いつになく忙しい日々が続いていた。
僕のような仕事をしている人間が、時間に追われながら人を追いかけているというのは可笑しな話なのだが。
ともかく、気が休まらず曜日の感覚も無くなったある日の、その日は土曜だった。
定例の連絡会が延期になり、急に時間ができた。
飲まなければやっていられない。
彼女はすぐに誘いに応じた。
ここは月島、岸本屋。
地図での印象と違って、案外駅から近い。
開店三十分前に着いたが、先客七名。
納得の盛況さだ。
煮込みが美味しいお店が満席になるのは嬉しい。
僕はこう言う光景をモツ野女史と何度も見て来たんだ。
しかし、前評判通り、早く来て正解だった。
待っている間、僕は照れ臭かったが、このお店を知った経緯を話した。
そりゃ、呑助連の中では知らなきゃモグリと言われるような名店だが、ここが東京三大煮込みのお店だと知ったのなんかつい最近のことだ。
簡単に言えば、漫画の影響を受けたのだ。
愛国者のフランス人シェフが、日本よりもフランスの方が牛肉の扱いに長けているという主張をするのだが、主人公がこのお店へ連れてきて、日本人だって内臓の扱い方を知らないわけじゃないと言うのだ。
僕は、誰かに影響を受け、受け売りの知識で話し、だからこそ誰にも影響を与えられずにいるんだろう。
四時キッカリに開店した。
僕たちは成り行きで、丁度コの字カウンターの角に座った。
横並びになるより良いかもしれないと思って咄嗟に陣取ったのだ。
聞いた通り十五人ほどの店内は、予想していたより狭い店内なのだが、何と言うか利休好みの茶室の様な落ち着きを感じる。
色々と食べ歩いて来たが、今までにない風格を感じさせずにいる懐の深さ、風情を感じる。
十三番目くらいの客らが早速揉めている。
電話で後から列に加わる予約をしていたのに対し、割り込みだと言い立てている老人だ。
難癖を付けられている側はお店の方に申し立てる。
「何分も前から並んでいるんです。一人数が増えただけで、二人組のお客が入れなくなるでしょう。電話で予約したからって、後に並んでる人がいるんですよ。お店の人が良いって言うんならそれで良いですよ。だけど僕は許さない。」
こんなことが我々の真横で繰り広げられたから、何とも“あわれ”な気分になったものだ。
入店順に注文を聞かれる番が来た。
「お客さん、二人?」
一つ先に入店した男性が首を振る。
僕の左隣にいた男性と、二人組と認識されていたようだ。
ということは、モツ野女史は右隣に着席した男性のツレということになる。
最後の二人連れは補助椅子を一脚出されて入店。
そして背後でピシャリと戸が閉められた。
結界だ、神聖さすら感じる。
16時11分にお酒が来る。
僕は瓶ビール、このお店はキリン。
彼女には幸運なことに、アンズ酒のソーダ割りがあった。
その後5分で煮込みが来る。
本当に色々な部位が入っている。
これはフワか、軟骨もある。
静かなる大絶賛、箸が止まらない。
口の中で、煮込みたちがイチャついているようだ。
肉豆腐も来る。
脂っこくなくて、葱の香りが鮮烈で、そして何と言っても辛子が良い。
二つ注文したのだが、一つしかこなかった煮込みを追加。
調子が良くなって樽酒、穴子の煮付も。
これらを注文しようとしたら、左隣が同時に手を上げたので譲った。
煮込みをも一つに焼き蛤か、渋いね。
届けられたお代わりには、さっき確保しておいた肉豆腐脇の辛子を煮込みに付けて食べる。
フワと軟骨はさっき食べてしまったので、ニコ美女史に召し上がっていただいた。
コの字カウンター左翼の夫婦と姑の会話が聞こえてくるのが和ませる。
旦那から見て義理の母だろう。
しっかりとしていそうな印象だが、娘の方で随分と丁重に話しかけている。
それゆえに末期という感じが全くないのは、見た目の若さからくるのかもしれない。
僕は、両隣に座っている男性の独り客に気が引けて、モツ野ニコ美女史とろくに会話できなかった。
ジャック・ルピック氏、ざまあ見やがれってんだ。
酔いが回ってきた。
一時間経ったがろくに回転しないから、早くから並んでいて正解だったと改めて思う。
こんな良い店から、さっさと飲んで帰るなんてできないわけだ。
これで最後、三皿目の煮込み、これにやっと七味をかけて頂く。
濃いのではないかと緊張しつつチューハイのレモンを飲んだが、美味しい。
モツ野女史はアンズ酒のソーダ割りがだいぶ濃いと感じていた様だが。
気になった銀鱈の煮付けも届いた。
彼女の隣に新たに座った男は燗酒、それとお冷やを注文している。
むちむちの煮込みが美味しすぎる。
レモンハイは氷がシャリシャリで、これまた最高だった。
そして、最後の最後になって…バターのコクを感じるのだが。
煮込みに入れているのか、私が酔いすぎているのか。
開店時の揉め事のおかげで十人に一人は変な客が居るかなと思ったが、いやいやそんなことはない、非常に居心地が良く感じられた。
行きは飯田橋から有楽町線に乗ってきたのだが、帰りは大江戸線に乗った。
ニコ美女子とのモツ煮で飲み歩きに大江戸線がつきまとうのが、この頃は愛おしい。
一駅隣の門前仲町で東西線に乗り換える。
緊張の日々から解放されたのと酔ったせいで、突っ立ったまま眠って帰った。
ろくに別れを告げることもせず、女史には悪いことをしたかな。
その後、業務上の仲間である惣酢、ではなく相津と名乗っている男から呼び出され、小岩で飲んだ。
大松という、その街では有名な大衆酒場だ。
怪しまれない様に、シラフのふりをして、そこでもモツ煮を頼んだが。
このごろは豚モツより牛モツが好きになっているのに気付いた。
約束の地、シド。
僕はそこへ、一人で行きたいとは思えない。