桜の季節がやってくる。
私は大学二年生の頃、四月上旬にくしゃみが続くようになり、自分が花粉症になった事を思い知った。
あれから時が経ち、今では地球環境のせいもあるだろうが、一ヶ月も早く目が痒くなる。
つまり花粉の飛散が、桜の開花をちょうど追い越して行ってしまったという事だ。
こう見れば、桜は兎で花粉は亀か。
私自身、他者と競うようにして飲み比べをする性質だから、いよいよ身体にガタが競うにいや来そうになっている。
誰と比べているのか、誰と競っているのか、そうしているうちには幸せに行き着くことはあるまい。
大学の講義で思い出せる事なぞ、、きっと片手で済んでしまうだろう。
老地質学者の咆哮、ドライアイの理論学者、私をメディアにアクセスさせた名も思い出せないあの講義、余命の無い美学者。
中でも、折に触れて思い起こされるのが、経済学の講義だ。
その精悍な経済学者が言うには、就職したら会社のトイレットペーパーを持って帰って良いのだそうだ。
コンプライアンスを無視した名調子に私は溜飲が下がる思いがしたし、私自身も他者に対してこれくらい正直でありたいと願う。
そんな彼の講義の大部分を私は居眠りしていたが、たまたま起きていたゲーム理論の簡単な小話を受けていた際に紹介された、とある答えをここに書き残しておきたい。
事例として分かりやすいチキンレースが取り上げられた。
双方が崖に向かって車を飛ばし、先にブレーキを踏んだ方が負けと言うやつだ。
ブレーキを踏んだ方は汚名を着せられるが、双方がブレーキを踏まなければ崖の上から車と命を落とす事になる。
経済学者が言うには
「チキンレースには、最初から参加しないのが正解」だそうだ。
他者との飲み比べも、SNSでの暴飲暴食自慢も、最初からやらないのが正解。
失った元手を取り返すためのギャンブルも、レベル上げの見栄とちょっとばかりの所有欲の為にソシャゲに課金する事も、最初からやらないのが正解。
しかし私のように、汚名は挽回するもので、名誉は返上するものだと心得ている愚か者からすれば、経験してみて初めてそれがチキンレースだと思い知る瞬間が多々ある。
なので、事前に察知して不参加を決め込む事が無理ならば、次善の策として気付いた時に降りるのを決めれば良い。
今調べてみたら別の説があり、チキンレースは先に気付いた方が有利なので、その者が何らかの戦術を取る事で自陣の采配をより良い結果に向ける事が出来るようだ。
なるほど、崖に向けての車に乗り込み、チキンレース開始の合図が鳴ると同時に、ギアをバックに入れて全力で踏み込めば良い訳か。
試合に負けて勝負に勝つ。
たとえ愚かであったとしても、我々は試合と勝負とを見定めるだけの教養をせめて身に付けなければならない。
さて、学業から逃避するためにせっせと読書に勤しんでいた学生時代であったが、当時から私にはろくに金が無かった。
ただ、時間ばかり抱えていて、その隙間に不安が押し寄せていた。
飲酒だけが不安を取り除く唯一の手段だった。
私が私である原型は、その頃には確立されていたように思える。
忘れもしない、三月二十五日の卒業式。
私は、同期の二人と落ち合って、卒業式会場のアリーナを出た。
そのキャンパスに来たのは入学式と体育の単位を取る時だけ、とりあえず勿体無いから式辞くらいは受けておこうと赴いたのだ。
入学式ほどでは無いが群衆単位での人だかりが多かった。
飛ぶが如く、高く高く胴上げされている人が見える。
胴上げのサークルらしく、卒業生は誰でもその資格があるそうで、我々は三人とも精一杯
持ち上げてもらった。
「それじゃあ、“いいちこコンプリート”しちゃおっか」
愛嬌たっぷりに西藤が提案した。
「よっしゃ、やろう」
溌剌として永島と私が応じた。
彼らは先々月の記事にちょっと出てきた、私の数少ない友人たちのうちの一人である。
“いいちこコンプリート”とは、「かわいいは、正義!」のキャッチコピーで当時絶賛放送されていた深夜アニメ『苺ましまろ』のOPテーマ「いちごコンプリート」を文字っただけの駄洒落だ。
そのアニソンを歌いながら、いいちこのボトルをラッパ飲みし空になるまで繰り返すと言う、勢いだけで非常にバエル(悪魔の方の)飲酒である。
まだ十四時過ぎだったろうが、無事に“いいちこコンプリート”を済ませた私は、新宿かどこかのアニソンカフェで当時の知り合いが舞台に立つと言うのを応援に行った。
メイド喫茶などに行ってはメロンソーダをしばくと言うのを戒律にしていた私は、その店でメロンソーダで酒を割ったものを四杯も五杯も飲んだと思われる。
そして、千鳥足も逃げ出しそうな満身創痍の兆千鳥足で、南口前の甲州街道跨線橋を彷徨ったのが十八時過ぎ。
向かったのはもう名も思い出せないホテルの一室の謝恩会会場だ。
時間の観念と静粛ムードとをブチ破るようなあからさまな遅刻をかまして、会場へ乱入した。
足取りは悪いながらも、こう言う時の始末に負え無いのだが応答はきちんとしていて、私を知る誰もが何ら異常を感じていなかったらしい。
謝恩会は飲み放題だからここぞとばかりに最後の酒を、誰と競うでもなく、強いて言うならその場の和やかムードや取り澄ましたお上品ムードを一変させたいが為に呷って飲んだ。
目を覚ませば見知らぬ天井だ。
腕には点滴がされているものの、全身の憔悴感いや小水感で、トイレに行くのもままならないほどだ。
これが人生最初の救急車である。
その日の午前中には、四月からの勤め先の最終面接があったから、無理矢理向かった。
そんな私を入社させてしまった、見る目もなければ人材育成の戦略も持たない哀れな企業で、私は何とかやっている。
それでは、桜の季節がやってくる。
卒業や入学、人生の節目の一つがやってくる。
私も卒業しよう。
記憶から失くした飲酒にまつわる失敗談はこれでいっぱいだ。
チキンレースは、もうやめた。
#011 卒業、搬送、涙葬送