この頃、幸せとは何か、考えさせられる機会が多い。
その際はこんな観念がしばしばまとわりつく。
人はどうして、他者に向けて自分を良く見せようとするのだろうか、と。
見下されると、所属する集団の中で待遇が悪くなるからか。
そんな集団と決別し、一人孤独に、自足した時間を過ごすのは険しい道なのだ。
あるいは、良く見せようとしているつもりは無いのかも知れぬ。
にも関わらず、私の目にそれが見栄として映っているのかも知れぬ。
本人は、本当の自分をありありと開示しているのだ。
本当の自分?自分とは何か。
ほんの少し硬い話が挿し挟まってしまって、糸楊枝でも欲しくなるかな。
歯痒く感じさせてしまっただろうか、それならば申し訳ない。
少しばかり考え込んでしまったのだ。
と言うのも、一食一飯は次回が最終回だからである。
そんな折、「孤独のグルメ」漫画版第一話をたまたま再読して驚いた。
と言うのも、たかだか四ページの中に、人が孤独を享受しつつ幸せに生きる為に必要な力が点在していると気付いたからだ。
発言力、問いを立てる、洞察する姿勢、察知、関連付け、内省、自己肯定、例える力、共感などである。
詳細は別の機会に感想文でも書こうと思うが、今回の一食一飯に関わる点を一つだけ取り上げよう。
主人公、井之頭五郎の内言
『うーん…ぶた肉ととん汁で、ぶたがダブってしまった』
である。
これは先述の「関連付け」にあたる。
換言すれば「括る能力」であろうか。
この能力は日常生活の因数分解のみならず、その中を独自性で彩色することも出来る。
提供された料理からぶたという共通因数を括るのは、主人公ないし作家の特徴がなせる業だ。
目の前に並んだ料理という“物”が、介在する人物の心情を通過して語られる事で“物語”となる。
だからこそ、今日の一食一飯はとん汁を取り上げたい。
とん汁変更ではなく、はじめからとん汁で出してくれるお店がある。
そして、そこのとん汁がとても美味しい、包み込んでくれるような優しさを感じる。
かつやさんである。
ただしかつやさん、『とん汁とライスで十分』というわけにはいかぬ。
そのようなものは無いし、私の食欲が満足するということにもならぬ。
だが、どうしても意識せずにいられぬ。
トンカツととん汁で、ぶたがダブってしまうという事を。
最初から其処にあったものを、人は山などと呼ぶ。
孤独のグルメの重力場から逃れるということは難しい、非常に。
さりとて、かつやさんが期間限定で放つ
「ほら、揚げれば何でもカツにできる」
と言った体のメニューに乗っかるのは安易に過ぎる気もする。
こんな時は、水のように清らかな心で居れば良いのだ。
こんな時は、酒のように朗らかな身体で踊れば良いのだ。
何でも来るといい、カツなら何でも食べられる。
槍でも鉄砲でも持ってこい、揚げれば何でも食べられる。
大袈裟は良くも悪くも私の特徴的なところである。
来店早々メニューの表紙には、期間限定で親子カツなるものが掲載されている。
これはチキンカツを卵とじにしたものだ。
高校の部活帰りに寄った肉の田川さんを思い出す、堂々たるジャンボチキンカツだ。
ぶたがダブる懸念は早々に払拭された、注文する。
白いご飯が好きだから、親子カツ煮定食の方を。
しかし、同じくトンカツチェーン店の和幸さんと異なり、ご飯のお代わりが出来ない。
和幸さんでは、特ロースご飯一択だから、一食一飯になり得ない。
これほどまでに立派なチキンカツを、お茶碗一杯程度のご飯で平らげるなど、変態食欲の私には出来ない。
ただ空腹が満たされれば良いというわけでは無い。
ならば一番手ごろなカツ丼の梅を注文と洒落込みたい。
カツ煮をおかずにカツ丼を食べて仕舞え。
うん、こうしてチキンカツ煮とカツ丼を食べ比べてみると、肉々しさは鶏肉の方に軍配が上がっても良さそうなものである。
美味しくて、瑞々しくて、大きく食べ応えがある。
一切れ頬張ってから、カツ丼を掻っ込む。
で、そこへ、とん汁をすする。
とん汁は四十円追加で大きいサイズにしてある。
回転寿司の活美登利さんも全く同じ味のとん汁を提供する。
それが何だと言うのだ。
仙台の牛タンは大概が豪州産であるのと同じくらい私には関係がない。
私たちは先人から受け継いだ文化を食べているのだから。
思い出を食べているのだから。
小林秀雄は言ったか、上手に思い出すことは非常に難しいと。
ならば私は、せめて美味しく思い出したい、そう思う。
私の、俺の、僕たちの脳髄に、肺腑の中心にある何かに、きっとそれは心の根っこに、思い出が群がり湧き起こる。
あれはいつだったか。
職場内のチームで幸せとは何か議論「させられていた」時のこと。
どうしても道化を演じる気分になれず、私は黙って静観していたのだが、それに乗じて「金が全て」と強硬な主張を押し通そうとする者がいた。
その男の険しい目元が、それを演じているのではなく信じているのだという事を、疑う余地のないものにした。
私は気分が悪くなってきていた。
俺は
「物質を買うより、自分で作った方が幸せだと思う」と溢すと、彼は笑って
「それはちょっと分かる」と言った。
苛まれていた何かから解放されたような、あの安心したような表情をまだ覚えているから、僕は敢えて自分で作らず外で食べる。