【七月号】巻頭言 セイ、ショウ、キ【キ刊TechnoBreakマガジン】

谷川俊太郎さんの詩、「生きる」を聴いた。

朗読しているのは佐藤浩市さん、私の好きな俳優さんである。

私は、谷川さんのこの詩は好きではない。

当たり前の事を書き連ねているだけという印象がするからだ。

泣、笑、怒、自由

時間をかければ、誰の頭の中にも思い浮かぶだろうから。

そんな中で、隣の部屋から人の声がして、遠くに工事の音がする。

それが、果たして生きているということなのだろうか、実感が伴わない。

ぼ~っとしていると、

鳥ははばたくということ

海はとどろくということ

鳥の自由さと海の雄大さを対比して持ち出すのはナカナカのテクニックだ。

しかし、少々あざとさも感じる。

そして、

かたつむりははうということ

「一寸の虫にも五分の魂」という言葉がある。

私は自分自身を、よくそんな風に思っている。

私の魂を踏みにじる連中の、何と多い事か。

だからこそ、私は一寸の虫のように生きねばならない。

常に強く。

たまに、儚く。

感動の無いものに向かって、心動かされることなく、分析的な文章が生まれた。

そして、その「生きる」という詩の中に、自分自身を見つけられたのだ。

こんな私であっても。

そうか、これこそがあざといテクニック。

だいたいの迷っている連中を拾うための、荒すぎず細かすぎぬ、ずいぶん広い網。

それはミニスカート

かもしれない。

だったら尚更、その網の中、現実といってもいいような網の中。

そこへ行くための入場券は、謹んでお返ししなければならない。

そんなような気がしている。

詩と批評とが寄り添うように、私は人に寄り添いたい。

過剰な感情に顰蹙を買いながら、相手の迷惑も顧みず。

そんな自分を誰も許しちゃくれまい、それが自分自身だったとしても。

自己実現より自己叛逆、それくらいが上々だ。

自分の中に、何か対立する矛盾があるだろうか。

セイ、ショウ、キ

網の中にも外にも、言葉がある。

ミニスカートの中も外も。

セイ、ショウ、キ

一義的な言語記号の世界、動揺も無ければ感情もない。

セイ、ショウ、キ

言葉と言葉が癒着して嗚呼と言う新たな価値が創られる。





生きる

谷川俊太郎

生きているということ

いま生きているということ

それはのどがかわくということ

木もれ陽がまぶしいということ

ふっと或るメロディを思い出すということ

くしゃみすること

あなたと手をつなぐこと

生きているということ

いま生きているということ

それはミニスカート

それはプラネタリウム

それはヨハン・シュトラウス

それはピカソ

それはアルプス

すべての美しいものに出会うということ

そして

かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ

いま生きているということ

泣けるということ

笑えるということ

怒れるということ

自由ということ

生きているということ

いま生きているということ

いま遠くで犬が吠えるということ

いま地球が廻っているということ

いまどこかで産声があがるということ

いまどこかで兵士が傷つくということ

いまぶらんこがゆれているということ

いまいまが過ぎてゆくこと

生きているということ

いま生きているということ

鳥ははばたくということ

海はとどろくということ

かたつむりははうということ

人は愛するということ

あなたの手のぬくみ

いのちということ