【七月号】ヨモツヘグリ #006 日本橋 鶴田【キ刊TechnoBreakマガジン】

地下鉄からしばらく通路を歩き、最果ての出口から地上へ。

重厚な石造りの要塞染みた街並みに、眩暈がしそうだった。

橋の向こう側のここは、まさに彼岸と言っていい。

三越前は権謀術数の拠点さながらである。

楽天家の僕も、流石に首をすくめて俯き加減でいる。

きっと素性なんかはすぐに洗われてしまうだろうから。

そんな僕の隣を肩で風を切って歩く美女、モツ野ニコ美。

今日の装いは暗い色をした薄手のジャケット。

その襟元に身分証代わりのバッジをつけている。

人形町を拠点として行動している彼女にとって、ここ室町は校舎裏の空き地のようなもので、いつでも友達がいるような遊び場らしい。

繰り返しになるが、僕にとっては場違いな感じがしている。

どうして少々、いやかなり落ち着かない気分でいるのかというと、ここを歩いている僕自身は身分を偽っているからだ。

モツ野女史が襟元のバッジと同じものを僕に渡してくれていたというのが理由なのだが。

こういうのは何度やっても慣れない。

もちろん、不自然にならない程度の無表情でいる努力は怠らないが、それと同時に演技力ばかりが向上していくのが果敢ない。

僕とは打って変わって、からりと晴れた夏の日差しのような表情の彼女に、今は寄り添って歩くしかない。

「実は、そろそろネタ切れなんじゃないかって思っていたんだ」

「何、お店が?そんなことってあるのね、貴方よほどこだわって選んでくれているから」

そうだ。

僕たちはドラえもんやサザエさんの世界にいるんじゃない。

この生活は、時間の流れを感じなくなるほどに引き延ばされている様でありながら、実際には現実感の欠如が漂っているだけ。

煮込みが売りの居酒屋さんなんて、そういくらもあってたまるか。

名探偵が行く先々で人が死ぬようなものじゃないか。

僕たちは創作の世界の住人じゃないし、この物語を読んでいる人たちは本当に少ない。

そんな気がした。

下調べしておいたお店は、建物を隔てて一つ向こうの通りにある。

道を折れると、ガラス張りのひさしがせり出した大きなテラスだ。

明治神宮とまでは無論言えないが、都心のほんの一角を、緑で飾り立てて憩いの場にしたいという心意気が感じられる。

僕はこの界隈に明るくないため、この光景に出くわして驚いた。

モツ野女史の表情は変わらない、明るいままだ。

陽が沈んで、真の意味での僕らの時間が来るまでまだまだ時間がある。

なんだか全てが爽やかで、さっきまで僕の気持ちが沈んでいたのが、なんだか馬鹿みたいに思えてきた。

突っ切って車道沿いへ出る。

「乃二子さん!」

行きがかりのスポーツカーから顔を出したのは、霞ヶ関でさえお目にかかれない様な美丈夫だった。

いったい何処で仕立てたのかというような格子模様の生地のスーツは嫌味さがなく、ただ着ているのではなく着こなしているというのが分かる。

男は二、三軽口を叩いた後に、悪戯っぽい笑顔を残して車と共に走り去った。

「のにこって…?」

「人形町ではそう呼ばれてるのよ」

良い印象を抱かなかった男のツラの余韻を、彼女のあっははという哄笑がかき消した。

なんだか今日はそわそわしてたまらない、さっさと酔ってしまいたい。

通りの一つ向こうを少し行って、そのお店はあった。

ここはすでに神田駅前と言ったって良い。

人目を引く真っ赤な灰皿、それとスタンド看板。

もつ焼き 煮込み 鶴田

入り口の脇にビールケースをひっくり返してできたテーブル席が二、三。

中の座席は全て埋まっている。

僕は予約しておいた名前を告げた。

時間がずれ込んでいるとのこと。

席はすぐに空く予定なので準備するとの由。

それまでテーブル席で飲み物を飲んでいてほしい。

以上、諸々伝えられたが、楽観的にならず予約して良かった。

奥のテーブル席の男と背中で触れ合うことになるので、僕たちは隣り合って腰掛けた。

僕は瓶ビール、彼女はあんず酒のソーダ割り。

梅酒も置いてあり、選べたのは良かった。

奥の向かいには、男の連れの女性客が居て、さらに店内が見渡せる。

十名規模のL字型カウンター、四人がけの正規のテーブル席が三つ。

運ばれてきたグラスには『竹野内 豊』と印字されている。

これには驚いた。

つい最近、大昔の特撮のリメイクとして作られた邦画を二本観たばかりだったからだ。

それすらも、五十年前の名画ではあるのだが、その二作で印象的に登場していた俳優の名がそれだった。

モツ野女史もたまたまそれを観ていたので、以前その話題で盛り上がったこともある。

乾杯して、僕はその日特に多く流した汗を補った。

懐かしいその二作の映画を振り返りながら。

で、瓶ビールが一本空いてしまった。

すぐに空くと伝えられた席の方はまだ空かない。

奥のビールケースに陣取った男女にはすぐに煮込みが出された。

僕は『すぐに』席が空くと言われたことと、それまでは『飲み物を』飲んでいてくれと言われたことの二点に縛られていた。

竹野内豊と書かれた空きのグラスと、いつ言い出せるのかも分からない品書きを眺めながら。

目の前の女性客が、煮込みに箸をつけるなり、人眼も憚らず黄色い声を上げた。

あまりの柔らかさに感動が堪えきれなくなったのだ。

そのまま串物の注文も始めている。

ここから先は、思い出すのも嫌だからくわしく書かない。

カウンターが空いてから通されるまでにまだ時間がかかった。

向かいの男女がそこに移りたいと店員に申し出ていた図々しさに腹が立った。

肝心の煮込みはすぐに出る。

あろうことか、味はいたって普通だった。

串物の値段は相場の二割増し、都心の価格は腐敗している。

ブレンズなどのように、希少部位と呼ばれる物も確かにあるのだが。

それを焼き手は一人で二十本も三十本も焼いている。

案の定、黒焦げになった側がお皿に向けられて提供されることになる。

数量限定で焼きメンチというのがあるが、見るも無惨な代物だ。

ふと壁を見やると、禁酒町いや錦糸町に姉妹店があるという。

競馬中継でも見ながらこういうゴミゴミしたところで飲むホッピーは格別だろう。

問題は、ここが日本橋室町であるということだ。

もはや室町というより、神田という土地に対する嫌悪にすら発展しそうである。

散々に書いたのは、散々な感傷に浸っていたせいだろうか。

カウンター右隣で何も知らずにニコニコしているニコ美女史に申し訳なく思える。

だからこそ、このお店で眩しかったのが彼女の笑顔だった。

などと気が利き過ぎるが為に、歯が浮くようなことを書こうと目論んでいる訳ではない。

むしろ、値段の倍くらいに盛られたモツ刺しが、安くて美味くて新鮮で眩しかった。

気が良くなって日本酒の徳利がついつい何本も空いた。

思い出したが、その日は寝不足で、にもかかわらず飲みの誘いを強行してしまったのであった。

なんだか最近、調子出ないな。

食べ過ぎだろうか。