【十二月号】もう付属の餃子のタレをつかわない(かもしれない) #008 浦安 秦興【キ刊TechnoBreakマガジン】

自分が死んだ感覚を鮮明に覚えている。

僕は、酔っていた訳ではないから。

殴られるのには仕事柄慣れていたが、不意の衝撃だった。

胸元を、どんと殴られた感覚。

深海に、どぼんと突き落とされた感覚。

気が動転して視点も定まらず、見慣れない天井をそれと認識できないまま。

苦しい、苦しい、だがすぐにその苦しみも麻痺していく。

最期に見るような彼の表情は、鏡に映した僕自身の表情だったのかもしれない。

Wの青ざめた顔が、あと数秒だけ僕をここに留めてくれた。

それが信じられない。

ハインツのケチャップでしたとか、まだ開栓して間もない赤ワインでしたなんて。

僕は死んだはずだ。

なぜなら声を聞いたから。

「記事は読んだ」と。

「生い立ちは総て見返した」と。

「私は全てを読むものだ」と。

「もっと食え」「まだ書け」「人の倍では足りぬ」「寿司で冷えた体を温めるラーメンを食う前に、焼き肉屋へ這入って最後は牛丼屋に行け」「合間に吐け」「口にできない物を口にすることを、ヨモツヘグリと称すること罷りならぬ」「伊邪那岐がこの世とあの世とを行き来した程度では満たされぬ」「お前は行ったり来たりを繰り返すのだ」「それは成人でも童でもない埒外の存在だ」「満腹と空腹とを止め処なく行き来していろ」「二つの矛盾を内包すること罷りならぬ」「ついでに膣内射精障害にしてやる」「私は夏見ニコル」「お前の背後で全宇宙を睥睨する者だ」「目覚めろ」「立て」「食え」「食って吐け」「書け」「駆けろ」「賭けろ」「お前は敷居を踏んでいる」「いや、お前は内と外を行ったり来たりし続ける」「禁忌を犯せ」と。

改札の前に彼女が、モツ野ニコ美女史が待っていた

青いニットが良く似合っている。

「急に、何というかその、不安になってしまって。こういう仕事をしていると、いつ急に、会えなくなるか分からないから」店へ向かって歩き出しながら言った。

「貴方が消息不明になっても私の所には詳細が来るはずだから、安心して」彼女は快活に笑って言った。「それに私たちは探す側であって、決して探される事はないわよ。人員が割かれるような事無いもの、代わりは多いんだし」

僕はそれでも切り出した。

「つながりが欲しくて、偶像崇拝的で嫌だと思わなければ、同じ指輪をはめていたい。今度、それを見にいくのはどうかな、来月にでも」

「お酒の力を借りずによく言えたわね。」彼女は大笑いしたが、照れかくしのようでもあった。「給料の三ヶ月分は覚悟できてるのかしら?」

「もちろん」

ロマンティックな事なぞ何も無いが、そのまま中華料理店へ這入った。

急に呼び出したのだが、彼女は応じてくれた。

のみならず、僕からの申し出も許諾してくれたようだ。

楽観主義者の僕が、こんなに不安になった事はおかしい。

その日は彼女の地元である浦安に来た、というか押し掛けた。

事前に調べて良さそうな和食店は予約満席だったため、こちら秦香さんを予約した。

モツ野女史も訪れた事はないそうだが、駅から近かったので案内してもらった。

駅の真横にくっついている施設の表から裏へと抜け、向こう側へ出る。

ほんの数メートルとはいえ、建物も道になる、街の中にも道があるというのが可笑しかった。

外観も、内装も、街中華という感じは全くなく、中華料理店だ。

案内されたのは六人掛けも可能そうなテーブル席で、前評判通り女将さんの愛想が非常に良い。

席に着くなり瓶ビールと餃子を注文した。

モツ野女史には、その間にドリンクを選んでもらう。

彼女は即決で杏酒のロックと言った。

「ソーダ割りじゃなくて?」

「ビール少し頂くわ」

その注文に重ねて、彼女はエビマヨネーズを、僕は蒸し鶏の葱塩和えをそれぞれ選んだ。

さっきあんな事を言ったのに、グラスに注いだビールでの乾杯は何事もなかった様に行われた。

会ってから、まだ半年と少しくらいしか経っていなのだが、お互い多くは語らない。

ただ、仕事の後の仕事と称した、こういう酒盛りが好きな二人だ。

優しい約束の宜敷ことyがしみじみ飲んでいると、しばらくして餃子がやって来た。

皿の余白が目立つ、焼き目はあるが乾いたような見た目のが、五つころんと不揃いに転がっている。

醤油を垂らそうと容器を傾けると、口元についていた雫が一滴落下した。

こんなもんで良いかと、小皿にラー油を垂らす。

こちらのラー油は、小さなお碗で小さじと共に提供される。

その上から酢を流し入れると、先に入っていたラー油が小皿一杯に広がった。

タレにつけて齧り付けば、何とも平凡な味である。

ふむ、どうしたものかと残り半分を口に放り込む。

若干、野菜が香りはするものの、平凡な印象は拭いきれない。

僕は苦笑して、猫舌の彼女に火傷しないよう忠告した。

「もう付属の餃子のタレをつかわない、か」

「ねえ、小籠包も注文しましょうよ」僕の落胆を見かねたかの様に彼女は言った。

「食べる時には、くれぐれもご注意を」

「火中の栗を拾って食べるのが、貴方が言うヨモツヘグリなんじゃなかったかしら」

言われて僕は、メニューにあった豚モツ、豚ガツとハチノス辛味鍋を注文したくなった。

今夜はいつもと外してゲストと共に餃子のつもりが、それに便乗してモツ煮まで頂こうと言う寸法だ。

小籠包と一緒に追加注文、瓶ビールも。

到着したエビマヨネーズを早速頬張る。

もったりと濃厚な食感に、弾ける様なエビが口の中を幸せにする。

温度も熱過ぎずで、いくらでも放り込めそうだった。

選んだモツ野女史も美味しいと言って食べた。

彼女のグラスビールは空いていて、杏酒のロックに口をつけたところである。

蒸し鶏はたっぷりのもやしがくたくたになったのに載っていて、一緒にモリモリと食べられる。

僕は塩分が強いのをあまり好まないのだが、塩梅の良い味つけだったので箸が進んだ。

平らげる頃に豚モツ、豚ガツとハチノス辛味鍋が届く。

結構な大きさのお碗に入れられている。

もやしやキャベツや刻まれた香辛料などに覆われて、中身がよく見えないが、モツの類もふんだんに入れられているようだ。

よく吹いてかき込むと、まだ熱く、そして辛い。

内蔵は煮込みではなく調理されたばかりのようで臭い、しまった。

辛くて臭くて地獄の池みたいなひと碗だ、黙々と食ってしまおう。

ニコ美女史も取り分けて食べているが、熱いとか辛いとか言う程度である。

変な汗が出て来た。

毒を食らわば皿までで、麻婆豆腐も注文する。

「この石鍋麻婆豆腐を、普通のお碗に入れて頂けませんか?」

「ウチはそれできないの、よく焼いて出すから」

「わかりました、それで下さい」

上手く行かない。

向かいのモツ野女史が赤面しているのは、辛味鍋の所為か僕の失言の所為か。

きっと彼女よりも僕の顔の方が赤いはずだ。

指輪の件なんか頭から飛んでしまっていそうである。

鍋を平らげ、小籠包を仲良く二つずつ食べ、麻婆豆腐に舌鼓を打ち、最後に炒飯と汁物代わりのパクチー水餃子で〆てお会計。




モツ野ニコ美は、目の前の男エージェントyが、トイレから戻った後で炒飯を猛烈に食べる様子をしかと見届けていた。

彼の目は席を立つ前に比べ、邪悪な赤さに染まっていたのだが、それは決して料理の辛さから来るものではない。

彼が箸を持つ手の甲には、自分で自分を食ったかの様な歯型がはっきりと認められた。

そして、いつか優しい約束と自らを呼称したその男とは、もう二度と会えないのだという事を直観した。

『哀れな男。貴方を誰にも渡すもんですか。そのために私たちWAR GEARは居るのよ』