たぶん、神様はいないだろう。
だけど、いなかったらやり切れないだろう。
一寸の葦にも五分の魂の意気込みなのだ。
踏まれてすぐ死ぬ虫としてでなく。
この魂が死んでから、おつかれさんの一言もなかったら、やり切れないではないか。
誰に祈れば良いというんだ、目に映る様々の葦たちが、今日踏まれても明日立ち上がれるようにと。
僕が言うのは洒落ではない、ましてや冗談どころの話じゃない。
先日、オリンピック期間中の5日間で開催された能楽祭へ行った。
旅の僧が目の当たりにする美しい景色、その光景に因縁を持つ『残念』がささやきかけ、僧は祈り、本来の姿を取り戻した魂は感極まった舞を披露し昇華する。
そんな舞台を連日ぼんやり見ていると、ふと、当時の旅の僧と、現代の僕たちとを同一視してしまう、そんな感傷に浸った。
当時と今との違いは信仰だ、僕たちはその信仰をもうほとんど忘れ、めいめいが新しい信仰を死守するのに必死になっている。
もちろん、そんなことは感傷に過ぎないのだけれど。
神があるかないか、そのシンの所で、僕には信仰が無いから沈黙する。
その沈黙に耐え切れなくて、言葉にすがろうとする。
果敢なく虚しい努力が、藁みたく脆弱な問いを掴む。
ならば、現代風に考え直してみるのだ。
互いの心は分かり合えるか否か、という問題を。
分かり合える、分かり合えない、心なんてない…答えはいくつもある中から、その半生をかけた努力によって勝ち得たものを掴んで実践しているはずだ。
しかし、僕が知りたいのは「どう生きるか」ではない。
「どう生きるべきか」が知りたくて煩悶する。
燃え上がるような恋愛をしているから。
全てを捧げて奴隷に堕ちたいと願っている。
あるいは、世界中を敵に回しても成就させたい恋だ。
その後は、一寸の虫みたく死んだってかまわない。
他者の眼には、そんなもの恋とも愛とも映ることはないだろう、きっと当事者たちにも。
それを地獄と呼んだって差し支えない。
「乞食、それも特におちぶれ貴族の乞食は決して人前に姿を見せたりせず、新聞を通じて施しを仰ぐべきだろうね。抽象的になら、まだ身近な者を愛すことはできるし、時には遠くからでさえ愛せるものだけれど、近くにいられたんじゃほとんど絶対にだめと言っていい」
次男のイワンは、カラマーゾフの血から冷笑および主要素以外のほとんどを引き受け、その代償に何も授からなかったような男だ。
彼が語る地獄は、眼の前に横溢している。
だから彼は、神が創ったというこの世界なぞ認めない、到底認められない。
その通りだ、僕も思う。
ならばこの世界で、どう生きるべきなのか。
羞恥心とは誰に向けてのものなのだろう。
他者の眼、に向けてのものでは決してあるまい。
嫌悪の眼差し、好奇の視線、平静を装っている目など様々だ。
結局のところその瞳の奥にある、その人の心に、自分自身がどう映るだろうかという、いじらしい想いではあるまいか。
その想いを抱いて、いや自分がこんな光景を観たらこう思う、だからきっと誰もが…と陥る思考の隘路だ。
ここから脱却するために足搔かないのならば、諦めてあるいは無関心になってしまうのであれば、心の問題に結論を出してはならない。
さもなければ、何でもありになってしまうではないか。
『全てが赦される』とは気取った言い回しだ。
それを神の視線と仮定しているのかもしれない。
本当に良心が無いから得しているように見えるのか、僕の見ていないところで良心の呵責に苦しんでいるのか。
見せているにもかかわらず、それが僕に見えていないのか。
この視線が、他者に向いているようでいて、結局自分の内面を見ているのでしかなかったとしたら。
こんな堂々巡りを繰り返す。
誰かが言う、そんな感傷付き合いきれない、と。
お互いの心が分かり合えるかどうか、実際に付き合ってみなければならぬ、経験してみなければ、往来で車に跳ねられるような生の経験として、人と付き合わなければならぬ。
小林秀雄は心の問題をこのように掴んだ。
この捨て身の方法で、書物の中から作家の姿を垣間見ようとした。
対象が骨董品であったとしても、その内的美は外在化せねばならないとした。
ならば、特殊な背景を持たない他者はいないのだから、僕は一般論で会話してはならない。
なぜなら僕は精神科医ではないのだから、僕たちの会話は事情聴取ではないのだから。
そして、僕たちには、僕たちの語彙がある、僕たちの文脈がある。
僕たちは共にそれを創り上げていくことができる。
カラマーゾフの血による放蕩の呪いに苛まれながらも、愛と誠実に至った長男、ドミートリイの言葉を以て結びたい。
彼は地獄の渦中にいた。
「だけど、惚れるってことは、愛するって意味じゃないぜ。惚れるのは、憎みながらでもできることだ」