【六月号】ヨモツヘグリ #005 門前仲町の名店【キ刊TechnoBreakマガジン】

店舗は、忽然と姿を消したわけではなかった。

だが、下されたシャッターの外側で、僕たちは呆然と立ち尽くしていた。

中には確かに人の気配がする、酔客らの談笑が聞こえて来る。

僕たち二人のためにあるかのような張り紙。

いついつから閉店時間が繰り上げられたと告知されている。

今は十九時二十分。

L.O.十分前のようだった。

通りの向こうに袖看板が見えたとき、不慣れな街ゆえの安堵があった。

四人連れの背広姿が踵を返すのが見えて、まさかという気がした。

実は先月一人で様子見に来た際、臨時休業だったからだ。

まさか、また。

門前仲町の名店、大坂屋。

理由は違うがまたしても食いっぱぐれたようだ、どうやら。

不慣れな街に慣れるために一度来たのだが、この日は別経路で来店したのだ。

しなやかな着こなしの、モツ野ニコ美と名乗る美女が手土産を持ってきたから。

その手土産は手掴みで、この後に控える乾杯の練習をしてから頂いた。

おむすびでも頬張るみたいに、一体何が結ばれるんだろうと考えながら。

広場を探し、ベンチに腰掛けて。

その公園は案外すぐ見つかった、近所の小さい子らがを母親たちに連れてこられていた。

ユークリームという人形町の名店のものだった。

苺と生クリームのタルト、チョコレートとフランボワーズのクーヘン。

僕は後者を選ばせてもらった。

濃厚なチョコレートが口の中でこってりと溶け、フランボワーズの強い酸味が二口目、三口目を強烈に促す。

毎日でも食べたいが、僕はスイーツ中毒になっていないのが救いか。

僕は手を伸ばしても食べられないものが食べたいのだ。

こんなふうな差し入れなんて最高じゃないか。

自分で自分に差し入れるわけにもいくまいし。

周囲に巻かれたフィルムを剥ぎ取って、くっついたチョコレートを舐め取る。

「僕は、ここが一番好き」なんて言ったりして。

一食一飯改め、優しい約束の宜敷準一にフードロスはあり得ない、いや。

「芥川龍之介に、ケーキを巻いたフィルムばかり寄せ集めて、好きなだけ食べさせるって話、あったわね」悪戯っぽく横顔を見つめられている。

あれは五位の心理と行動と変態食欲と貞操観念のアラベスクだ。

そう考えるとこの物語も、ヨモツヘグリと言わず、芋粥としてもよさそうだ。

あれには道中を共にする利仁というバディも居たっけ。

『芋粥を舐めるのは、お前ではあるまい。邪なるイエス、矮小な待ち人。五位の役回りを演じるにはもっと相応しい男が居るし、何よりお前にはあの芋粥を全て平らげるだけの業を授けてやらねばな。』

頭のどこかで声がしたような気がして、yは少々暗い気持ちになった。

その声の主が誰なのか、彼が知るのはもうじきのことである。

口にできないものを食べるのがヨモツヘグリの極意であるとしたら、一度口にしたものを再度口にするというのは一体何と呼べばいいのか。

ところでその頃、“団地”こと習志野軍閥行田駐屯地ではW大尉が大きなくしゃみをした。

ソゥ准尉はそんな彼に「Bless you!」と言ったが、大尉はその心意気を気に入った。

顛末を知らないのは、まるで世界で彼だけのようなのが皮肉だったのだが。

地下鉄の駅から門前仲町の地上へ顔を出せば、街全体が縁日のような風情である。

先日の下調べで見ているとはいえ、まだ慣れるには少しばかり異様な光景だ。

脊椎のような大通りから、ぐっと外回りで大坂屋まで行くところだったが、しっぽりと手土産に舌鼓を打つのに肋骨のような路地へ踏み込んだ。

仏門か宗門か神門か知らぬが、なにやらその手の門前なのだろう。

かつてそこらの神社で日本刀を用いた殺しがあったというらしい。

下見の段で大坂屋が臨時休業だった時には、落胆しながらも隣の路地を覗いて、煮込みと書かれた随分と大きな赤提灯を頼ったのだった。

規模の小さい中華料理屋染みた引き戸を開けると、なんとカウンターのみの立ち飲みで店内に入れるのはせいぜい六名程度、券売機で食券を買うというのが笑えた。

出された煮込みは、これはこれは、加賀屋名代の煮込みのようではないか。

そんなものは加賀屋で頂けば良かろう。

さて、今夜ニコ美嬢をエスコートすべき、煮込みを提供してくれる夜会はどこだろうか。

そんなことを話すために、例の路地へと連れ出してきたのだが。

店舗は、突然に姿を現したのだった。

路地を曲がり、大きな赤提灯が視認できる程度の距離で、さらに右手へと折れる方だ。

ひさしの小脇に書かれた、あの文字は。

店舗正面に横向きに置かれたスタンド看板に書かれた、あの文字は。

煮込みバル、と書かれている。

辺りはまだ真っ暗になりきってはいなかったが、さながら我々を誘う魔の巣が目の前に現れた様だった。

店の前まで行くと、以前はスナックだったとでも言いたげな扉の作りをしている。

僕たちは見つめ合い頷いてから、意を決して把手を掴み開いた。

ダウンライトの落ち着いた光が溢れる店内に、小綺麗な四人掛けのテーブルが三、四。

金曜の夜なのに他の客は一組もいない。

「どうぞ」

まだ若手に属するようでありながら、しっかりした体型の店主が笑顔で言った。

以上が、金曜の僕たちに起こったささやかな奇跡の一切合切。

真ん中のテーブルに着く。

飲み物のリストから、ちょっと洒落っ気を出してヒューガルデンの生。

モツ野女史にはぴったりの、あらごしもも酒があったのでソーダ割。

正面の黒板にこの日の煮込みが四種類書かれている。

豚肩ロースのトマトチーズ煮込み

合鴨と黒トリュフのクリーム煮

和牛すじ肉の赤ワイン煮込み

肩ロースとポルチーニのフォンドボー煮

左右の壁にはそれ以外のメニュー。

前菜や各種アヒージョ、豊富なパスタ。

飲み物が運ばれてきた。

「今夜は暑いので」

と気の利いた一言を添えて、野菜の彩が美しいピクルスが提供される。

鰹のカルパッチョ、煮込みを二種類注文。

ビールを飲み終えたらワインにしよう。

なんでも、ここの煮込みは白にも合うように味を整えてあるんだそうだ。

その夜、僕は少し悩ましかった。

食べ放題のバゲットに添えられた、バニラ香るバターがあんまり美味しかったからかもしれない。