【七月号】総力特集 トリアーデ【キ刊TechnoBreakマガジン】

ヨスガ一、一つの中に対立する矛盾を内包するものを特定する。

(松岡正剛は、これを「コクがあるのにキレがある」というビールで暗示した。)

ヨスガニ、対立を行き来すること。

(それにより期待される何かがあるとでも言うのだろうか。)

ヨスガ三、数直線的な正負の対立ではなく、三軸の導入をすること。

(松岡正剛は、それを真行草で暗示した。)



この議論に私が辿り着く前に、孔子の「知好楽」は導入していた。

楽の境地に到達して終わるはずもなく、生の営みを仮託すべく、三角形の各頂点にこれらの字を置き、各辺を矢印に換えることで、知好楽サイクルとした。

サイクル化した際、余白が気になったので、そこにはめいめいが自分の人生を漢字一字で表したものを書き入れられるようにした。

私が選んだのは、遊だ。

仕事と勉強の人生に遊ぶためである。

「正反合」をイタリア語でトリアーデと称するらしい。

三位一体やトリニティではキリスト教的に過ぎるので丁度よかった。

知好楽の次に正反合を扱うと言うのは飛躍を感じるものの、勇気を持って跳んでみた。

「カラマーゾフの兄弟」で、私は大審問官の直前に兄弟が交わす議論が好きだ。

イワンが主張する神の否定に、彼の身が引き裂かれる悲痛さが感じられ、「正」性を証しているかのような説得力がある。

一方、アリョーシャの「反」論というかなだめ方は言葉少なげで、彼の生来の純真さゆえに単なるお人好しの傍迷惑な信仰心とも受け取れる。

彼らの議論を総「合」して、我々がどのように一歩進めるのか。

私の場合、神の在不在は措いて、常に隠しカメラの存在を気にするようにしているのだが、下巻においてそれは形を変え、イワンの元にも現れることになるのが面白い。

名所旧跡の無い土地であっても、春には花が、秋には月がある。

いやいや、雪こそ冬のものなれど、花や月は移ろう季節の中で度々表情を変えて親しみが持たれる。

花見酒、月見酒、雪見酒。

一人よりあなたと二人、たまには二人より皆と一緒に。

米と豆の国、日本に生まれた私たちは、ほんとうにお酒が好きなんだな。

「雪月花」を私はこのようにとらえている。

「猪鹿蝶」はもっと細分化されている。

花札というくらいだから、月々の花や風情が描かれている。

一月の松や八月の芒、十月の紅葉が記憶からよみがえる。

意外にも四月は藤だった。

今年わが家に初めての藤の花が咲いたのも四月のことであった。

簡単な診断で花に例えてくれるようなものを試してみても、自己理解が拡がるかもしれない。

拡がりと深まりが同義であるかは疑問、というか早期に解決すべき課題のように思われる。

人間の活動を三つに分けた仏教語、「身口意」などは、自己理解というよりも自己自身を表すものだ。

心と身との数直線的な対立を、言葉を以て立体的にしているのは面白い。

私は言語化という言葉をあまり好まないのだが、好んでいる人たちの言には、心と身体の悩みを自分の言葉にして整理する事への純真な信仰心が有るように感じられる。

ならばそれを、わざわざ否定しようとは思えぬ。

心と身体に別の軸を持ち込めば「心技体」となる。

さあ、この問題をよく理解することは可能だろうか。

ありがたいことに、落合監督の事例をもとに『体技心』を紹介している記事がすぐに見つかった。

フィジカルを完成させた上に、技の反復練習を重ねることで、ブレないメンタルを作るという理屈らしい。

ルールとジャッジの世界の中でなら、ユークリッド幾何学のようにそれは成立するだろう。

これに対し、当てただけでは勝てない弓道の世界では、正射正中を視られる。

実は、オイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」、「アスリートの魂」の増渕敦人さんを、松岡正剛が私に紹介したことが、この果てしなく思えたトリアーデの最初の一歩なのである。

弓道のみならず、武道の始祖と言われる柳生宗矩の「兵法家伝書」には何が、沢庵の「不動智神妙録」には何が書いてあるのか併せて知りたい。

競技や武道は合わないという人にこそ、着目してほしい事例がある。

「プロフェッショナルー仕事の流儀ー」京菓子司、山口富藏さんを取材した回だ。

先代の父から老舗の暖簾を継いでから、それまでの顧客たちから十年も「お父さんの時とずいぶん違う」と言われ続けて来たのだと言う話だ。

先代の父と全く同じことをしているのに何故、と言う気持ちが十年付きまとった。

その中で、京の伝統を活かすために、山口さんは猛勉強を積んだ。

今では、源氏物語の夕顔が主題であるという無理難題の様な茶会の菓子を依頼されても、顧客に感動を与えられる菓子を、苦労の中に楽しみを見出しながら作れるようになっている。

「守破離」の中にも、誰に師事し、どう生きるかという、「心技体」に通ずるものを感じずにはいられない。

さて、ヨスガ三に至るための足踏みはこれで十分だろう。

次にヨスガ一に関して、ビールだけではなくコーヒーを取り上げてもいいだろう、対象年齢の幅を広げることもできる。

コーヒーの面白いところは、苦味の先に甘味があるということだ。

ここに両者を対立させないように、味覚からではなく嗅覚の助力を仰ぎ、香り高さを第三軸に加えることにした。

「苦甘香」は試みに私が用意したコーヒーを表す造語である。

ナンバーワン・オンリーワン・「     」

二十年前のトリプルミリオンヒットが、我々にどんな影響を与えたか、知らない。

だが、我々に新たな観念が与えられたのだ。

ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン

と。

私のすぐ近くに、日本一を目指して結果を出している人物がいる。

彼が、私のそばでしていた雑談が耳に入ったとき、悲しい気持ちになった。

「あの歌のせいで日本は弱くなったんですよ」

聞き手の大御所も同意していた。

知らなかった、無自覚だった。

ナンバーワンを目指す人の努力を、認めていない自分がいたらしいことを。

ナンバーワンは一握り、それになれなかった多数のオンリーワンがいた。

だから売れたのだ。

この両者が、潜在的であったとしても、対立してはならない。

ヨスガ一が、こんなところにもあったのだ。

ヨスガ三の方法に縋るしかなかった。

「競っても争わん」

全ての対立への答えになってほしい、だが性善説にすぎるだろうか。

「笑顔が一番」

韻を踏んではいるものの、理想とは、実現性の低さを表明するものなのか。

「ラウンドワン」

対立をやめてボウリングやゲームに興じて仲良くなろう、新たな価値の創造とは、存外カンタンな大喜利で成り立つのだろう。



ヨスガ一から三までは、私自身に課された逆禁忌であった。

ヨスガ、溺れる者が掴む藁、罪人のための絆。

ヨスガ二、対立の行き来には慣れていた。

何せ、ハイパーネガティブとウルトラポジティブを併せ持つエクストリームニュートラルの私だ。

小林秀雄が紹介してくれた孔子像が与えてくれる、中庸を行きたいと思っている。

すると、苦いと甘いの対立が見えてきた。

ナンバーワンとオンリーワンに融和の困難さが潜在しているのではないか、という危機感を持った。

人間関係でも、一つの中にそれが二つ含まれている。

好きと嫌いの対立。

ありがたいと迷惑の矛盾。

喧嘩するほど仲が良いという逆説。

ヨスガ一の特定が徐々に進んできた。

ここでヨスガ三に気付くことができた。

そうだ、対立は正負の数、中学一年生的で直線的な対立だ。

こう書き切ってしまうと、対立に価値はない、幼稚だ。

この直線の対立の両端を握って、真ん中から膝でへし折り、そこにもう一本軸を足してみる。

十回に一回でいいから、イイねが貰えるかもしれない(ただし、イイね、深いね、ユニークだねを私は懐疑的に使用している)。

コーヒーの香り高さ。

ラウンドワンで過ごす時間。

恋愛感情に気付くこと。

親子関係は時間をかけて受け入れること。

両端を行き来して相互理解が深まること。

トリアーデ。

そんな言葉を以って表すべきではないかもしれないが。

海外で確立された概念も含め、遠い遠くの先人たちが遺したはずの漢字三文字。

それが相続されていることに勇気がわいてくる。

新たな価値観の創出はそこからなされるはずだ。

残されたトリアーデは「衣食住」ではない。

生きることそのもののこれは、深淵すぎる。

これから立ち向かうのは「真善美」だ。

取っ掛かりの様子見に、まずは各個撃破を敢行したい。

「真」の友情や「真」の愛情は金で買えまい。

「一日一善」で何かがおぼろげに見えてくるのではないか。

小学生に「美」ってなにと聞かれたとき、「美しいもののことだよ」と答えることのないように。

「知好楽」サイクルのように「真善美」も三角形にしてしまおうか。

中心の余白にどんな字が当てはまるか。

「幸」だったらいいな。

この一年、そんなことばかり考えていただなんて、信じてもらえるだろうか。