【六月号】巻頭言 神話と新説と真言【キ刊TechnoBreakマガジン】

呉越同舟、私も好きな言葉である。

芸術派の小林秀雄と川端康成、プロレタリア作家の武田麟太郎と林房雄が結成した同人誌「文学界」も当時は呉越同舟と評されたものだ(昨年一月に創刊一千号を記念した)。

啀み合う二人は、さいわいである、和解は彼らのためにある。

マタイ伝にもそうあった。

だから“ゼロサム状態”は回避されうるのだ。

今から二千五百年以上も昔の中国春秋時代の興亡を、文字だけで理解するのは難しい。

なるほど、だから実写版キングダムの予告が流れたというわけか。

いやいや、それでは少々時代がズレる(同じ時代ならば私は、王欣太の『達人伝~9万里を風に乗り~ 』を好んで読む)。

そんなわけで、シン・ウルトラマンを鑑賞してきた。

無論このシンには進化や深化という意味も含まれる。

初代ウルトラマンの主人公はハヤタ・シン(早田進)であり、本作の主人公は神永新二(かみながしんじ)、つくづくシンの字は意味深である。

この作品のキャッチコピーは

空想と浪漫。

そして、

友情。

前二つの観点が示す通り、娯楽作品として安心して楽しむことができた。

そして、二時間に満たない上映時間は、友情とは何かに思いを馳せながら観た。

序盤、息が詰まるような、禍威獣による災害に対処する混乱が終わる。

サラリーマンたちの群れに混じって、一人、霞ヶ関を闊歩する後ろ姿。

さっきまでとは打って変わって、日常が描かれるシーンだ。

そこを、聴き慣れた楽曲が、強くて弱い一人の者が街を征くテーマが流れる。

Early morning from Tokyo、いやEarly morning from Londonか。

関係ないことを言いたくはないのだが、真・女神転生の街のフィールド曲が想起され、私は思わず涙しそうになっていた。

世界が壊れたとしても、そこに安心感を見出せる、そんな気がしたからだ。

メディア上の斎藤工は野趣あふれる男前だが、神永新二を演じている表情はウルトラマンさながらで、これを見抜いたのはキャスティングの妙である。

初代と同様、彼もまたウルトラマンと一つになって活躍するのだが、ウルトラマンとして人間の行動や心理を探究し実践することに余念がない。

その不自然さは、観客にとっての分かりやすさへ転じる。

分かりやすさや安心感はこの作品の土台として確たるものがある。

脅威は大型禍威獣たちだけではない。

異星からの知性が人間社会、日本政府の裏側から侵略してくる。

ウルトラマンの物理的に巨大な正義の力だけでは争い切れぬように思われる。

それでも、ウルトラマンは知恵と力を貸してくれる。

我々人類、いや何故か判らないが地球の中でもその橋頭堡とされている日本の自律や矜恃のために。

だから、この作品のもう一つのキャッチコピーが

そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン。

なのである。

ウルトラマンが我々を理解しようとしたきっかけは人間のどのような行いだったのか、自分にその行いが出来るだろうか、考えながら話を先へ進めたい。

安心ではなく、安心感を仄めかすことで悪魔のささやきを仕掛ける異星人がいる。

ウルトラマンの安心と、侵略者からの安心感。

日本政府は他国に先んじる必要性に焦らされて誤った選択を掴まされてしまう。

それもそうだ、人智を超えた技術を、巧妙な策略に載せて提示されるのだから。

山本耕史という俳優のことを私はあまりよく識らない。

しかし、ウルトラマンに匹敵する安心感を俳優の表情が十分に提供する。

なぜならば、山本耕史演じる異星人はウルトラマンの人間理解、日本人理解とは別の角度から我々を評価しているらしいためである。

換言すれば、他者を手玉に取るのが巧みだ。

彼は、自分が今発している台詞を、どのような表情を見せながら言っているのか、よく知っていると断じて良い。

人類ならばきっと誰もが、アッと驚くような場所で両者が殴り合うシーンが、この作品のハイライトだ。

日本人ならば、おそらくほとんどが、同じ場面の殴り合いを演じたことがあるだろう。

何かを理解するために。

何をか、きっと人の心を。

そしてきっと、好きになりたいと願いながら。

古人はきっと月明かりに照らされて、僕らは燦めくネオンの下で。

いやいや、もっと淡くて朱い灯りに照らされて。

それからすぐ後、実際に二人は本来的な意味において殴り合うこととなる。

特撮ファンであるならば、誰もが嗚呼と納得するような場所で行うのだ。

ここに来て熱量は最高潮へ導かれている。

それは何故かと言えば、鷺巣詩郎氏の楽曲に導かれているせいだろう。

そうだろう、しかしながら、さらにそれは、政府の男に言い放ったアフターケアという名の全ての流れが奔流となっているせいだろう。

血闘は、さながら「例の作品」におけるシン・メトリーを彷彿とさせる一騎打ちを展開する。

ふと、ここまで書いたことを台無しにするのを恐れずに言えば。

もしかすると安心感は、この異星人と手を組んでいる「政府の男」が存在するが故かも知れない。

彼の出現が、劇場の座席に着いている私をグッと身構えさせた。

ここに来て、作品の構造的な複雑性、多層性が顕になる。

すなわち

侵略者、政府の男、光の星

ウルトラマン、禍威獣特設対策室、全人類

この対立の先の展開は、劇場で確認してもらいたい。

最後に。

私たちの理解者、随伴者、すなわち友達のウルトラマンはもういない。

私たち人間と友情を築こうとしてくれたウルトラマンはもういない。

そうでなければならない。

彼はたった一人の人間だけを救ったのだから。

その喪失感があんまり切なくて、エンドロール中も呆けていた。





四月二十日(水)から五月下旬までのタイアップ企画。

シン・ウルトラマンを最も効率よくメディア視聴者の目にふれさせられる企業がある。

マクドナルドの期間限定商品だ。

宮崎名物チキン南蛮タルタルの新商品、シン・タツタ。

一九九一年から日本人に愛されている、帰ってきたチキンタツタ。

そうか、あの世界にウルトラマンは帰ってくるに決まってる。

信じるしかない。

信じるということを、この作品は繰り返し教えてくれたではないか。