平日に休みを取って、のこのこと車を転がして、というよりは車に転がされるようにして、何をしてきたかと思えばラーメンを食べに行ってきた。
へぇ、車なんて運転できるんだ、という自分の声がする。
自慢にもならないような走行距離がかつては積み重なっていたものの、ハンドルを握る必要性から手放されてもう久しい。
公道の支配者という感情なぞ一切なく、単に交通法規の真面目な遵守者として、軽自動車の中で浅い呼吸をしながら過ごした。
一車線の一般道から高速道路へ乗り上げてからしばらくすると、あったなぁ、と思わず苦笑いしてしまうようなランドマークが右手すぐに見遣れた。
『時が流れる、お城が見える』だ。
人生斫断家とも評されたアルチュール・ランボーが生きていたころには、高速道路もその脇のラブホテルも在りはしなかった。
彼のような大反逆者が眺めた景色はどのようなものだったのか、今となっては想像するのも果敢ない。
『無疵な心がどこにある』遺された詩にはこう続く。
どこにでも在ったためしなぞなかったと断じてもよいが、永遠にそこかしこに在り続けるのだとも思いたい気持ちのほうが強い。
このあとしばらく道なりです、というナビの音声に安堵する。
『僕の前に道はある、僕の後ろに車はいない』
寝床の次に広いこの棺桶の中で、性善説が前提となるこの潮流に身を委ねながら、月並み程度の感想だがこの社会と、その奥に確かにいるであろう人とのつながりを感じた。
低速運転すなわち安全運転とならないのが面白い、久しぶりだから思い出した。
変化すなわち進歩とならないのと同じか、ゆめ忘るまい。
おそらく昼前に、ラーメンドランゴンボウルは七つ目が集まる。
身体に刻まれた記憶を頼りにぽつぽつと書いてきたが、最後はまだ食べたことのないラーメンを食べる冒険がしたかった。
シーズン2があるとするならば、博多のとんこつラーメン、道後温泉の屋台、北海道の鶏ポタージュ、まだ食べたことのないラーメンドラゴンボウルを探す旅に出たい。
今日はそれに向けての必要な旅支度だ。
九州、四国、北海道へ向かって。
その第一歩として、千葉県は房総半島のど真ん中へと車を走らせている。
この土地は利根川で本州から切り離されているから房総(半)島なのである。
島が誇る三大ラーメンのうちの一つ、アリランらあめんの八平さんを訪れる。
地図を見ただけで秘境感しかないのだが、それゆえに人気店でもあるようだ。
世界で二軒しか提供しているお店がないというのだから無理もない。
今朝調べると、しばらくは十時半から営業だという。
朝食(の袋ラーメン)を済ませたのが九時、飛び出すように安全運転した。
果てしなく続くかに見える道程も、いずれは目的地に向けて折れねばならない。
一般道に戻ると、しかし、その場その場のラーメン屋さんの多いこと。
砂漠を征く旅人の孤独に星座が寄り添ったように、公道を征く運転者たちの空腹にラーメン屋さんが寄り添ってくれているのだ。
無疵な心と同じように、ラーメンドラゴンボウルはそこかしこに在るかに見えた。
往来がこうも繁盛していると、出発前に抱いていた田舎という感じも薄れてくる。
ずーっと道なりに走って、いよいよ峠に差し掛かるという処でお店があった。
山道の食堂然とした、まろやかな店構えをしている。
車から降りると雲一つない快晴に気付き、一息つけた。
先客は一組のみ、慣れないお店は開店から行くのが良い。
テーブル席に案内され、決めていた注文を告げる。
アリランチャーシュー、大盛り。
アリランというのは朝鮮にある伝説の峠らしい。
峠越えの英気を養う一杯をという想いがその名に込められている。
玉葱が茶色のくたくたになったやつがラーメンに載っている。
なるほどこんな切り方もあるのかと思わせる、ダイス状である。
碗にはさらにチャーシューが五枚載っている。
期待通りというか予想以上に柔らかいチャーシューに、にんまりである。
だが、麺自体は平凡な醤油ラーメンだ。
変だな、しまった、期待しすぎたのか。
自棄食いでもしそうな荒んだ心を、ラーメンが癒してくれた。
これが、見た目に反してくどくないのである。
この甘みは玉葱か、近所の平凡な町中華では絶対に出せない深みだ。
茹で過ぎ御免とでも言いたげな麺すら、価値あるものになってくる。
チャーシュー、玉葱、麺の食感が統一されていて優しい。
優しさか…平凡な、優しさ。
尖ったラーメンばかり食べてきた、そんな気がする。
今日だって、尖ったヤツを信じてやって来たのだった。
でもそれが期待外れなんかじゃなく、贈り物でも渡されたみたいだ。
行って、帰って、文字にして。
分からないから、書く。
それが今は楽しい。