ー わたしの眼に映じたのは、ブラシの影で馬車の影を拭いている馭者の影であった ー
(シャルル・ペロー)
物欲の権化のような父フョードル・カラマーゾフの血を、それぞれ相異なりながらも色濃く引いた三人の兄弟。放蕩無頼な情熱漢ドミートリイ、冷徹な知性人イワン、敬虔な修道者で物語の主人公であるアリョーシャ。そして、フョードルの私生児と噂されるスメルジャコフ。これらの人物の交錯が作り出す愛憎の地獄図絵の中に、神と人間という根本問題を据え置いた世界文学屈指の名作。
新潮社は『カラマーゾフの兄弟』上巻を以上のように説明する。
その世界文学屈指の名作は、読み進めるのが難解だった。
理由1、80ページ近くある第1編が、上記人物紹介の各論であり、様々な背景が語られるのであるが、背景というのでは今一つ雲をつかむような感じがして頭に入ってこない。
そして、頭に入れられなかったままに読み進めると、今度は人物たちが実際に振舞っている行動の根拠がわからず、現実離れした言動に見え、余計に感情移入できない。
理由2、改行もろくにないままに文章が延々続く、セリフもほとんどが独白に近くこれもまた延々続く、そこへ日本人に馴染みのないキリスト教的信仰が加わる。
それが眠気を誘発し、内容が頭に入ってこない。
ひと言でいえば、『カラマーゾフの兄弟』は退屈なのだ。
その証拠といっても差し支えあるまい、本文手前の4ページ目にこうある。
作者の言葉ーー「もちろん、だれ1人、何の義理もないのだから、最初の話の2ページくらいで本を投げだし、2度と開かなくとも結構だ。」
誰かが、この退屈に水を差さなければ、寝惚けた精神は活性化されまい。
だが、誰が。
彼は、ひどく古びてがたぴし音がする辻馬車に乗ってやって来た。
頽廃期の古代ローマ貴族顔負けの鉤鼻を引っ提げて。
超然と睥睨する瞳の奥に、嘲笑を湛えた猜疑心はまだ輝きを失っていない。
フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフその人である。
今は、彼が2人の前妻をはじめとする数々の女性に対する、恥知らずという言葉では足りないほどの無礼と暴力には目を瞑ろう。
おそらく、あまりの凄惨さに、筆者が詳細を説明することを極力避けている節があるからだ。
疾風怒濤の第2編「場違いな会合」は、長兄ドミートリイが父との財産に関する調停を、町の修道院の長老ゾシマを仲人として取り決める目的で催される。
「今、長老さまのお目を汚しているのは、本当の道化でございます!これがわたしの自己紹介でして。昔からの癖なんですな、ええ!ときおり場違いな嘘をつきますのも、わざとやることなんです。みなさんを楽しませて、気に入られようというつもりでして。人間やはり、気に入られなけりゃいけませんからね、そうでしょうが?」
ほとんど無一文から出発した零細地主、婚約者の持参金と不動産を狙うしかないやくざ者、そんな男がこう切り出す。
どこの馬の骨とも知れない不逞の輩には、幼少期から居場所がなかったのだ。
居場所がないなら作ればいい、彼は地主だったがそう思ったに違いない。
勉強ができる、運動神経がいい、おもしろい、小学生男児はこのどれかのステータスを身に着け、人気者になるべく人生ゲームの賽を投げる。
フョードルもまた第三の格を選んだのだった、自己の生存環境を諧謔の中で育むことを決意したのだ。
周囲からの嘲笑を我が身に引き受け、揶揄の矢面に立つことを買って出た。
夜な夜なコニャックを呷りながら、彼は自分自身にこう聞かせたことだろう。
「誰からの買い手もつかない《恥》の大安売りだったもんだから、買い占めてきたんだ。今度は俺がこいつを配って回る番さ、受け取ったほうが赤っ恥をかくんだからとくと御覧じろ。奴らが俺をあざ笑う何倍もの歓喜を込めて、文字通り笑い飛ばしてやらあな。なに、最後に笑う者が最もよく笑うRira bien qui rira le dernier(注 17世紀フランスの哲学者ディドロの小説『ラモーの甥』にあるフランスの諺、1805年にゲーテが独語訳している)だ!」
だが、こんな空想上のセリフに彼を動かせるだけのエネルギーはない。
「汝を育てし乳首は幸いなるかな、特に乳首こそ!」
「そう、あんたはそのとき食事をしていた、だけどこっちは信仰を失ったんですよ!」
「立派な雌犬じゃないか!」
「ききましたか、え、神父さんたち、父親殺しの言うことをききましたかね?」
道化を演じているうちに、道化になり果てた男は言葉を続ける。
フョードル、フョードル、嗚呼フョードル。
我々は知っている、本文2ページ目にすでに書かれていた事を、フョードルが非業の死を遂げるのだという事を。
「そりゃひょっとすると、あの女は若いころ、環境にむしばまれて身を持ちくずしたかもしれないけど、でも《数多く愛し》ましたからね、数多く愛した女はキリストもお赦しになったじゃありませんか……」
「あんた方はここでキャベツなんぞで行いすまして、自分たちこそ敬虔な信徒だと思ってらっしゃる。ウグイを食べて、1日に1匹ずつウグイを食べて、ウグイで神さまが買えると思っているんだ!」
神から授けられた天寿を、自身の内燃機関にくべながら、真っ暗で不吉な線路上を機関車は横死へ向けてひた走る。
一言一言に唾をまき散らすことを忘れることなく、この半気違いはすべて計算づくで行っているのに、自分がどこに向かっているのかは漠たる予感しかなかった。
修道院におけるフョードルの怒りと羞恥が「攻」ならば、それら全てを捌き切る「守」の役割を果たした人物が居る。
彼は全てを赦し、人間心理に通暁し、未明の闇に一条の光明を差し込ませ、触れる者を皆救済へ誘う。
彼の洞察と彼の言葉を、世人はことごとく奇跡であると見做すほどだ。
若かりし日の彼もまた赦しを乞い、救済を得、修行の果てに長老となった男、ゾシマ。
フョードルの如き、ゾシマにとっては、泣く子をあやすも同然なのだ。
「何よりも、そんなにご自分のことを恥ずかしくお思いにならぬことです」
「飲酒や饒舌にふけらず、情欲に溺れず、とりわけ金の亡者にならぬことです」
「大事なのは、いちばん大切なのは、嘘をつかぬことです」
「腹を立てているうちに、それが楽しみになり、大きな満足感となって、ほかならぬそのことによって、しまいには本当の敵意になってゆくのです……」
結局ゾシマの言葉は、フョードルにとって観念でしかなかった。
フョードルが改心することは死ぬまでなかった、つける薬がなかったのだ。
しかし、カラマーゾフの兄弟たちには再生が待ち受けている。
ただ、その話は次回以降に譲ろう。
「攻」と「守」とが、修道院での激突を終えた。
あやされた泣く子の一方的な敗北かに見えた。
フョードルはその晩、コニャックを飲みながら、ゾシマに対する痛烈な批判に及ぶ。
手玉に取ったのはゾシマでは決してない、フョードルが「取らせてやった」と言うわけだ。
洞察力を得るのは信仰のみにあらず、悪徳から得た洞察力の復権を宣言する。
「しかし、あの長老には諧謔があるな」
「育ちのいい人間にふさわしく、あの長老の心の中には、聖者を装って演技せにゃならんことに対して、ひそかな憤りが煮えくりかえっているんだよ」
「これっぱかりも信じてないさ」
「あの長老には、何かメフィストフェレス的なところがある」
フョードルは敗北を喫していなかったのだ、勝利こそしなかったが。
敗北も勝利もせぬままに死を迎えることとなった。
道化の死は、兄弟の誰かに決定的な何かをもたらす、目を逸らしてはならない。
そして、ゾシマ長老の身も病に蝕まれつつある。
ゾシマの魂は勝つか、勝利とは何か、目を逸らしてはならない。