の大きさだからだ。

本来なら、出汁茶漬けにしてサバをほぐしてたっぷり楽しむためのものを、パッと食べてしまった。

呆けて納豆汁をすする、美味しい。

食べてしまったサバを嘆いても仕方ないので、唐揚げをパクつく、美味しい。

 

しまった、テーブルの上が閑散としている。

エビ&アジフライ定食になってしまった。

注文しすぎたものはことごとく眼の前に無いので、元々何だったかも判然とせぬ。

判然とせぬままに残されたものも食べた。

最後に卵かけご飯だけが残ったが、それも食べてしまった。

人生の縮図であろうか。

 

【人生5.0】Junの一食一飯 #008 珈琲所コメダ珈琲店【ONLIFE】

咖喱の後には珈琲を飲む。

この二つをセットにしているイメージは何処で植え付けられただろうか。

新宿か新橋か、まあそんな所だろう。

前回、CoCo壱番屋さんで咖喱を頂いた。

無論日を改めてではあるが、珈琲を飲みに行こうと決めた。

向かうのは珈琲所コメダ珈琲店さんだ。

 

よく見かける記事には、その質量感に圧倒されて、敗北感と共に退店という一連のクリシェが出来ている。

変態&異常の二重属性を食欲に擁する私には、何、恐るるに足りぬ。

だが念のため、朝食はコンビニおにぎり二つにしておいた。

何も食べないままでは、日課のランニングに障ると判断したためだ。

 

二日前の土曜、会合の後オフィスの寝袋で寝た。

職場泊は二年ぶりだろうか。

間の悪いことに、明くる日曜が工事のため、守衛さんが来てしまった。

騒ぎとなったらしく、朝八時ごろ血相を変えた部長がオフィスに来た。

寝巻きがわりの運動着姿で仕事をしていた私は事情を説明し、小言を貰った。

 

凹んでいても仕方がないので、日曜はやることを済ませて夕方に退社。

親友のKが珍しくLINEを寄越し

「御茶ノ水の蕎麦屋が閉店しててショック」

と言っているので、合流して慰める。

金曜から三日連続で飲んでいる事になる。

聞けば、閉店したのは小諸そばさんだという、私もショックだった。

 

そして、今朝は月曜、いつも通り朝一番に出社して部長に頭を下げた。

お咎めなし、円満解決し、ニコニコで今ランニングに出かけたところである。

身体が軽い、心が清々しい、そろそろお腹が鳴りそうだ。

そんな私を察してか、部長がその日の三時過ぎに丸亀製麺さんのうどん弁当、秋刀魚の天ぷらが載っているやつを差し入れてくれた。

昼食に摂るなら白いご飯も欲しくなるが、おやつには丁度良かった。

 

さて、そんなおやつから遡る事、五時間前。

私は珈琲所コメダ珈琲店さんに居た。

出された水はすぐ一息に飲んでしまった。

ランニングしてシャワーした後だったからだ。

早すぎる昼食、何にしようかと固唾を飲んでいる。

 

入店までの困難もあった。

朝のすき家さん、日高屋さん、プロントさん、松屋さん、富士そばさん。

ランニング後の私はビールが飲みたくなっていたのだ。

さらに、コメダさんのすぐそばには、孤独のグルメにも出ていた有名な飲み屋さんが開いている。

何のためにランニングをしたのだと自分に言い聞かせて、今、コメダさんのメニューと対峙している。

 

しかし、一択だ、やはり。

ヒレカツ、金貨が五枚載っているかのようではないか。

迷宮の男さながらである。

さっきから白いご飯が食べたくてしょうがない。

丸パン二つでは心許ない思いがする。

ここで欲をかくから失敗するのはもう見飽きているのだ。

つまり、サンドイッチに手を出せばバースト、ミックスサンドをぐっと堪える。

 

これなら行けるだろうと探したのは、エッグバーガー。

メニューの上からシールが貼られている。

店舗での取り扱いなし。

ロスト!!

ご飯は無い、ヒレカツ以外にも食べたい、しかし食べきれませんでしたというオチは避けねばならない。

 

ユリイカ、これだ。

コメダグラタン。

珈琲は、たっぷりアイス。

押しボタンで店員さんを呼ぶ。

それぞれ注文し、お水もお願いする。

シロノワール食べたいけど大きいんだよな、小さいサイズだと取材に来た意味が無くなるしな、なんて考えながら。

 

「コーヒーにはモーニングが付きますがいかがしますか?」

「はっ、何ですか?」私はちょっと身構えた。

「こちらのページのモーニングがセットで付きます」

「えっ、た、タダでですか?」私は身を乗り出した。

「はい」まだぎこちないアルバイト店員さんの笑顔が眩しい。

「わっ、やった」私は小躍りしてそのページを睨んだ。

 

コメダ珈琲店さんを利用するのは、バンドの打ち合わせ時ばかりだ。

モーニングの存在は全くの盲点だった。

というか昼食を摂りに来たのに、モーニング?

良いのだ、朝十一時までは珈琲にセットで付くのだから。

尾張魂の徳高さに触れた想いがする。

 

厚切りの食パンが縦半分に割かれたトースト。

Aセットは定番ゆで卵、Bセットは手作りたまごペースト、Cセットは名古屋名物おぐらあん。

シロノワールは注文しないが、Cセットにすればデザートの代わりになる。

そちらをお願いし、トーストにはジャムを塗って頂いた。

たかだか、トースト一切れでバーストなどありえぬ、渡りに船だ、皿に毒だ。

他には、バター、練乳ソースなどがあるという、至れり尽くせりか。

Aセットが気になったので、ゆで卵を追加注文した。

 

さて、しばらくすると、続々と料理が運ばれて来た。

いよいよ最後に、グラタンとセットのバゲットパンの籠なぞは、テーブルに載りきらず、整頓する間しばらく膝の上に置いておいた。

二種類のドレッシング、私はしょうゆではなくオリジナルの方を使用する。

そして、籠にはフォークが一本。

箸が欲しい。

店員さんに訊くと、その拍子に白いご飯はないか訊きそうになるのでやめた。

サラダを平らげて、いよいよヒレカツ。

最後の一枚になって冷めてしまっては興醒めだから、時間との戦いだ。

幸いにも、グラタンは熱い容器に納まっているので、時間差で食べ進めて行けば良い。

二枚目のヒレカツでもう上顎を火傷してしまったのはご愛嬌。

口の中は私のアキレス腱である、どのように鍛えても鍛えきれない。

ええいままよ、とグラタンを味見。

チーズたっぷりでとっても美味しいが物凄く熱い、そっとしておこう、当分冷めるまい。

 

さて、つい気になって注文した茹で卵だが、殻を剥きながら着想あり。

これにオリジナルドレッシングかけて食べたら、擬似タルタルソースになるぞ。

茹で卵を半分に切り、断面にドレッシングをかける。

ヒレカツに追っかけていただく。

ひ、ひ、ひ、思わず下卑た笑いが心の中で巻き起こる。

ロビン・フッドがいねェなら——ロビン・フッドになればいい。

 

丸パンは十字に切り込みが入れられ、バターが載る。

この数を二つに設定したのはコメダさん絶妙だ。

もっと食べたくなって陥穽に転落するのが後を絶たない。

案ずることなかれ、コメダグラタンとバゲットで応じる。

仕舞いにデザート代わりのモーニングトースト。

 

会計を見て珈琲が余計だったと思ったから何にもならない。

【人生5.0】Junの一食一飯 #007 CoCo壱番屋【ONLIFE】

誰も出勤しない休日のオフィスに唾を吐き捨てる代わりに、銚子のビジネスホテルで缶詰になって仕事をしてきた。

晩にはお刺身、焼き魚、煮物、揚げ物が出され、朝は焼き魚と卵とお味噌汁。

昼食時だけ外を出歩くのも格好の気晴らしになる。

普段、往復の通勤時間に充てる三時間はベッドで寝ていれば良い。

キッチンが無いから作りながら飲む事ができないのがまた良い。

その代わりに飲みながら仕事が出来る、これは家ではなかなか難しい。

なので毎晩したたか飲んだ。

 

木曜の晩から日曜の朝まで、そんな生活にとっぷりと浸り、あともう一日泊まりたいという気持ちを堪えて帰路に着く。

千葉駅まで二時間かかる電車の中でも仕事をしながら、では昼食を何にしようか考えていると、いまひとつ仕事が手につかぬ。

挙句、前日は真夜中まで映画を見ながらハイボールで、ほとんどひと瓶空けてしまった。

喉の渇き、胃のむかつき、嫌な汗、二日酔いの喜びが満身に結晶している。

だからカレーが食べたい、無性に。

酒飲みなら誰にでもある様なこの経験が、カレーは飲み物という至言を生んだのではあるまいか。

勘違い行楽気分への絶縁状、ハロー日常、バイバイ旅情。

 

ラーメンなら毎日のように食べるくせに、カレーが食べたくなるのは思い出したようなときくらいだ。

誠意を欠いた付き合い、反省せねばなるまい。

でも、ラーメン屋さんはコンビニくらいあるのに、カレー屋さんはお花屋さんくらいしかないじゃないか。

この男、どうやら反省していない。

誠意を欠いていたのは付き合い方ではなく、この男の性根の問題だったらしい。

真っ直ぐに歪んだ心を、しかしそう簡単には変えられない。

半ベソをかきながらCoCo壱番屋さんへ這入った。

 

手近なところでリキを入れるためにあいがけというのはもちろん効果的だ。

大学の目の前にあった三品食堂という所は、牛めし、カレーライス、カツライスの組み合わせでやっていて、午後の講義を乗り切るために注文する赤玉ミックスは学生当時一番の贅沢だった。

だが、今までの漫文に書いた通り牛丼屋さんでは、𠮷野家さんは牛、松屋さんはカルビ焼肉、すき家さんは混ぜのっけ朝食、カレーが割り込む余地は基本的にない。

おそらく、これら三店舗の中で、一番頻繁に行くお店であればカレーを注文することもあるだろう。

それならば、CoCo壱番屋さんは、一体何が違うのだろうか。

CoCo壱番屋、その本質は一体何か。

答えはシンプル、カレー屋さんなのである。

だが、果たしてそれだけだろうか。

 

メニューにはカレールーが五種類から選べる(CoCo壱番屋さんはこれをソースと表記している)。

ポークが基本で、ビーフは割増料金だ。

こういった時は、松か竹か、迷わず高い方にするのだが、ポークカレーが好きなのでここは身を委ねる。

ライスの量は、表記を勝手に並盛り中盛り大盛り、それ以降は一括して特盛りと捉えて大盛りにする。

それに呼応してお玉二杯分のルーを追加する。

辛さについては長くなるので、調整なしが良かろうとだけ記しておく。

これで未だ千円超えていないのは小学生でも計算できることだ。

観えて来たのはイイ感じ未来予想図、私の心の眼に映る。

 

しかし、CoCo壱番屋さんの本質はカレーの調整に小回りが効くということでは無いと観る。

心の眼で観ているイイ感じ未来予想図が鮮明になる。

そうだ、これは半分だけ真っ白いキャンバスなのだ。

今こそ私は、カレー色の大海原を目の前に見据え、しかと踏みしめるこの白い砂浜に、素敵な物だけたくさん集めよう。

CoCo壱番屋さんの本質は、シンプルにカレー屋さんであるということ。

なればこそ、そのカレーを半無限の自由度で創造出来ることもまた本質。

問われている、私のデザイン思考が。

 

CoCoで会ったが百年目、迷わず冬季限定の牡蠣フライだ。

これが怒りの牡蠣Fury。

Haben Sie ein Zimmer frei?

私は迷わない、悩むこともない。

考えているからだ。

もしも間違えたらその非を認め、また考えれば良い。

だが待て、私はトッピングのメニューを見てもいない。

牡蠣フライは良いとして、考えずに決めていたではないか。

もしも間違えたらその非を認め、また考えれば良い。

そうだ、問われているのは、私のデザイン思考。

 

しかしどのページを見ても、トッピングのコーナーが無い。

というか、土台みな同じカレーなのだが、上に載せるものだけアレコレ変えるだけで何ページにもなるというのは圧倒的な自由度の表れだ。

このメニュー、しかと目を通して考えねばなるまい。

トッピングのコーナーは大食い元お笑い芸人(灯台下暗しに掛けたつもりだが、石塚英彦さんは現役のお笑い芸人さんである)、ルーの種類やライスの量を選ぶページ下部にそっと載っていた。

 

悩んでいてもはじまらぬ、ここは食べ歩きの直感を信じて選んでしまおう。

有れば注文の牡蠣フライ、意外と安値のビーフカツ、ついつい追加でクリームコロッケ、牡蠣フライ用にタルタルソース、カレーの恋人半熟タマゴ、とっても嬉しいオクラ山芋、チーズで美味しいおまじない。

そう、こと食事に関しては、食べながら考えたって良い。

運ばれてきた一皿は半分白いキャンバスから、だいたい茶色い絵画になっていた。

何処だチーズは、ルーに溶けてしまって確認が難しい。

これは美味しい海洋汚染、清濁併せ呑む時だ。

これは後で知った事なのだが、というより今書きながらメニューを見ていて気付いた事なのだが、ライスを増量するとその分のルーも増加するという。

だから、運ばれてきた一皿を見て、チャレンジメニューのように思われた方々も無理からぬことである。

しかし、私の目の前にあるのは、私自身には他と比較する仕様が無いのでそのまま美味しく頂くことができた。

今更、カレーの味をどうこうと論ずるのは無意味であろう、カレーは美味しい。

ともかく、デザイン思考はresignすることに決める。

【人生5.0】Junの一食一飯 #006 すき家【ONLIFE】

シン・エヴァンゲリオンを観てすぐに気が付いた事がある。

碇シンジは、誰に対しても好意を伝えることに怖気付かなかったのだ。

作中、何度も「好き」と発言する彼に、ちょうどその頃の自分が重なった。

こんな私でも、誰かを、いや接点のあるすべての人と、好感から始まる関係を構築したいと思っているからだ。

子供は「好き」なんて照れ臭くて、言ったほうが負けという観念に支配されている。

当たって砕けた事もないからそうなる、砕けてそのまま腐っているからそうなる。

 

そんなわけで、私は

「好きです、すき家」

というキャッチコピーを前々から良い言葉であると思っていた。

好きと言うのは勇気が要るものだ、強さが必要なのだ、大審問官のラストなのだ。

なればこそ、すき家さんに対して反発したい人がいるであろうことも理解できる。

おそらく、先方も初めの頃は店名が照れ臭かったから、車で行くような立地に出店して我々と距離を取っていたのではあるまいか、好きと言うのは勇気が要るからだ。

でもこの頃は、街を歩いていてもよく見かける。

好きと言うのに抵抗がなくなったというのであれば成長の証拠だと思う。

 

すき家さんとの付き合いは、この頃はじまってから、せいぜい五年程度になるか。

店内には高森浩二さんがパーソナリティを務めるラジオが流れ、合間には歌詞のほとんどが「好き」だけで出来たようなすき家のテーマ曲が差し挟まれる(最近はあまり聞かれなくなったか、耳に馴染みすぎて意識しなくなったかしらん)。

もしも私がバファリンならば、半分が優しさ、残り半分が猜疑心で出来ているような、頭痛に効かない紛い物商品だからこそ気付く事もある。

それは、この徹底的にハートフルな雰囲気が合わないという人もいるだろうという事。

その点で、すき家さんにはもっと人の心の暗い部分にも無言で寄り添えるような、ほんの少しだけでいいから懐の広いお店になって欲しいと願うのは無い物ねだりだとは思わない。

 

私がすき家さんにお邪魔するのは決まって朝食時、電車で寝過ごして別ルートから出勤する道すがら、バンドの打ち合わせで泊まった翌朝、休日にデパートが開店するのを待ちながら。

この時間に馴染みがある、毎朝ではないから特別な時間になる。

そして、朝食と言えばすき家さんではこれは、混ぜのっけ朝食だ。

すき家さんも、おススメ!と書いている。

ご飯大盛りにして、豚汁に変更して、牛皿も鯖も追加して、店員さんにはタバスコをお借りする。

小鉢に入った方の牛にタバスコをたくさんかけて、酸味を楽しむ。

これが出来るから本当に好き、大好きやと叫びたい。

そんな大声で店員さんに感謝の気持ちを伝えても迷惑な客になるから、ここに書き留めるだけにする。

鯖は水っぽいが美味しい、パサついたものを出されるより兆倍良い。

朝起きて、鯖食べて、回転寿司では鯖で〆め、である。

それと、塩分を非常に気にしているので、そこまで塩辛くないのが非常にありがたい。

悲しいかな、日常的なもので塩辛いものを口にすると、命の危険を直覚してしまう。

お魚は鯖、お肉はホルモン、これ以上の贅沢を望まないでおけば、世の中には美味しいものだらけだという事に気付く。

こんな主張でも十分贅沢だと言われるだろうか。

人はパンでは生きられない、脂がなければ生きていく気にもなれない。

 

お碗にはおんたまとオクラが入れられている、ここに好みで袋に入ったかつぶしを入れる、特製たまごかけしょうゆを垂らす。

混ぜのっけ朝食は、このお碗の中で混ぜて、ご飯に乗っけるというお店側からの誘導が読み取れるのでそれに従うことにする。

そうするとお碗にどうしても温玉の黄身がくっついてしまうので、少々もったいない気がする。

同じように卵かけご飯でも、もう随分長いことご飯にかけてから混ぜるのでなく、とき卵にしてからご飯にかけているからお碗につく分がもったいない気がしていた。

ならばこれを天使の塵と名付けよう。

ヘタに手を出してはならぬということだ。

【人生5.0】Junの一食一飯 #005 松屋【ONLIFE】

𠮷野家さんで御馳走を頂いたので、次は松屋さんへ伺うことにしたい。

今はなき船橋西武さんの真正面にあった、これも今はなき松屋さん(フェイスビル一階へ移転した)。

牛めしという商品名が当時の私には珍しく、こちらはお味噌汁が無料で付く。

高校生だった頃の私たちにとっては救いのようなお店だった。

価格競争真っ只中でお安い料金で提供してくれたし、当時の𠮷野家さんは戦場だという認識があったためだ。

例のフラッシュが理由だろう、フラッシュなんて衣類パンツなのではあるが。

 

松屋さんは定食メニューが充実している。

松屋世界紀行は記憶に新しい、シュクメルリ定食(ジョージア)、チキンカチャトーラ定食(イタリア)。

後続は無かったが、スウェーデン料理など出るか、今後に期待している。

回鍋肉定食、麻婆豆腐定食これらも都度出して下さる。

カレーは先代から変化があったし、ハンバーグのバリエーションも嬉しい。

これら期間限定商品には都会の風めいたものすら感じる。

サラリーマンになった今でも、私の救いであり続けるのだ、松屋さん。

嬉しい気持ちが湧き上がる。

 

いつか、津田沼の松屋さんで食事していた時、といっても高校生の時分であるが、おじいちゃんが何やら文句を言っていた。

豚汁に入っている里芋の数が少ないのだと言う。

当時、豚汁に入っていた具は、里芋も豚肉も、目分量でわんさか入っていた。

いつからだろう、里芋の数は二つ、豚肉もほんの少しに変わった。

私は毎回豚汁変更するのでその変化には気付いたものだが、不平等感を無くすと言うこともまた大切なことかも知れぬ。

小声で申し上げるが、里芋と豚肉は好きだから、また増えたら良いなと生涯思い続けたい。

私の変態食欲は一途な恋です。

 

飯田橋の小諸そばさんが閉店なさってからは、その真隣の松屋さんに這入って朝食を摂っていた。

前回の𠮷野家さんは、それに飽きて以降のことである。

カルビ焼肉定食、ご飯大盛りを注文することが多かった。

その頃牛めしに黒七味が付いた。

しばらくしてから小袋になったが、あの工夫は良いと思う、嬉しい限りだ。

 

その後に親友となった、とあるお肉大好きルポライターR女史は、牛焼肉定食をポン酢で頂くのがお好みだと言っていた。

私とは対照的な選択に尊敬の念を抱いた。

彼女も白飯党で、牛丼の類はつゆ抜きと言っていた。

さてそれでは、今回松屋さんに赴いて、何が食べたいかと言われると。

牛めしか、創業カレーライスか、ハンバーグか、いやそれらではなく定食なのだ。

期間限定商品というのでもなく。

 

そんなわけで、今回、そう久しぶりでもなく松屋さんへお邪魔して、いつもの定食をシンプルにアレンジした欲張り定食を注文しようと思う。

カルビ焼肉定食大盛り豚汁変更に、単品牛焼肉たったのこれだけである。

JunのレギュラーメニューにR女史のオススメを合致させた、いうならばJR定食か。

豚汁をつけたのは、なんというか、松屋さんの導きに従ったまで。

タダでもお味噌汁が付くというのに、お金を払ってしまうと、味わいが段違いの汁物を付けることができてしまうのだ。

塩分摂取を極力避けている私でも、こればっかりはもう戻れない身体になってしまったというわけか、悔しい。

𠮷野家さんでは二日酔いの翌朝でもなければBセット(お新香、味噌汁)を注文することは無いというのに。

松屋さん、いつからか卓上ソースからカルビソースが撤去されてしまっている。

注文の組み立てをああだこうだ考える割りに能天気な私は

『今日も切らしているんだろう』

と正式撤去を全く認めようとしていなかった。

一説には、店員さんに言えば冷蔵庫から出してくれるそうなのだが真偽不明。

カルビ焼肉のお皿にはお店から指示されている通りカルビソースを入れていたが、不承不承で焼肉ソースを入れざるを得なくなっている。

しかし食べてみると、人生初で注文した時につけ比べて食べたあの違和感が全く無い。

これはあれか、焼肉ソースの容器にカルビソースを入れているのではあるまいか。

あるいは、毎週せっせと取材と称した食事に出かけて、漫文こさえている私の舌が馬鹿なのか。

後者であろう。

だが私はチェーン店さんでは舌や頭で食事をしているわけでは無い。

料理は心、ご飯は喉ごし。

 

あ、定食の生野菜があった。

ごまドレッシングを適量かけて、全部食べる。

漬物などでもない限り、食事はお肉とご飯で良い。

この理屈で、回鍋肉も先にキャベツとピーマンを食べてしまう。

これをやると友人から白い目で見られる。

白い目で見られながら食べる白いご飯も美味しい。

変態食欲のなせる業か。

 

牛焼肉のお皿にポン酢を入れて、つけて食べる。

カルビ焼肉に比べて淡白なお肉に、酸っぱい味がついている。

酸っぱすぎて吹き出しそうになる。

カルビ焼肉と牛焼ポン酢は180°味が違う。

なんだこの酸っぱいお肉、美味い不味いではなく笑える。

家でしゃぶしゃぶを食べたってポン酢と牛であるには変わりないが、慣れていないというだけで結構な事件だ。

私にとっては最早カルビ焼肉が良い箸休めとなっている。

R女史はこれをいつも食べていたのかカッコいい、さすが香の者。

 

豚汁に関してはあまり書こうとは思わぬから、別の機会にする。

JR定食に関して言えば、通常のお味噌汁で十分という気がしている。

【人生5.0】Junの一食一飯 #004 𠮷野家【ONLIFE】

職場の最寄り駅出口すぐ横に𠮷野家さんがある。

毎朝そこへ這入って食事を済ませて出勤する。

そういうことが長く長く続いていた頃があった。

私は𠮷野家さんを尊敬している。

早い、安い、美味い。

それに加えて鰻が年中提供される。

味噌汁が高い、そこは大目に見る。

寛容になれる自分を認められる、そんなお店だ。

 

絶滅危惧種を頂くのはよくない。

でも売られてしまっている以上お救いし申し上げなければなるまい。

頼まれてもいないことを、まさに買って出る。

人生はハードモードを選びたい。

鰻と苦労は買ってでも…なんて言葉もあったか。

可愛い子には旅をさせ、私はいつまでも赤ん坊の弾力的な心を大切にしたい。

人の心は赤子のごときもの、とは宣長さんも言っている、それに賛同しよう。

 

いつも注文していたのは、鰻重味噌汁牛小鉢セット、ご飯大盛り、もちろんタレ抜き。

タレが好きな人は普通にお召し上がりください。

私は太く長く食べ続けるために塩分を諦めている、それだけである。

ちなみに𠮷野家さん、豚丼はタレ抜きができない。

タレに自信ありというわけだ、だから私は豚皿とご飯とを別々に注文する。

ホントは多分、レトルトパックからご飯に上げるのにどうしてもタレごとかかってしまうからなのだろう、邪推は私の悪い癖だ。

しかしながら、スタミナ超特盛丼ではタレ抜きができた。

調理場の方にはたいそう怪訝な顔をこちらに向けて頂けた、無理からぬこと光栄である。

 

この夏、酔狂で𠮷野家さん、松屋さん、すき家さんで鰻を食べ比べてみた。

ちょうど、どこか新興のウェブサイトで似たような企画をしていたからだ。

まぁ、あんまりどこも大差なかろうかと思う、尻尾が出てくるところもあった。

一枚盛りで注文したのが良くなかったか、まぁ当然だろう。

𠮷野家さんで注文するのは、満足度と値段のバランスをとって二枚盛りだ。

異常食欲のなせる業か、私の食事に朝晩は関係ない、バランスが何だというのか。

それでも社会人としてお酒は控える。

ドイツ人にあらざる私には止むを得ない仕儀である。

 

鰻はタレ抜き。

なればこそ、牛丼を頂くときにはつゆ抜きである。

だから今回の来店では、やはり牛丼つゆだくだくというのを試すべきだろう。

いや、自分の心のまま正直に告白する。

つゆだくだく食いてえ、と心が叫ぶのだ、私の身体を支配しているのは心だ。

ということで、この度、鰻重二枚盛りタレ抜きと、牛丼アタマの大盛りつゆだくだくを注文させて頂いた。

普段𠮷野家さんで牛丼を食べるときには、アタマの大盛りつゆ抜きと決めている。

お味噌汁は注文しないでおいた。

なぜって、つゆだくだくのこれはもう汁物だということに勝手に決めたから。

で、ここの鰻は簡単に左右に別れてくれるというのが特徴だ。

見た目には上下なのではあるが。

プロとコントラ(賛否)あるかと思うが、食べやすい大きさに別れてくれるのは良いことだとしておく。

皮目の焦げた味わいが強いのがもう一つの特徴だ、これも賛否あるだろう。

まぁ、そういうののためにお店にお邪魔しているわけではないので気にしない。

 

鰻にかけるために、山椒の小袋が付いてくるが、これを見て欲しい。

この「どこからでも切れます」を装って、ど真ん中に切れ込み一本だけが入っているこの小袋を。

この小袋には諧謔があると見るが、どうだろうか。

これは私の在り方ほどには及ばない。

私の場合は、諧謔を通り越して単なる道化だから。

それゆえ、この小袋のように在り方までをも強制されているというのには、同情の念を禁じ得ない。

いやいや、これ以上、𠮷野家さんの山椒小袋に自分を重ねるのはよそう。

破こうとして、真ん中から勢いよく開くと、中身が散らばってしまうので気をつけて欲しい。

お重の上で、慎重に開封することをお勧めする次第である。

 

鰻からご飯と一緒に頂く。

パリパリよりトロトロが好きな私は大好きだ。

で、追っかけて牛丼をざっとかっ込む。

ひ、ひ、ひ、思わず下卑た笑いが心の中で巻き起こる。

天使がラブソングを歌っている。

落ち着けローリン・ヒルよ、ここで紅生姜を頬張る。

これを繰り返す、笑いが止まらない、落ち着けローリン・ヒル紅生姜。

なんというか、もうカレーを食べている気すらして来た。

合間にグッと飲む水も非常に美味しい、カレーだこれは。

 

こうなると、鰻が美味しいのか、久しぶりに食べるつゆだくだくに感動しているのか、なんなのか一体分からない。

鰻は毎日食べるものではなかったのだな、不承不承ながら平賀源内に頭を下げる。

我々は、長いことAを考えあぐねた挙句、Bに行き着くというやり方もあると、そんな認識を持ってもよかろうと思う。

毎日鰻を食べ続けた挙句、鰻はたまに食べるのが良いと気付くような。

無論、やるやらないは別として。

そうこうしているうちに、狂喜のカレー定食はきれいになくなった。

胃袋の満足感を抱えてお会計を済ませる。

 

さて、かつての毎朝鰻生活は、筋トレ命、筋肉の権化みたいな大先輩から

「身体に毒だぞ」

とかなんとか言われ、長く続いた朝の幕開けは終焉を迎えたのだった。

だが、真偽不明のこんな発言に影響を受けることは、読んでくださった諸氏には無用のこと。

単に懐具合を気にして思い止まったまでである。

【人生5.0】スーパー美味しんBONUS #000.1【ONLIFE】

規約説明と本戦準備

初期美味しんぼは、幼稚園児に読み聞かせたって、どれほどの名作か彼らが理解する。

その目は力強く見開かれて、こう言うだろう。

「パパ!将来こんなクレーマーになりたくない!」

その通りだ。

あるべき物は、あるべき場所に、そうあらん事を。

手垢がつきすぎたというより最早、手垢でできた握り飯のような美味しんぼ評論。

私はこれに新たな可能性を見出そう。

私が主催し審判を下す、新たな究極対至高の対決によって。

俺と僕とが繰り広げる一騎打ち…。

初期美味しんぼ第三巻までのエピソードで。

東西、紅白、源平に別けての十二番勝負。

一勝負につき、一万円のささやかな賞金付き。

名付けて

「スーパー美味しんBONUS」

 

説明はここまでだ、私たちにこれ以上の説明は必要あるまいな。

俺「結局賞金ってのは、俺の財布から出るんじゃねえか」

僕「誘ってくれて嬉しいよ、ちょうど退屈してたんだ」

では、各自の陣営にエピソードを召喚してくれたまえ!

 

ただし、第一巻9話、第二巻8話、第三巻9話。

この中から、第1話「豆腐と水」は別格としてプロローグに使用した。

すると、残り25エピソードは奇数となり対戦に余りが生じてしまう。

よって、第一巻第9話をエピローグに使用すると前もって断っておこう。

俺「ふぅん、ババアの回ってワケね、俺たちにとっちゃまさに切り札だ」

僕「最強カードを一枚、合意の上で封じるのは競技に普遍性が増すかな」

 

運命のコイントスが私の手により執り行われる。

2007年のワーテルロー土産である。

ナポレオンの図柄、表。

先行は僕。

俺と僕はそれぞれ、光なき闇の問わず語りの主役をしていた人格だ。

無論、統合しているの主宰者はTechnoBreak Jun。

上手にやりさえすれば、人格の分裂は有効だ。

 

私から簡単に紹介しておこう。

 

先攻となった僕は、TechnoBreak Junのウルトラポジティブな面。

詩や文学、芸術一般を好む、相手の良さを褒める公正さが売りの聞き上手。

平日昼間の稼業では九割がた彼が担当するが、人前でお道化て見せることもある。

光なき闇の問わず語りでは、ブログを不在にして主にnoteで執筆していた。

 

後攻となった俺は、TechnoBreak Junのハイパーネガティブな面。

ブラックジョークを好む攻撃的な性格で、猜疑心の塊のような破滅系。

基本的に、気心の知れた関係に限ってしか現れないが、敵対者と喧嘩するときには矢面に立つ頼れる人格だ。

光なき闇の問わず語りでは、闇としてメインのブログ更新をしていた。

 

では、陣営にエピソードを迎え入れる、召喚フェーズに入ろう。

このフェーズでは、先攻がエピソードを一つ、次に後攻がエピソードを二つ、以降は二つずつ交互に陣営に引き入れていく。

先攻、僕は、まず第二話味で勝負を召喚。

二枚のジョーカーを抜いた今、スペードのエースを選んだというわけだ。

後攻、俺は、応じて十一話活きた魚、続けて第五話料理人のプライドを召喚。

エース級とまでは言えないが、強い絵札を二枚選んでいる。

最終的な召喚順は以下の通りとなった。

先攻 赤い究極陣営(僕) 後攻 黒の至高陣営(俺)
第一選択 味で勝負 活きた魚
第二選択 日本の素材 料理人のプライド
第三選択 接待の妙 寿司の心
第四選択 幻の魚 手間の価値
第五選択 ダシの秘密 料理のルール
第六選択 炭火の魔力 野菜の鮮度
第七選択 油の音 そばツユの深み
第八選択 平凡の非凡 包丁の基本
第九選択 肉の旨味 土鍋の力
第十選択 醤油の神秘 和菓子の創意
第十一選択 美声の源 思い出のメニュー
最終選択 昼メシの効果 中華そばの命

上記は、召喚フェーズの選択順であって、本戦の対戦表を表すものではない。

 

… もうこんな時間か…………寝足りないなァ。