【十一月号】酒客笑売 #007【キ刊TechnoBreakマガジン】

その日の夜は、誰もが良い夜だと感じるような夜でした。

一人なら誰かと一緒に居たい、二人なら皆と一緒に居たい、皆が居れば酒を酌み交わし歌でも歌いたいと感じる、そんな夜でした。

でも、そんな感じは、あくまでも感じでしかなく、誰もがそんな事を気にかけていないのが素敵なのでした。

満天の星空には一面ラピスラズリが砕け散り、それらが天使たちの溜息の中に浮かんでいるようです。

夜風は澄み切ったオパールがさらさら音を立て、すべての生き物を祝福するようにささやいています。

その日の夜は、誰もが良い夜だと感じるような夜でした。

一人なら貴方と一緒に居たい、二人なら家族になりたい、皆が居れば宴会をして永遠に続くかのような人生を享受したいと感じる夜でした。

コルクがぽぉんと手を鳴らす。

グラスがりぃんと嗤います。

恋人たちの会話を聞けば、我が事のように甘くなる。

行ったり来たりのプレゼント。

笑顔で皆が開けています。

貴方が選んでくれてた気持ちは、私が選んだ気持ちです。

楽しい時間は尽きません。

誰もが先に歌い出す。

明日のことや将来なんて、今夜がずっと続くようです。

そんな夜に私は、一人便所で嘔吐をしている。

どんな夜だってそうである。

制御の利かない未成年のままの魂が、度過ぎた酒量で粋がっている。

凡人は小遣いで間に合わせるが、達人は借金するものだ。

私のような狂人といえば、便所に金を吐き棄てている。

こうするよりほか、仕方がないのだから。

都内の飲み屋、女性用を除く全ての便器は私の反吐で汚れている。

だからもう、私はゲロだし、ゲロは私だ。

スーツにかかると厄介だけれど、素手で触れるのは平気である。

飲み屋の座席で誰かが吐いても、笑顔で介抱してやれる。

今夜はあんまり良い夜だから、吐くにあたって指南しよう。

一つ、空腹では吐けない、吐かない。

これは、空腹で胃液だけを吐いてしまうと、喉を痛め歯を溶かしてしまう事への警告だ。

ついでに、日常使う歯ブラシも、エナメル質を損なうのでかためはやめよう。

一つ、満腹で吐いた後、腹七分目まで食べること。

これは、吐いた後に胃が空になると、次の空腹が非常に早く訪れて辛くなる事を指摘している。

ついでに、飲み会コースなどでも、先にサラダを食べてからにすれば、身体に良い成分は胃に留まったままでいられる。

一つ、世に吐きダコが知られている、手の甲を歯に当てない。

これは、握手だけで職業を当てる名探偵への、手がかりになってしまう事への注意だ。

ついでに、喉に突っ込む指の爪は常に短く整えておかなければ、喉を内側から引っ掻いて傷付ける事になるので気を配るように。

一つ、吐瀉物の跳ね返りが裾に着くので、便器にはペーパーを軽く敷く。

ここまで来ると非常に実用的になる、以上が四則である。

それでは視点を変え、美味い酒を飲む上での心得はどうか。

一つ、吐くまで飲まない。

当たり前が一番難しい、吐かねば死んでしまう事もある。

一つ、空きっ腹や運動後に飲まない。

逆の方が美味いと思うのだが、私だけではないのではないか。

一つ、合間か終わりに水を飲む。

そんな冷静を保ったままでいるのが、果たして飲み会と言えるだろうか。

一つ、当然だが、一気飲みを強要しない。

させられる前にやるのが一気飲みである、私は人知れず死ぬ事になる。

対立を行ったり来たり出来ただろうか。

吐くまで飲むぞと、吐くまで飲むなとの対立だ。

喉という構造が一方通行であると言う通念を持つのが常識なのだが、喉を行ったり来たりさせるという非常識な連中もいるのだ。

こういう対立を見る時、なんとも言えない嫌な気持ちになるだろう。

なぜならそれは、生き物の、善悪を超えた喘ぎを聞くがためである。

マイケル・サンデルは、かの有名な『これからの正義の話をしよう』冒頭で、ハリケーンに見舞われたフロリダ州の騒動を、三つの視点を入り交えて書き出し、我々を嫌な気持ちにさせなかったか。

だったら、嫌な気持ちになる前に吐いてしまえと私は言いたい。

読者は私が醜く、卑しく、浅ましく見えるだろうか?

本懐である。

私は諸君をそうは思わぬ。

対立は無意味だからだ。

私は道化を演じていればよい。

宮廷で踊るのだ。

しかし、飲み会で飲まないと言うのは…?






#007 華金イヴの総て