人間よ、気高くあれ!
(ゲーテ『神性』)
フョードル・カラマーゾフは、イワンとアレクセイに向かって
「お前らはまだ、血の代わりにオッパイが流れているんだし、殻が取りきれてないんだから!」
と言い放った。
その時は女性観に関する、酔漢の説教、酒を飲んでのからみだったのだが、彼にとっての女性とはすなわち欲望の対象でもあり崇拝の対象でもあった。
彼にとって神とは金であり、その神聖さを笠に着て女性を隷属させ、酒に酔っては乱痴気騒ぎを起こすのだ。
ケチな男は金を貯めるために金を貯めるが、彼は金の使い方を心得ていた(本文中には当時すでに現金で十億円相当は溜め込んでいたとある)。
「俺はな、アレクセイ、できるだけ長生きするつもりなんだ、このことは承知しておいてもらいたいね。だから俺には一カペイカの金だって必要なのさ、長生きすればするほど、ますます金は必要になってくるしな」
(一カペイカおおむね十円で、当時は物価が現在の十分の一と見做せるので、総合して一カペイカ百円相当とすると、物語を理解しやすくなる)
長男、ドミートリイは黄金の鍵が必要だった。
父との再会までに多くの借金もこさえたし、父から金も引き出していた。
彼には二人の女性が関わる。
詳細は後述するので、ここでは聖女と魔女としておこう。
ミーチャ(ドミートリイの愛称)には婚約者がいる。
彼女は聖女で、ミーチャは彼女の父の窮地を救い、女神からの崇拝を受けた。
その父は上官であったが急に毛嫌いされ難癖をつけられていたので、報復として窮地を救わないこともできた(ミーチャは退役大尉で当時は砲兵少尉補)。
聖女を見た彼は、「カラマーゾフ的」な考えに囚われた末に、彼女の父を助ける。
カラマーゾフ的な考えとは、対象への(直接的には父に対してだが、それを歪めて間接的に女性に対しての)憎悪とからかい、および美に対する欲望だ。
私はここに、強烈な自意識を感ずると主張したい。
(次男のイワンはミーチャからの指示で、聖女の元へ使いに向かわされたが、ミーチャは女神がイワンに惚れたと思っている、三男アレクセイはそんなことはないと主張する、これが物語の錯綜を如実に裏付け、我々読者をも惑乱するに一役買う。)
「カラマーゾフ」は自己の徹底的な堕落を美と見なすのだとも主張する。
魔女は父フョードルが目をつけていた女性で商売仲間の高利貸しだったが、父は彼女を差金として、ミーチャを破滅させようと目論んだ(実際にはスネギリョフという退役大尉が代理人として仕向けられる)。
代理人を返り討ちにして手酷く暴行を加えたミーチャは、聖女から使いに頼まれた三千ルーブルを持ったままに、代理人を寄越した魔女を殴りに行った。
(一ルーブルは百カペイカであるから、一万円相当と理解されたい)
しかし、今度は魔女から見事返り討ちに遭い、その金を持って二人で豪遊に繰り出す。
魔女の心をモノにするため、二晩かけてその三千ルーブルを使い果たしてしまうのだった。
魔女は気のあるフリをして、ミーチェニカ(ミーチャの女性形)を奴隷同然の骨抜きにしようとするのだが、彼は魔女に屈従する前に三千ルーブル(先述の黄金の鍵とはこのことだ)を聖女へ返済しなければならないと思っている。
なぜなら、彼はカラマーゾフの血による放蕩の呪いに苛まれながらも、愛と誠実に至るからだ。
彼は害虫だったし、そうある事を愛した。
だが、恥知らずではないと弁明する(この時、アレクセイは兄が死刑台の十三段目、自身が一段目と自己分析し、兄と変わりないと言っている)。
「考えもつかぬような、悪夢なんだよ、なぜなら、これは悲劇だからさ!」
彼は地獄の渦中にいた。
ドミートリイを再生させるのは何か、聖女か、魔女か、あるいは。
次男、イワンは無神論を展開する。
彼は懐疑派ではない、信ずるために疑うのではない。
神もなければ、不死もない、まったくの無だと彼は言う。
誰が人間を愚弄しているのか、悪魔だろうと彼は言う。
そして一つの大いなる問題が現れる。
それでも、イワンはすぐに悪魔もいないと言うのだが、そんな彼が「大審問官」を創作してしまう。
イワンの中に悪魔はあるのか、ないのか、読者の我々には分からない。
それは彼自身にも分からないのだろう。
彼は新聞の切り抜きを夥しいほど蒐集し、神の不在を帰納的に証明する。
「大審問官」は読むものではない、イワン・カラマーゾフの肉声に耳を傾けなければならないのだ。
それは淡々としているか、激しているか、苦悩は無いだろう、ただ確信はあるのだろうか。
彼は人生への渇望を「カラマーゾフ的」な一面と分析し、自分も三十までなら若さという渇きにより人生の不条理しか満たされていない大杯を飲み干せると宣言する。
残酷で情熱的で淫蕩な性格を「カラマーゾフ型」とも分類する。
なるほど、カラマーゾフ的な一面である人生への渇望、換言すれば生への執着は父子全員に等しく備わっているようだ。
しかし、イワン自身は決してカラマーゾフ型の性格ではなかった、それは兄であるドミートリイに当てはまる。
彼は、カラマーゾフの血から冷笑および主要素以外のほとんどを引き受け、その代償に何も授からなかった、あるいは無を授かった男だ。
しかし畏れてもいる。
アレクセイの指摘する、放蕩に身を沈めて堕落の中で魂を圧殺する「カラマーゾフの力」が首をもたげんとすることを。
あるいは「カラマーゾフ流」に回避するかもしれない、イワン自身が主張する《すべては許される》の公式を用いることで。
「お前はもう救う気になっているけど、もしかしたら、俺はまだ破滅していないかもしれないんだぜ!」
彼が語る地獄は、眼の前に横溢している。
何も無い、冷笑を備えた男に、再生はあるのか。
三男、アレクセイには神の加護がある。
これがなければ、二人の兄たちから、カラマーゾフの血に関する印象を聞き出せなかっただろう。
「絶望で自分をいじめる不幸な人」ドミートリイはアリョーシャ(アレクセイの愛称)を天使と呼ぶ、純真な坊やとも。
「謎ながら嘴の黄色い雛っ子」イワンはアリョーシャを自立していると見る。
(二人の兄同士は互いに「墓石」のように口の堅いイワン、「毒蛇」のドミートリイと言うように好印象を抱いていない。)
ドミートリイが地獄で喘ぎ、イワンは遠くで地獄を眺めている、アリョーシャは話を聞いてやる。
懺悔とまではいかないが、アリョーシャには誰もが信頼と尊敬の念を抱き、様々のことを打ち明ける。
彼は信仰の力によって、彼にとっての最善を尽くした言葉を返してやる。
それも、徹底した綺麗ごとではなく、都度状況に即した実用的な返答を柔軟に返してやることができる。
「世間には、深い感情を持ちながら、なにか抑圧された人々がいるものです。そういう人たちの道化行為は、長年にわたる卑屈ないじけのために、面と向かって真実を言ってやれない相手に対する、恨みの皮肉のようなものですよ。」
これは聖書の言葉であろうか、師事するゾシマ長老の言葉であろうか、それとも作者の言葉であろうか。
少なくとも、アレクセイの言葉ではなかろう、人間の言葉はほとんど受け売りでできているのだ。
救われるか否かは別として。
彼は、運命に翻弄される人々の間を泳ぎ、話を聞いてやる。
それしかやらない。
言葉は都度返してやるのだが、他に行動することはほとんどない。
学級委員的優等生であって、決してカラマーゾフ的ではない。
しかしながら、彼自身はカラマーゾフ的な何かを自己の内部に十分に感じている、というのは先にも少し触れた。
カラマーゾフ主要三元素は今までも述べた通り、放蕩、冷笑、そして熱狂だ。
アレクセイはカラマーゾフの血による熱狂の呪いが、修道院での教育に対して建設的に作用し、真実の探求者として自立を果たした。
彼の内部に析出するカラマーゾフ的なものが、未だにごく僅少であるという事は、非常にミステリアスな点であり、登場人物も読者もそのことはアリョーシャ自身の言葉からしか知るすべがない。
アレクセイにもカラマーゾフ的な何かが巣食っているという事。
そして、それは程度の差に過ぎないのだという事。
この点に関して口を挟もうとすれば、おそらく、ドストエフスキーが構想していた本作の第二部、続編において明らかにされるであろう伏線かもしれない。
カラマーゾフの兄弟は、第二部(当時の現代が舞台)の十三年前と設定されている、主人公アレクセイの人格形成とその事件を綴ったものであると、早々に作者の言葉に書かれている。
なればこそ、彼の元には勝利が訪れる。