おそらく誰もが知らず知らずのうちに『表現』している。
自覚していいようといまいと、それが可能である毎日を過ごせているのなら人は溌溂としているはずだ。
突然バンドのボーカルを務めることになった俺が、この二ヶ月の潜伏期間で感じたこと。
俳優は舞台で表現している、料理人は食材を用いて表現している、これは極端な例。
国語の授業では問に対して自分の言葉で表現することに困難ながらも達成感を感じていたし、数学では自然数nを2k,2k+1で示して誰が読んでも理解のできる数式で頭の中を表現したっけ。
教師はその表現を教壇で教科書を用いて行っていたのではなかったか。
部活でスポーツをしているときは、この陣形で攻める、ならばこう対応する、突破口が見える、では実際に攻略できるかそれともできずに終わるか。
スポーツマンが溌溂としているのはその全てが表現だから、むしろ溌溂としていなければスポーツマンとは言えない。
自身を振り返って学校生活を思い出してしまったのは、今の音楽活動の雰囲気がその頃の延長にあるような気がするからだろう。
Techno Breakに誘ってきたshunは中学以来の仲だから、この活動もその頃の経験がきっと下地にある。
バンドの誘いに乗ったつもりが、それに流され、のみ込まれ、音楽の奔流の中で藻掻いているのが俺の現状だ。
経験ゼロの状態で、人生初のことながら、俺にあるのは声だけだからなにも難しく考えないでいいと高を括っていたのだが。
音楽を使った自分の表現力の無さに憤りを感じてはいるものの、それでも毎日溌溂としているのはなぜだろう。
その理由はもうきっと知っている。
だけど俺たちTechno Breakは表現したくて集まったわけじゃなく、何かしたくて集まった。
そのことを勘違いしないでほしい。
何かしたいという狂おしい感情のままに音楽をしているのが俺たちの正体だ。
だからその中で、伝えたる側の俺たちと、受け取ってくれるお前とが繋がって、一つの表現として完結するならなおいい。
俺たちはまだ走り出したばかり。
だが、GearはHighに入れっぱなしのままだ。
走り続けて行こう、目的地は遠くとも邪魔するものは何もない。
Techno Breakの次回作にご期待ください。
written by Jun