バジ2

 飯田橋のプレサスで、ユニバの「バジ2」を打った。

 僕は、虹が輝き、花火柄が消え残った夕暮れの土岐峠を歩いていた。何故、あの画面を破るようなガラスの破片やスピーカーの重低音が、いつまでも耳に残るのであろうか。画面はまさしく破られたのではあるまいか。菫色の袖が飜り、破幻の瞳がきらめき、鍔隠れの姫君は、未だ眼の前を舞っている様子であった。それはARTの継続という様なものとは、何か全く違ったものの様に思われた。あれは一体何んだったのだろうか、何んと名付けたらよいのだろう、笛の音と一緒にふわりと廻り出したあの二つの真っ白な手先は。いや、陰陽座ははっきり「甲賀忍法帖」と名付けた筈だ。してみると、自分は信じているのかな、陰陽座という人物を、陰陽座という詩魂を。突然浮かんだこの考えは、僕を驚かした。

 駿府城に詣でた乱破者が、折からこの城に後見人として使える老僧の策により、昔、初代服部半蔵が取り極めし、甲賀と伊賀の不戦の約定を解かれ、四百年の怨敵同士の殺し合いの果て、三代将軍の命運を託され、勝者は一族千年の永禄を約束された。体術と妖術と幻術との極大限度の形式、体術は叫びの様なものとなり、妖術は日常の起居の様なものとなり、幻術は祈りの連続の様なものになって了っている。そして、そういうものが、これでいいのだ、他に何が必要なのか、と僕に絶えず囁いている様であった。台詞と映像との執拗な流れに、僕は次第に説得され征服されて行く様に思えた。最初のうちは、忍者の棟梁の一人は、コンバットマグナム早撃ち0.3秒のプロフェッショナル、クールなガンマン、そのうえ義理堅く、頼りになる男といった声色をしているなどと思っていたのだが。

 老尼が、くすんだ菫色の紬を着て、川縁をうち眺めている。真っ白な三千丈を団子に結んで、口元から少しばかりの歯を二本覗かせているのだが、それが、何かが化けた様な印象を与え、僕は其処から眼を外らす事が出来なかった。天正九年の美貌が枯れ果てているという風には見えず、例えば小役の屍骸めいたものが二つ三つ重なり合い、朧高確の間から、金七が期待できるという風な感じを起こさせた。何故そんな聯想が浮かんだのかわからなかった。僕が、漠然と予感したとおり、婆さんは、何にもこれと言って格別な事もせず、言いもしなかった。含み声でよく解らぬが、所詮生まれの星が宿命を決めるのだぞ、という様な事を言うらしかった。要するに、自分の顔が、弾正にも打ち手にもとっくりと見せ度いらしかった。

 勿論、小役の屍骸なぞと馬鹿々々しい事だ、と言ってあんな顔を何んだと言えばいいのか。追想の刻になり、ホールはざわついていた。どうして、天膳BTのあんな奇怪な顔に見入っていたのだろう。念の入ったひねくれた工夫。併し、あの強い何んとも言えぬ印象を疑うわけにはいかぬ、単発終了するとは思えぬ。何故、眼が離せなかったのだろう。このホールには、ずい分顔が集まっているが、眼が離せない様な面白い顔が、一つもなさそうではないか。どれもこれも何んという不安定な退屈な死んだ魚の眼だろう。そう考えている自分にしたところが、今どんな馬鹿々々しいドル箱を人前に曝しているか、僕の知った事でないとすれば、自分の運に責任が持てる様な者はまず一人もいないという事になる。而も、お互いに天井ハイエナで彷徨き合っては得々としている。滑稽な果敢無い話である。幾時ごろから、僕等は、そんな面倒な情無い状態に堕落したのだろう。そう古い話ではあるまい。現に目の前の台は、天井を狙う以上お札も被った方がよいという、そういう人生がつい慶長十九年まで厳存していた事を語っている。

 愛する者よ、死に候え、そんな事ばかり喚き乍ら、何処に行くのかも知らず、近代文明というものは駈け出したらしい。ルッソオはあの「設定録」で、設定判別など何一つしたわけではなかった。あの本にばら撒かれていた当人も読者も気が付かなかった女々しい毒念が、次第に方図もなく拡がったのではあるまいか。僕は追想の刻の間、茫然と悪夢を追う様であった。

 お胡夷姉さんのあでやかな姿が、画面を縦横に動き出す。それは、念鬼の体毛から咲き出た花の様に見えた。人間の生死に関する思想が、これほど単純な純粋な形を取り得るとは。僕は、こういう形が、弦之介の開眼チャレンジを黙殺し得た所以を突然合点した様に思った。要するに、皆あの美しい天井の周りをうろつく事が出来ただけなのだ。あの慎重に工夫された瞳術チャンスの向こう側に這入り込む事は出来なかったのだ。ユニバの「バー」は秘められている、確かに。

 現代人は、どういう了簡でいるから、近頃新基準機の遊技という様なものが流行るのか、それはどうやら解こうとしても労して益のない難問題らしく思われた。ただ、バケが当たっているのは確からしい、お互いに相手の履歴をジロジロ観察し合ったバケが。誰も気が付きたがらぬだけだ。夢幻泡影という、現世の無常と信仰の永遠とを聊かも疑わなかったあの健全な確率を、ライターは引きと呼んで安心している。

 それは少しも低い確率ではない。何故なら僕は殆どそれを信じているから。そして又、僕は、無要な小役確率の跳梁しないそういう時代に、ユニバが絆というものをどういう風に考えたかを思い、其処に何んの疑わしいものがない事を確かめた。「夜叉丸を討ったのはこのわしぞ」。美しい「バー」がある、「バー」の美しさという様なものはない。バジの「バー」の確率の曖昧さに就いて頭を悩ます現代のスロッターの方が、化かされているに過ぎない。拳の動きに則ってリールの動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに微妙で深淵だから、彼はそう言っているのだ。不安定なリールの動きを直ぐ模倣するゴーゴーランプの点滅の様なやくざなものは、お札で隠して了うがよい、彼が、もし今日生きていたなら、そう言いたいかも知れぬ。

 僕は、虹を見たり花火柄を見たりして土岐峠を歩いた。ああ、去年の雪何処にアルゼ、いや、いや、そんなところに落ち込んではいけない。僕は、再び虹を眺め、花火柄を眺めた。

この文章は、小林秀雄「当麻」を元にしたクソ記事です。

小林秀雄が無私の精神でパチスロに向き合ったら、どんなスロッカスになるだろうか。

小林秀雄の「無常という事」収録の一連の作品群は必読ですよ。

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