あぁ、好きなものばかり無限に食べたい。
濃い味の食事、脂ぎった大皿を何度もお代わり。
それを、コカコーラの何倍も甘いようなビールで流し込む。
ビールに飽きてからは、蒸留酒も良いが、香り高い日本酒やワイン。
右手に盃、左手はベタついたチーズを鷲掴み。
何も我慢していないから精神衛生は至上、それ故に病気にならない。
こんな空想が私の食欲を突き動かし、しばらくの間だけ自由になれる。
最近は追い飯という名で市場拡大を目論んでいる、ラーメンライス。
私はあまりこれをやらない。
ラーメンのスープを完まく(家系ラーメン屋さんの符牒でスープ飲み干しの事)するのは身体への塩分負荷がかかりすぎる。
他人の倍食べ続けたいから、塩分だけは摂取量を極力気を遣う必要ありだろうとアプリオリに感じているためだ。
そんな私でも、必ず飲み干すカップ麺がある。
カップヌードル カレーだ。
これは名前がすごい。
カップに入った麺、だからカップヌードル。
日本人なら好きだろうどうだ、とばかりにカレー。
ウォルコット・O・ヒューイ氏が
「ラーメンはやっぱりカレーラーメンに限りますな。」
という風なことを言っていたのにも頷ける。
そんな啖呵が切れる日本人はそうそう居ないのではあるまいか。
トランスバールにも居やしまい。
好きなものは好き、という人が好きだ。
彼は店舗カウンターで啜っていたが、そういったカレーラーメンで勝負しているお店がなかなか無いのが残念である。
お蕎麦屋さんでカレー南蛮も悪く無いのだが。
しかし案ずるなかれ、我々日本人にはカップヌードル カレーがある。
いや、とうの昔に世界規模の存在になっていた。
これらシリーズは、日本で生まれた世界初のカップ麺だからだ。
歴史のifを空想することが何かを生み出すと言うことも今更あるまいが、この命名がもしもカップラーメンであったならば、今ほどの規模の売り上げがあったのであろうか。
最後の一滴まで飲み干すことを望むよりも、“Wish you were here”一緒にご飯が無かった時に、目蓋から流れ出る涙はカレーより熱い。
追い飯と言うより、ラーメンライスと言うより、カレーライスが出来上がる。
当たり前のことだ。
日本人なら好きだろうどうだ。
玉ねぎが微塵切りになったようなのが良い香りをさせるからたまらない。
律儀に三分待って出来たばかりのカレースープよりも、麺を食べ終えた瞬間のスープの仕上がりが一番良い。
食べている間にかき回しているから、濃度が均一になって満足である。
希薄なスープから始めて、濃厚スープへ仕上がる。
その最高潮のところにご飯を。
ア◯リカンホームダイレクト。
生のまま突っ込むご飯はDead or Alive、生死を問わず。
炊き立て、冷飯どちらも美味い。
今回は空腹だったため、入れるご飯の量を口いっぱいギリギリまで入れてみたのだが、これだとちょっと薄味になりすぎて物足りなく感じる人が多いかと思う。
量を取るか、質を取るかなのだが、麺を食べ終えた時点でのスープの水準までご飯を入れるのが一番良い塩梅になるだろう。
カップのフチに口付けして、箸を使ってかき込むカレーライス。
これが食べにくい、それが良い、それで良い。
私の身体に流れているインド人の血が騒ぐ。
いや、一滴も流れてはおらぬ。
にもかかわらず、血が騒ぐのだ。
国民食の一つカレーライスがそうさせる。
問われている、だが何をか。
これはカレーか、ライスか、ラーメンだったものなのか。
すなわち私はインド人か、日本人か、中国人だった者なのか。
私は地球人であるとは宣言できぬ、先祖はずっと日本人。
そうだ、私は人間だ。
だからこそ、何度でも言おう。
人はパンでは生きられない。
だからラーメンスープはここぞという時、完飲する。
なりたけの超ギタに加えて、カップヌードル カレー。
ライスを入れたにも関わらず、完飲するとは諧謔だ。
私はここに宣言しよう。
カレーは飲み物、ラーメン汁物、麻婆豆腐は離乳食。