「酒の席での迷惑は掛けたもの勝ち」
小林秀雄にお酒の飲み方を教わって以来、私の意匠は変わっていないらしい。
経験主義者の我々としては、迷惑の掛らない飲み方は無作法であるとすら感じられる。
すると、私の方はお酒が好きだが、お酒の方から嫌われている。
なんていう厄介な勘違いを持ち出して、また人様に迷惑を掛ける。
これは甚だ無益な次第であり、無作法は私の側にあること明白だし、心得た飲助から叱責か説諭かどちらかを頂戴することになる。
だが、彼らが一体何を心得ているというのか、覚束ない気もする。
家庭か、持病か、懐具合か。
まあそんな心得に過ぎまい。
生老病死の経験主義者たちに、いわゆる経験病の末期症状を垣間見ること通じて、何らかの尊敬や羨望の念がゆくゆくは生まれることを期待していたい。
さりとて、今この一杯の幸福感が、二十年後の幸福に関りがあれば上々なのだが。
さて、小林秀雄に「失敗」という短文がある。
そこに倣って、私と全く関わりない誰かとの一座建立を書こうと思う。
見ず知らずの人とお酒の席で会話が始まるというのは、先方によほどの余裕がある時か、双方が十分に酔っている時くらいだ。
前者では面白く無いので、後者を思い出す。
私は自分のペースで飲むということが出来ない成人した子供である。
初めのうちは見栄でグイグイ飲む。
酔いが回ってきてからは、お酒に呑まれてまたグイグイ飲む。
だいたい、今夜飲もうかと思い立つ動機といえば、飲まねばという半分は強制的で半分は強迫的な観念からだ。
これから脱しきれないうちは子供だと思う、達人の域には到底立てぬ。
酒体的ではなく客体的、言い方を変えれば他人事で飲んでいる。
そして、その場に安住しているのだから始末に負えない。
その日は九時過ぎに合流ということで、八時ぐらいから亀戸で飲んでいた。
テーブルが立ち並んだ広々としたホールにお客はまばらだった。
大衆居酒屋とダイニングの悪い所を併せたようなお店だ。
自分の引きの悪さとこれから来る友人の間の悪さ。
腹の虫を鎮めるように飲んでいた。
あまりビールを飲みすぎても、後に飲めなくなってしまう。
矮小な馬刺しをつまみながら、黙々と日本酒を続けた。
時間通りにKが来る、予定通り私は酒に狂う。
Kというのは彼死のKであり、幸福のKであり、また、仮名のKである。
予定通りとはいえ、七合飲んでいたとしても、別段普段と見分けが付かないそうなので、四合未満に飲んでいた私は楽しくおしゃべりを始めた。
Kの乾杯に合わせて私もビールからやり直す。
「韓国人が食べるクサい飯のことです」
「何ですか?」
「監獄料理」
「南仏料理にニンニクは厳禁です」
「その心は?」
「南無阿弥陀仏と言うためです」
「あんま巧くないぞ」
「イライラしてるから、イラマしてくれよ」
とまぁ、そんな下らない、いつものオゲレツ大百科で酒場をゲスのどん底に陥れていると、だいぶ酔いが回ってきた。
当然だ。
何食わぬ顔で二周目攻略スタートしたからである。
気が大きくなって気前良く注文した貧相な馬刺しの二皿目をKに勧めて、じゃあそろそろもっと良い店へ腰を落ち着けようという運びになった。
根が張るばかりで満足度の低い肴にイライラしてきていたのは事実だった。
「イラマしてくれよ」
「うるせえよ!イラマはするもんであって頼むもんじゃねえ!」
異常な放言に対し、真っ当らしい狂気の主張をしたKと店を出た。
今はもう閉業してしまったが、国道十四号線の裏路地にふくわうちという料理屋があって、景気の良い夜は都度利用していた。
本場物とまではいかないが、信頼のおける馬刺しを出してくれるお店だった。
当時すでにご禁制だったレバ刺しも、馬のものならば提供可能だったようで、高価だったがありがたがって食べていた。
酩酊寸前、いや、一線を踏み越えた私がそのお店へ這入った。
三席程度のテーブル席は全て埋まっていたが、五人掛けのカウンターは誰も居らず通された。
適当に瓶ビールと言わず、馬刺しに合わせる日本酒を注文。
徳利二つ、盃二つ、男二人、ご機嫌である。
人にこれを飲もうと言っているときは気が大きくなっている証拠だ。
どうやら、真後ろのテーブルに着いている女性四人の気配を感じ取って、粋がっているらしい。
当時まだまだ赤貧だったKはイマイチ懐具合が落ち着かなさそうだ。
「これ美味そうだ、食おう、出すから」
「いやぁ、悪ぃな」
「イラマしてくれよ」
カクン!
ありえない角度で私の背中が仰け反ったと後日談。
私は不覚にもカウンター席に腰掛けながら居眠りを漕いてしまいそうになったらしい。
確かに会話をしているようなのだが、突然眠りに落ちるらしい。
入眠の衝撃ですぐに目が覚めるので、眠気が払拭されると言うこともない。
グリン!
身体を捩りながら仰け反ったので、今度は動作が大きかった。
いよいよこの異常事態に見ず知らずの女性四人は騒然となる。
その様子を鋭敏に察したKは振り向いて
「失敬」
とだけ言ってカウンターに向き直る。
この一言で、尋常ならざるサーカスの幕が上がった。
観客の女性たちは無念無想ピエロに声をかける。
「何してるんですか〜?」
「私は会長です」
何してる違い、私を除く一同爆笑。
グリン!
「失敬」
「もぉ、会長大丈夫ですか〜?」
「もう大丈夫です」
カクン!
「失敬」
女性たち爆笑。
延々とこれを繰り返して夜は更けたらしい。
サーカスの主人はピエロを出汁にして、女性たちと大いに盛り上がったという。
私が無事家に帰り着けたわけがない。
帰れない話は次回にでも書く。
我が酒客笑売の殆どが、私が伝聞した後日談である。
#002 小林秀雄のエピゴーネン 了