こちらはにいがた、あちらはさいたま、なぁんだ?
有名ななぞなぞである。
東十条二丁目、北区保健所交差点を挟んで、狛犬の様に店を構えた串焼き店だ。
川口ノワールもとい北区ダークトライアングルと呼ばれる王子、十条、赤羽で、僕は十年弱活動していた。
その頃この界隈に居たoathというコードネームの凶手、綿摘恭一を監督下に置くための潜入だ。
oathとは、なんとも優しくない約束だと、今はつくづく思う。
もう数年ぶりになるか、悲喜交々のこの北区東十条へ、モツ野ニコ美女史とやって来た。
「東西線の東の端から、南北線の北の端まで来るのって、ちょっとした冒険よ」
彼女は、寒空を物ともしないような薄墨色のトレンチコートを堅く着こなして、颯爽と歩いていた。
ここの向こうにあるのが彩球屋、威勢の良い二代目がフレンチのコースのような、例えば霜降り肉のベリーレアだとか軍鶏肉のサルサソース添えだとかの串焼きを提供する。
説明を聞いているモツ野女史の瞳が輝いたが、そこの飲み物が濃い目のレモンサワーか生ホッピーか、シェリー酒だと言われ、彼女が行くような店ではないのだと悟ったらしい。
僕は彩球屋の大将たちのことは大好きだが、久しぶりに顔を出すなり、婚約者を同伴というのも少々気恥ずかしい。
潜入を終えて直ぐ、一度軍閥から身を退いてライターごっこに興じていたため、親からもらった顔を変えずに今まで過ごして来た。
それに、彩球屋の煮込みは、普段食べているのとは次元が違うのだ、あれは上等のシチューである。
何かもっと特別な事があったときに、誰か別の仲間と来ようと思えるのが僕にとっての彩球屋。
では、懐かしの新型屋の引き戸を開ける。
入って左手のテーブルは特等席であり、この日も埋まっていた。
そのテーブルを予約した事は一、二度しかない。
一人か二人でカウンターに座るお店なのだ、僕にとっては。
彩球屋と違って、このお店のカウンターでは人と人との間に居る無力な個人に還れる様な気がして落ち着く。
先客が、奥へ案内された。
後に続いてお店のお姉さまに顔を出し、指を二本立てる。
奥のテーブルが空いているからそこへと言ってもらえた。
非常な幸運だ、僕らの到着で店内はもう九割五分埋まってしまった。
浅漬けの突き出しに応じて瓶ビール、キリンを注文。
モツ野女史好みの果実酒が無いため、サワー。
煮込みを二つ。
「楽しそうね」
「緊張してないだけ」
「もう指環を渡せたから?」
と言って、モツ野ニコ美こと真鍋乃二子は、無論これも偽名だが、自分の胸にちくりとした痛みを感じた。
「慣れてる店だからさ」
気の利かないセリフに彼女は少し落胆した。
かつて監督者だった僕は、今では被監督者なのだと言う事をまだ知らない。
飲み物が来てから直ぐ、煮込みが届いた。
これで三百円、あれから値上げをしていない事に、矜持を感じる。
ちなみに、同じ煮込みでも彩球屋では和牛リブロースの煮込みが出るのでしっかりと値が張る。
乾杯して、箸をつける。
この一年の、数ある名店の煮込みが僕の脳裏に去来する。
「此処の煮込みって、好きじゃなかったんだ」
僕はぽつりとこぼした。
「じゃあ、何で連れてくるのよ」
彼女は苦笑して言った。
「美味しいって感じるんだ、今」
不思議なことに、その理由も分からないまま、箸をつけては杯を傾ける。
彼女がいる安堵では無い、もっと大きな何かに包まれている。
煮込みと言えば此処しかなかった自分の半生の重みを感じている、彩球屋は高級店だったから。
その重みから解放されたのは、彼女との一月々々の飲み歩きで、やっと僕にも新型屋の煮込みを味わえる舌を授けられたと言う理由による。
柚子仕立てのあっさりした煮込みには、シロ、ハチノス、ミノなどがたっぷり。
空腹で直ぐに平らげてしまった。
これから、一本百円均一の焼きとんを、どれもミソで注文する。
一巡目は、チレ、レバ、タン。
これに山椒を振るのが好きだ。