上智大学山田勝美博士の故事成語辞典を入手した。
はしがきからして凄い。
短いので全文を以下に引用する。
故事の「故」というのは「ふるい」ということであり、故事とは、古いこと・昔あった事がら・古いいわれのある事がらの意味である。それは必ずしも歴史的に、実際にあった事がらとはかぎらない。古い書物の中などに書き伝えれられている事がらでもよい。いなむしろ故事の多くは、古い書物の中に、その起源を見いだすことができる。そこで故事にはすべて出典が伴うものである。
故事はその出典を書物の中に求めることができるから、これはどうしても読書人によって作られたものである。その点、ことわざとは根本的に性格を異にするもののようである。ことわざはむしろ庶民の知恵であり、生活の知恵である。もっともことわざと一般に思われているものが、よく調べてみると、実は故事であったりすることもあるから、前に述べた区別はいちおうの目やすにすぎないとも考えられる。たとえば非常に恥ずかしいことを「穴があったらはいりたい」という。これはりっぱにことわざである。ところがよく調べてみると、実はこの語は中国の『賈誼新書カギシンショ』という書物に故事が出ていて、「穴有ラバ入ルベシ」となっている。また、秘密がもれやすいから、うっかりしゃべれないという警告的意味を「壁に耳あり」というが、これなども『管子』の君臣下篇に「牆カベニ耳アリ」とあり、まったく中国古典に由来するものであること明白である。
このように故事とことわざとは区別の立てにくい面もあるが、だいたいからいえば、故事は中国人の思考の所産であるのに対して、ことわざはわが国民の生活の知恵であるといって、まず誤りないであろう。たとえそれが、中国人の頭脳を透過しきたったものであるにせよ、わが国民の生活の知恵と密着し、邦語化されているにおいてはなおさらである。ただし、本書においては、このようなことわざ的性格をもった故事をも、いちおう収載しておいた。
大学の入学試験や銀行・商社などの就職試験に、近ごろ故事成語がよく出題され、出版・放送方面の会社ではもちろんだという。必ずしもそれらの幹部重役の諸氏が明治生まれで、この明治漢学的教養に郷愁を感じているためばかりでもあるまい。スポーツ欄などに、よく弱冠という語が使われる。それはそれでよいとして、弱冠十九歳であったり、弱冠二十三歳であったりしては困る。それはまだしも若冠と書くにいたっては、まったくの困りものである。弱冠はちょうど二十歳なのである。『礼記』に「二十ヲ弱ト曰フ、冠ス」とあるように、いわば今日の成年式をへた者のことである。それならば、いっそのこと弱冠などと、古めかしいいい方をやめたらよいのに、やはり依然として使われているところをもってすると、そこにはやはり捨てがたい声調・語気といったものが感じられるためであろうか。
会話の中に、故事をはさんだりすることも、必ずしも自分の教養をてらうためばかりともかぎるまいが、「どっちみちたいした違いはない」というべきところを「五十歩百歩だ」といい、また「そんなことをすると内かぶとを見すかされるぞ」というべきところを「鼎の軽重を問われる」といえば、簡潔でもあるし、雅やかでもある。古事成語は、読書人社会のことばであり、教養をなんとなしににじみ出させることによって、われわれの言語生活にバラエティを与えるものである。
多様性=Diversityが求められて久しい昨今、昭和の書籍とはいえバラエティという言葉が肯定的かつ前向きに使われているのを見かけて何か救われた気がした。
捨てがたい声調・語気を感じ、そのことを言語化できるのはやはり山田博士が極めちゃった人であり、書かれた言葉がその人柄を超えて届いたという事なのだろう。
同じく山田博士は歴代中国詩選という書籍を残しており、その書を以て「Junの漢詩奇行」が記事にされることになった。
歴代中国詩選のはしがきも、近々引用したいと思っている。
8月15日土曜
23時30分
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